スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「人間関係に困難を感じる人がまずしなければならないこと」についての試論

ある本を読んでいると、その本を紹介した人のことが頭をよぎる。その人がどのように読んだのか、この本のどこに線を引いたのか、どのように理解したのか、どこを飛ばしてしまったのか、どこを誤解したのか、そういったことを考えながら読んでしまうような本がある。

もし、大変不快なタイプの授業を行う大学教員がドストエフスキーを紹介したとする。『カラマーゾフの兄弟』ぐらい読んでいなければ人として認めないとかなんとか、上から目線の言葉で紹介したとする。『カラマーゾフの兄弟』だけではなく、ドストエフスキーが書いたものであればどれを読んだとしてもその教員が浮かんでしまうことはあるだろう。これは大変読みにくい。

しかし、とても惚れたような人がドストエフスキーを薦めたとする。むしろ、その人と同一化したいような人がその本を読んでいたとする。これなら良いのかというとそうとも言えない。読んでいて没頭はできるかもしれないが、ドストエフスキーが描いている世界に入っているのかどうかは疑わしいものとなってしまう。

ある曲を聞くと、その曲を好きだった人のことを思い出す。思い出す内容がプラスの関係性であれば良いが、非常に不快な人のことを毎回思い出し、その人との不快な出来事が毎回呼び起こされる。しかも記憶力が良ければ、その組み合わせがどんどん増える。いわば「トラウマ」のようなものがそこら中にはびこり、いたるところで「フラッシュバック」が起こることになる。そういう記憶の性質を持つ人が実際にいるが、これは大変である。ただ、こういう人の場合は実際の人との関係に重点が置かれ過ぎており、作品自体が軽視されていることはとても多い。そして、質の高い作品に「ちゃんと」接していない。それまでも質の高いものに触れてはいるものの、人との関係性が過剰に注目されているために、紹介した人のことばかりが浮かんでいるからではある。作品はあくまで紹介した人との媒介物でしかなくなっている。

音楽でも絵画でも映画でも何であっても、それに言及する人がいて、言及した人の姿が浮かびながら読んだり聞いたりすることはある(注1)。しかし読書に限っていうのであれば、既にある程度様々な「良書」にあたっている場合、たとえ誰が言及していようとも、「あの人は多分、このあたりを理解できていないのだろうな」「おぉ、今まで見くびっていたけれど、これを良いと思えるのであれば見込みがありそうだ」など、かなり穏当にどのような本でも読めるようになるらしい。「薦めた人の影響」から距離が取れるようになっている。

おそらく映画でも音楽でも同じで、誰がどう薦めようが自らの内に確固とした座標がある場合、誰が紹介したのかという部分は無視することができる(注2)。高い品質のものを大量に摂取しておくことは、質の低いものを選別する際の座標を獲得することにつながる。逆に、質の低いものを大量に摂取している場合には、その座標は不完全なものにしかならない。高品質なものにきちんと触れている人は、それよりも低い質のものを見分けることができる。低い品質のものにしか触れていない者は、それより上位のものは区別がつかない。ここは極めて大きな問題である。

食事で考えればわかる。美しい海岸でそのへんに落ちているウニを割って海水で少し洗って食べるようなことをしていた人間は、スーパーで売っているミョウバンで固めたウニは別のものの(下位の)味がするのだろう。味覚的にうまいとかまずいという問題ではなく、それが身体に染みるものか毒なのかを判断できる、ともいえるだろうか。

同じベートーベンであったとしても、凄まじく良質な演奏者が弾いたピアノ協奏曲を知っている者にとって、その他の演奏の質を判別することは容易いのだろう。低質なものしか聴いたことがなければ、それより上質なものは単に「すっごい上手」としか映らないだろう(注3)。

ということは、人との関係性に重点が置かれ過ぎている状態から距離を取るために必要なことは、人間関係に没頭することではない。そうではなくて、良質な本・映画・絵画・音楽などの作品になるべく多く触れることが肝要である、ということになる。逆説的ではあるが、良く考えれば、何らかの作品が媒介とならない人間関係など皆無と言っても良い。ならば、媒介となる作品についての感性を磨いておくことが重要になるということは、そう誤った観点ではないように思う。

