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引き換えたもの

ドトールに入って窓の外を見る。ゲームセンターの入り口で『アイドルマスター』のアニメが流れていた。夏の空は鮮やかで、夕暮れは暖かく、海はタヒチのように青い。木々は若々しく、道にゴミは落ちていない。アスファルトは補修の跡など一つもなく、街に工事中の区画などない。映画のセットよりもさらに統制された、印象のみを戯画化したものになる。

もし、現実の世界ではなく、このアニメの世界を基準として世界を見たらどうなるのだろうか。

製作者はおそらく、ある程度わかってやっている。『ゴッホの手紙』を読んでいると、ゴッホにしたって、「観たまま」の個人的な印象をいかに画布に移すかを腐心していたように読める。この絵具では輝く小麦の色は出せない、海の色が出せない。しかし金がないからこの絵具で我慢する。そんな記述が多数記されている。現在では評価されている画家だとしても、本人は「まだ違う」と思い続けていたように読める。

たとえばゴッホの絵であらわされたパリを基準としたら街はどう見えるのか。ゴッホの観た世界は、そのままの形で画布に顕れることはなかった。残された作品は、あくまでゴッホの観た世界の「下方の」近似値でしかなかった。だが、その近似値を基準としたらどうなるのだろうか。より一層、ゴッホの観た世界には到達できないことになりはしまいか。

アニメの文法、ゲームの文法、絵画の文法、写真の文法。「自分の眼」を持つには、それらの印象を相対化するしかない。そのためには、「製作者の眼」を想定できなければならない。しかしそれは、騙されることの拒否でもある。その覚悟を決めたとき、ディズニーランドの魔法にかかることはなくなるだろう。

何らかの理論であっても小説であっても、おそらく同じで、そこに示されたものは、製作者が世界を眺めた姿の近似値でしかない。無骨で、ざらざらした、不器用なものでしかない。たとえ巧みな言葉を用いていたとしても。

いくら情報を集めたところで、製作者が観たものに直に触れることはできない。しかしそれは、何も芸術や文芸に限ったことではない。目の前にいる人が発した言葉も同じである。表情も身振りも、その人が観る世界の近似値しか現してはいない。

目の前にいる人「そのもの」には決して到達できない。恐ろしいほどの断崖がある。そんな断崖などないと思いたいものは魔法にかかれば良い。魔法にかかる能力と引き換えに得るもの。おそらくそれが、「他者を理解しよう」という覚悟なのではないか。

本当は騙されたい。十全に理解しあえていると思いたい。幸せに騙してもらって、安穏を欲しがっている。ならば、誰かを愛するとは、その安穏を拒否することを出発点とするのだろうか。

私は何に騙されたいと欲しているのか。私には、どれだけ膜がかかっているのか。

断崖を覗くのが怖いからだ。

『エスパー魔美』と「調子に乗ること」

Amazonプライムで見放題のため、藤子・F・不二雄の『エスパー魔美』をアニメで見ていた。

魔美の友人である高畑君は、自分がエスパーになったと思い込んでいた。しばらく調子に乗って、「魔美の前でだけは」その「秘密」を打ち明け、二人で特訓をする。しかしある日、魔美のちょっとした失敗のために、エスパーは高畑君自身ではなく、魔美であったことに気がつく。

そのとき高畑君は、「しばらく君とは会いたくない」という。「この気持ちに整理がつくまでは」。その理由は、魔美に対する怒りではなかった。「よく考えれば気がつくことなのに、自分がエスパーであると思い込んでいた、その迂闊さが許せない」からであった。

多くの場合、迂闊である自分の姿を気づかせた相手に対して怒りを持ってしまうものである。これが「恥をかかされた」感覚でもあるのだろう。ここで相手に怒りをぶつけず、自らについて内省する方向へエネルギーを用いることができる人間はとても強い。

ただし、エネルギーの向け方にもコツはいる。「どうせ俺なんか」というパターンでは先に進めない。それは、単に慰めて欲しいだけであったり、本当は違うよね、君は凄いんだよねと言って欲しいだけであったりする。結局、前には進んでいない。

実際には、「恥」の元となっているものは多くの人に「常時」公開されている。カツラみたいなものである。そのカツラを皆の前で取ったからといって怒りをぶつけても、あるいは何らかの方法で腹いせや仕返しをしても、結局「バレている」のである。周囲の人は、面と向かって「ハゲ」と言っていないだけである。

