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恋愛にスリルを求める人

恋愛にスリルを求める人とは一体何であるか。

スリリングな恋愛と言った場合に、第一に危険な状態が想起される。しかし、その危険とはどの程度のものであるか。たとえば、いくらスリルを求める人とはいえ、シリアルキラー(連続殺人鬼)とぜひ付き合いたいと言う人はほぼ皆無であろう。つまり、求めているものはせいぜいジェットコースターや、極端な場合でもパラシュート有りのスカイダイビング程度ということになる。シリアルキラーとぜひ付き合いたいというのは、基本的にはパラシュートを付けずに飛び降りたい、ということと等しい。

多くの場合、不倫、浮気など、ある種のルールによって定められている範囲を超える恋愛をしたい人々がこれに当たることが多い。場合によっては「危険な香り」などと言って、不法行為を行っている「アウトロー」な者と付き合いたい、そういう人を求めるという場合がある。しかし、基本的にその場合でも、どこかでリカバリーが利く、修正が可能であるという漠然とした「甘い」考えがあることが多い。実際には本格的に取り返しが付かないことも多いのであるが、それは実際に取り返しがつかなくなってから「甘かった」という認識を得ることになる。フィロバティズム(怖いもの知らず)の場合は、このリスクを低く見積もる、あるいは「自分は大丈夫!」という謎の自信によって派手に動くことになる。

リスクを高く見積もり過ぎて、まったく動かない状態がオクノフィリア(引っ込み思案)である。引っ込んで、「安全基地」に残っていようとする。しかしこれもまた、安全基地を過剰に高く評価している状態でもある。比較的安全ではあるかもしれないが、本当に安全なのであろうか。内田樹がいうように、リスクではなく「デンジャー」が訪れた際、そこは安全でもなんでもなくなる。避難所は「比較的」安全かもしれないが、そこにゴジラがやって来れば、当然安全ではなくなる。

どちらにしても、安全という点に関して思い違いをしていることはわかる。フィロバティズム(怖いもの知らず)の場合には、空や地面、空気や木々、岩や崖などが自身と融合してしまっている。まるで、母子が一体になっている乳幼児のように。世界と自分は相互に浸透し、ぐちゃっと一体となっている。オクノフィリア(引っ込み思案)の場合にも、怖いことがあったら抱きつく「母親」的安全基地を過剰に評価している。やはり、母子一体の乳幼児のようである。

バリントは、溺れた人を例としてあげている。もし溺れたとして、「いやぁ、オレっちは全然平気!」と言っているフィロバティズム(怖いもの知らず)的人間は、川の流れも体力も水の冷たさも甘く見すぎている。おそらく溺れるだろう。かといって、ワラにつかまってなんとかやり過ごそうとするオクノフィリア(引っ込み思案)的人間も、つかまっているのはただのワラなのであって、溺れている状態から救われることはない。やはり溺れるだろう。そうではなく、泳ぐ能力をある程度身につけておくという準備があり、自身の体力を正確に把握し、適切に環境を観察して把握し、それらを通して近くの岸になんとか泳いで行き、陸に上がるという具体的方略を冷静に採る必要がある。それがreality testing、つまり「現実検討」である。フィロバティズム(怖いもの知らず)も、オクノフィリア(引っ込み思案)も、「現実検討」ができていない。ある種のフィルター越しに世界を見ていることになる。そのフィルターは、危機が訪れた際、大変脆い。ある場面では有効に働いていたとしても、である。

もちろん、恋愛にスリルを求めるという場合に、実際に存在する「ルールを破る」危険が必要なわけではない。「何が起こるかわからない」というスリルも存在する。次にこのタイプについて考えてみよう。

たとえば対人距離といった場合、物理的な距離と、精神的な距離の2種類に分けて考えることは有用である。当然、物理的な距離と精神的な距離は連動している。密着して歩く男女は恋人同士と考えてまず間違いないであろうし、「半径10メートル以内に近づけたくない」という相手とは精神的にも離れている相手だと考えておよそ間違ってはいないだろう。ただ、まったく同じではないことは留意しておく必要がある。文化によっても異なる。

「相手が入ってきても良い距離」というのは、日本的に言えば「間合い」である。これ以上入ってきたら斬るぞ、という距離のことである。当然現代日本で帯刀している者はいないので、斬ることはないが、相手の間合いに意識的に入り込み、取り入ることができる人間を「甘え上手」と呼ぶ。「甘え上手」な人は、相手が嫌がらないギリギリのラインを瞬時にとらえ、その間合いに入り込む。また、入り込んだ後、嫌がられない範囲を拡大していく。元来、相手が「間合いに入れても良い」と感じられるような風貌を意識しているし、コーディネートしていることが多い。それは見た目・服装・言葉遣いなど、表面的なものから始まり、相手の「思い通り」であるように振る舞う技術を携えている。甘え上手とは生まれつきだけではない。それは、生まれつきの感度の良さを土台として、学習と修練によって身につけた特殊専門技術である。

