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心のエンジンに火がつくこと(注1)

1.喫茶店にて

隣に座っているのは、20歳前後の男女。友人同士であるようだ。話している内容は、“友人が東京駅にいる”というTwitterでのつぶやきについて。LINEでのやり取りについて。その後、テレビのバラエティ番組について話が移った。「メチャイケ」「みなさんのおかげでした」「テラハウス」、あとは海外ドラマなどの話題が出ている。「ジャルジャルは単なるナルシストでしょ」「たんぽぽは面白い」「○○は、元はすべりキャラだったのに、突っ込みで化けた」などの、芸人批評。良く観察している。ただし、話し言葉自体は、あまり理知的とは言えないようだった。批評も、もう少し感じていることがありそうだったが、うまく言葉にならないようだった。

男子の方が言う。

「俺、本、ぜんぜん読まないからさ。何か貸して、ってそいつに言ったんだ。今まで、2冊も読んだことないから。だから、1冊読むのに、半年ぐらいかかるけど良い? って。俺、3ページくらい読んだら眠くなっちゃうんだよね。あ、本って、単行本じゃなくて、ほら、普通のやつ」(注2)

本を読んでいないとは言っても、メール、Twitter、LINE、Facebookをしている話が出ている。おそらく、一日の中で触れている文字数自体は、思いのほか多いのだろう。しかし、論理的な流れを追う訓練ができていない可能性はある。スマートフォンを用いてのやり取りは、どうしても即時的になり、“反応できるかどうか”が鍵であるため、論理的にじっくり順を追って行くことはなかなか訓練されないのかもしれない。

2.「若いものは本を読まない」という言葉

良く、「最近の若いものは本を読まない」と聞く。しかし、そんなことを言ったら、私だって「本を読んでいない」。

どこの時代の人間と比較するのか、という問題がある。たとえば、明治時代における知識人の読書量は半端ではなかったはずである。しかも、独・仏・英、果てはギリシャ語・ラテン語の原著を読んでいる者すら、多く存在していたのであろう。私など、辞書を使いながら必死になれば、英語で書かれている学術書を読むことはできる。しかし、どう考えても邦訳されたものを読む方がスピードは速いし、理解できる量も多い。明治時代の知識人と比較したら、私など虫けらも同然である。

私は、漱石の『草枕』ですら、まともに読めない。まず、漢字が読めない。さらに、仏教用語が多すぎて、意味がわからない。

ちなみに、これをふりがななしに、しかも言葉の意味をすらすらと理解できる人が、現代にどれだけいるのだろう。

〈着想を紙に落さぬとも※(「王+膠のつくり」、第3水準1-88-22)鏘の音は胸裏に起こる。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。〉(夏目漱石『草枕』)

きゅう鏘の、「きゅう」の文字ですら、この有様である(初めて見たぞ、この標記の出方)。パソコンの辞書機能ですら追いついていない。私など、今の状態のまま、明治時代に生まれていたら…。考えるだけで恐ろしい。

もちろん、明治時代のすべての人が、これをすらすら読めていたとは思っていない。農民が、仏教用語を自在に操っていたとは思えない。声に出して音読しなければ新聞や本を読めない人が多数存在していたために、図書館には防音のためのついたてが必要だったという話もある。

何を基準とするのかによって、判断はまったく異なってしまう。

江戸時代、「文盲」と言ったら、漢文を読めないことを指していたようである。もちろん、上層階級においてではあるだろうけれど。漢文をすらすら読める人が、果たしてどれだけ現代にいるのだろうか。

過去は、たいてい誇張される。美化される場合には、自分が知っているハイレベルな者と自分自身を妙に同一化して比べたりもするから、いっそう質が悪い。

たとえば、ある大人がこう言ったとしよう。

「私が中学生の頃は、夏目漱石ぐらいすらすら読んでいたもんだ」

大人が言っている「自分は昔、○○ぐらい普通にやった」という時の内容は、たいてい5歳はサバ読んでいる。つまり、20歳になって、ようやく夏目漱石をかじったことのある者が、中学3年生の時には夏目漱石を…、というような言葉を紡いでいる状態を想像すれば良い。本当に中学生の頃から夏目漱石を読んで、しかもきっちり理解できていたものは(どのくらいいるのか知らないが)、おそらく「中学生の頃には、ホーキングを原著で読んでたなぁ」ぐらいのことは言うだろう。記憶など、そんなものである(注3)。