恥を露わにしてしまう行動は、うっかり人前で言ってしまう、叱る、嫌味、吐露など、様々な形式が考えられるだろう。どうでもよいことならば過剰な反応など起こらない。そこにある種の「迂闊さ」が存在する場合には、「恥ずかしさ」がセンサーとなる。

つまり、「恥ずかしさ」があるときこそ、乗り越える契機が訪れていることになる。

しかし、乗り越えるのはそう簡単ではない。上述のように、恥をかかされると、恥をかかせてきた相手に何らかの報復を行いたくなったり、すねたくなったりしてしまうものである。この難しさの元には何があるのか。

恥の元となったものを、消してなくしてしまうことはできない。ハゲはハゲである。植毛してもハゲである。多くの場合、恥の大本となった性質というのは、生まれ持った性質に起因していることも多い。消そうにも消せないものも多いのである。ということは、元来の性質をどのように用いるか、という点が問題となっている。

高畑君はそこに気づいた。「自分がエスパーではなかったことは残念だけど、僕にもやれることがあることに気がついた」。それは、魔美が使い方のわからない力を、適切な形で用いることをサポートする、いわばコーチとしての役割であった。そのために、分析能力や技術補助などを行うことにしたのであった。

最初、高畑君は「ないものねだり」をしていた。自らには備わっていないものを求めることによって、もともと持っている分析能力や冷静さ、論理的に組み立てる能力などを適切に用いることができていなかった。それは、魔美が超能力を持て余してしまっている状態とも相似形である。高畑君は魔美のコーチを行うことによって、自らの能力を用いる術も深めていった。その高畑君の姿がモデルとなり、また適切な論理構築や道具なども助けとなって、魔美もまた、自らの超能力を適切に運用することが可能となる。

もちろん、だからといって、私が誰かに恥をかかせてしまったことを言い訳するつもりはない。恥をかかせてしまったということは、それは伝え方やタイミングが最悪だったということである。恥をかかせずに、大切なことを伝達する必要はある。このあたりは繰り返し引用している『葉隠』が参考になるのだろう。

結局相手に何も伝えず、ニコニコして見守るだけでは、人前で、沈黙の中で、恥が晒され続けることになってしまう。もし本当に大切な人なのであれば、どこかのタイミングで、その性質を適切に運用できるよう、何らかの形で伝えなければならない。

私はその伝達に失敗する。うまく行く場合もあるが、失敗と成功はほぼ半々という感じがする。ただ、関係ができていれば、その失敗も何とかリカバリーできることはあるらしい。これは実感である。

問題は、関係ができていると思い込んでいるだけのときである。特に、相手に対してある種の「幻想」を投げ込んでいる場合、たとえ周囲からは仲が良く見えたとしても、そこには本来の交流は生まれてはいない。互いに、あるいは片方が、目の前の人ではなく、自らが作り出した映像とやりとりしている一人相撲なのである。

一人相撲を防ぐためには、まず「相手そのものには決して到達できない」「他者のことを十全に理解することは不可能である」という強力な自戒が必要になる。相手のことをわかった気になってはいけない。わかってなどいないのである。

話を戻すが、迂闊さを引き起こす元には、自惚れ、傲慢、自棄などが関わる場合もあるのだろう。このあたりは一括りのカテゴリでもある。これらは総じて「自己評価の低さ」のバリエーションではある。ただし「自己評価」を上げるために、かりそめの成功体験などを積み重ねてしまえば、よけいにあらぬ方向へ調子に乗ることになってしまう。エスパーではないのに、エスパーであると誤解してしまう。迂闊さを助長してしまう。

自己評価とは、自らの能力を実際以上に高く見積もることではない。無いものをあるかのように思い込むことでもない。適切に、正当に、冷静に、自らの性質を査定することなのである。だから、自己評価を適切に育もうとするならば、おだててしまうのはまずい。かといってけなすのもまずい。褒めるにしても工夫は必要で、何らかの留保は必要である。

高畑君に超能力があると思い込ませてはならない。どこかで、君には超能力はない、ということは伝えなければならない。さらに、それと同時に、論理構築能力や手先の器用さ、冷静さなどが具わっていることも伝えなければならない。ただし、それが「エジソン級」であるなどと不当なおだて方をすることもいけない。

