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カミュ『シーシュポスの神話』について

喫茶店にて。

隣で話しているのは20歳前後の女性二人(AとB)。彼女たちは、知人の既婚女性(C)について話し始めた。

既婚女性Cの夫は年上で、同じ会社内にいるのだという。そして、Cが“付き合っている彼氏”もまた、同じ会社にいる。彼氏は同世代。

A「彼氏は、自分からは誘わないんだって。Cが買い物にいこう、って言って、その時にたまたま彼の時間が空いてたら、行く感じみたい」
B「まぁ、結婚してるんだもんね、Cの方が」
A「うん。それで彼氏の方は、Cがあなたなんかもういらない、って言ったら、それでいいんだって」
B「へぇ…。なんか…、頭良い、って感じはするけど…。でも、それって、彼氏要るの?」
A「さぁ…」
B「どっちが本命なんだろ? 結婚はお金のため?」
A「いや、旦那のことは好きみたい。でも、結婚する前に彼氏と会ってたら、多分結婚してた、って」
B「うーん。本命とか、そういう考え方じゃないのかな…。ちょっと良くわからない…」
A「うん…」

私は、カミュの『シーシュポスの神話』になぞらえて聞いていた。

まず、ギリシャ神話におけるシーシュポスとはどういう存在か、ということについて。カミュのまとめを記す。

〈神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。…ホメーロスの伝えるところを信じれば、シーシュポスは人間たちのうちでもっとも聡明で、もっとも慎重な人間であった。しかしまた別の伝説によれば、かれは山賊をはたらこうという気になっていた。…シーシュポスは瀕死の床で、不謹慎にも妻の愛情をためそうと思った。…ただ言いつけにしたがうだけであった妻の振舞いに腹をたてて、妻をこらしめるために地上に戻る許可をプルートンから得た。しかし、この世の姿をふたたび眺め、水と太陽、灼けた石と海とを味わうや、かれはもはや地獄の闇のなかに戻りたくなくなった。…それ以後何年ものあいだ、かれは、入江の曲線、輝く海、大地の微笑をまえにして生きつづけた。…使者としてメルクリウスがやってきて、この不敵な男の頸をつかみ、その悦びから引きはなし、刑罰の岩がすでに用意されている地獄へとむりやりに連れ戻った。〉(カミュ『シーシュポスの神話』pp.210-213)

シーシュポスは、「緊張した身体があらんかぎりの努力を傾けて、巨大な岩を持ち上げ、ころがし、何百回目も、同じ斜面に繰り返してそれを押上げ」る。途方もない時間の果てに、その目的は達せられる。「するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へところがり落ちてゆくのをじっと見つめる。…かれはふたたび平原へと降りてゆく」。

カミュは続ける。「こうやって麓へと戻ってゆくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、ぼくの関心をそそる」。

ここでいうところの「岩」は何を指すのだろう。

『シーシュポスの神話』には、「ドン・ファンの生き方」という章がある。カミュは記す。「かれは女たちを、いつも同じように熱中して、そのたびごとに自分のすべてをもって愛するからこそ、かれは、そのようにして自己を捧げ、そのようにして愛を深く窮める行為を繰返さなければならないのだ」「彼女らのひとりが叫ぶ。『とうとうあなたに本当の愛をさしあげましたわ。』するとドン・ファンが笑って、『とうとう、だって? とんでもない。一回ふえたまでさ』…たっぷりと愛するためには愛する度合いをすくなくしなければならぬ理由がどこにあろう」(同前、pp.124-125)。

量と質の問題ではある。量的に生きることではなく、質を求めて生きること。確かに重要である。しかし、質の高いものをたくさん求めることはあり得る。極端に質の高いものであればひとつで満足することはあっても、それは既にこの世のものではないのかもしれない。現実世界にあるもので、たったひとつで完全な満足が得られるようなものは、もしかしたら存在しないのかもしれない。少しでも完全に近似のものを、何度も/いくつも感じ取りたいと思うことは、それほど不自然ではないように思う。ドン・ファンにとっては、その対象が女性であったということ。先述の既婚女性にとっては、それが男性であったということ。つまり、岩とはこの場合、女性であり、男性であるということだろうか。

カミュは続ける。「健康な人間ならだれでもひとりで何人分もの生を生きようとめざす」(p.125)。なるほど、確かにそうかもしれない。特に、「天才というもの、つまり自己の境界を知っている知力」(p.125)を持つものにとっては、それが数十人分に達する場合もあろう。たとえば、私が仰ぐ井筒俊彦・ユング・中井久夫などは、少なくとも数カ国語を操り、凄まじい量の本を読み、大量に書物を記している。それは、数十人では足りないかもしれない「量」の生を生きている。しかも、それらひとつひとつの「質」も計り知れない。異性という肉欲に限らないということだ。それはたとえ善行のようなものであっても、質の高いものをたくさん享受したい、という方向性は十分にあり得る。

