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ユングのタイプ論と羅針盤

『タイプ論』の中でユングは、「外向ー内向」「思考ー感情」「感覚ー直観」で分ける人間の“8つのタイプ”について論じている(簡単に知りたい場合には、河合隼雄著『ユング心理学入門』参照)。

「外向」は、心的なエネルギーを外的なリアルな物事に、リアルに用いる癖があるか。「内向」は、心的なエネルギーを内的なイメージなどに向けて行く癖があるか。つまり、「外向ー内向」は、“アウトプット”の癖である。

「思考」は、物事を判断する際、理屈によってとらえる癖があるかどうか。「感情」は、物事を判断する際、好きか嫌いか、心地よいか不快かなどによって判断する癖があるかどうか。つまり、「思考ー感情」は“処理”の癖である。

「感覚」は、物事をとらえる際、五感によって得られるリアルなものを基礎とする癖があるか。「直観」は、物事をとらえる際、見たものではなく、その奥に“可能性”をとらえ、いわば第六感的なものを中心にする癖があるか。つまり、「感覚ー直観」は“インプット”の癖である。

思考型、感情型、感覚型、直観型とまず大きく4つに分け、それぞれのサブタイプとして外向的思考型、内向的思考型、などとなる。4×2で8タイプ。もちろん、どんな人間にも思考・感情・感覚・直観は内在しており、心的エネルギーを外側に向ける「外向」的態度も、心的エネルギーを内的なイメージなどに向けるある種内省的な「内向」的態度も、どちらも持ち合わせている。だから、どれか“だけ”、を用いているということではない。ストレスがかかったり、うっかり気を抜いていると使ってしまう型、ということである。

私はおそらく強力な内向的思考型で、物事の“とらえ方”、それらから得られた“イメージ”について、理屈っぽく考えて行くタイプなのだろう。もちろん、“それだけ”を用いて生きているわけではない。外的なリアルな物事に関心をよせ、それらをリアルに物理的に操作することも、もちろん行う(買い物もするし、料理も作る。苦手だが書類だって書く。学会費の納入もする)。しかし、どのような型をメインにして生きているかと問われれば、やはり内向的思考型であろうと思う。しかも、ド内向である。心理学などをやっていて、カウンセラーなどという仕事にまで手を伸ばしているのだから、それはそうなのだろう。外向的に見える部分は、私が努力によって補った結果でしかない。

思考の真逆にあるものは、感情である。たとえば私の場合、理屈っぽく考えることは、ほぼ毎日、特に意識せずとも行っているため、それなりに繊細に、それなりに成熟して来ているのだろう。しかし、感情はほとんど使わない。思考は「主機能」で、感情は「劣等機能」(未分化な機能)と分類される。未分化であるということは、幼く、未熟である、ということだ。だから私の場合、普段は冷静であったりすることが多いのだろうが、怒り出すと“まるで小学生のように”なる。頑なまでに、かんしゃくを起こすような怒り方になってしまう。誰かに甘えるというときにも、普段とは打って変わった、“小学生のような”甘え方になる。それは、未分化な感情が暴走している状態である。

ユングは、これらの分類は、自らが生きて行く際の羅針盤として有効だった、という。「俺は内向的思考型だ。だから、ある意味“外向的な感情”は未分化だから、暴走しても仕方がない。周りのやつら、理解したか? 大目に見ろよ」と開き直って良いということではない。未熟な部分は、なんとかして成熟させた方が良い。今、自分がどちらを向いているのか、どこが手薄なのか、それを判断し、慎重に歩みを進めて行くために、羅針盤・コンパスが必要なのだ、ということだ。ちなみに私の場合には、いつも頼りとしてしまうのが「思考」(1位)、まぁまぁ使えているものが「感覚」(2位)、いまいち上手く使えないものが「直観」(3位)、最も手薄なものが「感情」(4位)という順である。

私の場合、最も未熟な「感情」に手をつけるためには、他の3つの機能からフル・サポートを受けなければならない。そうでなければ、暴走するだけである。第1位の「思考」のみで物事を切り抜けるのではなく、第2位の「感覚」を少しずつ研ぎすまして行く。それが使い物になって来たら、「思考」と「感覚」を補助として使いながら、第3位の「直観」を少しずつ磨いて行く。そしてようやく、第4位の「感情」に手をつけることができるようになる。それが、羅針盤としてタイプ論を用いるということなのだろう。一種のスケールである。ただしこれは、何年かかるかわからない作業である。死ぬまでに終えられれば御の字である。

航海に出る際、羅針盤は絶対に必要だ。その他、海図、天候に関する知識、食料に関する知識、そして身体的な鍛錬も必要である。ユングにとっての航海は、おそらく、集合的無意識側への航海であったのだろう。そして、人間としての(生命としての)成熟に向けての航海であったのだろう。その航海の記録は『RED BOOK』に記されているのであろうが、私はまだ読んでいない(邦訳版も出版されたのではあるが、数量限定であり、かつ高過ぎて私には買えなかった)。

