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ストックフレーズを用いることについて

〈精神に欠けてつまらなく退屈なのは、その原因を次の点に求めることができよう。それは彼らがいつもただ中途半端な意識で言葉を動かしているにすぎないこと、つまり自分の使う一つ一つの語を習得し、自分のヴォキャブラリの中におさめていると言っても、自分ではその語の本当の意味を理解していないことである。だから彼らの文章は一つ一つの語から組み立てられたのではなく、むしろまとまったきまり文句(フラーズ・バナール)を文章の単位にしている。〉(ショウペンハウエル(斎藤忍随訳)『読書について 他二篇』岩波文庫 p.67)

学生のレポートを読んでいて、決まり文句のようなものが出て来ると「うっ」となる。「僕はやんちゃな生徒だったが」「…という文に同感しました」「とても尊敬する先生でした」。こういう文を見ると、「やんちゃってどういう意味だよ。かわいい響きだけど、犯罪行為も含むんだろ?」「同感って、そもそも使い方が間違ってるんじゃないか?」「尊敬するって、ちゃんと説明できるか?」など、いちいち突っ込みたくなる。なるほど、ショウペンハウエルに言わせると、これは「彼らの文章は一つ一つの語から組み立てられたのではなく、むしろまとまったきまり文句(フラーズ・バナール)を文章の単位にしている」ということなのかもしれない。そして、「彼らがいつもただ中途半端な意識で言葉を動かしているにすぎないこと、つまり自分の使う一つ一つの語を習得し、自分のヴォキャブラリの中におさめていると言っても、自分ではその語の本当の意味を理解していない」ということが原因なのかもしれない。だから、いちいち語の定義を問いたくなるのかもしれない。

そんなことを言う私も、ことばを十分に意識して用いているとはいえない。漱石や鴎外、それこそショウペンハウエルに比べれば、カスのようなものである。しかし、それでも、ことばにはこだわっていたいという気持ちはある。

たとえば、教育心理学の最初の授業では、「責任」という言葉の定義を学生に聞く。責任ということばは、おそらくどこかで使ったことがあるはずなのである。部長になった時。生徒会役員になった時。学級委員になった時。「責任をもって務めさせていただきます」ぐらいのことは宣言したのではなかろうか。しかし、いざ責任ということばの定義を問うと、たいていの学生は詰まる。ということは、「責任をもって務めさせていただきます」というフレーズは、ただの決まり文句・定型文・ストックフレーズであっただけである、ということにもなるのだろう。いわば、コピーペーストである。

教員の中にも、「社会に出てから困るぞ」ということばを生徒や学生に用いる人もいる。多分、結構いる。しかし、その人々は「社会」ということばを定義できるのだろうか。

責任、社会ということばに関しては、これらが明治時代につくられた訳語であり、元はresponsibility、societyであったということをある程度知らなければ、定義することは困難であろう。

ちなみに、responsibilityは、responseとabilityの合成後であり、「反応する能力」のことである。ということは実は、責めることでも、任せることでもない。だから、不祥事が起きた際に「責任をとって辞めます」とだけ言うのは、決まり文句、ストックフレーズで反射している証拠なのかもしれない。「私には反応するだけの能力がございませんでした。ないにもかかわらず、このような任についておりました。本当に申し訳ございません」と言うのならば、ある程度正確にことばを用いていることになるのかもしれない。

また、社会、つまりsocietyは、individualと関係の深い概念で、individualが理解できなければ定義が困難なことばである。しかし、individualということばがそもそも、日本語に訳す際に大変困難であった語であるようだ。江戸時代までのことばにindividualに対応するものが皆無であったため、仕方なく「一個の人」と訳し、それがつづまって個人となったらしい。individualは、inとdividualの合成語である。inはこの場合「〜できない」という否定の意味を持っており、dividualは、元々はdivideであるため、individualは「これ以上分割できない」という意味になる。では、何からこれ以上分割できないかというと、societyから、ということになる。これはペアの概念であるので、これ以上分割できない、原子・アトムのようなindividualが集まって形成しているシステムのことをsocietyと呼ぶことになる。とすると、「社会に出てから困る」ということばは意味をなしていない。なぜなら、すでにその教室が、individualが構成しているsocietyというシステムの1バリエーションだからである。出るも何もあったものではない。ということで、「社会に出てから困るぞ」と言っている人が想定しているものは、societyではなく、人間同士の情緒的なつながりを前提としている、お互い顔が見える範囲の、知り合い同士の、狭い「世間」「浮世」「世の中」のことなのであろう。一応、仕事を想定していることはわかるが、やはりストックフレーズを用いているということは言えるように思う。

ほかにも、たとえば「ワンチャンあるよ」「やばめだね」「テヘペロ」「マジでか」「激オコ」なども、ストックフレーズという意味ではそうなのであろう。流行った言葉にまでとやかく言うのもどうかとは思うが、単語単位ではなく、フレーズ単位で使っているという意味では同様である。そういう意味で、ことばに敏感な人ほど、ストックフレーズには敏感になり、流行り言葉についてもなるべく用いないように気を使っているように思う。ふざけて使っている分にはかまわないが、使い続けると癖になるものである。英語を覚える際に、フレーズから口癖にするようにするではないか。言語学習と同じことが無意識的に行われてしまう。そして、意識せずに、ストックフレーズが繰り出されることになる。

結果的に、ストックフレーズを大量に用いて、その組み合わせだけでしゃべる、あるいは文を書く場合、少々頭が悪いイメージになるようだった。それが、レポートを採点していて気がついたことである。

頭が悪い印象を意図的に与えたいのであれば、用いても良いだろう。そういうことを策略として用いる者もいる。しかし、無意識的に頭が悪い印象を与えてしまっているとしたら、しかも、できれば知的に向上したいと思っているのであれば、ストックフレーズの使用には敏感になった方が良い。

考えていることをことばにする、というより、人間はことばによって考えている、と言った方が良い。たとえば、言語哲学者の井筒俊彦は『意識の形而上学』の中で、言語は「元来、意味分節(=意味による存在の切り分け)を本源的機能とする」とし、「命名は意味分節行為であ」り、さらに「意味分節・即・存在分節」とまで記している。つまり、言語はものの見方の枠を決定しているといことであろう。井筒の提出する例は、花(日本語)とflower(英語)とzahrah(アラビア語)である。たとえ種子植物の生殖器官という点では同じであっても、イメージされるものがまったく異なるという。それはそうである。咲いている植物があまりにも違う。桜の花と、砂漠に咲くサボテンの花では、まったく違う。しかし、どちらかしか知らなければ、その語が持つ暗黙の区分によって、イメージが固定される。外国語を学ぶ意味が、自国語を深く知るためであるとは誰の言か忘れたが(内田樹だったかもしれない)、おそらくそういうことである。自分の持っている区分とは異なるものを知ることによって、よりいっそう自らが用いている語の区分がはっきりする、ということでもあるのだろう。

これは単語に限ったことではない。ある程度のかたまりを持ったフレーズにも当てはまる。ストックフレーズを使い続けていると、ストックフレーズでしか考えられなくなる。決まり切った、紋切り型の思考パターンしか獲得できなくなる。しかも、語をきちんと吟味していないのであるから、思考内容は致命的に稚拙になる。

これはまずい。

とはいえ、私だって随分ストックフレーズを用いているだろうし、変な口癖もあるだろう。ただ、少しでもその口癖を減らすために、自分の講義を録音しては聞き直したりする。自分で書いた文章も、延々と読み直したりする。するたびにうんざりはするものの、たとえ牛歩であろうとも、前には進みたいものである。

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