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「愛する行為」と「愛されるための行為」は背反するか

「誰かを愛する」ということと、「誰かに愛される」ということが背反するかのような印象を持っている人が多いようには感じる。つまり、エネルギーをどちらかにかけたら、どちらかが行えなくなる、という認識である。

しかし、そうではない。

私が「愛する」という場合、エーリッヒ・フロムの定義を援用している部分がある。フロムは、「あなたのことが必要だから愛する」という形式が「子ども」の愛であり、「あなたのことを愛しているから必要である」という形式が「成熟した」愛である、という。そして「愛は技術である」と。

それを踏まえた上で、私の定義を再度記す。

「誰かを愛するとは、その相手に“あばた”があるからエネルギーをかけない、という選択肢を排除すること」

私が用いる場合の「愛する」もまた、具体的な行為のことを指している。

さて、「愛されるために愛する」となるとどうなるか。これは「必要だから愛する」のパターンになることが理解できるだろうか。極端に言ってみれば、おっぱいが飲みたいから母親を大切にする、という話である。これが「子ども側から」の愛である。そして未成熟な愛の形式である。

母親側から授乳の現象を考えてみよう。母親はおっぱいを「与えている」。具体的に「愛する行為」を行っている。それは子どもから「愛される」ためであろうか。そうではない。子どもに対して具体的におっぱいを与えるという「行為を行うため」に、子どものことが必要なのである。即物的な例なので身も蓋もないが、行為が成立するためには対象が必要になる。これが、成熟した愛の形式の雛形である。

その結果、どうなるか。子どもは母親を必要とする。必要だから母親を愛する。外部から見れば、「子どもは母親を愛している」。もっと単純に言えば、「子どもは母親のことが好きである」。

結論だけを眺めれば、母親が子どもを愛し、子どもがそれに応えて母親を愛するようになった、ということになる。

最終的には、与えることによって「愛される」ことが成立しているのがわかるだろうか。

難しいのは、「愛されるために、愛する」という意識でいると、この形式に届かないことである。行為が「愛されるための道具」として用いられるとき、押し付けがましさが出る。「ほら、私のことを愛しなさいよ!」という強制力が働く。そして、そのタイプの行為は持続しない。与えたからといって好いてくれるわけではないし、むしろ嫌われることもあるだろう。反抗期の息子などが相手であれば、ほぼすべての行為は反発される。「ほら、私のことを愛しなさいよ!」系の行為は、見返りがないと頓挫する。あっという間に。

しかし、再度授乳の例に戻れば、「そのまま放っておいたら乳が張ってしまうし、かといって捨てるのも何だから、それなら赤ちゃんに飲んでもらえば良いか。それで子どもの身体が成長するなら一石二鳥だ」ぐらいの感覚であれば、拒否されようが嫌がられようが、そこまで大きな問題とはならない。そして、そのぐらいの寛容さがある行為に対して、人は好感を持つことも多いだろう。

ということは、本質的に与える行為を継続して行っている場合には、「愛される」ことが返報される確率は高くなる。

あるいはこういうことを考えてみよう。誰かに与えるために自分は我慢しなければならない、身をやつさなければならない、と思っている男がいたとする。彼女に尽くしまくるその男が、自分の服装はみすぼらしく、散髪に行く金もけちってプレゼントを買い、食事もカップラーメンで済ませて彼女にはフランス料理を振る舞う。「尽くしている」と見えなくもないが、実際のところ、そんなみすぼらしい男と付き合っていたいものであろうか。不潔で押し付けがましい男だと思われて終わるだけではなかろうか。

そうではなくて、相手の女性から「気に入られる」、言い方を変えれば「愛されるため」の身奇麗さを整えておくことは、彼女のことを「もてなす」ことにもつながっている。この場合、「愛する行為」の中に、一つの道具として「愛されるための行為」が含まれている。図で描けばこういうことになる。

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つまり、「相手をもてなす」ということが極めて重要になってくる。人によっては、そのもてなし方に得手不得手がある。言葉巧みに相手の長所を伝えまくることができるタイプの人もいれば、言語的には不器用な人もいる。部屋を清潔に保つことが得意な人も下手な人もいる。人間であるので、得意不得意はある。当たり前だ。しかし、少なくとも得意な分野(自分の中で、他よりマシな分野)では、相手に対して「もてなす」行為を「継続する」必要がある。その訓練をしておかなければ、子どもを育むことなど、おそらく極めて困難なのである。虐待を行いやすい親を見れば、このあたりが非常に手薄であったことが良くわかるだろう。いくら「子どものことが本当はかわいいのです」などと口で言っていたとしても、具体的な行為を継続して与え続けるという訓練がなされていないから、散発的な、気分屋的な行為で終わってしまう。そして、「こんなにやってやってるのに!」という思いのもと、反撃として暴力を行うこともあるだろう。もちろん、虐待の原因はそれだけではなかろうけれど。

若い時分は「誰かから愛されること」にエネルギーを割くのは致し方がない部分がある。それが「若さ」そのものの定義でもある。ただ、何歳までが「若い」のかどうかは難しい。ある時点で「愛されるための行為」だけに注力する段階から、「誰かを愛する」段階に移行しなければならない。

勉強をして行く過程のことをエスカレーターの比喩で表現する人もいるが、これもおそらく同じである。下りエスカレーターを頑張って登ろうとしてみる。一生懸命登っているのに一向に外の景色が変わらない。こんなに頑張っているのにどうして進まないのか。しかし、進んでいるのである。登っているのである。エスカレーターは終わる。次の階に到着する。ある瞬間を迎えたとき、「あぁ、こういうことだったのか」と極めて単純なことに気が付き、2階に到着している。あれほど登ることが困難であったのに、2階を歩きまわることができる。この、「急に楽になる」という地点まで踏ん張ったことがない人は、愛する行為であろうが、10キロ走ることであろうが、試験勉強であろうが、挫折する。頓挫する。継続しない。そういう意味で、意味がないと思われるような「お勉強」や「習い事」を我慢して続けることは有効である。そこで、ある種の踏ん張り力がつく。それは趣味であっても同じである。たとえミニ四駆やカメラであっても。

