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若年性老人の暇つぶし

明治時代に生きていれば、ご飯を炊くために釜戸を使い、薪を割り、火吹き竹を使った。食事をするだけでそれはそれは重労働であっただろう。風呂に入ることもまた同じである。洗濯など考えただけで嫌である。当然掃除は箒と塵取りであろう。これに加えて畑仕事などやっている場合には、24時間あっても足りない。私はそう思う。さらに、寿命としても50まで生きられるかどうか、という状態なのである。それは15歳で結婚もしよう。

移動手段は限られており、時間もかかる。移動だけで重労働である。しかもわりと頻繁に戦争がある。平均寿命ですら50歳に届いていないのに、戦争でいつ死ぬかわからないのである。「生きる」ということそのものに驚く程エネルギーをかけていただろうことは想像できる。

その時、「何故生きるのか」など、あまり考えなくとも良い。考える余裕が無い。生きたいから死なないように必死になるだけなのである。もっぱら「何故生きるのか」を考えるのは有産階級である。女中を雇い、重労働の家事は別の人々がやってくれる状態。その時にはじめて、「生きるとは何か」というようなことを考える余裕ができる。

しかし現在の日本は、洗濯機があり、エアコンがあり、コンビニがあって食べ物はすぐに手に入り、食洗機まである。風呂は自動で追い炊きまでしてくれる。

暇だ。暇になる。

寿命は延びに延びて、現在、日本の女性に至っては90歳に届こうとしている(平均で!)。戦争の頻度も少ない。巻き込まれる率も明治時代と比べれば格段に低い。伝染病も、多くのものは対応策がある。

暇である。かつ、そうそう死なない。

さぁどうする? 「死なないこと」を必死に考えている内に人生が終わる時代ではなくなった。ドストエフスキーの小説を読んでいても、大抵有産階級は社交パーティだか何だかを開いて「暇つぶしをしている」。それはそうだ。あいてしまった時間をどうにか埋めなければやっていられない。中世ヨーロッパの貴族は、肉体関係を持たずに3年もかけて色恋沙汰(大抵不倫で数股かける)をしていたそうじゃないか。どう考えても暇つぶしのためである。しかし、金持ちなら暇つぶしも様々なバリエーションを考案できるだろう。今はどうだ? 家電と住宅環境によって、重労働からは解放されているもののそれほど金はなく、しかし暇を持て余している人などいくらでもいるではないか。暇つぶしのバリエーションが少ない。社交パーティを開こうにも、なにせただ暇になっただけであり、クオリティの低い空騒ぎになりかねない。3年かけてようやくキスができる、というところまで暖めて、かつ楽しんでくれるような相手を見つけることは極めて困難である。

おそらく、村上春樹が好んで訳しているアメリカ文学の一群には、消費資本主義に入って奇妙に金持ちの国になってしまったために、空虚を抱えてどうしようもなくなってしまった「一般人」たちを主題として扱ったものが含まれているのだろう。『フラニーとズーイ』『ロング・グッドバイ』『ティファニーで朝食を』『グレート・ギャッツビー』あたりは特徴的であるように思う。そしてそれらの主題がドストエフスキーと共通して来ることも、わからなくもない。

暇つぶしは洗練されてこそである。プラトンたちの時代のギリシャには奴隷制があるため、重労働から解放された市民が暇つぶしを余儀なくされたのだろう。哲学でもやらなければやっていられない。ネットもパソコンもないのである。心意気がある人ならば、いくら扱っても「絶対に」終わらないような主題を論じたくなるだろう。つまり、神について考えることが最適である。少なくとも、私ならそうする。

しかし、もっと手近に、ぼーっとさせるような、考えずに過ごすことができるようなものが転がっていたらどうだろう。ドストエフスキーは既に論じている。『賭博者』。そう、ルーレットである。これはパチンコに置き換えても良い。課金性のスマホゲームに置き換えても良い。そしてドストエフスキー自身が、自分の着ている服を質に入れなければならないほどルーレットにはまり込んだのであった。ドストエフスキーの時代にスマホゲームがあったら、彼はやっているのではなかろうか。重課金で。

河合隼雄によれば、グリム童話の「じゅみょう」にこのように記されているという。ロバの寿命30歳であったが、荷役に苦しむ生涯が長いと神に不平を伝えた。結果、寿命を18年短くしてもらえた。犬もまた、30歳という寿命は長すぎると訴え、12歳短くしてもらう。猿も同様、30歳から10歳短くしてもらった。しかし人間だけは30歳という寿命は短いと不平を言う。そして、ロバの18年、犬の12年、猿の10年をプラスされることになった。結果、人間は30年の生涯を楽しんだ後、18年(48歳まで)は荷役に苦しむロバの人生を、続く12年(60歳まで)はかみつくには歯の抜けた老犬の生活を、その後10年(70歳まで)は子供じみた猿の生活を送ることになった。

ぐうの音も出ない。その通りではないか。30歳を越えてからが重大な問題を抱えている。私の実感としてもそうである。

良く、仕事人間は老後が心配、などと聞いた。時代はバブルの頃である。仕事が忙しい内は良い。仕事を辞めてから認知症になる、老人性うつになる。今でも聞きはするが、果たして老人だけで済むのだろうか。パソコンの登場によって、仕事の効率は異常に上がった(ジョブズよ、あなたのせいだぞ! Macユーザーより)。文章を書くという点で言っても、パソコンを使うのか、原稿用紙に鉛筆で書くのかでは、天と地ほど能率が違う。調べものの効率も全く違う。計算だって、表計算ソフトなどという凄まじいものがある。暗記や整理の天才だけが行えたことを、今は一般人でもすぐに行うことができる。最後に残されたのは、「発想」という、コンピュータでは(今のところ)不可能なものだけになってしまった。

この状況を苦しいと思えない人は、はっきり言ってどうかしている。もちろん、釜戸で暮らせとか、戦争があった方がマシだとか、そんなことを言いたいのではない。しかし、「何故生きているのか」という、とんでもなく大きな問題に一般人が向き合わざるを得ない状況というのは、それほど幸福な状態とは言えない。それと組み合うには相当な準備が必要であるし、導者も必要であるし、覚悟もいる。

カウンセリングの中で専業主婦の人を相手にすることがある。言葉にはなっていなくとも、大抵この問題にぶつかっている。結局、パートをするとか、資格を取るために勉強するとか、そういうことを始めると状態が落ち着くことはかなり多い。暇つぶしを見つけたということである。極論ではあるが、仕事など暇つぶしの一種である。農作物を育てている最中に、いつイナゴの大群がやって来るかわからないという状況で生きている時代の仕事とは話が違う。死にものぐるいで、生きることそのものに必死である時代の仕事とは全く違う。当時の人々からすれば、私たちのやっている仕事など、ハナクソをほじるようなものではないのか。

ということで私は、どうにかクオリティの高い暇つぶしにしようと躍起なのである。暇とは、地獄のことである。カミュに言わせれば、それは不条理を目の当たりにすることなのである。生きていたいのに死んでしまうということ。その砂漠の中で生き続けるしかない。自殺などという逃避を行わず。

〈真の努力とは…可能なかぎりその場に踏みとどまって、この辺境の地の奇怪な植物を仔細に検討することなのである。不条理と希望と死とがたがいに応酬しあっているこの非人間的な問答劇を、特権的な立場から眺めるためには、粘りづよさと明晰な視力とが必要である。〉(カミュ『シーシュポスの神話』新潮文庫 p.23)

暇は、これを強いて来る。ならば、受けて立とうじゃないか。

よし。ミニ四駆をいじろう。

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