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「別のものになりたい」欲望

「はてしない物語」の再読が終了した。今回は、ハードカバーで読んだ。“こちら側”の時には赤い文字で、“あちら側”の時には緑の文字で印刷されている、かなりヤバい感じの方である(赤と緑の印字というのは、私はこれ以外で見たことがない)。

前半部分は、いわば集合的無意識側とどのように“接続”するのか、という点に重点が置かれている。こちらはそこまで強烈ではない。一般的なファンタジー小説として読んで差し支えない。しかし、問題は後半である。主人公バスチアンが“異界参入”をした後、“現世側”へ戻るための凄まじい道程が克明に記されている。

入ってしまったその世界では、「望む」ことでしか、前に進めない。本来ならば、どこかのタイミングで“現世側に戻りたい”という望みを持たねばならないわけであるが、何せ、なんでも望み通りに世界側が変化するのである。自らの見た目も変化する。願望充足の宝庫である。そういう中で、人は、元の“みすぼらしい”生活に戻りたいなどと願うことができるだろうか。そんなに単純なはずがない。

そしてこれは、“仮に、そういう世界に入ってしまったとしたら?”という生易しい話ではなく、生きている中で、刻々と進行している現象であるということ。ここに記されてあるような流れが、外的現実とペアになって、内的世界で進行しているということ。言い換えれば、内的世界での進行が、外的世界に“転写”されているということである。

バスチアンが首からかけている、異界では絶対的な力を持つ「アウリン」には、このように記されている。

『汝の 欲する ことを なせ』

バスチアンが、その意味を、死を司るグラオーグラマーンに問う。彼は答える。

「それは、あなたさまが真に欲することをすべきだということです。あなたさまの真の意志を持てということです。これ以上にむずかしいことはありません。」

真に欲することを見つけなければならない。バスチアンが見つける最後の望みは、「自分も愛することができるようになりたい」というものである。これは、どこでも聞くような言葉で、誰でも言うような言葉である。しかし、そこに付された意味の重さは尋常ではない。

バスチアンが入ってしまった“内的世界”では、望みを叶えるために、“外的世界”での記憶が引き換えに失われる。そもそも、死を司る者が「これ以上にむずかしいことはありません」と言っているのである。誰かを愛すること。それができるようになるまでに、一体どれだけのものを失う必要があるのか。愛することができるようになるためには、一体何と引き換えにすれば良いのか。それはある意味、命よりも重いものである。

以下は、バスチアンが異界で望み、叶えられたことと、失われた記憶の対比である。

醜い自らの姿が美しく変わることで、かつて醜かった自分の姿を忘れる。
強くなりたいと願い、ひ弱だったことを忘れる。
くじけない意志を望み、弱音を吐いていた自分を忘れる。
偉大な人であると言われたいと望み、からかわれていたことを忘れる。
皆に怖れられる存在となりたいと願い、子どもだったことを忘れる。
賢くなりたいと願い、学校へ通っていたことを忘れる。
狂った場所から抜け出たいと願い、物語を作ることができた記憶を失う。
仲間に入れて欲しいと願い、人に個性があった記憶を失う。
最後の望み、人を愛せるようになりたいという願いを見つけたとき、両親がいた記憶が消える。

そして、愛することができるようになったとき、自らの名前を失った。

果たして、どれだけの人が、誰かを愛するときに、ここまでの覚悟を持っているのだろう。自らの名前を失うということが、どれほどのことなのか。それは、狂気である。死ぬこと、ではない。生きながらに死ぬことである。地獄を引き受けることである。そんなものを引き換えにする勇気があるだろうか。今の私にはない。

小手先で“愛する”ことはできるだろう。確かに、エーリッヒ・フロムが記すように、「愛は技術」であるとも思う。それは極めて具体的な行為である、と。賛同はする。しかし、バスチアンが命を賭して、自らの存在そのものと引き換えに望んだ愛することの重みは、技術という軽さでは表わせない。


