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気苦労をストップさせる術

1)はじめに

以前、ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』から、「気苦労」を滅却できるとかなり良い、という部分を引用した(注)。

今回は気苦労をストップさせるための方略について、少し具体的に考えることにする。

2)気苦労を意識すること

まず、気苦労をストップさせるためには、自分の頭の中で気苦労が回っていることを意識できなければならない。気づいていなければ、止めるも何もあったものではない。

ということは、どういうものが気苦労なのか、それを把握することが重要である。

気苦労というものは、先のことを「ああでもないこうでもない」と考え、この状況におかれたことに対して不満をぶつけたいがそれをぶつけることもできず、「何で自分が…」などというような考えが回り、考えたからといって状況は変化せず、疲れてしまうような状況を指すのであろう。そしてその対象は、“大したことがない”ものである。

そもそも、対象が“大したもの”である場合、気苦労とは言わない。不安とか、戦慄とか、恐怖とか、もっと違うラベルがつく。不安も戦慄も恐怖も、基本的には未来に関するシミュレーションが関わっているが、その影響は、気苦労などというノンキな響きを凌駕している(もちろん、不安は弱めではあるが)。

そのため、気苦労というからには、大したことない出来事であるにも関わらず、無闇矢鱈と頭の中で考えが堂々巡りしている状況である。たとえば、返事をし忘れたメールについて。明日作らなければならない晩ご飯の献立について。出し忘れたハガキ。書かなければならない書類。

3)気苦労を止めるには

確かに、大したことはない。しかし、侮れない。

メールを返信し忘れた、手紙の返事を書き忘れた相手に対して、たとえば色々と考えてしまうことがある。

・どうして返事を返さなかったのか、とか思われてないかな。
・だらしないやつって思われたんじゃないかな。
・でも、どうやって返事をしたら喜ばれるかとか、いろいろ考えてたらなかなか返事が出せなかったっていう事情があるけど、でもやっぱり、相手にしてみたら返事が来なかった、っていうことしかわからないわけで、あぁ、やっぱり自分はだらしないのだろうか。
・どう思われてるか、ということについてうじうじ考えてることがさらにばれたら、きっと嫌われてしまう。
・でも、そういうのが自分なのだから、それは自分自身で認めないと。
・いや、それって結局自分のことを卑下しているだけなんだろうか。

…などなど。うっとうしいことこの上ないが、こういうことを考えて、疲れて、「うつ病」といわれる状態に落ちて行く人はかなり多い。言ってみれば、悩み方が下手なのである。

しかし、私も人のことは言っていられない。上述の堂々巡り例がさらっと出てくるのは、それは私が堂々巡りをしてしまうタチだからである。だからこそ、気苦労を滅却するというのは、私にとっても重要な課題ということだ。

気苦労が滅却できると相当楽になる、ということさえわかっていれば、考えをぐるぐる回す方ではなく、回転を止める方に、エネルギーを使える。

技術的にはそう難しいことではない。他のことを考えてしまえば良いのである。しかし、ここには2つ、困難なポイントがある。

(1)状況に対して行動せずに、逃避するだけになってしまわないか。
(2)気になってしまうレベルを凌駕するほど楽しいと思えるものを持っているか。

4)行動するための時間割

まず、(1)について。メールや手紙を題材として続ける。

メールや手紙の返事をし忘れた、あるいはいろいろ考えていたら結果的に先延ばしになってしまったということ自体は、過ぎてしまったことなのでこれ以上はどうしようもない。では、このまま放っておいて良いかというと、相手にもよるが、何らかの対処をした方が得策であることは多い。どうでも良い相手であれば、そのまま放っておいて良かろう。そうではない場合、まず返事をする、返事を出すということが重要にはなる。

では、メールなり手紙なりの文面を考えるにあたって、どのくらいの時間が必要か、ということを考える。自分の文章作成能力を正確に把握していれば、何分でどのくらいの文章を、どのくらいのクオリティで作成できるかが予測できる。そのため、自分の技量を正確に把握することが先決である。また、今までメールや手紙で、その内容自体で失礼があったかどうかの情報も必要ではある。たいていの場合、内容自体で不快感を与えているということはない。だから、出せば済む。手紙の場合には、便せんはあるのか、使う筆記用具はどれにするのか、そういったことをある程度は考える必要があろう。足りない道具は買う時間を確保しなければならない。ただ、たいていの道具はコンビニでもそろうことが多い。

道具はある。文章を書くにあたって、内容を構成する部分を含めても、30分あれば大丈夫。これが正確ではないと困ったことにはなるが、ひとまずここまで把握できたとしよう。ならば、その時間をどこかできちんと確保すれば良い。