ただし、エスカレーターが2階で終わりではない、という部分がまた難しいところではある。3階、4階…。延々と続き、終わりはない。その都度、エスカレーターを逆に登っていかなければならない。階によっては、エスカレーターの速度も異なる。

しかし、「登り方のコツ」自体は同じである。だから、「何か」をやり遂げることができた人というのは強い。やり遂げるというのは、何も世界的なレギュレーションを突破できたかどうかに限らない。1年かけてレタスを育てた、ということでも良い。8000ピースのパズルでも良い。得意なことを努力せずにやっていたら褒められて愛されました、で終わっていなければ良い。生まれ持ったポテンシャルが高かったから、他の人よりもハイレベルな地点でまとまることができた、というだけの人には、残念ながら踏ん張り力はない。才能にあふれていたのかもしれないが、枯れるのが速いと感じられるような人は、たいてい「踏ん張り力がない」タイプの人であったと思えまいか。

しかし、生きている中で、何も踏ん張らなかったはずがないのである。それを思い出さなければならない。他者を、そして自らをもてなすために。

「相手をもてなす心意気」のことを私が何と呼んでいるか。

色気である。

はい。毎度のことですけど。継続性ないですからね、私。頑張ります。でも、エスカレーターで2階ぐらいまでは来たんじゃないかなぁ…。スカイツリーぐらいの高さの中で。

引き換えたもの

ドトールに入って窓の外を見る。ゲームセンターの入り口で『アイドルマスター』のアニメが流れていた。夏の空は鮮やかで、夕暮れは暖かく、海はタヒチのように青い。木々は若々しく、道にゴミは落ちていない。アスファルトは補修の跡など一つもなく、街に工事中の区画などない。映画のセットよりもさらに統制された、印象のみを戯画化したものになる。

もし、現実の世界ではなく、このアニメの世界を基準として世界を見たらどうなるのだろうか。

製作者はおそらく、ある程度わかってやっている。『ゴッホの手紙』を読んでいると、ゴッホにしたって、「観たまま」の個人的な印象をいかに画布に移すかを腐心していたように読める。この絵具では輝く小麦の色は出せない、海の色が出せない。しかし金がないからこの絵具で我慢する。そんな記述が多数記されている。現在では評価されている画家だとしても、本人は「まだ違う」と思い続けていたように読める。

たとえばゴッホの絵であらわされたパリを基準としたら街はどう見えるのか。ゴッホの観た世界は、そのままの形で画布に顕れることはなかった。残された作品は、あくまでゴッホの観た世界の「下方の」近似値でしかなかった。だが、その近似値を基準としたらどうなるのだろうか。より一層、ゴッホの観た世界には到達できないことになりはしまいか。

アニメの文法、ゲームの文法、絵画の文法、写真の文法。「自分の眼」を持つには、それらの印象を相対化するしかない。そのためには、「製作者の眼」を想定できなければならない。しかしそれは、騙されることの拒否でもある。その覚悟を決めたとき、ディズニーランドの魔法にかかることはなくなるだろう。

何らかの理論であっても小説であっても、おそらく同じで、そこに示されたものは、製作者が世界を眺めた姿の近似値でしかない。無骨で、ざらざらした、不器用なものでしかない。たとえ巧みな言葉を用いていたとしても。

いくら情報を集めたところで、製作者が観たものに直に触れることはできない。しかしそれは、何も芸術や文芸に限ったことではない。目の前にいる人が発した言葉も同じである。表情も身振りも、その人が観る世界の近似値しか現してはいない。

目の前にいる人「そのもの」には決して到達できない。恐ろしいほどの断崖がある。そんな断崖などないと思いたいものは魔法にかかれば良い。魔法にかかる能力と引き換えに得るもの。おそらくそれが、「他者を理解しよう」という覚悟なのではないか。

本当は騙されたい。十全に理解しあえていると思いたい。幸せに騙してもらって、安穏を欲しがっている。ならば、誰かを愛するとは、その安穏を拒否することを出発点とするのだろうか。

私は何に騙されたいと欲しているのか。私には、どれだけ膜がかかっているのか。

断崖を覗くのが怖いからだ。

『エスパー魔美』と「調子に乗ること」

Amazonプライムで見放題のため、藤子・F・不二雄の『エスパー魔美』をアニメで見ていた。

魔美の友人である高畑君は、自分がエスパーになったと思い込んでいた。しばらく調子に乗って、「魔美の前でだけは」その「秘密」を打ち明け、二人で特訓をする。しかしある日、魔美のちょっとした失敗のために、エスパーは高畑君自身ではなく、魔美であったことに気がつく。

そのとき高畑君は、「しばらく君とは会いたくない」という。「この気持ちに整理がつくまでは」。その理由は、魔美に対する怒りではなかった。「よく考えれば気がつくことなのに、自分がエスパーであると思い込んでいた、その迂闊さが許せない」からであった。

多くの場合、迂闊である自分の姿を気づかせた相手に対して怒りを持ってしまうものである。これが「恥をかかされた」感覚でもあるのだろう。ここで相手に怒りをぶつけず、自らについて内省する方向へエネルギーを用いることができる人間はとても強い。

ただし、エネルギーの向け方にもコツはいる。「どうせ俺なんか」というパターンでは先に進めない。それは、単に慰めて欲しいだけであったり、本当は違うよね、君は凄いんだよねと言って欲しいだけであったりする。結局、前には進んでいない。

実際には、「恥」の元となっているものは多くの人に「常時」公開されている。カツラみたいなものである。そのカツラを皆の前で取ったからといって怒りをぶつけても、あるいは何らかの方法で腹いせや仕返しをしても、結局「バレている」のである。周囲の人は、面と向かって「ハゲ」と言っていないだけである。

恥を露わにしてしまう行動は、うっかり人前で言ってしまう、叱る、嫌味、吐露など、様々な形式が考えられるだろう。どうでもよいことならば過剰な反応など起こらない。そこにある種の「迂闊さ」が存在する場合には、「恥ずかしさ」がセンサーとなる。

つまり、「恥ずかしさ」があるときこそ、乗り越える契機が訪れていることになる。

しかし、乗り越えるのはそう簡単ではない。上述のように、恥をかかされると、恥をかかせてきた相手に何らかの報復を行いたくなったり、すねたくなったりしてしまうものである。この難しさの元には何があるのか。