最終段階目前で出会う、アイゥオーラおばさまは物語る。

「ぼうやはそれまで、自分とはちがう、別のものになりたいといつも思ってきましたが、自分を変えようとは思わなかったからです」。

ここで言う、「自分を変えよう」とすることは、いわゆる努力でどうにかする、という性質のものではない。強くなるためには筋トレをして、賢くなりたければ勉強をすれば良い、ということではない。残念ながら、そういう一般的に推奨されるような努力はすべて、「別のものになりたい」という願いに括られる。それらは、理性によるコントロール下の、いわば欲望である。

「バスチアンは、最も偉大なものとか、最も強いものとか、最も賢いものでありたいとは、もはや思わなかった。そういうことは、すべてもう卒業していた。今は、愛されたかった。しかも、善悪、美醜、賢愚そんなものとは関係なく、自分の欠点のすべてをひっくるめて——というより、むしろ、その欠点のゆえにこそ、あるがままに愛されたかった」。

これが、他者にも転写される必要があるわけだが、そんなに簡単なはずがない。少なくとも今の私にはできない。親は子どもに対して、こういった愛情、無償の愛を注いでいるではないか、などと言うかも知れないが、残念ながら、そうでもないことも多い。少なくとも私は、息子に“こうなって欲しい”というような欲望が多分にからんでいて、純粋に、どんな欠点もすべてひっくるめて、その欠点ゆえにこそ、あるがままに愛するなどという離れ業を行えているとはとても思えない。

自分の息子に対してすら、現段階では不可能である。他者に対して、一体どこまでできるというのか。

おそらく、一生かかるのである。具体的な生活レベルにおいて、この次元の愛までは必要ないだろう。フロムの記す「技術としての愛」で十分である(とはいえ、それだってもの凄く難しい)。

しかし、目指しても良いと思う。少なくとも、私は目指しはしたい。

読み終わったのが日曜日早朝。しかし、今週月曜から土曜まで、私は「別のものになりたい」という欲望に支配されている。読んだ直後ぐらい、少しはその支配から逃れても良いものを。



関連する引用部分は以下の通り。

p.317
『汝の 欲する ことを なせ』
「それは、あなたさまが真に欲することをすべきだということです。あなたさまの真の意志を持てということです。これ以上にむずかしいことはありません。」

p.282
「自分が美しい」という状態に変わっている。その時、「かつてはでぶでエックス脚だったことをしだいに忘れていった」「自分が以前からずっと今のようだったと思い、まさにそのせいで美しくなりたいという望みはなくなった。すでに持っているものを望むわけはないのだから」。

p.289
「強くなりたいという望みがみたされてしまった」。

p.293
「疲労にも欠乏にもくじけない鉄の固さを持った意思が、バスチアンのうちに目覚めていた」「以前はなんにでもすぐにくじけてしまった自分のこと」「だがそんなことは、今では遠い昔のことになっていた」。

p.378
「ほかのものすべての輝かしい模範として仰がれ、『いい人』とか『偉大なる徳行の人』とか呼ばれて尊敬されたほうが、ずっとよかった。そうだ、それこそ望むところだったのだ」
そして、物語を話すことによって、「よく人から笑われた」ということを忘れた。

p.418
「みながこわがる存在! みなに怖れられ、用心される存在でありたかった」。「また一つ記憶が消えていった。自分の世界で子どもだったという記憶が」。

p.454
「賢いとはあらゆるものごとの上に立ち、人をも物をも憎んだり愛したりすることなく、また他人の拒絶も好意もまったく平静に受けとることを意味していた。まことに賢明であれば、心にかかるようなことはもはや何もないのだ。そしてそうなれば、もうだれの手も届かない存在、だれ一人なんの手出しもできない存在であるわけだ。そうだ、それこそ最高の望みだ」。そして、「自分がかつては学校へ通っていたという記憶の一切を失った」。