「調子に乗る」パターンとしては、「ほんの少しの体験を全般に用いてしまう」ときに起こりやすい。高畑君も、たった3回のテレポート体験から、自らがエスパーであると思い込んだのであった。もちろん中井久夫のように、戦時中の小学校における体験から、いじめ全般に関わる本質的な部分を抽出できてしまうような天才もいる。しかし中井久夫は、その分析が「限定的である」ことを言及することを忘れない。

井筒俊彦も、小林秀雄も、自らの読書量は限定的である、知識は狭い範囲であると繰り返し記している。私などからすれば、どこが狭い範囲であるかと言いたくもなる。常人からすれば、それは広大すぎて把握することすら不可能なほどの知識量・読書量なのである。しかし、おそらく本人たちは本当にそう思っているのである。

その認識が、「調子に乗ること」にブレーキをかける。ある意味では「謙虚さ」ではあるのだが、これは何も、周囲に合わせて「へぇ。あっしは大した者じゃぁございやせん。いえいえ、皆さま方に比べれば、まぁ、屁みたいなもんでして。へへへ」ということとはまるきり違う。その証拠に、中井久夫も井筒俊彦も小林秀雄も、自らが考えた内容を堂々と伝えて来る。頭を低くしてやり過ごそう、あるいは油断させて一発かまそうとしているだけの者には、彼らのような芸当は逆立ちしても不可能である。

だから中井久夫たちも、一見「頭を低くしている」ように見える。しかしこれは、言ってみれば「自分は神ではない」ということの自覚でもあり、自戒でもある。正確な、自らの知識や思考の範囲を把握した上で出てきた言葉である。だから、嫌味には聞こえない。

十分ではない者ほど、知ったかぶりになる。十分ではない者ほど、頭を低くして「あっしは大した者じゃぁございやせん、へへへ」とやる。そうして不意を突くぐらいしか、攻撃手段を持たないからである。しかし残念ながら、そんな技は一度しか使えない、相撲における「猫騙し」みたいなものである。

ということで、うっかりすると知ったかぶりをしてしまい、うっかりすると調子にのる自分としては大変耳が痛い文章を自分で書くことになりました。はい。耳が痛いです。ですから、高畑君は素晴らしいです。尊敬いたします。中学生である魔美がヌードモデルになっている絵をことあるごとに見ても顔を赤らめるだけで動じないあたり、すでに修行僧です。

というよりも、このような話をさらっと書く藤子・F・不二雄は、やはり只者ではないと思われます。他にも、エスパーの自覚が生まれた魔美が、母親に「家族にエスパーがいたら、素敵じゃない?」と問いかけるシーンがあります。母親は、「こわいわよ。自分が考えていることが読まれるなんて、気持ち悪いわ」と答えます。他にも似たような質問を父親にしますが、父親は「最初はもてはやされるだろうね。ちやほやもされるだろう。でも、いずれ、おこらせてはまずい、何をされるかわからない、と、怖れられ、排除されるだろう。人は、自分と異質なものを排除しようとするものだ」と言います。こういう内容をふとしたシーンに、嫌味でも説教臭くもなく、自然に入れ込んでくるのは、最近の漫画家にはなかなか難しい芸当であるように思われます。

「悟り」に関する覚書

「悟り」の状態は道の半ばであるという。これは井筒俊彦の『意識と本質』(岩波文庫)の中で読んだことであった。井筒の解釈としては、言語によって世界を分節している状態から出発し、それらが分節される前の混沌とした世界を直接認識することが「悟り」、その後、再度言語によって分節された世界に戻ってくることで旅が完了する、ということになる。この旅は幾度も繰り返されるのだろう。その度に螺旋状に上がっていく、というイメージだと思われる。

少なくとも、一度分節状態から離れ、混沌を直接感知する状態に至ると、山は山ではなくなり、川は川ではなくなる。それらは渾然一体となっている。ただのエネルギーそのものである。そもそも、山を山と区分しているのは、私たちが「山」と呼ぶ区分けでしかない。別に混沌のエネルギーそのものを見なくとも、「山」と呼ばれているものと「平野」と呼ばれているものを区分けしている明確な線があるわけではない。それはなだらかにグラデーションしており、はっきりとした境界線があるわけではない。「川」と「岸」でも同じで、「浜」と「海」でも、「沖」と「浅瀬」でも同じである。遠くから見れば確かに「線」は見えるかもしれないが、近くに寄れば当たり前に小さな石であったり、水が浸透している状態であったり、はっきりとした区分はなくなる。分子レベルに落としても同じで、さらに電子、クォーク、どのような小さなレベルまで落としても、すべてはグラデーションしているだろう。これらはあくまで「頭」で考えた状態であって、「悟り」ではない。これらを実感するのが「悟り」である。