恥の元となったものを、消してなくしてしまうことはできない。ハゲはハゲである。植毛してもハゲである。多くの場合、恥の大本となった性質というのは、生まれ持った性質に起因していることも多い。消そうにも消せないものも多いのである。ということは、元来の性質をどのように用いるか、という点が問題となっている。

高畑君はそこに気づいた。「自分がエスパーではなかったことは残念だけど、僕にもやれることがあることに気がついた」。それは、魔美が使い方のわからない力を、適切な形で用いることをサポートする、いわばコーチとしての役割であった。そのために、分析能力や技術補助などを行うことにしたのであった。

最初、高畑君は「ないものねだり」をしていた。自らには備わっていないものを求めることによって、もともと持っている分析能力や冷静さ、論理的に組み立てる能力などを適切に用いることができていなかった。それは、魔美が超能力を持て余してしまっている状態とも相似形である。高畑君は魔美のコーチを行うことによって、自らの能力を用いる術も深めていった。その高畑君の姿がモデルとなり、また適切な論理構築や道具なども助けとなって、魔美もまた、自らの超能力を適切に運用することが可能となる。

もちろん、だからといって、私が誰かに恥をかかせてしまったことを言い訳するつもりはない。恥をかかせてしまったということは、それは伝え方やタイミングが最悪だったということである。恥をかかせずに、大切なことを伝達する必要はある。このあたりは繰り返し引用している『葉隠』が参考になるのだろう。

結局相手に何も伝えず、ニコニコして見守るだけでは、人前で、沈黙の中で、恥が晒され続けることになってしまう。もし本当に大切な人なのであれば、どこかのタイミングで、その性質を適切に運用できるよう、何らかの形で伝えなければならない。

私はその伝達に失敗する。うまく行く場合もあるが、失敗と成功はほぼ半々という感じがする。ただ、関係ができていれば、その失敗も何とかリカバリーできることはあるらしい。これは実感である。

問題は、関係ができていると思い込んでいるだけのときである。特に、相手に対してある種の「幻想」を投げ込んでいる場合、たとえ周囲からは仲が良く見えたとしても、そこには本来の交流は生まれてはいない。互いに、あるいは片方が、目の前の人ではなく、自らが作り出した映像とやりとりしている一人相撲なのである。

一人相撲を防ぐためには、まず「相手そのものには決して到達できない」「他者のことを十全に理解することは不可能である」という強力な自戒が必要になる。相手のことをわかった気になってはいけない。わかってなどいないのである。

話を戻すが、迂闊さを引き起こす元には、自惚れ、傲慢、自棄などが関わる場合もあるのだろう。このあたりは一括りのカテゴリでもある。これらは総じて「自己評価の低さ」のバリエーションではある。ただし「自己評価」を上げるために、かりそめの成功体験などを積み重ねてしまえば、よけいにあらぬ方向へ調子に乗ることになってしまう。エスパーではないのに、エスパーであると誤解してしまう。迂闊さを助長してしまう。

自己評価とは、自らの能力を実際以上に高く見積もることではない。無いものをあるかのように思い込むことでもない。適切に、正当に、冷静に、自らの性質を査定することなのである。だから、自己評価を適切に育もうとするならば、おだててしまうのはまずい。かといってけなすのもまずい。褒めるにしても工夫は必要で、何らかの留保は必要である。

高畑君に超能力があると思い込ませてはならない。どこかで、君には超能力はない、ということは伝えなければならない。さらに、それと同時に、論理構築能力や手先の器用さ、冷静さなどが具わっていることも伝えなければならない。ただし、それが「エジソン級」であるなどと不当なおだて方をすることもいけない。

「調子に乗る」パターンとしては、「ほんの少しの体験を全般に用いてしまう」ときに起こりやすい。高畑君も、たった3回のテレポート体験から、自らがエスパーであると思い込んだのであった。もちろん中井久夫のように、戦時中の小学校における体験から、いじめ全般に関わる本質的な部分を抽出できてしまうような天才もいる。しかし中井久夫は、その分析が「限定的である」ことを言及することを忘れない。

井筒俊彦も、小林秀雄も、自らの読書量は限定的である、知識は狭い範囲であると繰り返し記している。私などからすれば、どこが狭い範囲であるかと言いたくもなる。常人からすれば、それは広大すぎて把握することすら不可能なほどの知識量・読書量なのである。しかし、おそらく本人たちは本当にそう思っているのである。

その認識が、「調子に乗ること」にブレーキをかける。ある意味では「謙虚さ」ではあるのだが、これは何も、周囲に合わせて「へぇ。あっしは大した者じゃぁございやせん。いえいえ、皆さま方に比べれば、まぁ、屁みたいなもんでして。へへへ」ということとはまるきり違う。その証拠に、中井久夫も井筒俊彦も小林秀雄も、自らが考えた内容を堂々と伝えて来る。頭を低くしてやり過ごそう、あるいは油断させて一発かまそうとしているだけの者には、彼らのような芸当は逆立ちしても不可能である。

だから中井久夫たちも、一見「頭を低くしている」ように見える。しかしこれは、言ってみれば「自分は神ではない」ということの自覚でもあり、自戒でもある。正確な、自らの知識や思考の範囲を把握した上で出てきた言葉である。だから、嫌味には聞こえない。

十分ではない者ほど、知ったかぶりになる。十分ではない者ほど、頭を低くして「あっしは大した者じゃぁございやせん、へへへ」とやる。そうして不意を突くぐらいしか、攻撃手段を持たないからである。しかし残念ながら、そんな技は一度しか使えない、相撲における「猫騙し」みたいなものである。

ということで、うっかりすると知ったかぶりをしてしまい、うっかりすると調子にのる自分としては大変耳が痛い文章を自分で書くことになりました。はい。耳が痛いです。ですから、高畑君は素晴らしいです。尊敬いたします。中学生である魔美がヌードモデルになっている絵をことあるごとに見ても顔を赤らめるだけで動じないあたり、すでに修行僧です。