しかし、『RED BOOK』に類するものは、おそらく存在する。先般より言及している、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』もそうであろうし、ゲーテの『ファウスト』もそうであろうし、そもそも、神話とはそういう性質を持ったものだったのだろう。神話とは、航海をする際の“海図”であり、“天候に関する知識”であり、“食料に関する知識”であったのだろうと私は思う。

ジョセフ・キャンベル(『神話の力』参照)によれば、神話は、その民族のスーパーエリートが紡ぎ出すものであった。そのエリートは、民族の未来に対し、命がけで責任を負っていた。覚悟を持っていた。迂闊なことは紡ぎ出せない。その海図を持って、迷わぬよう、民族全体を導かなければならない。それは、並大抵のことではない。

もちろん、今でいうエリートとは異なる。彼らはおそらく、シャーマン(巫女・巫覡)である。シャーマンとなるために必要な資質は、“あちら側”に接続できることである。“あちら側”というものも、呼び名はいくつも存在する。あの世、彼岸、神の国、異界、狂気、集合的無意識、内的世界、神話的世界、夢的世界。何にしても、今、目で見ている世界ではない、もう1つの世界のことを指している。そして、シャーマンとしての資質が発現するのはいわゆる思春期で、そのほとんどが統合失調症の急性期における症状と酷似している。それらの資質をあらわした者に激烈な訓練が施され、それを生き残った者がシャーマンとなる(ミルチア・エリアーデ著『シャーマニズム』参照)。これは東北のイタコ、沖縄のユタも同じである。いわば、海に出て死なないための激しい訓練を、かなりの短期間に行うということになる(生き残れなかった者は、おそらく、今でいうところの精神病者となったのだろう。しかし、隔離されるわけではなく、“勇敢に戦ったが破れてしまった者”として、手厚く保護されていた可能性は十分にあると思う。ただ、その証拠を私はまだ知らない)。

ユングの理論が統合失調症の研究から始まり、そこで集合的無意識というアイデアを得て、神話を凄まじい勢いで研究し、最終的に『元型論』にたどり着いたことには、おそらく重要な流れがある。統合失調症の人々が視る世界崩壊感・妄想・幻覚は、いわば生のままの、“あちら側”の情報である。それは、海図を持たず、知識がなく、身体的訓練をする機会もなく、海に放り出されてしまったものの叫びなのかもしれない。まとまりがなく、形にはなっていないかもしれないが、しかし、接続している先は同じである。

時代・文化・人種によらず、100人に1人、ほぼ必ず発症するという統合失調症。遺伝的な負因が極めて強い「遺伝子多型」であることは分かっているが、残念ながらそれだけでは説明ができていない。私は、その常に一定の発症率に関する理由として、“あちら側”の情報を、定期的・定量的に、“こちら側”に伝える必要があるからではないか、という気がする。そのためには、人口の1%、そのような“管” “通路”が確保される必要があるのではないか。そしてその1%の中から、“あちら側”を翻訳できる、シャーマンを排出する必要があったのではないか、という気がしてならない。現代において、そのシステムはほとんど消えてしまった。“エセ”シャーマンとして、私たちカウンセラーやその他モロモロが跋扈しているのが現状かもしれない。

『はてしない物語』の中で、ファンタージエンを蝕む「虚無」とは、一体何をあらわしているのか。エンデなら、“何かをあらわしている”という言い方は好まないのであろう。それは、「虚無」としか言いようがないもので、何かの喩えではないのだ、そのままのものだ、と言うのかもしれない。しかし、科学的思考に侵され、そのような言語でしか物事を理解できなくなった現代人である私にとって、さすがに“そのまま”では理解が及ばない。いずれ、そのままでも理解できる日が来るのかもしれないが、残念ながら、今ではない。まだ少し、翻訳が必要である。

私は、物質的で、刹那的で、肉体的なあり方を続けていると、「2つある」世界の片方である外的世界にしか目が向かず、もう1つの内的世界に接している部分は「虚無」に侵され、生命の中心部分が空っぽになってしまうのではないか、と感じている。私はその姿を、虚無そのものとなってしまった姿を、ドストエフスキー『罪と罰』における登場人物、スヴィドリガイロフに見ていた。

私の、4人いる師匠の内1人、K氏。そのまた師匠が、K氏にぼそっと言った言葉。

「K君、世界は2つあるんだよ」

若松英輔(『井筒俊彦』参照)によれば、井筒俊彦は言語を通路として“あちら側”を見、白川静は漢字を通路として“あちら側”を見たことになる。小林秀雄もまた、モーツァルトやドストエフスキーの奥に、“あちら側”を見たということに。2つある世界。それは、肉眼で見る世界のことではない。それを、頭ではない“何か”で理解するために、物語が必要なのだろう。

だんだん、『はてしない物語』が最高峰である理由が見えて来た気がする(んですよ、私の妻)。『はてしない物語』が、現代批判である『モモ』の後に執筆されていることには、おそらく重大な意味がある。

『はてしない物語』を再読する準備が整った。

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