ただ、悟った状態ではまだ足りない。それはただの一瞬である。この状態をキープしなければならないのである。また、混沌を見ているような朦朧とした状態だけではいけない。分節状態の視点も保持していなければならない。そうでなければ生きて行けない。この二重の視点を常に保持しながら、行ったり来たり、というよりも混沌と分節を同時に生きなければならない。この状態をキープするために数十年の修練が必要である、そういうことなのだろう。

〈「道というものは、知るとか知らないというレベルを超えたものだ。知ったといってもいい加減なものだし、知ることができないといってしまえば、何も無いのと同じだ。しかし、もし本当にこだわりなく生きることができたなら、この大空のようにカラリとしたものだ。それをどうしてああだこうだと詮索することがあろうか」。この言葉が終わらぬうちに、趙州はいっぺんに悟った。/無門は言う、「南泉和尚は趙州に問いつめられて、ガラガラ音を立てて崩れたな。もう何の言い訳も出来ないだろう。趙州の方だって、たとえここで悟ったといっても、本当にそれが身に付くためには、まだあと三十年は参禅しなくてはなるまい」。〉(『無門関』岩波文庫 p.89)

その状態に至ったら、世界がどう見えるのか。どう観えるのか。

〈夾山の善会は、「夾山の景色はいかなるものか」と訊かれて、こう答えた。

猿は子を抱いて青嶂(せいしょう)の後(しりえ)に帰り
鳥は花を銜(ふく)んで碧岩(へきがん)の前に落つ

(猿はもう青い峰の背後の家に行った、
 子を胸に抱えて。
 鳥は深い緑の岩野前に降りて来た、
 くちばしに花びらをくわえて。)

わが法師は、この詩について、一度こう述べたと言われている。「三十年間、私は間違ってこれを外の風景描写と見なしてきた!」

 方眼のこの言葉は、この詩が本当は、内的風景の象徴的表現として受け取られるべきだということを意味しているのだろうか。明らかにそうではない。彼は全く違うことを言おうとしているのだ。…それらは、数多くある具体的にリアルなものである。そして、この意味で、詩は外界の〈自然〉の具体的描写である。ここで重要な点は、その自然風景がSEEの眼で見られているということである。〉(井筒俊彦(野平宗弘訳)『禅仏教の哲学に向けて』ぷねうま舎 pp.54-55)

この視点で、芭蕉や西行を読む必要がある、ということなのだろう。世界を貫通するエネルギーそのものの顕現を外的世界に「観る」(SEE)状態での自然描写、ということなのだろう。おそらく芭蕉や西行は、その眼を持っていた。

オート・パイロット

昼の12時。喫茶店にて。70代の男性と、30歳前後の男性が向かい合っている。若い男性はスーツを着て、「営業」という出で立ちであった。老人は普段着のようであるが、清潔そうな服装をしており、知的であった。

若い男は言う。

「どれだけこの時間を楽しみにしてると思ってるんですか(笑) 一人で飯なんて食ってられないですよ」

前後の文脈はわからないが、上手い。老人には「全体」の意図はわかっているのだろう。それでも、これは嬉しいだろうと感じる。すべてが嘘ではないことは十分に伝わる。

老人の携帯に電話がかかってきた。友人からのようである。北海道からでは飛行機が飛ばないだろう、というような話をしている。

その間に若い男も電話をかける。こちらの相手は仕事仲間であろう。同僚か、後輩か。しかし、上から目線の話し方はしない。まず、少し笑いを誘うような他愛のない話を振り、相手の状況を丁寧に聞き、まるで雑談のような流れの中で意図を滑りこませている。おそらく電話の相手は男性であるが、まるで女性を口説くときのようなやり方であった。

上手い。これは上手い。

老人は電話を切る。ほぼ同時に若い男も電話を切る。

その後、老人が、家ではネットで麻雀ゲームばかりやっているのだ、という話を自嘲気味にした。若い男は少し間を置いて、

「玄人の力を見せつけるわけですね」

と言った。老人は照れたように顔をほころばせた。

この若い男には本当に舌を巻く。凄いとしか言いようがない。

間を溜めすぎてはいけない。傷つけてしまうような言葉を削除している時間と受け取られかねない。かといって、間髪を入れずに反応してもいけない。それでは、反射で応えるストックフレーズだと受け取られてしまう。この微妙な間は、「ただ言葉を配列するのに要した時間」であることが示されなければならない。