というよりも、このような話をさらっと書く藤子・F・不二雄は、やはり只者ではないと思われます。他にも、エスパーの自覚が生まれた魔美が、母親に「家族にエスパーがいたら、素敵じゃない?」と問いかけるシーンがあります。母親は、「こわいわよ。自分が考えていることが読まれるなんて、気持ち悪いわ」と答えます。他にも似たような質問を父親にしますが、父親は「最初はもてはやされるだろうね。ちやほやもされるだろう。でも、いずれ、おこらせてはまずい、何をされるかわからない、と、怖れられ、排除されるだろう。人は、自分と異質なものを排除しようとするものだ」と言います。こういう内容をふとしたシーンに、嫌味でも説教臭くもなく、自然に入れ込んでくるのは、最近の漫画家にはなかなか難しい芸当であるように思われます。

「悟り」に関する覚書

「悟り」の状態は道の半ばであるという。これは井筒俊彦の『意識と本質』(岩波文庫)の中で読んだことであった。井筒の解釈としては、言語によって世界を分節している状態から出発し、それらが分節される前の混沌とした世界を直接認識することが「悟り」、その後、再度言語によって分節された世界に戻ってくることで旅が完了する、ということになる。この旅は幾度も繰り返されるのだろう。その度に螺旋状に上がっていく、というイメージだと思われる。

少なくとも、一度分節状態から離れ、混沌を直接感知する状態に至ると、山は山ではなくなり、川は川ではなくなる。それらは渾然一体となっている。ただのエネルギーそのものである。そもそも、山を山と区分しているのは、私たちが「山」と呼ぶ区分けでしかない。別に混沌のエネルギーそのものを見なくとも、「山」と呼ばれているものと「平野」と呼ばれているものを区分けしている明確な線があるわけではない。それはなだらかにグラデーションしており、はっきりとした境界線があるわけではない。「川」と「岸」でも同じで、「浜」と「海」でも、「沖」と「浅瀬」でも同じである。遠くから見れば確かに「線」は見えるかもしれないが、近くに寄れば当たり前に小さな石であったり、水が浸透している状態であったり、はっきりとした区分はなくなる。分子レベルに落としても同じで、さらに電子、クォーク、どのような小さなレベルまで落としても、すべてはグラデーションしているだろう。これらはあくまで「頭」で考えた状態であって、「悟り」ではない。これらを実感するのが「悟り」である。

ただ、悟った状態ではまだ足りない。それはただの一瞬である。この状態をキープしなければならないのである。また、混沌を見ているような朦朧とした状態だけではいけない。分節状態の視点も保持していなければならない。そうでなければ生きて行けない。この二重の視点を常に保持しながら、行ったり来たり、というよりも混沌と分節を同時に生きなければならない。この状態をキープするために数十年の修練が必要である、そういうことなのだろう。

〈「道というものは、知るとか知らないというレベルを超えたものだ。知ったといってもいい加減なものだし、知ることができないといってしまえば、何も無いのと同じだ。しかし、もし本当にこだわりなく生きることができたなら、この大空のようにカラリとしたものだ。それをどうしてああだこうだと詮索することがあろうか」。この言葉が終わらぬうちに、趙州はいっぺんに悟った。/無門は言う、「南泉和尚は趙州に問いつめられて、ガラガラ音を立てて崩れたな。もう何の言い訳も出来ないだろう。趙州の方だって、たとえここで悟ったといっても、本当にそれが身に付くためには、まだあと三十年は参禅しなくてはなるまい」。〉(『無門関』岩波文庫 p.89)

その状態に至ったら、世界がどう見えるのか。どう観えるのか。

〈夾山の善会は、「夾山の景色はいかなるものか」と訊かれて、こう答えた。

猿は子を抱いて青嶂(せいしょう)の後(しりえ)に帰り
鳥は花を銜(ふく)んで碧岩(へきがん)の前に落つ

(猿はもう青い峰の背後の家に行った、
 子を胸に抱えて。
 鳥は深い緑の岩野前に降りて来た、
 くちばしに花びらをくわえて。)

わが法師は、この詩について、一度こう述べたと言われている。「三十年間、私は間違ってこれを外の風景描写と見なしてきた!」

 方眼のこの言葉は、この詩が本当は、内的風景の象徴的表現として受け取られるべきだということを意味しているのだろうか。明らかにそうではない。彼は全く違うことを言おうとしているのだ。…それらは、数多くある具体的にリアルなものである。そして、この意味で、詩は外界の〈自然〉の具体的描写である。ここで重要な点は、その自然風景がSEEの眼で見られているということである。〉(井筒俊彦(野平宗弘訳)『禅仏教の哲学に向けて』ぷねうま舎 pp.54-55)

この視点で、芭蕉や西行を読む必要がある、ということなのだろう。世界を貫通するエネルギーそのものの顕現を外的世界に「観る」(SEE)状態での自然描写、ということなのだろう。おそらく芭蕉や西行は、その眼を持っていた。

オート・パイロット

昼の12時。喫茶店にて。70代の男性と、30歳前後の男性が向かい合っている。若い男性はスーツを着て、「営業」という出で立ちであった。老人は普段着のようであるが、清潔そうな服装をしており、知的であった。

若い男は言う。

「どれだけこの時間を楽しみにしてると思ってるんですか(笑) 一人で飯なんて食ってられないですよ」

前後の文脈はわからないが、上手い。老人には「全体」の意図はわかっているのだろう。それでも、これは嬉しいだろうと感じる。すべてが嘘ではないことは十分に伝わる。

老人の携帯に電話がかかってきた。友人からのようである。北海道からでは飛行機が飛ばないだろう、というような話をしている。

その間に若い男も電話をかける。こちらの相手は仕事仲間であろう。同僚か、後輩か。しかし、上から目線の話し方はしない。まず、少し笑いを誘うような他愛のない話を振り、相手の状況を丁寧に聞き、まるで雑談のような流れの中で意図を滑りこませている。おそらく電話の相手は男性であるが、まるで女性を口説くときのようなやり方であった。

上手い。これは上手い。

老人は電話を切る。ほぼ同時に若い男も電話を切る。

その後、老人が、家ではネットで麻雀ゲームばかりやっているのだ、という話を自嘲気味にした。若い男は少し間を置いて、

「玄人の力を見せつけるわけですね」

と言った。老人は照れたように顔をほころばせた。

この若い男には本当に舌を巻く。凄いとしか言いようがない。

間を溜めすぎてはいけない。傷つけてしまうような言葉を削除している時間と受け取られかねない。かといって、間髪を入れずに反応してもいけない。それでは、反射で応えるストックフレーズだと受け取られてしまう。この微妙な間は、「ただ言葉を配列するのに要した時間」であることが示されなければならない。

