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「えらそうなひと」

最近、息子(3歳)が良く口ずさむ歌がある。「ぐるっとまわっていっかいてん」という歌だ(ロシア民謡的なアレンジがなされている。一応、youtubeにアップされている)。これを、保育園に行く時に、息子はベビーカーで熱唱する。結構恥ずかしいが、私も一緒に歌わされる。

その歌詞の中に、

「えらいひとの はんたいは えらそうなひとー♪」

というものがある。大変興味深い。「えらそう」な人は、「えらい」わけではない。「えらそう」に振る舞うことでしか、そのように“鎧”をまとうことでしか、身を守ることができないということか。虚勢を張り、怖そうな服装をし、大声を出す者が実は弱いように、「えらそう」に見えるということは、先手を打って防御しなければ“もたない”、ということか。いや、「俺が俺が俺が!」という状態と権力が結びつくと、「えらそう」になるのかもしれない。うむ、そもそも「えらそう」とはどういう状態なのか、「えらい」とは何なのか…。ぐるぐると回る。

そして、井上雄彦の『バガボンド』を思い出した。沢庵和尚は、宮本武蔵に言う。

<武蔵… 優しくなった
 強くなっているんだな

 強い人は皆優しい>

(バガボンド25巻)

私はこれを読んだ時に、柳生石舟斎宗厳(やぎゅう せきしゅうさい むねよし)と宝蔵院胤栄(ほうぞういん いんえい)の師、上泉伊勢守秀綱(かみいずみ いせのかみ ひでつな)の話を思い出していた。若かった宗厳と胤栄は、当時天下無双、最強と言われていた50歳を超える上泉伊勢守に勝負を申し込む。しかし、上泉伊勢守は、穏やかに、柔らかく、しなやかに、相手の刀や槍をそっと奪う、無刀の兵法を用いる。宗厳と胤栄は仰天する。磨き上げて来た自らの力がまったく通用しない。

胤栄は回想して言う。

<技の研鑽は素晴らしい
 だが心の中は
 “我”
 それのみであると
 師は言われた>

(バガボンド7巻)

柳生石舟斎宗厳も回想して言う。

<「相手に勝ってやろう」
 「己の力を」
 「強さを」
 「存在を誇示したい」
 「俺を見ろ」とー

 師は言われた
  そんなことのために剣は
  ー武はあるのかね?

  我々が命と見立てた剣は
  そんな小さなものかね?

  我が剣は
  天地とひとつ

  故に
  剣は無くとも
  よいのです>

(バガボンド7巻)

授業でも何度か使っているネタだが、私は生き方に迷いが生じると、『バガボンド』を読み返す。引用した部分だって、何度読んだかわからない箇所のはずである。しかし、私は何も理解できていないのだろう。教壇に立っている時、私は「己の力を」「強さを」「存在を誇示したい」「俺を見ろ」と思っていないか。いないはずがない。むしろ、その“我”の力に飲まれていると言っても良いのだろう。そもそも、こんなことを、ここに書いている時点で、「俺を見ろ」である。ぐるぐると回る。

息子は歌う。「えらいひとの はんたいは えらそうなひとー♪」

邪気が無い分、本質に近いように感じる。今、息子にとって、すべては「天地とひとつ」なのかもしれない。しかし息子も、“我”に惑わされる日が来るのだろう。いずれ、必ず来るのだろう。そこをどう乗り越えるのだろうか。父親である私がまだ乗り越えていないのだから、まぁどうにも伝えようがないけれど。

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