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感謝できる能力と度量

他者に感謝できるかどうかでその人のキャパシティは相当な部分が決定している。度量と言っても良いが、これはどうも本当らしい。私は、なるべく感謝しようと努力をしているものの、うっかり抜けることが多い。感謝してしかるべき部分に、気持ちが向いていないときがある。これは、私のキャパシティが小さいことを示している。

周囲を見ていても、誰かに対して、あるいは環境に対して、感謝できる人というのはかなりキャパシティがある。余裕がある。ならば、キャパシティは生まれ持ったものか。ある程度はそうかもしれない。しかし、感謝できるかどうかという点をバロメーターとして、できるだけ感謝できるよう訓練をしてみるのは手であると思う。

感謝をするためには、「自分の方が優位である」という意識をおさえなければならない。まずこれが大きな障壁となる。自分の方が優位であるという観念が強いと、「一緒にいてやってるんだから、感謝しろ」となる。この場合、感謝するのではなく、「感謝されないこと」に対して腹を立てることになる。しかし、常に他者から感謝を得ようとしている人間が、誰かから感謝される図というものが想像できるだろうか。極めて困難ではないか。かといって、誰かから感謝されたいから、先手を打って感謝しておく、という状態では、結局押し付けがましいだけになる。

感謝をする、というのは、相当難しい技術なのである。

強い自己卑下の元に行う疑似感謝も、極端に頭を下げるという逆ベクトルのエネルギーによって、自分の内部に潜む「反撃を行うエネルギー」を抑え込んでいるだけでもあり、これもひとひねりされた「自分の方が優位である」観念でもある。

結局、多くの人は「自分の方が優位である」と思っている。これを基準で考えた方が良い。自分のことを適切に評価できる人間など、孔子レベルである。「自分の方が優位である」という観念が湧き、他者を見下した時点で、自分が「一般人」であり、「普通」であることを身にしみて感じた方が良い。

一緒にいてくれてありがとう、話を聞いてくれてありがとう、場所を提供してくれてありがとう、お金を払ってくれてありがとう、声をかけてくれてありがとう、お土産を買って来てくれてありがとう、協力してくれてありがとう、悪口を言わないでいてくれてありがとう、非難ではなく成長を促す言葉をかけてくれてありがとう、我慢してくれてありがとう、教えてくれてありがとう、叱ってくれてありがとう、傷つけないでいてくれてありがとう、尊重してくれてありがとう、生まれて来てくれてありがとう。

感謝されるための布石ではなく、純粋に、上記の内容をそのままで表出することがいかに困難か。しかし、それが「誰かを愛する」ための基礎体力なのである。それが、見返りを脇に置いて行為する基本的な部分なのである。愛するとは具体的な行為であるため、上述の感謝だけでは愛することにはならない。しかし、その基本構造は同様である。

見返りなど、欲しいに決まっているではないか。見返りが欲しくない、一切気にしないなどという人間を信用してはいけない。それは詐欺師か馬鹿である。『葉隠』によれば、聖(ひじり)の語源は「非知り」であるという。とすると、たとえば「私自身の中で、見返りをまったく気にしない、という状態を、私は知らない」ということを認識できている人間が「非知り」であるともいえるではないか。ならば、見返りが欲しいが、その気持ちを一旦脇に置いておける智力がある人間を聖といっても良いように思う。

もちろん、「非知り」である状態だけでは前に進めない。そこから具体的に行為を発動しなければならない。しかし、まず「感謝の念」が湧くように、修行をしても良いではないか。

そのために、「私は、結果的には〜という見返りは欲しい。それは認める。でも、やっぱり、これはとても有り難いことだし、本当にうれしかった。だから、声を大きくして言おう。ありがとう」という意識を育んでも良いような気はする。

さて…。道のりが遠い。

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