若い男はツボをおさえている。無駄な世辞はない。本当に感じたことしか口にしていない。しかもそれが、相手を傷つけないようにとか、そういう意図を一切感じさせない。そんなものはとうの昔に「自動で避けられるようになっている」ようであった。

おそらく商談なのであろうが、売り物の内容には一切触れていない。売り物のことなどどうでも良いかのようである。そして老人の方から「明日、12時に私の家に来れば良いじゃないか。その時に用意するよ」と言うのだった。おそらく成立である。にも関わらず、若い男は「いいんすか? じゃぁ…」と言う程度で、まるで友人の家に遊びに行くかのようである。

しかし、何故だろう。どうして「カラ」のような感じがしたのだろう。若い男の中で、何かがフリーズしているような、奇妙な印象がつきまとった。

ならば、「空虚ではない会話」とは何なのか。私が行う会話は空虚ではないのか。

結局その若い男に、私自身のある部分の性質を誇張して見ていただけなのかもしれない。そして老人に、老いた私を重ねていたのかもしれない。

勇気

「おい! こうやって人が来たら、どくとか避けるとか、考えろ! 何も考えてないのか? えぇ? これだけ言われても動かないのか? まったく最近の若いもんは…」

朝、混んだ電車の中。駅でドアが開く。優先席の方へ入って来た70歳ぐらいの老人だった。優先席の前に立っている大学生ぐらいの男性に向かって息巻いている。学生は少し後ろを向いたが、頑なに動かなかった。混んでいたので、動いたとしても大した隙間は開かなかっただろうけれど。

老人はブツブツ言いながら、車両連結部のドアを開け、その中に入った。ドアの窓から、先ほどの学生を睨みつけてブツブツ言っている。

朝早く、この老人はどこへ行くのだろう。誰かを好きになったことはあったのだろうか。誰かを愛することはあったのだろうか。傷つくのが怖かったのだろうか。誰も相手にしてくれないことに怒りを感じているのだろうか。死が迫ってきていることに不安を感じているのだろうか。

寂しいのだろう。話しかけて欲しいのだろう。寂しいのだと、話しかけて欲しいのだと、そのまま言えたら何か変わっただろうか。変わったかもしれない。変わらなかったかもしれない。

私が誰かに対して怒るとき、そのほとんどが寂しさのせいであった。私に「寂しい思いをさせたこと」に対して怒っている。しかし、それは怒りなのだろうか。寂しさをごまかすために力んでいるだけのようにも思える。

力んで、怒って、寂しさはどうにかなるだろうか。寂しさは、誰かと一緒にいなければ解消されないようには思う。しかし、怒りは人を遠ざけてしまう。

狭く暗く不安定な連結部の小部屋に入って、窓越しに誰かを睨んでいるとき、私ならどんな気持ちがするだろう。本当は泣きたくなるのではないか。寂しくて、悲しくて、どうしようもなくなるのではないか。

どうしたら良かったのだろう。どこで道を間違えてしまったのだろう。

勇気がなかった。自分の時間を、自分の空間を、誰かのために使うことが惜しかった。本当は、その時間と空間を満たすためには、自分の時空を誰かに使わなければならなかった。しかし、目先のことにしか気持ちが及ばなかった。

作業の手をとめて、人の話に耳を傾けることだった。酒を飲む金で土産を買って帰ることだった。見たいテレビを少し我慢して、ほんの少しでも一緒に遊ぶことだった。

本当に微量なものの積み重ねでしかなかった。しかし、その微量なものを積み重ねていく勇気が持てなかった。「もう手遅れだ。巻き返しはできない。今までずっとやらずに来てしまったのだから」。しかし、手遅れだと思わないものなど一つもない。だからこそ、勇気は少数の者にしか発揮できない。

分かれ道は毎分、毎秒訪れている。どこかに大きな分かれ道があるわけではなかった。知らぬ間に、身の回りには誰もいなくなっていた。金で買える人間関係以外、何も残らなかった。

どうしたら良かったのだろう。どうすれば良いのだろう。

「人間関係に困難を感じる人がまずしなければならないこと」についての試論

ある本を読んでいると、その本を紹介した人のことが頭をよぎる。その人がどのように読んだのか、この本のどこに線を引いたのか、どのように理解したのか、どこを飛ばしてしまったのか、どこを誤解したのか、そういったことを考えながら読んでしまうような本がある。

もし、大変不快なタイプの授業を行う大学教員がドストエフスキーを紹介したとする。『カラマーゾフの兄弟』ぐらい読んでいなければ人として認めないとかなんとか、上から目線の言葉で紹介したとする。『カラマーゾフの兄弟』だけではなく、ドストエフスキーが書いたものであればどれを読んだとしてもその教員が浮かんでしまうことはあるだろう。これは大変読みにくい。

しかし、とても惚れたような人がドストエフスキーを薦めたとする。むしろ、その人と同一化したいような人がその本を読んでいたとする。これなら良いのかというとそうとも言えない。読んでいて没頭はできるかもしれないが、ドストエフスキーが描いている世界に入っているのかどうかは疑わしいものとなってしまう。

ある曲を聞くと、その曲を好きだった人のことを思い出す。思い出す内容がプラスの関係性であれば良いが、非常に不快な人のことを毎回思い出し、その人との不快な出来事が毎回呼び起こされる。しかも記憶力が良ければ、その組み合わせがどんどん増える。いわば「トラウマ」のようなものがそこら中にはびこり、いたるところで「フラッシュバック」が起こることになる。そういう記憶の性質を持つ人が実際にいるが、これは大変である。ただ、こういう人の場合は実際の人との関係に重点が置かれ過ぎており、作品自体が軽視されていることはとても多い。そして、質の高い作品に「ちゃんと」接していない。それまでも質の高いものに触れてはいるものの、人との関係性が過剰に注目されているために、紹介した人のことばかりが浮かんでいるからではある。作品はあくまで紹介した人との媒介物でしかなくなっている。