逆に「甘え下手」とは、(1)間合いの取り過ぎ、(2)間合いに入りすぎ、という傾向を強く持つ。ここには土台として「甘えたい」というものがなければ話が進まないのであるが、甘えたいにも関わらず間合いを取り過ぎている状態とはどういうことか。つまり、遠慮しているわけであるが、その遠慮している心境を読んでもらい、相手から近づいて来てもらって、甘やかして欲しい、ということになる。しかし当然、間合いをとっていたとしても強烈に魅力的でなければ、相手は近づいてはくれない。面倒くさいからである。結果的に、求める「甘える状態」が訪れる可能性は低くなる。逆に、相手のことを大して考えず、性的魅力だけで突進してくるような不躾な輩が多数押し寄せてくる可能性も否定出来ない。

次に、甘えたいからといって間合いに入り過ぎるとどうなるか。「鬱陶しがられて嫌われる」。これは、「甘え上手」の人々が行う「どのくらい入ると嫌がられるか」を看取するセンサーを発達させていないことに由来することも多い。また、相手が間合いに入れても良いと感じるような見た目などのコーディネートがおろそかになっていることも多い。あるいは、知識だけで動く「野暮な人」も、このパターンに入り込みやすい。

この(1)(2)の混合のようなパターンとして、間合いに入り込む際に使用する技術選択の誤りというパターンも存在する。つまり、適切に「頼む」ことが必要な状態で、「食ってかかる」行動を選択する人は、基本的に鬱陶しがられる。やはり、嫌われる。これは、間合いに入りすぎて、かつ間合いをとる際に使用する行動(ヒット・アンド・アウェイ)をいきなり使用することによっている。食ってかかることが効力を発揮するためには、相互にかなり強固な関係が成立しており、いわば「ヒット・アンド・アウェイごっこ」として遊べなければならない。まだ関係が成立していない男性の前で「…嫌いよ…」とつぶやいたところで、相手としても「あぁそうか。俺のこと嫌いなんだな」で終わってしまうのである。そこに「本当に好きよ。もっと私を見て」というメッセージを汲みとってもらうためには下準備が必要である。

さて、相手との間合いをどのようにとるか、というパターンを観察することで「甘え上手」か「甘え下手」かが理解できるわけであるが、関係が成立した以降は、距離調整そのものをスリルに、つまり「刺激」として使用することが可能となる。日常的な表現では「押してダメなら引いてみな」である。「恋はギブアンドテイク」である。ミスチル曰く「シーソーゲーム」である。どうでも良いけれど。

AーーーーーーーーーーーーB
AーーーB
     ←      →

(1)この範囲が広すぎる(刺激がない)
(2)Bが動かな過ぎる(刺激に慣れるために刺激とならない)
(3)速く動きすぎる(刺激が強すぎる)

(1)から(3)の場合、適切な刺激ではなくなる。つまり、楽しむスリルではなくなってしまう。ジェットコースターではなくなってしまう。

結婚のような、「共同経営」の場合にスリルごっこをやっていたら経営が成り立たないので、基本的にこの距離は適切な位置をキープすることになる。結婚生活は、構造的に遊びではない(注1)。それは家庭という小規模社会システムを維持する「ため」の、具体的な「仕事」である。しかし恋愛となると、それは本来の意味で「遊び」(何かの「ため」がない、その関係性自体が目的となるような行為)であるので、間合いは適切に緩急を付ける必要が出てくる。そうでなければマンネリ化したつまらない「遊び」になる。遊ぶのであれば真剣にやった方が良い。

ここで、相手に対して、「自分が良く採用する間合いの取り方」はある程度パターンとして示す必要がある。それによって、相手に「先読みしてもらう」ことが可能になる。逆に言えば、ある種のパターンを作ることができたあとで、そのパターンを「崩す」ことを刺激として用いることができるようにもなる。

大抵のカップルは、この間合い調整を適切に行なっているのだと思われるが、たまにとんでもないパワーを持つ人がいる(大抵女性)。使用する方略は(3)速く動きすぎる、なのであるが、その人自身が持つ「魅力」があまりに強力なため、男は「振り回される」ことになる。そういう人が実際にいる。当人はその「魅力」について、否定的に捉えていることも多い。たいていは見た目であるとか、身体的特徴であることは多い。ただそれだけではなく、場を支配する精神力であるとか、感受性であるとか、知性であるとか、様々なものが関係しているので一概には言えない。ただ、振り回したくて振り回しているわけではないことも多々ある。

振り回されている男としては「刺激的な恋だ!」とかわめいていれば良いのであるが、まぁ大抵続かない。私も含め、男は愚鈍だからである。それは結果的に女性を傷つけることにもなる。そのことは知っておいた方が良いだろう。

