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エンデのフィールド

ミヒャエル・エンデについて、少し考えていた。

ミヒャエル・エンデ著 田村都志夫訳 『エンデのメモ箱』 岩波現代文庫
pp.200-201「おとぎ話が語ること」より引用
<おとぎ話は外なる社会での世界について語るのではない。もしそこから要素を使うとすれば、それはあのもうひとつの現実のための隠喩としてだけだ。そのもうひとつの現実には魔女も竜もいるし、魔法の剣もあるし、これからもあり続ける。わたしが心理学的解釈を不十分とみなすのは、これらのことが通常ただ象徴としてのみ理解されているからだ。つまり、おとぎ話の情景は本来的でないとされ、ことの核心に迫るには、解釈を通じて、それを本来的なものへ、つまり、“具体的な”概念へ転換しなければならないと考えている。夢判断も同じような方法だ。(…中略…)/それでは、わたしたちにはもうおとぎ話がわからなくなったのだろうか?/いやそんなことはない。だれもが本来、このもうひとつの現実世界を体験できると思う。そこでは問いかけることができ、試練を体験できるのだ。もちろんそのためには、そこへ通じる道をさまざまな手段でふさいだりせず、その道があることを早い時期から知るのが大切だし、教わるのが条件だけれど。だが、それは現代文明が考える方向、その方向が変わることを意味する。いまはまだ、外にだけ向っているのだが。/いつの日か、まことに夢見ることを学ぶ学校がいくつもできるかもしれない。>

ミヒャエル・エンデの『果てしない物語』はあまりにも強烈で、私は、読むと1ヶ月ほど使いものにならないほど「あたってしまう」。ただ、これは映画『ネバーエンディングストーリー』の原作でもあり、児童文学でもあり、子どもが読んで大丈夫なものである。しかし私が読む時には、エンデが「統合失調症発病寸前まで、集合的無意識側に接続し、最深部まで潜り、しかも死ぬギリギリのところで何とか帰って来た記録」として読んでしまう。そのように読んだ際、私は〈エンデさん、ここまで行って、良く戻って来られましたね…〉と驚愕し、恐怖する。その深さまで、私は潜ることができない。そして、『果てしない物語』を読むと、それを疑似体験してしまう。そのため、私は1ヶ月ほど、使いものにならなくなってしまう。私にとって、それは尋常ではないエネルギー量である。ただし、使いものにならなくなった後、まるで「上手く風邪をひき、治った」時のように、何か、老廃物が排出されたような感覚が訪れる。そういうタイプの本がごく稀にあるように思う。

私の妻は児童文学マニアで、何だか知らないが、とんでもない量読んでいる。その中でも、『果てしない物語』は、最高峰なのだそうだ。私はそれほど沢山読んでいないので何とも言えないが、それでも、『果てしない物語』が凄まじいものであることはわかる。それだけはわかる。

そして、上に引用した文章を照らし合わせるならば、『果てしない物語』に出てくる情景は、エンデが「観た」ものである。

ちなみに、『ネバーエンディングストーリー』を見たエンデは、映画会社を訴えている。「私はそんなものを書いた覚えはない」と、相当な怒り様だったそうだ。結局、エンデは負けたのではなかったかと思う。『ネバーエンディングストーリー』自体は、私は嫌いではない。しかし、エンデが描こうとしていたものは、「ファンタジー」ではない。それは、「あちら側」に潜り、その情景を描写し、生きるか死ぬか、その瀬戸際で紡ぎ出した記録だった、ということなのだろう。私はそう思う。それは、怒るかもしれない。

ただ、私の知人に「『果てしない物語』、おもしろいよねー!私何回も読んじゃう!!」と軽く言ってのける人もいるし、そもそも児童文学であるので、誰が読んでも大丈夫なものである。そのあたりが、極めて重要なのだろう。誰が読んでも読むことはできる。しかし、読む人によっては、そこに何が書かれてあるのかがわかること。これ以上の暗号化はないと思われるが、ただ、エンデ自身は、それを暗号化した意識はなかったのではないかと思う。『エンデの遺言』の中で、伝わらないことのもどかしさを語っていた箇所が、確かあった。そのあたりは、以下の引用個所にもにじみ出ているように思う。

pp.44-50「愛読者への四十四の問い」より抜粋
<詩を“理解した”というとき、それはどのようなことなのでしょうか?
おおぜいの人が同じ本を読むとき、本当にみんな同じものを読むのでしょうか?>

おそらく、エンデにとって物語ることは、「詩」の性質があったのではないか。定義によるのだろうが、私は「詩とは、確かに言葉を用いてはいるが、それそのものではないものを表現するもの」ととらえている。人間の感情、ということでも良いのだろう。心でも良いのだろう。ただ、私にとって、最上級の「詩」は、「異界」「あちら側」が透けて見えるものであった。そういう意味で、私はドストエフスキーがとても好きである。ドストエフスキーを読むと、「あちら側」が見える気がする。もちろん、“理解した”などとはおいそれと言えないのであるが。

言語哲学者、井筒俊彦は、ドストエフスキーを「見霊者」と呼び、以下のように記している。

井筒俊彦 ロシア的人間 pp.214-215
<彼にあっては画面はいつも二重写しでぼけている。彼が描くペテルブルグの風景は常に幻影のような印象を与える。これはドストイェフスキーが、日常的人間生活の現実を平面的に描いているのではなくて、実は表面的な現実の向う側に存在するもう一つ別の世界を象徴的に描こうとしているからである。(…中略…)彼はいわばこの時間的秩序の向う側に、時間のない世界、時間的世界とは全く質を異にする世界、時間を超越した永遠の秩序を見ていた。(…中略…)時間的世界の次元には、全く時間を超えた全然別の秩序が刻々に侵入し浸透しつつあって、しかもそれがある偉大な終末を目指して現に着々と実現しているのである。彼が描こうとするのはその光景である。彼自身の基督教的信仰の言葉で言えば、「神の国」が現に、今ここに来たりつつある光景を描こうとするのだ。>

これは、エンデの文とも符合する。

前掲書pp.44-50「愛読者への四十四の問い」より抜粋
<トルストイが書くモスクワ、フォンターネが語るベルリン、モーパッサンが描くパリ、これらの都市は現実にあるのか、あるいはそもそもかつてあったのでしょうか?>

もしかしたら、エンデは、「いつの日か、まことに夢見ることを学ぶ学校がいくつもできるかもしれない」というまさにその“フィールド”を作りたかったのではないだろうか、と思うことがある。少なくとも、書物の上に。

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