音楽でも絵画でも映画でも何であっても、それに言及する人がいて、言及した人の姿が浮かびながら読んだり聞いたりすることはある(注1)。しかし読書に限っていうのであれば、既にある程度様々な「良書」にあたっている場合、たとえ誰が言及していようとも、「あの人は多分、このあたりを理解できていないのだろうな」「おぉ、今まで見くびっていたけれど、これを良いと思えるのであれば見込みがありそうだ」など、かなり穏当にどのような本でも読めるようになるらしい。「薦めた人の影響」から距離が取れるようになっている。

おそらく映画でも音楽でも同じで、誰がどう薦めようが自らの内に確固とした座標がある場合、誰が紹介したのかという部分は無視することができる(注2)。高い品質のものを大量に摂取しておくことは、質の低いものを選別する際の座標を獲得することにつながる。逆に、質の低いものを大量に摂取している場合には、その座標は不完全なものにしかならない。高品質なものにきちんと触れている人は、それよりも低い質のものを見分けることができる。低い品質のものにしか触れていない者は、それより上位のものは区別がつかない。ここは極めて大きな問題である。

食事で考えればわかる。美しい海岸でそのへんに落ちているウニを割って海水で少し洗って食べるようなことをしていた人間は、スーパーで売っているミョウバンで固めたウニは別のものの(下位の)味がするのだろう。味覚的にうまいとかまずいという問題ではなく、それが身体に染みるものか毒なのかを判断できる、ともいえるだろうか。

同じベートーベンであったとしても、凄まじく良質な演奏者が弾いたピアノ協奏曲を知っている者にとって、その他の演奏の質を判別することは容易いのだろう。低質なものしか聴いたことがなければ、それより上質なものは単に「すっごい上手」としか映らないだろう(注3)。

ということは、人との関係性に重点が置かれ過ぎている状態から距離を取るために必要なことは、人間関係に没頭することではない。そうではなくて、良質な本・映画・絵画・音楽などの作品になるべく多く触れることが肝要である、ということになる。逆説的ではあるが、良く考えれば、何らかの作品が媒介とならない人間関係など皆無と言っても良い。ならば、媒介となる作品についての感性を磨いておくことが重要になるということは、そう誤った観点ではないように思う。

人間関係が上手く行かない人が、無理をして人間関係を多数結んで頑張ろうとする。それはたいてい上手く行かない。ならば引きこもればよいかというと、引きこもっている際には自分にとって「都合の良い」ものにしか触れないことが多い(注4)。これでは質の高いものに触れることは困難になる。結果的に、ぬるま湯の中に浸かるだけの無為な引きこもりになってしまう。ということで、人間関係が上手く行かない人の場合は、きちんと引きこもって他者との関係がむやみに入り込まない状態を作り出した上で、質の高い作品になるべく大量に接することで、他者との距離を取る準備状態を作り出すことが必要である。そういうことになる。

これは不登校の対応をしていても、うつ病の対応をしていても、おおよそ同じような道筋を見ることが多い。問題は、(外的な世界に出てはいるが精神的に引きこもっている、という状態も含めて)引きこもっている際にどのように過ごすのか、なのである。質の高い作品は内的に成長させる、などと言う。それは確かにある。しかしこの場合「質の高低を見定める定点が出来上がっていない」ことが重大な問題なのである。それが人間関係の不安定さにまで波及している。

どんなものでも良いが、まずなるべく少数のジャンルで高品質なものに触れる必要があるのだろう。最初から多数のジャンルに手を出すことは控えた方がよいかもしれないが、最終的にはある程度様々なジャンルのものに触れる必要が出てくるとは思う。古すぎるものは判断ができなくなるきらいはあるが、それでも「長い年月生き延びた」という点には敬意を表した方が良い。漫画であれば手塚治虫、アニメであれば『AKIRA』や『風の谷のナウシカ』など、比較的新しいタイプのジャンルであっても、ある程度古典的位置を示したものには一応触れておいた方が基点ができるだろうと思う。ゲームであれば『スーパーマリオブラザーズ』や『ゼルダの伝説 時のオカリナ』、音楽であればモオツァルトやバッハ、マイルス・デイヴィスやピアソラ。小説であれば夏目漱石や森鴎外、哲学であればプラトンやアリストテレス。多分そういうことなのだろう。だから「教科書的」というものは馬鹿にはできないのである。本来教育における教科書はそういう「基点を作る」ために制作されている(はずである)。しかし、それを伝える教師の伝え方がまずいと、教科書に載っているものは「避ける対象」にしかならなくなる。それだけは避けなければならない(しかし、たいていそうなっている)。だから、小中高の「授業」はとても大切なのである。私はそう思っている。

作品の質をある程度見極めることができるようになると、人を観る目も養われる。多分そういうことだと思う。その人が好むものの羅列を見れば、その人の性質が透ける。理解の仕方を聞けば、内面が視える。「本棚を見ればその人がわかる」というのは、本に限ったことではない。音楽でも絵画でも映画でも、何でも同じである。それらの基準を持っていれば、人を判断する大きな基点ができる。

えぇと…。良質なものに触れなければなりませんね…。そして、ちゃんと理解しようと、感じ取ろうと、努力をしなければなりません…。頑張ります。

注1:私が授業で扱う「リアクタンス理論」というのは、単純に言ってしまえば「強力にものごとを勧められると、むしろそれをやらなくなる」という心理的反発が起こる、という理論である。これを元に考えると、誰が言おうがその言い方・伝え方が問題となってくることになる。それは事実であるとしても、これは限定された側面についての理論であり、当然「誰が薦めたのか」が最大の問題になる。それが実感ではあろう。

注2:座標が固定されすぎていると、今度は判断が頑なになってしまう。この座標は開かれていなければならない。常に「仮」のものであり、いつでも変更する準備がある、という姿勢でなければ、一言居士のようになってしまう。このあたりの配分は大変むずかしい。

注3:たとえば読書を今後の楽しみとするのであれば、あまりに高品質なものに触れてしまうとその他のものがカスに感じられ、楽しみが続かなくなる可能性がある。しかし、本を生きる糧として読むつもりであるならば、まず高品質なものに触れてしまい、あとはそれを基準として、それより質に劣ると感じられるものについてはその質に応じて流し読みしてしまえば良い。本当に重要な本であれば、数十回読んでも良いだろう。そこまで重大な本であれば、どうせ何度読んでも理解できないのである。映画や音楽の場合には「流し観」「流し聞き」が難しいところではあるが、それでも何でもかでも聞く・見るよりは事前に選択が入る。