そういう、「間合い」、いわば甘える距離感をめまぐるしく変化させる女性というのは、日常でも困難を抱えていることが多い。そのため、カウンセリングに来ることもある。かつてはこの程度でも「ボーダーラインパーソナリティ障害」「境界性人格障害」と言われていたが、さすがにその程度であれば最近はボーダーとは呼ばれなくなったようではある。それはそうだろう。

しかし、対応方略としては、極端なボーダーラインとほぼ同じであると考えて差し支えない。先ほどの図を再録しよう。

AーーーーーーーーーーーーB
AーーーB
     ←      →

Aを男性、Bを振り回す女性とする。この場合、Bが間合いを広げたら懸命に追いかけるAというのは、あまりよろしくない。これをしてしまうと、Bとしては、もっと試してみたくなってしまうのである。そしてAは振り落とされる(大体3ヶ月。3週間で脱落する者も、3日で脱落する者もいる。こういうタイプの女性が男性と付き合う継続時間を参照のこと)。

そうではなくて、中井久夫の引用したバリントの言い方を借りれば「激しい川の流れの上に浮かぶ落ち葉のように」(注2)やり過ごすしかない場合はある。その要点は、こちらから近づいて行かないこと、離れないこと、かといってまったく動かないわけではなく、思い通りには動かないことである。バリントは「アクティングアウトを許容するしかない」などの言い方を用いているが、土居を参照しつつ日本語でいうのであれば、「相手が甘えているということを認識して、ある程度甘えて良い雰囲気を作り出す」ということになるのだろう。

それは、ある種の一貫性である。上記は「治療」の場面でのことであるが、日常で振り回される女性に対応する場合にも必要な観点である。たとえば振り回してくる女性の場合、予定をドタキャンしたり、直前にならないと会うことがOKかどうかわからなかったり、ということは頻繁に起こる。そういう場合どうするか(注3)。予定の日程は確保しておく。これは確実に行う。そこで待ちぼうけを食らう可能性は常に考慮に入れる。そしてその時間、もしすっぽかされる、あるいは極端な遅刻をされるとしても、時間を有効に活用できるよう準備をしておく。たとえば、「いつかはどうせすること」の中で「どこでもできること」を、その時間に行うのは極めて効率が良い(注4)。ここで、いわゆる「暇つぶし」のような本を読んだりゲームをしたりしていると、振り回してくる女性Bに対して憎悪が生まれてしまう。来ることを前提とするからいけないのである。振り回してくる、しかしそれにも関わらず魅力を感じている相手であるならば、そのぐらいは覚悟しておいた方が良い。もちろん、「まったく…。またすっぽかしかぁ。まぁ、失礼ではあるよなぁ」ぐらいの感覚は覚えるのであるが、それは「憎悪」までには発展しない。ここは重要である。憎悪にまでは発展しないため、「反撃」を行うこともなくなる。

振り回す人、いわゆる「気分屋」というのは、結局この「甘えの間合い」がデタラメに操作されていることにほかならない。それを先読みして合わせようとするのではなく、基本は淡々と動かず、ある程度動かされるとしてもその動かされる範囲を最小限にとどめ、特に感情的な起伏が極端にならないように出来る限りハード面から工夫を施すことである。

そういう一貫した、安定した相手と接触を続け、また自らが持つ特徴を適切に把握し、使用する方略が熟練してくると、だんだんと「甘えの間合い」も適切にとれるようになってくる。だから、もしAがBを「育成」(注5)するつもりなのであれば、この「激しい川の流れの上に浮かぶ落ち葉のような」在り方は重要になる。もちろん、ただの落ち葉ではいけない。相手の特性を適切に把握し、フィードバックし、それらの使用法のサンプルを示せなければならないのである。強烈な人間的成熟への修練を前提としている。

結論。

「一般人は、振り回してくる魅力的な女子には手を出さないこと。それはレベルが高すぎる。」

注1:もちろん、家族成員同士(夫婦)で「遊ぶ」ことはあり得る。しかしそれは、会社の上司と部下が恋愛関係にあり、仕事の際には仕事、夜は恋人というように、適切に切り替えられる公私混同しない強靭さが必要になってくる。どちらか一方だけが強靭なだけではうまく行かない。互いに強靭である必要が出てくる。そうでなければ、「公」の場で「私」が出て来たり、逆の状態になったりする。それができないのであれば、どちらかに限定する必要が出てくるだろう。上手く立ち回れぬ者は、社内恋愛はしないことである。それと同じである。

注2:記憶を頼りにしているので正確ではない。おそらくちくま学芸文庫の中井久夫シリーズのどこかに記されているはず。

注3:別にそういう人と好んで付き合わなければ良いだけの話であるが。

注4:結局、「重要だが緊急ではないこと」の中でも「読書」が、ここでは効率が良いだろうと思われる。

注5:育成といえば聞こえが良いが、これは結局女性Bを思い通りにしようとする「暴力」の一種であることは認識しておく必要がある。

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