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調子に乗ること

大抵、大きなミスをするときというのは、調子が良いときである。それは、事業であっても、金融であっても、対人関係であっても、おそらく何でも一緒である。

調子が悪いときというのは、どんな事象もネガティブに感じられる分、様々なものに警戒心が働く。そのため、実際にはそれほど酷いことにはなりにくい。しかし、調子が良いときというのは、どんなものもポジティブに見えてしまう、ある種の高揚感のただ中にいるため、物事を吟味する精度が落ちやすい。それゆえ、ウカツなことや、抜かりが生じる。

極端な話ではあるが、たとえば統合失調症の患者さんで、“テンション高く、睡眠時間も短く、多弁になっている状態”のことを、精神医療関係者は“具合が悪い”と表現する。これは、躁うつ病の患者さんであっても同様である。統合失調症の発病寸前のときに、極めてハイテンションになり、万能感に浸る時期が見られることも多々ある。

つまり、“調子に乗っている”のではあるが、その状態が人間にとって、実は“具合が悪い”ときなのである。

だから、私が今まで出会った“人を見る目がある人”は、他者の調子が良い状態を、特に観察しているようである。言ってみれば、状況や精神的コンディションが“良い”ときに、どれだけ節制(temperance)できる人なのかどうかで、その人のキャパシティを判断することが多いようであった。

私自身、わりと調子に乗りやすいタチではあるが、振り返ってみても、大きなミスをするのは決まって調子が良い時である。そのため、さすがに36年も生きていると、調子が良いときには警戒するようになった。

思い出すのは、アリとキリギリスの話である。あれは、真面目でコツコツ努力をして金銭を貯えたアリが最後には笑い、その日暮らしで、その時が楽しければ良い、というキリギリスがしっぺ返しを食らう、という教訓と受け取られることもあるのだろう。しかし、私にとっては、“調子が良いときに節制できるものと、調子に乗っているものの視野の狭さを対比させている”ようにも思える。

金銭的なものの話だけではない。他者からの信頼であっても、仕事の信頼であっても、同じことである。対人関係が絡む事項すべてに当てはまるものなのであろう。

だから、その人を見極める際には、“調子に乗せる”ことが手っ取り早いことも多い。実際に、企業などの採用面接における技法の中に、このような手法はいくらでもあるのだろう。また、他者を陥れる手管の中に“お世辞攻撃”があることも同様なのであろう。

権力者が失脚するときというのは、たいてい“調子に乗っている”ときである。私はさほど詳しくはないが、三国志にしても、戦国武将の逸話にしても、そのような内容には事欠かないのではないか。

調子に乗っているものを馬鹿にするのは容易い。問題は、そういった教訓的な話なり、実際のお調子者なりを見て、自らのこととして考えることができるか否かなのであろう。

患者さんではなくとも、精神的に不安定な方は、大抵、気分の波乗りが下手である。調子が悪いときに何もできなくなることを知っているだけに、調子が良いときには“もったいない”感じがしてしまうらしい。そして、睡眠時間を削り、様々な活動をしてしまう。その分、調子が悪くなる波が訪れた際、落ち方が急激なものになってしまう。高く舞い上がれば、落ちる時も派手なものだ。そして、同じことを繰り返すことになる。

人間も生物であるので、気分の波はある。それは、決してなくならない。一日の中でも気分の波はあるし、女性の場合にははっきりと、月の周期によって気分は変動する。もう少し大きな流れで言えば、季節の変化と気分の流れは大きく関わりがあるのだろう。

これは、幸田露伴『努力論』からの引用ではあるが、春は「張る」、夏は「生り出ずる」「成り立つ」、秋は「あきらかなること」(空疎晴朗なこと)、冬は「冷ゆる」が語源であるという。これらは、「気」に関する問題である。気が張る、気が成り立つ、気があきらかになる、気が冷える。そういうことである。

「気」などと聞くとうさん臭いものを感じる人も多かろうが、「気」分にしても元「気」にしても「気」が合うにしても、「気」の概念を私たちは日常的に使っている。何も難しく考えることはない。その、普段何気なく使っている言葉の根本にあるエネルギーだと思えば良い。その「気」には、大きな流れがあると、幸田露伴は記しているだけである。

モンスーンの中でも特に四季のはっきりした日本に暮らす以上、季節によって気の変動があることは避けられない。その大きな気の流れを無視して、理性による制御で、常に“調子が良い”状態を望むこと自体がおこがましいことであるとも言える。

理性による、小さな我による欲望の流れに乗ってしまわぬことである。もっとゆるやかな、たおやかな、全体の気の流れに身を委ねる勇気を持っても良いように思う(注)。

自戒の念を込めて、ここに記す。

注:“大きな気の流れに身を委ねている者”のイメージとしては、熟達した侍や禅者を思い浮かべると良いのではないかと思う。イメージがわきにくい場合には、井上雄彦『バガボンド』を読めば一発ではある。沢庵和尚が良い例、若い時分の又八が悪い例であろう。“お調子者”は、常に小物である。

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