注4:自虐的に被虐的に、鬱屈した状態を維持しようとする場合にも「自分に都合の良い」ものにしか触れていない、といえるのだろうか。実は「そう」なのである。自虐性というものはある種の快感を伴う「嗜癖」である。アルコール依存や薬物依存と構造的には酷似している。

河合隼雄『中年クライシス』朝日文芸文庫 安部公房『砂の女』について

安部公房『砂の女』について書かれたエッセイからの引用である。

<中年は毎日の仕事に忙しい。仕事をどのようにこなしてゆくか、家族の問題をどう解決してゆくか。毎日毎日が大変で、ほかのことなど考える余裕などない。しかし、そのなかでも、自分はなぜ生きているのか、死んでからどうなるのか、などと考える人がいる。いったい、自分の人生を導くものは何なのか。昔は神や仏によって導かれ、したがって自分の生命を「永遠の相」のなかで実感できる人が多くいた。しかし現代では、それほど簡単に神や仏に従ってばかりもおれない。そこで、われわれの主人公は昆虫の{みちしるべ}に頼ることにしたのだ。>(p.75)(注:ハンミョウは「みちしるべ」とも呼ばれる)

私は37歳になった。何歳からが中年なのかはわからないが、多分もう中年なのだろう。しかし、残念ながら私は「毎日の仕事に忙しい」というほど忙しくない。家族の問題は思ったより存在しているが、それでも「毎日毎日が大変」というほどでもない。多分、だから余裕をこいて「自分はなぜ生きているのか、死んでからどうなるのか、などと考える」ことになる。そのあたりを考え続けることが仕事のうちに入ってしまうような心理学というやくざな分野に籍を置いているために、仕事なのか趣味なのか良くわからないような部分もある。ただ、いずれにしても私にとって「いったい、自分の人生を導くものは何なのか」という問題はかなり大きなものである。

<中年になってあくせく働き、時には出世したり、成功したりしたと思いさえするが、その間に、ほとんど目に見えぬほどの砂がだんだんと降り積もって、人間の「たましい」を侵蝕してきているのではなかろうか。そして、老人になって、ふと気がついたときは「もぬけのから」になってしまっている、というわけである。>(p.79)

あくせく働いているわけでもない。しかし「ほとんど目に見えぬほどの砂がだんだんと降り積もって」いる感覚はある。「たましい」が侵蝕されて来ている印象もある。何故だろう。何が間違っているのだろう。私は何を見ないようにしているのだろう。

<人間は時に「自分自身が、砂になる……砂の眼でもって、物をみる」のがよさそうに思う。といっても、砂の世界に生きる男は溜水装置というなぐさみ物をもっているし、女のほうはラジオを手に入れて大喜びしているのだから、何らかの工夫をしないことには、砂になってばかりいるわけにもいかない、ということになるだろう。中年の生き方には工夫がいるのである。>(pp.86-87)

河合隼雄は安直に答えを書かない。どういう人であったのか、本当のところは良く知らない。ただ、ある部分では誠実な人だったのだろうという気もする。多分河合隼雄自身、どうしたら良いのかわからなかったのだと思う。別の箇所で、以下のように記している。

<中年のエロスの困難さがよくわかる。そこで多くの人が、エロスの対象として人間以外のものを選ぶことによって、何とかバランスをとっている。そこに各人の工夫があり、それはそれで結構であるが、それについて自覚しておくことは必要である。>(p.98)

工夫はいるが、工夫だけではいけない。それが本質的なことから逃げることにもなっている。しかし、逃げざるを得ないときもある。それが良い結果を生むこともある。最悪の結果に導かれることもある。一概にはいえない。しかし、逃げていること、ごまかしていることを自覚しておく必要はある。そう記されているように私には読める。

それで、どうなる? 自覚したあとどうすればいい? それは記されていない。あるいは書かれていたとしても、違う箇所では遠回しに否定したりする。渾然一体となって答えは曖昧にされている。

曖昧にするしかなかろう。誰にでも通用するようなわかりやすい答えなどなかろう。答えを書かないというその点が、河合隼雄の誠実さなのだろうと私は思う。

3年前、私が『砂の女』を一気に読んだときに得体のしれないものを感じ、38度を越える熱が1週間も続くという強烈なオーバーヒートが訪れた。実際には蓄膿症であった。そして耳鼻科で治療を受けた。別段『砂の女』を読んだだけでこんなことになったわけではない。他にもある種の無理がたたっていた時期でもあったが、それにしてもこの『砂の女』が最後のひと押しを一気に推し進めたのは確かだろうという感じがする。

『砂の女』は、私の処理能力を超えていた。少なくとも『砂の女』を読み終わってしばらく、私の中には嵐が吹いた。妙に粘ついた、不気味なものが荒れ狂った。作品としてそこまで無茶苦茶なものではない。残酷なものや赤裸々なものなど他にもいくらでもある。多分、私の内部にある、まだ見る準備ができていない部分が急激に触発されてしまったのだと思う。

今ならオーバーヒートせずに読めるのだろうか。準備ができたのだろうか。

なんとも言えない。

<地上に、風や流れがある以上、砂地の形成は、避けがたいものかもしれない。風が吹き、川が流れ、海が波うっているかぎり、砂はつぎつぎと土壌の中からうみだされ、まるで生き物のように、ところきらわず這ってまわるのだ。砂は決して休まない。静かに、しかし確実に、地表を犯し、亡ぼしていく……>(『砂の女』新潮文庫 p.17)

安部公房は、そう記す。

1月19日(火)17:00から 水曜の会

皆様

あけましておめでとうございます。

1月は試験直前であったり、様々な教職系企画があるために日程が組みにくいのですが、一応、

1月19日(火)17:00から18:00

で時間を確保することに致しました。テーマはまだ決まっておりませんが、一応今年度の最後の回ということにはなります。教室やテーマが決まりましたら再度ご連絡致します。まずは日程のお知らせでした。