若い男はツボをおさえている。無駄な世辞はない。本当に感じたことしか口にしていない。しかもそれが、相手を傷つけないようにとか、そういう意図を一切感じさせない。そんなものはとうの昔に「自動で避けられるようになっている」ようであった。

おそらく商談なのであろうが、売り物の内容には一切触れていない。売り物のことなどどうでも良いかのようである。そして老人の方から「明日、12時に私の家に来れば良いじゃないか。その時に用意するよ」と言うのだった。おそらく成立である。にも関わらず、若い男は「いいんすか? じゃぁ…」と言う程度で、まるで友人の家に遊びに行くかのようである。

しかし、何故だろう。どうして「カラ」のような感じがしたのだろう。若い男の中で、何かがフリーズしているような、奇妙な印象がつきまとった。

ならば、「空虚ではない会話」とは何なのか。私が行う会話は空虚ではないのか。

結局その若い男に、私自身のある部分の性質を誇張して見ていただけなのかもしれない。そして老人に、老いた私を重ねていたのかもしれない。

勇気

「おい! こうやって人が来たら、どくとか避けるとか、考えろ! 何も考えてないのか? えぇ? これだけ言われても動かないのか? まったく最近の若いもんは…」

朝、混んだ電車の中。駅でドアが開く。優先席の方へ入って来た70歳ぐらいの老人だった。優先席の前に立っている大学生ぐらいの男性に向かって息巻いている。学生は少し後ろを向いたが、頑なに動かなかった。混んでいたので、動いたとしても大した隙間は開かなかっただろうけれど。

老人はブツブツ言いながら、車両連結部のドアを開け、その中に入った。ドアの窓から、先ほどの学生を睨みつけてブツブツ言っている。

朝早く、この老人はどこへ行くのだろう。誰かを好きになったことはあったのだろうか。誰かを愛することはあったのだろうか。傷つくのが怖かったのだろうか。誰も相手にしてくれないことに怒りを感じているのだろうか。死が迫ってきていることに不安を感じているのだろうか。

寂しいのだろう。話しかけて欲しいのだろう。寂しいのだと、話しかけて欲しいのだと、そのまま言えたら何か変わっただろうか。変わったかもしれない。変わらなかったかもしれない。

私が誰かに対して怒るとき、そのほとんどが寂しさのせいであった。私に「寂しい思いをさせたこと」に対して怒っている。しかし、それは怒りなのだろうか。寂しさをごまかすために力んでいるだけのようにも思える。

力んで、怒って、寂しさはどうにかなるだろうか。寂しさは、誰かと一緒にいなければ解消されないようには思う。しかし、怒りは人を遠ざけてしまう。

狭く暗く不安定な連結部の小部屋に入って、窓越しに誰かを睨んでいるとき、私ならどんな気持ちがするだろう。本当は泣きたくなるのではないか。寂しくて、悲しくて、どうしようもなくなるのではないか。

どうしたら良かったのだろう。どこで道を間違えてしまったのだろう。

勇気がなかった。自分の時間を、自分の空間を、誰かのために使うことが惜しかった。本当は、その時間と空間を満たすためには、自分の時空を誰かに使わなければならなかった。しかし、目先のことにしか気持ちが及ばなかった。

作業の手をとめて、人の話に耳を傾けることだった。酒を飲む金で土産を買って帰ることだった。見たいテレビを少し我慢して、ほんの少しでも一緒に遊ぶことだった。

本当に微量なものの積み重ねでしかなかった。しかし、その微量なものを積み重ねていく勇気が持てなかった。「もう手遅れだ。巻き返しはできない。今までずっとやらずに来てしまったのだから」。しかし、手遅れだと思わないものなど一つもない。だからこそ、勇気は少数の者にしか発揮できない。

分かれ道は毎分、毎秒訪れている。どこかに大きな分かれ道があるわけではなかった。知らぬ間に、身の回りには誰もいなくなっていた。金で買える人間関係以外、何も残らなかった。

どうしたら良かったのだろう。どうすれば良いのだろう。
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Author:ina
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