p.509
「町ぐるみ狂ったこの場所からぬけだすことだ! 二度とふたたびもどってこないように!」
「ねむっている間に、昔は物語をつくれたという記憶が、また消えていった」。

p.511、517
「仲間がほしい、グループに入れてもらいたい、主君とか勝利者とか、何か特別なものとしてではなく、仲間の一人であるというだけのこと、一番だめな、一番重要でないものでもかまわない、とにかくふつうに仲間の一員で、いっしょになんでもできるそういうものとして仲間に入れてもらいたいという望みだった」。「バスチアンは、この共同体にほんとうに受け入れてもらい、その一員になったことを実感した」「それと同時に、自分がいた世界…に、人間が、みなそれぞれ自分の思いを持ち考えを持った人間がいる、という記憶が消え去った」。

p.518
「けれどもバスチアンは、一人の個人でありたかった。ほかのみなと同じ一人ではなく、一人の何ものかでありたかった。バスチアンがバスチアンであるからこそ、愛してくれる、そういうふうに愛されたかった。イスカールナリの共同体には和合はあったが、愛はなかった。/バスチアンは、最も偉大なものとか、最も強いものとか、最も賢いものでありたいとは、もはや思わなかった。そういうことは、すべてもう卒業していた。今は、愛されたかった。しかも、善悪、美醜、賢愚そんなものとは関係なく、自分の欠点のすべてをひっくるめて——というより、むしろ、その欠点のゆえにこそ、あるがままに愛されたかった/しかし、あるがままの自分はどうだったのだろう?/バスチアンはもう忘れてしまっていた」。

p.531
アイゥオーラおばさま「ぼうやはそれまで、自分とはちがう、別のものになりたいといつも思ってきましたが、自分を変えようとは思わなかったからです」。

p.542
「おばさまがやさしく細やかに心をくばってくれることにも、みちたりたように感じはじめた。そして、そういうものを求めていた気持ちが鎮まるのと同じだけ、バスチアンの心には、まったく別の形の憧れが目覚め、大きくなっていった。それは、これまで一度も感じたことがなく、あらゆる点でこれまでの望みとはぜんぜんちがう欲求だった。自分も愛することができるようになりたい、という憧れだった。自分にはそれができなかったのだということに気がついたのだった。バスチアンは愕然とした。そして悲しかった。けれども、その望みはどんどん強くなっていった」。

「『とうとう最後の望みをみつけたのね。』おばさまはいった。『愛すること、それがあなたの真の意志なのよ。』」

「『アイゥオーラおばさま、』バスチアンも静かな調子でたずねた。『ぼくが最後の望みを見付けると何を忘れるのか、その時がきたら教えてあげるって、約束したでしょ。今、その時がきたの?』おばさまがうなずいた。『あなたは、お父さんとお母さんを忘れたのよ。今あなたには、自分の名前しか残っていないわ。』『お父さんとお母さん?』ゆっくりといってみた。けれどもそのことばは、バスチアンにはもうなんの意味もなくなっていた。もう何も思いだせなかった。」

p.558
妻に先立たれ、心を閉ざしてしまった父親の映像を見つける。その姿は、「完全に透きとおって見える氷の層に、四方八方がっちりと閉じこめられていた」。「雪の上においたその絵を眺めるうちに、バスチアンの中に、この見知らぬ男への思慕が目覚めた。それは、はるかかなたから押し寄せる海の大潮のように、始めはそれともわからないほどのかすかな波が、刻々と近づくにつれ、はげしく、大きく、ついには家ほどの高さの巨大な波となり、すべてを呑み、ひきさらってしまう、そういう気持ちだった。バスチアンは波に呑まれ、あえいだ。心がうずいた。大きくふくれあがった思慕をつつむには、バスチアンの胸はあまりにも小さかった。この大波に、まだ残っていた自分への記憶はすべてさらわれてしまった。こうしてバスチアンは、覚えていた最後のもの、自分の名前を忘れた」。

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