よろしくお願いいたします。

追記:
テーマは「自己嫌悪について」にしました。人数が少ないでしょうから、まず11号館3階の、私の研究室にお集まり下さい。もし人数が多ければ、向かい側の11−302教室に移ります。

福沢諭吉『学問のすゝめ』岩波文庫 理解できた範囲で

一遍から四遍まで。

私には、こう聞こえた。私は、とても格好よいと思った。

〔そりゃぁさ、やれることといったら食って寝ること、学ばないくせに欲ばっかり前面に出て、子どもはたくさん産んでもどうやって育んで行くのかも知らない、恥も法も知らない馬鹿者が大量にいれば、そりゃぁ力でおどして、やばいことが起こらないようにしなけりゃならねぇよ。これが暴政の元だ。もちろん、力でねじ伏せるっていうのは、馬鹿のやることだ。しかし、それは暴君のせいだけか? 違うだろ? 暴君が出て来ちまうのは、人民が馬鹿なときなんだよ。どっちにも問題がある。俺らは人民側なわけで、それが多数なのであって、この人民の在り方が鏡みてぇに映されて、暴君が現れてるって考えてみたらどうなんだい?

だから俺がこうして語ってる、伝えようとしている。だったら俺の話を聞いたやつらの中から政を行う者が出るように望んでるかって? もちろん、そういうやつが出て来たってかまわない。でもな、それを求めてやってるわけじゃねぇ。政治家排出のためにやってることじゃねぇ。

なぁ。俺が人は同等だって言ってた意味は届いてるか?

あのな。たとえば相撲取りが腕力があるからって、隣のやつの腕をへし折ったら、そりゃ迷惑だろ。それは、相撲取りが上位の人間だってことなのか? 違うよな。腕力がある、ってだけだろ。それ以上でもそれ以下でもねぇ。隣のやつにだって腕はある。もちろん、相撲取りほどじゃねぇが、腕力がある。腕力だけじゃねぇ。歩く事だって、耕すことだって、色々あるだろ。問題は、それを適切に使えるかどうか、ってことだ。俺はそういう意味で、人は同等だって言ってるんだ。

農民は農民として、商人は商人として、まぁ何でも良い。生きて行く時によく考えて、学んで、自分の力をちゃんと発揮しようぜって言ってるんだよ。政治家だって同じだ。全部が揃ってシステムが出来上がってるんだよ。どこが抜けたっていけねぇんだ。上も下もねぇ。

俺が言ってる学問ってのは、いわゆるお勉強のことじゃねぇぞ。どうも誤解があるんだよ。高尚な本だか理論だかをたくさん覚えておくことが学問だって、それやってりゃ金が儲かって地位が上がるとか、それが貴になることだとか、そういう誤解をされちまう。違う。俺が言ってるのはその真逆だ。地位が上とか下とか言ってる時点で、システム全体が見えてねぇ。

俺が言おうとしてる貴ってのはな、自覚してるってことなんだよ。自立してるってことなんだよ。依存してねぇってことなんだよ。

誰かがやってくれる、なのにやってくれない、そう文句をつける。不平ばっかり言ってる。それはな、気持ちが誰かに寄生してるってことなんだよ。依存してるってことなんだよ。そういう奴しかいなかったらどうなる? 全員が「誰かが動かしてくれるんだー」って待ってるだけなんだぜ? どこにも行けねぇよ。

俺が私学私学ってうるさく言ってるのはな、そういう寄生状態から抜けてみろよ、ってことだ。マザコン・ファザコンから脱出してみろよ、ってことだ。自分の脚で歩いてみろよ、ってことだ。象徴的だろ? 金っていうのはさ。出してもらってるうちは、国に口を出されてるうちは、そっちになびいちまうよ。マザコン・ファザコンだよ。

外国語なんてな、そんなもんは道具だ。いいか、知識だって道具なんだぞ。西洋の学だとかって、知識だけ付けていい気になってる奴なんてのは、寄生虫みてぇなもんだ。知識問屋だ。そんな野郎は穀潰しだぜ。俺が学問って言ってるのは、その道具をどう使うのか、誰にも依存しねぇで自分で考えろってことだ。西洋にも依存するんじゃねぇよ。馬鹿なままでいるんじゃねぇよ。

なぁ…。そういう奴が増えればさ、政治だって多少まともになるんじゃねぇか? まともな奴が政治家になるようにこうして言い続けてるんじゃねぇ。慶応義塾を作ったわけじゃねぇ。大多数の、人民が多少でもマシになるようにってこった。それが、鏡みたいに映されるんだよ、政治に。どっちが先だ? なぁ。

でな。問題は、これを読んでる奴、お前だお前、自分は馬鹿じゃねぇって思ってるだろ? あのな。そういうのを馬鹿って言うんだよ。馬鹿の自覚持てよ。それがなきゃ、考える工夫なんてできねぇんだよ。俺は自分を除外しねぇぞ。俺は馬鹿さ。でもな。だから考えるんだよ。

いいか。明治維新が起きて、開港されて、今まで俺らが生きて来たシステムとまるっきり違うものが入って来たんだ。良いとこ取りなんてできねぇよ。絶対ぶつかるんだよ。どっちかを選んじまえばいいなんて、そんな簡単なもんじゃねぇよ。そのぶつかりを避けるんじゃねぇ。解決なんて出来るかアホ。解決できると思ってる奴は、自分で考えてねぇ馬鹿だ。愚鈍だ。

なぁ、悪いな。俺は自分が馬鹿な自覚はあるって言ったよ。これを読んでる奴の大半が馬鹿だって言ったよ。でもな、本当は、馬鹿ですらねぇ奴らに向けてこうして喋って、こうして書いてるんだ。サルだよ。俺はサルに向かって書いている。表面的にしか受け取らねぇ、理解しねぇ。…そんなもんだよ。

でもな。やらねぇよりマシだ。それが、俺の腕力の使い方だよ。出来る限りのことはする。答えだって出やしねぇ。その、わけわかんねぇ、巨大なぶつかりを抱えたまま生きる姿を見せるしかねぇだろ。1000人に1人、それがわかる奴が出て来るかもしれねぇ。いや、望み過ぎか。でも、やれることやるしかねぇだろ? それが生きるってことだろ?〕
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Author:ina
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