ここで手を抜くのはまずい。「あとでやればいいや」という感覚が最もまずい。“今日”気になったのであれば、“今日”家に帰って、21:30から22:00までの30分間、手紙を書くという“時間割”を決定する。これは、友人との約束と同じレベルで守らなければならない。自分との約束は、他者との約束と同等に扱うという感覚は早い段階で身につけておいた方が良いだろう。

これがないまま、違うことを考えて先延ばしにするのは、現実逃避という。それは、いただけない。

とにかく、ここまでで来れば、気苦労からの解放は近い。なぜなら、21:30までは、そのことについて考える必要がなくなったからである。

5)気苦労のかわりに趣味について考えること

しかし、そう簡単には行かない。次に(2)について。

考えなくても良いことがぐるぐる回ってしまうのがタチなのであるから、いくらやることが決まっていて、時間割が決定したとしても、気になる。この、気になるという状態をどう脱却するかである。それが、“他のことを考える”という技術だ。

気になって勝手に回るぐらいなのであるから、これはもともとかなり関心が高い対象であった。だから、そのエネルギー量を上回るものを持ってこなければならない。小難しい本を読む、というのは、よほど関心があるものなら別だが、多分、うまくは行かない。体を動かすというのも、まぁ体を動かすことが好きな人なら効果はあるかもしれないが、何せもとは“考え”であるので、運動をしながらも考えが回ってしまうであろう。やはり、考えには考えをぶつけなければならない。

ここで、趣味的なものについて考える、という手だてが生まれる。しかし、この趣味というものが厄介である。

趣味と言われるものには、大きく分けて2種類存在する。

(1)受動的な趣味
(2)能動的な趣味

たとえば、履歴書の「趣味」欄に、読書と書く人はそれなりにいる。読む対象もそれぞれであろう。マンガから始まり、推理小説、文学作品、新書レベルのもの、学術書、批評、現代思想、精神世界などなど。製本されていて、一冊と数えられるような形になってさえいれば“本”であり、“書”であるから、読書とは随分ざっくりした表現である。

教科書だって本なのであるから、それを読むことだって一応読書である。しかし、教科書を読む際には、基本的にテストが想定されている。そのため、書かれてあることを暗記するために読むことが多い。これは、典型的な“受動的な読書”である。書かれてあることを受け取るだけであるから、定義的にも受動的と言って差し支えないだろう。

では、能動的な読書とはどういうものになるか。

たとえば、夏目漱石は、The Evolution of Marriage and of the Familyという本に、このような書き込みをしているらしい(小泉信三『読書論』pp.55-57)。

「コンナコトガアルカ馬鹿ヲ云ヘ」
「馬鹿ヲ云ヘ」
「何故貴様ノ国ノ事ヲ書カナイ」

すごい。文句を書き込んでいる。他にも、コンラッドのThe Nigger of the Narcissus(『ナーシサス号の黒人』)には、

「何ガ故ニThe Nigger of the Narcissusト云フヤ。仰セノ如クNiggerハ出デ来ル。然モpregnant futureヲ有スルカノ如クニ出デ来ル。シカモ遂ニ何ノ為ス所ナシ。竜頭ニシテ登場蛇尾ニシテ退場。」

とまで書きこんでいるそうだ。これは、驚くほど攻め込む、能動的な読書であろう。同じ題材であるならば、自分だったらどう書くか、ということが、かなり想定されている読書といえる。

もちろん漱石ほどでなくとも構わないが、せめて制作者側の視点に立った読書ができるようになった方が良いだろう。こうなると、受動的な読書から、能動的な読書へと変化する。それは、映画、音楽、ゲーム、作品と呼ばれるものならみな同じである。

しかし、それでもまだ、全体的にみれば受け身である。誰かが作成したものを消費しているという点では、受け身であることにかわりはない。実際に、趣味と言った際に、誰かが作り上げたものを消費することが念頭に置かれていることも多い。これでは、良い作品がなければ、趣味が滞ることになる。しかし、小説を書いてみる、という段階まで行けば、気に入った作者が作品を出版しなくとも、何もないところでも趣味活動が行える。作曲も作詞も、何でも同じである。

スポーツ観戦の場合も同様である。サッカーが好きだ、という人の中に、観戦するだけの人と、観戦もするし実際にサッカーもやるという人に分かれる。どんなスポーツでも同様である。観戦だけでは、楽しみ方の深さも異なる。現行でスポーツをやっていなくてもかまわないのであるが、少なくとも、自分でやってみた際にどう動くのか、その“ネタ”を仕入れる感覚というものは、読書の場合と同様、能動的な観戦となりうる。自分が監督だったらどうするのか、という観点でも構わない。どちらにしても、制作者側の視点に立つことが重要である。

