スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「ごめんなさい」に付ける言い訳

「すみませんでした」と学生から謝られることは多い。レポートや書類の提出遅れ、報告忘れ、遅刻、無断欠席等々。それらがメールでなされることもある。

大抵、それらには理由が付されている。しかし、どうもその理由付けが下手であることが多い。

何故理由を付すのか。私が誰かに謝る際に理由をつけるとしたら、「……ということがあったので提出が遅れました。事情を察して下さい。ね。事情がわかれば『だったらしょうがないな』って思いますでしょ?」と伝達するためであろう。誰でも同じかはわからないが、似たようなものではないかとは推察する。

ならば、それは言い訳なのである。本格的にやむを得ない事情であるならば(被災した、入院していた、忌引であったなど)公式の書類が存在することが多い。それを提出すれば良い。言い訳が必要な場合というのは「公式ではない」場合である。やむを得ない事情もあるかもしれないが、本人のやりようによってはどうにでもなったタイプの場合が多い。

そういう行為に対して言い訳をするのであるから、かなりの説得力が必要になる。だから私は「まず、言い訳してみようぜ。俺を説得できれば良い。作り話でも構わない。俺が感動したらOKだ」と言うことがある。しかしそう言うと、今度は言い訳をする学生がいなくなってしまう。不思議なものである。言い訳など、極端な話、フィクションでも良いのであるが。

私が謝る場合の大半は、書類の提出遅れである(頻発する)。これは本当に失念していることばかりなので、「申し訳ありません! 失念しておりました!」と言うしかない。私の場合忙しいわけでもないので、大した言い訳が思いつかないのである。しかし書類を提出しなかったことによって、相手方の作業が増えていたり、滞りが発生することも多々あり、それに関して本格的に申し訳ないと思う。私の場合を考えても、学生が何かを提出することを忘れていた場合、私の作業量は何かしらの形で増える。私が書類を提出しなかったことによっても相手に同じことが起こっているわけであり、それを考えれば誠に申し訳なかったとしか言いようがない。

言い訳を付すのは「察してくれるだろう」という期待があるからなのだろう。ただ、作業が遅れたことによって相手方に被害が生まれていることを考えた方が良い。私が提出しそびれていた書類のおかげでイライラしている人がいる(先ほど4カ月前に提出しなければならなかった書類を提出したばかり)。思い出したらとにかく速攻で送るしかない。緊急を要する事務作業の場合は特に、言い訳を「読む」時間など、相手方としては必要ない。むしろ仕事が増えるだけである。わざわざ相手の仕事を増やさなくても良い。そんなことをするぐらいなら次にしくじらないように、次につなげなければならない(でも、私は本気で書類提出を忘却する)。

しかし「相手の気持ちを傷つけた」というタイプのものについてはどうなのだろうか。これも基本的には謝る方が良いわけであるが、確かに書類提出忘れとは状況が異なる。異なりはするが、言い訳を付ける場合、「自分にはこういう事情があったのだから仕方がないですよね。それ、察してくれますよね」というものになり、近似の状況になるのだろう(注)。

謝る行為も情報のやり取りである。コミュニケーションである。ならば、一方的ではいけない。この場合「言い訳」と称するか否かは難しいところではあるが、ある程度の情報提示はした方が良い。そうしなければ自分の状況を伝達することができない。つまり「話し合い」をした方が良い。

「話し合い」ということは、そこには何らかの「トレード」が必要である。特に謝るというコミュニケーションは感情(気持ち)が強くからんでいるので、相手の状況や気持ちも理解した上で、それを理解していることを伝達した上で、自らの都合を伝えなければならない。それをせず、自らの都合だけを言い訳として用い、相手に伝えようとするから失敗する。自分勝手になってしまう。「察して下さい」のみを前面に出すから相手の怒りに火に油を注ぐことになる。受け入れてもらおうという意図だけだから問題なのである。それは単なる押し付けになってしまう。そうではなくて、「あなたの状況を察しました。まだ伺ってはおりませんが、私が察した内容はこのようなものでした。その点について本当に謝ります。ただ、それを理解した上で、私の状況も説明させていただきます」という形式、これが最低限必要になる。

「言い訳が思いつかないから一切言い訳をしない」という割り切りもどうかと思う。ただ「相手のことを察する」ということを第一に考えれば、上手い言い訳、というより話し合いがもう少し円滑にできるかもしれない。

「察する」などというと「何を日本的なことを言っているか」と言われそうであるが、欧米人だって「察する」ものであろう。少なくともロジャーズはempathyについて延々と記している。「共感する」ことと「察する」ことには共通部分が多い。いずれも言語化されていない感情を受信することなのである。目に見えていない部分で何が動いていたのかを推測し、それがいかに困難なことであったのかに思いを馳せるのである。目に見えている、言葉になっていることだけしか見ない者を「野暮」と言う。

しかし、言い訳をエレガントに行うというのも、たとえ優雅であったとしても「低次」の話である。なにせ、言い訳なのであるから。

何かが行われるためには準備がいる。見えない部分で動いている人たちがいる。コインを入れたら完全に出来上がった料理が出てくるわけではない。仕込みがある。皿洗いがある。包丁を研いでおく準備がいる。そのために、一体どれだけの人が関わっているか。どれだけの準備が必要であるか。そこに思いを馳せることができない人間が「野暮」と呼ばれるのである。たとえ実行する人間が一人きりであったとしても、何かが行われるためにその人は準備をしている。周到な準備が行われているほど、それを享受する者は「まるでその場で、即興で行われたように見える」。つまり、準備がなされていたことなど感じさせない。準備が透けて見えるうちはまだまだである。準備を褒めて欲しいだけの青二才である。

一流はその準備を見せない。一流の料亭を考えてみれば良い。そこでの対応、庭の感じ、出された食事のクオリティ、すべてが周到に準備されているだろう。ただし、その準備はことさらアピールされていない。

しかし、まったく見えないほど完璧な準備を、さらに看過する心眼を持ってこそ本当の「粋」なのであろう。そしてそれは気がついても言葉に出してはいけない。秘めて、察し、その上で適切に応じる必要がある。そこまで行けば、阿吽の呼吸の本質に触れることもできるのだろう。背後の膨大な準備を互いに看取した上で行われることが阿吽の呼吸であろうと私は思う。

野暮なままで生きていたいと思うか。私は嫌だ。そして私はまったく修練が足りない。

注:事実と異なる「誤解」があるならば解いた方が良い。しかし、その場合は「話し合い」と呼ばれる。言い訳とは呼ばれない。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:ina
水曜の会用 文書置き場

カテゴリ
写真保管庫
最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。