人間関係が上手く行かない人が、無理をして人間関係を多数結んで頑張ろうとする。それはたいてい上手く行かない。ならば引きこもればよいかというと、引きこもっている際には自分にとって「都合の良い」ものにしか触れないことが多い(注4)。これでは質の高いものに触れることは困難になる。結果的に、ぬるま湯の中に浸かるだけの無為な引きこもりになってしまう。ということで、人間関係が上手く行かない人の場合は、きちんと引きこもって他者との関係がむやみに入り込まない状態を作り出した上で、質の高い作品になるべく大量に接することで、他者との距離を取る準備状態を作り出すことが必要である。そういうことになる。

これは不登校の対応をしていても、うつ病の対応をしていても、おおよそ同じような道筋を見ることが多い。問題は、(外的な世界に出てはいるが精神的に引きこもっている、という状態も含めて)引きこもっている際にどのように過ごすのか、なのである。質の高い作品は内的に成長させる、などと言う。それは確かにある。しかしこの場合「質の高低を見定める定点が出来上がっていない」ことが重大な問題なのである。それが人間関係の不安定さにまで波及している。

どんなものでも良いが、まずなるべく少数のジャンルで高品質なものに触れる必要があるのだろう。最初から多数のジャンルに手を出すことは控えた方がよいかもしれないが、最終的にはある程度様々なジャンルのものに触れる必要が出てくるとは思う。古すぎるものは判断ができなくなるきらいはあるが、それでも「長い年月生き延びた」という点には敬意を表した方が良い。漫画であれば手塚治虫、アニメであれば『AKIRA』や『風の谷のナウシカ』など、比較的新しいタイプのジャンルであっても、ある程度古典的位置を示したものには一応触れておいた方が基点ができるだろうと思う。ゲームであれば『スーパーマリオブラザーズ』や『ゼルダの伝説 時のオカリナ』、音楽であればモオツァルトやバッハ、マイルス・デイヴィスやピアソラ。小説であれば夏目漱石や森鴎外、哲学であればプラトンやアリストテレス。多分そういうことなのだろう。だから「教科書的」というものは馬鹿にはできないのである。本来教育における教科書はそういう「基点を作る」ために制作されている(はずである)。しかし、それを伝える教師の伝え方がまずいと、教科書に載っているものは「避ける対象」にしかならなくなる。それだけは避けなければならない(しかし、たいていそうなっている)。だから、小中高の「授業」はとても大切なのである。私はそう思っている。

作品の質をある程度見極めることができるようになると、人を観る目も養われる。多分そういうことだと思う。その人が好むものの羅列を見れば、その人の性質が透ける。理解の仕方を聞けば、内面が視える。「本棚を見ればその人がわかる」というのは、本に限ったことではない。音楽でも絵画でも映画でも、何でも同じである。それらの基準を持っていれば、人を判断する大きな基点ができる。

えぇと…。良質なものに触れなければなりませんね…。そして、ちゃんと理解しようと、感じ取ろうと、努力をしなければなりません…。頑張ります。

注1:私が授業で扱う「リアクタンス理論」というのは、単純に言ってしまえば「強力にものごとを勧められると、むしろそれをやらなくなる」という心理的反発が起こる、という理論である。これを元に考えると、誰が言おうがその言い方・伝え方が問題となってくることになる。それは事実であるとしても、これは限定された側面についての理論であり、当然「誰が薦めたのか」が最大の問題になる。それが実感ではあろう。

注2:座標が固定されすぎていると、今度は判断が頑なになってしまう。この座標は開かれていなければならない。常に「仮」のものであり、いつでも変更する準備がある、という姿勢でなければ、一言居士のようになってしまう。このあたりの配分は大変むずかしい。

注3:たとえば読書を今後の楽しみとするのであれば、あまりに高品質なものに触れてしまうとその他のものがカスに感じられ、楽しみが続かなくなる可能性がある。しかし、本を生きる糧として読むつもりであるならば、まず高品質なものに触れてしまい、あとはそれを基準として、それより質に劣ると感じられるものについてはその質に応じて流し読みしてしまえば良い。本当に重要な本であれば、数十回読んでも良いだろう。そこまで重大な本であれば、どうせ何度読んでも理解できないのである。映画や音楽の場合には「流し観」「流し聞き」が難しいところではあるが、それでも何でもかでも聞く・見るよりは事前に選択が入る。

注4:自虐的に被虐的に、鬱屈した状態を維持しようとする場合にも「自分に都合の良い」ものにしか触れていない、といえるのだろうか。実は「そう」なのである。自虐性というものはある種の快感を伴う「嗜癖」である。アルコール依存や薬物依存と構造的には酷似している。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ina

Author:ina
水曜の会用 文書置き場

カテゴリ
写真保管庫
最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。