カミュが標的として定めるのは、それらの行為そのものではない。それらの行為を「意識」し続けて行っているかどうかである。何を意識するのか。それは、「不条理」を、ということになる。

〈この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている、——この世界について言えるのはこれだけだ。だが、不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。〉(p.42)

割り切れないもの。それは、生きていたいのに死んでしまうということ。何をしても、結局は死んでしまう。死ぬ時期が早かろうが遅かろうが、とにかく死んでしまう。死刑囚と死刑囚でないものの違いは、ただその時期が、本人に明晰に示されているかどうかの違いのみであるということ。結局、私たちはいつ死ぬか知らされていないだけの死刑囚である。

それが、割り切れない。

そして、その割り切れないことから決して目を逸らさないこと。誤摩化さないこと。死に、安易に意味を見出さないこと。そこに意味などない。死後の世界のために生きることなどしたくない。なぜなら、見たことがないし、確かでもないから。何らかの証言があったとしても、私が見ることができない以上、確信することはできない。哲学も神学も教義も何もかも、私を納得させられなかった。それは、言ってみれば最後に飛躍してしまうようなものだった。キルケゴールも、フッサールも、ハイデガーも、ドストエフスキーも、みな、途中までは頑張っているものの、最後に、目に見えない、あちら側やら天国のようなものに一気に飛躍してしまう。その飛躍する部分だけが、論理的に説明できていない。それでは私を納得させられない。私が納得できるのは、目に見えて、手にすることができて、確実なものだけだ。それは、この肉体と、生きていたいという感覚と、にも関わらず必ず死ぬという不条理である。だから、そこから逃げず、徹底的に見つめ続ける。一貫して、見つめ続ける。それが、真の努力というものだ。そう、カミュは記す。

なるほど一理ある。私はそう思ってしまう。

件の既婚女性Cが、この「不条理」を見つめ続け、生きている間に何人分もの生を生きようとしていたとするならば、“岩を押し上げる”ことは、新しい男性との関係を持つことなのかもしれない。そして、ある男との関係が終われば、“岩は落ちて行く”。次の男性を見つけに行くまでの間、彼女は「ふたたび平原へと降りてゆく」「休止のあいだ」にいるのかもしれない。

そのとき、彼女は何を思うだろう。

新しい男との関係は、何を生み出すわけでもない。いや、「死ぬ」ということを考えるのであれば、結婚しようが子どもを産もうが何をしようが、結局「死ぬ」のである。そこに意味はない。少なくとも、生きている彼女にとって、死んだ後のことは意味を失う。死んだ後の彼女は、その後の世界を確認することも、愛でることも、できないことになる。なにせ、カミュ的考え方によれば、死後の世界は存在するかどうか確認できないのであるから、それを当てにすることはできないのだから。確実なことのみを礎にする以上、このようなパターンに入らざるを得ない。

カミュは記す。「はたして思考はこのような砂漠のなかで生きられるのだろうか、ぼくはまずそれを知りたい」(p.43)。

そう。私も知りたい。いや、それだけが知りたいと言っても良い。私は延々ともがいているのだ。

『異邦人』の終盤、死刑が決まった後のムルソーは、生きたいと望む。ギロチンへ連れていかれる間にどのように逃れ、生き続けるかを考える。たとえ追われて銃殺されるとしても、逃れることを考えざるを得ない。確かに、死期を宣告された後なら、私もそう考えるだろう。まだ生きたいと望むだろう。もっと、量を求めるだろう。それも、なるべく質の高い量を。

こんな文章を書いたところで、論文を書いたところで、授業をしたところで、カウンセリングが上手く行ったところで、私は死ぬ。「ゲーテの作品さえ一万年後には塵埃と帰し、その名前も忘れられる」(p.138)のであれば、「二千年後に起るであろうことを考察する」(p.111)とき、いや、私が書いたものなど、100年後でさえ失われているだろう。だとすれば、この作業自体が、そういう途方も無い長期的な目で見た際、まさに徒労である。意味など消えてなくなる。

しかし、それでもなお、そういう状態を見つめ続けて、山の頂から笑みを浮かべ、見開いた目と嘆息、あるいは高笑い、あるいは嗚咽とともに平野まで降り、再度全力を尽くして岩とともに山頂まで戻る。意味がないことを見つめ続けながら、繰り返す。決して、自殺などという「逃避」を選択せず。

なるほど。納得してしまう。その観点からすれば、確かにそういうことになる。

しかし、どうなのだろう。その生き方はあまりにも苦しすぎやしまいか? かといって、この論理に対抗し得るだけの武装が手に入らない。確かに、“神秘体験”は重要であろう。しかし、それが異界を、あるいは死後の世界を証明するものとは言えない。どちらにしても、私は肉体を持ち、この世界に生きている。それは事実である。神秘体験を得たとしても、肉体は残り、この世界に生き続ける。そして、なるべく長く、生きていたいと思い続けている。

「はたして思考はこのような砂漠のなかで生きられるのだろうか、ぼくはまずそれを知りたい」

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