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継続して掘り進む「勇気」について

理論は言語のようなものなのである。同じ出来事についてであったとしても、理論によって分節が異なり、見え方が変わる。逆に言えば、言語は理論のようなものである。

恋愛的な出来事を「男の理論」から見るときと、「女の理論」から見るときでは、分節する区分やセクションが異なるため、見え方も、結論も変わりはする。しかし出来事自体は一つではある。また、最終的に行為をなす者も「その人」でしかない。だから、理論による結論が異なっていたとしても、アウトプット自体は変わらない可能性はある。もちろん、理論自体が杜撰だと、奥まで到達できずに、皮相的で浅薄な行為が導き出されてしまうだろう。ただ、最終的な行為まで行き着く道筋自体は異なっていたとしても、行為自体はそれほど変わらなくなる。そういうことはあり得る。

たとえば、キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラームの「最深部」に到達した者のことを考えてみる。それぞれ道筋は相当異なっていたとしても、「人を殺めることなく、他者を慈しみ、暖かさと厳しさを同時に持ち、厳粛に生きる」というアウトプット自体はそれほど違いがないだろう。

日本語で考えたら到達できず、英語なら最深部に到達できる、というのはあまりにも短絡的である。そんなはずはない。科学でしかわからず、「非科学」は無価値だと断じてしまうこともまた。

ただし、それぞれの理論は、入り口付近では「道筋がはっきり」しており、「答えがある」ように見えることに注意しなければならない。どんな道を通ろうとも、掘り進むほどに複雑さを増し、「こうすれば正解」というものが霧消する。

多くの人は、それを恐れる。恐れるから、表層的で、答えがはっきりしているように見えるものにすがりたくなる。そこから「逃げる」。つまり、「続けられなくなる」。

バスケットボールだって、初心者から少しだけ進んだ段階では、「ある特定の型」に従えば(その「答え」に従えば)、シュートが入るようにはなる。野球も、短距離走も、水泳も同じであろう。

しかし、あるラインを越える際、いきなり「答え」がなくなる。

字の書き方だって、歌だって、踊りだって、楽器だって、おそらく何だって同じである。写真も、ミニ四駆も、ガンダムのプラモデルでさえも、同じである。当然、哲学も、宗教も、心理学も。

様々なことをちょっと触ってやめる(注)ことは、「複雑さに到達していない」「複雑さに堪えることができていない」ことが現れているのかもしれない。

男女関係が続かないことも、友人関係が続かないことも、仕事が続かないことも、皆同じである。

人と接していれば、徐々に複雑なものが見えてくる。見えて来ないはずがない。それが「当初の思い通り」ではないことに嫌気がさし、エネルギーを向ける先を変えてしまう。新しい、「答えがはっきりしている」ように見えるものに向かってしまう。

恋人と深い関係になる前に、次の相手に移る。友人とも続かない。仕事も、趣味も、どれも「表層」で終わる。複雑なところまで行かず、ちょっと頑張ればコツがつかめて、初心者状態からちょっとだけ進めて、かりそめの「成功体験」を得る。それを、コレクションして終わる。

永遠の少年・永遠の少女とは、そういう状態を指す。可能性を捨てることができない、それゆえに、何も選び取ることができない。受け取るだけの立場。

とどまることである。せめて、続けることである。三日坊主でも良い。しかし、三日坊主を止めないことである。全体の中にある種の巨大なルーチンを見、いずれ、元いた場所に戻ることである。そこから離れるとしても、「戻るために離れる」ことである。

複雑さを抱えるために。

「深い」とは、「単純ではない」ということである。つまり、複雑であることと同義である。

男女でも友人でも仕事でも趣味でも、「合っていない」ものを選んではいけない。「合っていない」ものでは続かない。しかし、合うか合わないかは、やってみなければわからず、はじめてみなければわからないという部分がある。

スタートの時点から複雑なのである。

複雑さを抱える、という最終的な目標点のようなものが見えていなければ、ただ嫌なことを堪えて続けるという、よくわからない「我慢比べ」のようになってしまう。「我慢比べ」では結局、複雑さを抱えるところには到達できない。馬鹿の一つ覚えにしかならない。

さらに、「合うのか合わないのか」は、自らを深く知らなければ見つけることができない。たまたま相性が良いものに出会ったというだけではやはり、複雑さを抱えるところまで到達できない。しかし、何かを続けなければ、自らを知ることもできない。

すべて、背反する。答えはないのである。その、スタート時点の複雑さを抱えることができる者のみ、その先に進むことができる。

自戒の念を込めて。

注:もちろん、この「ちょっと」というのは、大きな壁が現れる個所が、人の生まれ持った資質によっても変わるため、一概には言えない。たとえば、身体能力が非常に高い者にとって、100メートル走で13秒を切ることは、特に壁とは感じられないだろう。

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