FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

緊急ではないが、重要なこと

喫茶店にて。

隣では、初老の男性二人が仕事の話をしている。険しい顔で、

「だからさ、それ、弁護士をちゃんとはさんでね。だいたい、何でそこまで隠さなきゃいけないのか、っていう問題だよ」

などとしきりに話している。途中で電話をかけ、高速がどうの、前回若いのがいたときにはどうの、どもってしまうからいけないんだのと話している。しかし、時間をかけているわりには、あまり実りがあるようには聞こえなかった。

初老の男性のうち、一人は、途中でこんなことを言った。

「あー、もう、体がふたつ欲しい…」

その声は、誰かを小馬鹿にしているような、誰かを見下すような、変に満足気な、奇妙なゆがみを伴っていた。

どうなのだろう。ここが、喫茶店であることを考慮に入れた方が良い。本当に体が二つ欲しい人間は、そんなことを喫茶店で周囲に聞こえるようには言わないようにも思う。喫茶店に入る暇すらないかもしれない。そのような言葉を継ぐ時間すらないかもしれない。

これは、“忙しいゴッコ”なのだろう。聞いていて私は、〈あ、なんかそれ、楽しそうっすね〉と言いたくなっていた。

“忙しいゴッコ”がいけないわけではない。たまに、レクリエーションでやってみるのは良いように思う。結構楽しいだろう。私もたまにやる。あるいは、本当に断りたい仕事などがある場合には、忙しいフリをして断ることもある。断りやすくするために、布石としていくつか、忙しい内容をポンポンと誇示しておくこともある。それは、策略として。

しかし基本的に、私は忙しくない。暇である。むしろ、暇を、その時間を買い取るために努力をし、その暇の際に使う金銭を獲得するために、仕事をしているようにも思う。能率を上げればその分きちんと暇になるので、なるべく能率を上げたいと思う。だから私は、忙しい場合に、むしろ劣等感を覚えているように思う。あぁ、俺、能率悪かったんだな…、と。

とはいうものの、得体の知れない仕事が降ってくることもある。どうしようもなく、処理しなければならないこともある。しかし、本当に忙しい場合には、一体何がおかしいのか、良く考えた方が良いのだろう。「忙しいとは、心を亡くすと書くんだ」などと言われることがあるが、確かに一理あるように思う。

一時期、自己啓発本というものがどういうものなのか興味があったので、何冊か読んでみた時期がある。その際にわかったことは、私のやろうとしていることには自己啓発系のものはあまり関係がない、ということではあった。とはいうものの、今マンガ化されたりしているスティーブン・R・コヴィーという人の書いた『7つの習慣』だけは、少々、ランクが異なっていた。とりあえず、物事を以下の4つに分ける、というアイデア自体は極めて重要であろうと思われる。

(1)緊急で、重要なこと
(2)緊急ではないが、重要なこと
(3)緊急だが、重要ではないこと
(4)緊急でも、重要でもないこと

多くの人は「緊急性」に惑わされ、そこに時間を割いてしまう、という点が問題となる。実際には、「重要さ」の軸の方が大切である。特に、(2)の「緊急ではないが、重要なこと」が見落とされてしまう。

コヴィー氏は、コップに「ある程度大きな石」と「砂」を入れるたとえを使っている。コップの中に、石と砂を両方ともなるべくたくさん入れたい。その場合、どちらを先に入れるか。

答えは「石」である。まず先に、「重要なもの」を、自分のスケジュールの中に入れてしまう。残った部分に、「重要ではない」タイプのスケジュール、つまり砂を入れて行く。その「石」の中でも特に重大で、しかし忘れがちなものが、「緊急ではないが、重要なこと」である、ということになる。入れ忘れると、永遠にコップの中に入ることがない。

目の前に降って来る物事を、全部片っ端から相手にしていると、この「緊急ではないが、重要なこと」をスケジュールに入れそびれてしまう。私自身も自戒の念を込めてここに書いている。

何らかの作業を行っていると、それは何か“した気持ち”になってしまう。これはかなり危険である。それは本当に「重要なこと」なのかどうか、吟味してみた方が良いのだろう。たとえば10年先にどう影響するか、を考えてみるのは良いかもしれない。コヴィー氏が「緊急ではないが、重要なこと」に入れているものは、「身体的な健康のための投資」であるとか、「自己啓発」であるとか、大分うざいものではあるが、やはりこの分類感覚自体は重要である。

もしかしたら、目の前に降って来るものごとを片っ端からこなしていくのではなく、“ついでに何ができるのか”を考えた方が良いのかもしれない。

たとえば、私がここに書いている文章において、引用を多数用いている場合には、論文を書く際に検索が速攻でできるからである。一度写しておかないと、どこに何が書かれてあったのか、忘れてしまう。最近のパソコンは便利になったので、キーワードで検索をかければ、どの文書に記しておいてもすぐに検索できる。また、ここに書いたことは、論の道筋ができるために、授業やら講演やらですぐに話として出せる準備にはなる。いずれテーマごとにうまくまとまるのであれば、多少リライトして出版することを念頭に置いている(大学教員の場合、大学所属の出版会に原稿を持って行けば、授業用教科書・参考書として1000部から出版できてしまう)。水曜の会や木土の会における準備そのものになっている。さらに、ここに書くことを前提とするために、本の読み方が丁寧になる。しかも、読んでくれている大変ありがたい友人には、私が考えていることを毎回説明しなくても良くなる。万が一、読んでくれた人の“ため”になった場合には、喜んでもらえたりする。有用であることが極めて多い。

それは、キッチンに行った際に、部屋に落ちているゴミをついでに拾ってゴミ箱に捨て、手を洗う前にキッチンペーパーで台所の表面を少し綺麗にするようなものかもしれない。“ついで”を過剰にすると身動きがとれなくなるだろうが、ある程度、共通する項目を洗い出し、一つの作業で何個もの派生があり得るような行動を優先的に採ることは、結果的に暇を生み出すのではないかとは思う。何度も書くが、私がそれを実行できているとは言わない。自戒の念を込めて書いている。

無駄なものがいけないわけではない。大体、生きている最中に行うことなど、ほぼ無駄なことなのである。生きている時間そのものが暇つぶしのようなものであるととらえることもできるのであるから、無駄なものをきっちり充実させることも重要である。しかし、私にとって重要な暇つぶしは、仕事ではない。仕事で稼いだ金を使って行う“楽しい”ことである。人から強制されるものではないことは確かだ。気のあった友人と遊ぶこと、息子と遊ぶこと、本を読むこと、写真を撮ること、音楽活動をすること、ゲームをすること、プラモデルを作ることなどなど。その中で、極めて重要なものから先にスケジュールに組み込む。特に、人と会うことに関しては、自分だけのスケジュールではどうにもならないため、何としてでも先に組み込むよう努力したい。“どうでも良い”仕事の付き合いは、それが破綻しないレベルで相手にするだけにとどめ、私にとって極めて重要な人との時間を最優先にする。

そうありたい、という話である。できていない。そもそも、引っ込み思案の私は、自分から誰かを誘う、ということがなかなかできない。にも関わらず、寂しがり屋なのであるから、始末に負えないのだけれど…。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ina

Author:ina
水曜の会用 文書置き場

カテゴリ
写真保管庫
最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。