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「愛する行為」と「愛されるための行為」は背反するか

「誰かを愛する」ということと、「誰かに愛される」ということが背反するかのような印象を持っている人が多いようには感じる。つまり、エネルギーをどちらかにかけたら、どちらかが行えなくなる、という認識である。

しかし、そうではない。

私が「愛する」という場合、エーリッヒ・フロムの定義を援用している部分がある。フロムは、「あなたのことが必要だから愛する」という形式が「子ども」の愛であり、「あなたのことを愛しているから必要である」という形式が「成熟した」愛である、という。そして「愛は技術である」と。

それを踏まえた上で、私の定義を再度記す。

「誰かを愛するとは、その相手に“あばた”があるからエネルギーをかけない、という選択肢を排除すること」

私が用いる場合の「愛する」もまた、具体的な行為のことを指している。

さて、「愛されるために愛する」となるとどうなるか。これは「必要だから愛する」のパターンになることが理解できるだろうか。極端に言ってみれば、おっぱいが飲みたいから母親を大切にする、という話である。これが「子ども側から」の愛である。そして未成熟な愛の形式である。

母親側から授乳の現象を考えてみよう。母親はおっぱいを「与えている」。具体的に「愛する行為」を行っている。それは子どもから「愛される」ためであろうか。そうではない。子どもに対して具体的におっぱいを与えるという「行為を行うため」に、子どものことが必要なのである。即物的な例なので身も蓋もないが、行為が成立するためには対象が必要になる。これが、成熟した愛の形式の雛形である。

その結果、どうなるか。子どもは母親を必要とする。必要だから母親を愛する。外部から見れば、「子どもは母親を愛している」。もっと単純に言えば、「子どもは母親のことが好きである」。

結論だけを眺めれば、母親が子どもを愛し、子どもがそれに応えて母親を愛するようになった、ということになる。

最終的には、与えることによって「愛される」ことが成立しているのがわかるだろうか。

難しいのは、「愛されるために、愛する」という意識でいると、この形式に届かないことである。行為が「愛されるための道具」として用いられるとき、押し付けがましさが出る。「ほら、私のことを愛しなさいよ!」という強制力が働く。そして、そのタイプの行為は持続しない。与えたからといって好いてくれるわけではないし、むしろ嫌われることもあるだろう。反抗期の息子などが相手であれば、ほぼすべての行為は反発される。「ほら、私のことを愛しなさいよ!」系の行為は、見返りがないと頓挫する。あっという間に。

しかし、再度授乳の例に戻れば、「そのまま放っておいたら乳が張ってしまうし、かといって捨てるのも何だから、それなら赤ちゃんに飲んでもらえば良いか。それで子どもの身体が成長するなら一石二鳥だ」ぐらいの感覚であれば、拒否されようが嫌がられようが、そこまで大きな問題とはならない。そして、そのぐらいの寛容さがある行為に対して、人は好感を持つことも多いだろう。

ということは、本質的に与える行為を継続して行っている場合には、「愛される」ことが返報される確率は高くなる。

あるいはこういうことを考えてみよう。誰かに与えるために自分は我慢しなければならない、身をやつさなければならない、と思っている男がいたとする。彼女に尽くしまくるその男が、自分の服装はみすぼらしく、散髪に行く金もけちってプレゼントを買い、食事もカップラーメンで済ませて彼女にはフランス料理を振る舞う。「尽くしている」と見えなくもないが、実際のところ、そんなみすぼらしい男と付き合っていたいものであろうか。不潔で押し付けがましい男だと思われて終わるだけではなかろうか。

そうではなくて、相手の女性から「気に入られる」、言い方を変えれば「愛されるため」の身奇麗さを整えておくことは、彼女のことを「もてなす」ことにもつながっている。この場合、「愛する行為」の中に、一つの道具として「愛されるための行為」が含まれている。図で描けばこういうことになる。

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つまり、「相手をもてなす」ということが極めて重要になってくる。人によっては、そのもてなし方に得手不得手がある。言葉巧みに相手の長所を伝えまくることができるタイプの人もいれば、言語的には不器用な人もいる。部屋を清潔に保つことが得意な人も下手な人もいる。人間であるので、得意不得意はある。当たり前だ。しかし、少なくとも得意な分野(自分の中で、他よりマシな分野)では、相手に対して「もてなす」行為を「継続する」必要がある。その訓練をしておかなければ、子どもを育むことなど、おそらく極めて困難なのである。虐待を行いやすい親を見れば、このあたりが非常に手薄であったことが良くわかるだろう。いくら「子どものことが本当はかわいいのです」などと口で言っていたとしても、具体的な行為を継続して与え続けるという訓練がなされていないから、散発的な、気分屋的な行為で終わってしまう。そして、「こんなにやってやってるのに!」という思いのもと、反撃として暴力を行うこともあるだろう。もちろん、虐待の原因はそれだけではなかろうけれど。

若い時分は「誰かから愛されること」にエネルギーを割くのは致し方がない部分がある。それが「若さ」そのものの定義でもある。ただ、何歳までが「若い」のかどうかは難しい。ある時点で「愛されるための行為」だけに注力する段階から、「誰かを愛する」段階に移行しなければならない。

勉強をして行く過程のことをエスカレーターの比喩で表現する人もいるが、これもおそらく同じである。下りエスカレーターを頑張って登ろうとしてみる。一生懸命登っているのに一向に外の景色が変わらない。こんなに頑張っているのにどうして進まないのか。しかし、進んでいるのである。登っているのである。エスカレーターは終わる。次の階に到着する。ある瞬間を迎えたとき、「あぁ、こういうことだったのか」と極めて単純なことに気が付き、2階に到着している。あれほど登ることが困難であったのに、2階を歩きまわることができる。この、「急に楽になる」という地点まで踏ん張ったことがない人は、愛する行為であろうが、10キロ走ることであろうが、試験勉強であろうが、挫折する。頓挫する。継続しない。そういう意味で、意味がないと思われるような「お勉強」や「習い事」を我慢して続けることは有効である。そこで、ある種の踏ん張り力がつく。それは趣味であっても同じである。たとえミニ四駆やカメラであっても。

ただし、エスカレーターが2階で終わりではない、という部分がまた難しいところではある。3階、4階…。延々と続き、終わりはない。その都度、エスカレーターを逆に登っていかなければならない。階によっては、エスカレーターの速度も異なる。

しかし、「登り方のコツ」自体は同じである。だから、「何か」をやり遂げることができた人というのは強い。やり遂げるというのは、何も世界的なレギュレーションを突破できたかどうかに限らない。1年かけてレタスを育てた、ということでも良い。8000ピースのパズルでも良い。得意なことを努力せずにやっていたら褒められて愛されました、で終わっていなければ良い。生まれ持ったポテンシャルが高かったから、他の人よりもハイレベルな地点でまとまることができた、というだけの人には、残念ながら踏ん張り力はない。才能にあふれていたのかもしれないが、枯れるのが速いと感じられるような人は、たいてい「踏ん張り力がない」タイプの人であったと思えまいか。

しかし、生きている中で、何も踏ん張らなかったはずがないのである。それを思い出さなければならない。他者を、そして自らをもてなすために。

「相手をもてなす心意気」のことを私が何と呼んでいるか。

色気である。

はい。毎度のことですけど。継続性ないですからね、私。頑張ります。でも、エスカレーターで2階ぐらいまでは来たんじゃないかなぁ…。スカイツリーぐらいの高さの中で。

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