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「武力」とダークサイド

朝8:00、新宿。総武線ホームの「黄色い線の外側」で、若い駅員が、30代サラリーマン風男性にぶつかる。男性は駅員に押される形で柱にぶつかる。男性は駅員を見るが、駅員は黙ったまま無表情で男性を見下ろす。駅員の方が男性よりも背が高かった。

見ていて「あれ?」と感じた。こういう場合、さすがに駅員が「あ、すみません」ぐらいは言った方が良いだろうと思った。

男性は怒った。

「おい、お前がぶつかって来たんだろ? 何とか言えよ」

駅員はムスッとして見下ろしたままである。男性はヒートアップして、最終的には、

「お前がぶつかって、俺がこうして怪我したんだよ! てめぇ、何とか言えよコラ!」

と怒鳴り始めてしまった。しかし駅員は、そしらぬフリを(頑張って)通し、ホームに入ってきた総武線に向かって旗を振り、指差し確認を始める。男性はその様子にさらにヒートアップし、怒鳴り続ける。

やがてもう一人年配の駅員がやって来て、男性に話しかける。年配の駅員は本当に申し訳なさそうな顔をして謝っている。男性は激昂したまま状況を説明している(今度は「怪我をさせられた」までは言っていなかった)。

私は電車に乗ってしまったので、その後どうなったかはわからない。

もしこれが駅員と客という区分ではなかったら違ったのであろうか。客同士だったらその男性はどのような反応をしたのであろうか。混雑したホームではなかったら、朝ではなかったらどうだったのだろうか。

私には、二人が元々イライラしていたように見えた。駅員は「こんな仕事につかされて、やりたくないことをさせられている」というような雰囲気を漂わせていた。男性は、まるで昨日「取引先で下げたくもない頭を何度も下げて、相手のご機嫌をとることに疲れている」ようにも見えた。もちろん、想像でしかないけれど。

駅員は、その男性を見下ろすことで鬱憤が晴れたのだろうか。男性は、大声で恫喝することで鬱憤が晴れたのだろうか。お互い、相手がプロレスラーのような人だったとしたら、同じことをしたのだろうか。

もし相手がプロレスラーだったら「そういうこと」をしないのであれば、何らかの「武力」を担保とした暴力だったということだろう。体格の差でも良い。駅員と客という立場の違いでも良い。何かしらの「パワー」の不均衡を担保としている行為であるようにも思われた。

駅員にぶつかられたのが私だったらどうしていただろう。私も、駅員に対して何かしら言葉を発するようにも思う。大声を出すことはなかったかもしれない。それでも私の身体は戦闘態勢に入ったのではないかと思う。動悸は激しくなり、手に汗をかき、口は渇き、体温は上がっただろう。それを抑えて(舌打ちぐらいはして)立ち去るにしても、後から駅員の見下ろす目つきを思い出し、悔しい気持ちになったのではないだろうか。

結局私の中には、その男性と同じような性質が眠っている。ただ、やり方が違うというだけである。

後から公開の文章で訴えたかもしれない。穏やかに「上」に話を持って行くかもしれない。しかし何かしらの方法で「戦おう」としていたのではないかと思う。

「駅員と仲良くなろうとする」ことではなく。

戦ったとして、駅員に「すみませんでした」と言わせたとしよう。「勝った」としよう。そこで私は何を求めるのだろうか。心の底から申し訳ないと思って涙を流して欲しいと思うのだろうか。駅員の給料が下がって、困ったことになって欲しいと願うだろうか。

私が誰かに謝るときのことを考えてみても、心の底から申し訳ないと思って涙を流すことなど「ない」。皆無とまでは言わないが、ほとんど皆無に等しい。なにせ私は多くの場合「自分は正しかった」と思っているのである。それを抑えて「むしろ、謝ってやっている」と思うだろう。ならば、駅員だって同じようなものではないだろうか。また、その駅員に今後指導が入るぐらいのことはあるかもしれないが、給料が下がって困ったことになるほどの罰は下らないだろう。

もし本当に、駅員が涙を流し、駅員に強力な罰が下ったとして、私の気持ちは晴れやかになるのだろうか。一時的にはなるかもしれない。しかし、長くは続かないのではないのではないか。

とすると「戦って勝つ」ことが、私の求めることではないことになる。では、私が望んでいることは何なのだろうか。

「相手から尊重され、敬意を払ってもらいたい」ということではなかったか。

「尊重」や「敬意」を得るために武力を用いることは、どうも効率が悪いようにも思う。いや、効率が悪いどころか、決して「尊重」「敬意」に到達しないようにも思う。核兵器で対外的に脅す国を「尊重」して「敬意」を払うかを考えてみたほうが良いのだろう。私だったら「尊重」もしたくないし「敬意」も払わない。内心で「バカだなぁ……」と蔑み、表面的には穏やかに「尊重」したフリをするだろう。もし周囲の人々が私と同じような感覚を持っているとするならば、武力を用いて威嚇することは相手から「バカだなぁ……」という蔑みを集める行為になってしまう。

ならば私が敬意を払う、尊重したくなる人はどのような人なのだろう。度量が広く、「自由にやりな。大丈夫、何かあったら俺がなんとかする。ただ、自分でできるだけはやってくれないと、さすがに俺は悲しいぜ」というような人に対してかもしれない。「そうか、みんな色々あるだろうな。人に八つ当たりするってのは見てても悲しいけど、でもまぁ、俺はなるべくそうしないように生きていたいって思うんだ」というような人かもしれない。

そういう風にできれば良いのだろうか。

部下や生徒、学生に対してはなんとかなるかもしれない。それは「仕事」だからである。金をもらっているから多少はできる。しかし、いわばプライベートな時間に、向こうからぶつかってきた駅員に対しても、私は、私が敬意を払うであろう人のような行動がとれるのだろうか。

相手がレイプ魔だったらどうするのか。相手が連続殺人鬼だったらどうするのか。

もちろん極端な話ではある。しかし、人間であるから許容範囲がある。とはいえ「不機嫌な駅員」ぐらいは許容範囲に入れられるくらいの余裕を持って生きていたいようにも思う。

ただ、思うことと実行できるかどうかは異なる。私は怒りっぽい人間であるし、何らかの形で復讐したくなる気持ちを抑えることが難しい。復讐など実行したことはないがしかし、もし「そういうこと」ができる「パワー」を身につけたら、私は気持ちを抑えることができるのだろうか。

できない気がする。

『AKIRA』の鉄男を見て、私は自分の性質を垣間見る。のび太の愚かさを見て、私は自分を重ねてしまう。超能力を持ってしまったらきっと、「どくさいスイッチ」を持ってしまったらきっと、私はすぐにでもダークサイドに落ちる。

いや、もう落ちているのかもしれない。自分ではわからない。

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