美術館に行くことが趣味、というのも、実際に絵画を描く人にとっては意味合いが異なる。コンサートに行くことも、自分が演奏する場合には変わってくる。

しかし、単にやれば良いというものではない。結局は、その趣味に、どれだけ深く没入できているかの差であろう。深く没入しているほど、実際に“やってしまう”ところまで駆動される、ということでもある。

自分の作品なりプレーなりが、他者から認められるかどうかは二の次である。他者から認められ、金銭に替えられるかどうかを考えるのは、それを仕事とする場合であり、趣味ではない。ここで問題としているのは、趣味なのである。

いても立ってもいられない。やってみたい。そこまで行けるほどのめり込めるかどうか。これは、そう簡単なものではない。サッカーに付き合って出場しているだけの人は、深くサッカーに没入しているわけではない。それは、単なる付き合いである。

人と集まることが趣味、ということになると、これは難しい。一人では成立しないからである。今回問題としているのは、気苦労を滅却できるかどうかにかかっている。そのため、他者を必要とせず、孤独に行えるものを指す。そもそも、気苦労などというものは、人との関係の中でしか生まれないものなので、人と集まることを想定すると、新たな気苦労が生まれる可能性がある。

気苦労が絶えないようなタチであるにも関わらず、案外さらっと生きている人というのは、この能動的な趣味を持っている場合が相当多い。だから、趣味を持てば良いかというとそう簡単ではないというのはご理解いただけたと思う。

趣味には努力が必要なのである。

6)おわりに

結果的に、怠け者の場合、気苦労も絶えないまま終わるということでもあるのだろう。しかし、気苦労を回せるぐらいの精神エネルギーは持っているわけなので、そのエネルギーを能動的な趣味側へ流入させることに成功すれば、かなり変わる。人生自体が変化すると言っても過言ではない。

それは、数ヶ月でどうにかなるタイプのものではない。数年かかることもあるだろう。しかし、何かに没頭し、本当に楽しそうにしている人を目の当たりにすると、たいていの場合一緒にやってみたくなるものである。何かに没入する、というコツそのものが飲み込めれば、あとは、そのモデルとなった人とは異なるジャンルに手を出し、そちらにのめり込んで行くことも十分に考えられる。

だから、教師になるとしたら、何か没入できる、“能動的な”趣味を複数持っていた方が良い。1つでは足りない。できれば3つ以上は持っていた方が良い。子どもたちを、気苦労から解放する極めて重要な“教育”ができるであろうから。

(注)
ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相 上』岩波文庫 pp.274-276 の引用部分
〈ホレース・フレッチャー氏はその『精神治療』Menticultureという小さい本のなかで、ある友人と、日本人が仏教の戒律の実践によって体得する自制について語り合ったとき、その友人が次のように語ったと述べている。
 「『君はまず怒りと気苦労を取り除かなければならない。』私は、『しかしそんなことができますか?』と言った。すると彼は、『できます。日本人にはそれが可能なのです。ですから私たちにも可能であるはずです』と答えた。/…『もし怒りや気苦労を取り除くことが可能であるのなら、どうしてそもそも怒りや気苦労をもつ必要があるのか?』この論証の強さを私は感じた。…以前には不愉快さやいら立ちの源泉となったものすべてが、以前とまったく同一なのに、それらに出会っても、私はちっとも無礼だとは思わない。…私はたいへんおもしろい愉快な旅行になることを期待して、汽車に乗ることにしていたのに、私の手荷物が届かなかったので、列車は私をおきざりにして発車してしまったが、私は汽車がステーションから出てゆくのを見送りながら、腹だったり、いらいらしたりする気持ちをすこしも感じなかった。ちょうど列車が見えなくなったとき、ホテルの給仕が息せき切って駅へかけ込んできた。私を認めるやいなや、給仕は、どなりつけられはしないかと恐れるような様子をして、街の群衆にせき止められて抜け出てくることができなかったことを述べはじめた。彼が述べ終わったとき、私は彼に言った、『なんでもないよ。君はどうしようもなかったんだ。また明日のことにしよう。これはお駄賃だ。そんなにたいへん骨を折らせたのに、ほんの少しばかりですまないがね。』彼の驚いた顔には、満面に喜色が溢れていたので、私の出発が延びたことは即座に償われた。/…私の経験の最初の数週間、私はただ気苦労と怒りとだけを警戒していた。…ついに私はそういうすべての感情がさきに述べた怒りと気苦労という二つの根から生え出たものであることを確信するにいたった。〉

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