「最近の若いものは本を読まない。知識が足りない。ダメだ」

その言葉を紡いだ人が、デカルト、カント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、サルトル、マルクス、プラトン、アリストテレス、その他もろもろを、しかも“原著で”読んでいたとしたら、言っても良いかもしれない(注4)。しかし、たいていの場合、新書を月に数冊読むか読まないかの人が、このような言葉を紡いでいることも多い。

その人は、LINEを駆使できるだろうか。Twitterを、Facebookを。Googleでの検索の際、画像のRGB配分やピクセルサイズから推測し、画像本体が掲載されていたページを特定できるだろうか。せめて、Twitter・LINE・携帯メール・アプリ内でのやり取りなど、即時的で即興的で極めてマルチタスクな、今の若い人々が「普通」にできてしまうことをこなせるようになってから言わなければならないのだろう。自らが足りない部分をごまかすために、他者を貶める姿は、見ていてもあまり格好の良いものではない。

3.何かを伝えるときの伝え方

環境が違うのである。そのままの形で比較はできない。私がスクールカウンセラーをし、大学で教えていて、この10年、“子どもたち”“若い人”という「人類」がさほど変わったとは思えない。もちろん、知識や技術の性質などは変化があるだろう。身体能力や体型なども異なることはわかる。しかし、ホモ・サピエンスとしての性質は、さほど変わったとは思えないのである。環境が変化すれば、気骨も見えるだろうことは十分に感じ取ることができる。その点に関して言うのであれば、自分が中学生・大学生の頃と比較をしても、さして変わりがないように、私には見える。

相手ができないことを探し出して馬鹿にし、自分が優越にあることを示し、他者から褒めてもらおうとするような人は少し置いておく。しかし、本当は若い人々に「何か」を伝達したい人の場合、そのやり方は考えなければならない。

たとえば、ガンダムのプラモデルが好きな人がいたとする。誰かに、ガンプラの魅力を伝え、ガンプラの趣味に引き入れようとしたとする。どう言うだろうか。

「あー、最近の若いもんは、ガンプラすら作らんのか。俺が若い頃は、工夫してつくったもんだよ。今出てる何だか手をかけなくても大丈夫なやつで満足するなんて、まったく、努力が足りん」

こうは言わないはずである。魅力を伝えなければならない。バンダイが謎の努力を繰り返し、一つの金型で関節部分まで1パーツで作り上げてしまう技術を開発してしまったこと。合わせ目がきれいになくなるようなパーツ分割になっていること。デザイン画を立体化する際にどれほど苦心して説得力を持たせるかにエネルギーを注いでいたこと。その結果、世界でも明らかに図抜けた水準に達してしまったこと。こんなこと、日本人にしかできないということ。伝統工芸と比較しても良いかもしれない。

そして、相手の興味関心がある部分から、近づいて行かなければならない。自分が好きであることをただアピールするだけでは、相手はうっとうしいと思うだけである。共通項を見つけ出さなければならない。

4.「誰から」紹介されるのか

私が、誰かから何かを紹介され、本気でやろうと思うときには、ある一定のパターンがある。その、私に何かを紹介した人がどのような人であったのか、それが極めて重要である。

(1)私の好きなものに興味を持ってくれている人から紹介されたこと。
(2)その人が、ポイントを押さえて、ほめてくれること。
(3)その人を見て、私が「あなたのようになりたい」と思えること。
(4)その人のしていることを真似たいと思えること。
(5)真似してみたら、本当にできるようになること。
(6)できるようになったら、昨日より手応えがある生き方ができること。
(7)他の人にもそれを伝えたくなること。

少なくとも、怒鳴られたり、馬鹿にされたり、たしなめられることによって、私に火はつかなかった。

もちろん、周囲の人に馬鹿にされたくない、というような気持ちがある場合も存在した。しかし、そのような時であっても、「周囲に馬鹿にしてくるような奴らがいる場合に、そういう奴らへの対応が極めて洗練されている人」のような、モデルとなる人物が想定されている。誰かから馬鹿にされることそのものによって、私の中で変化が起きているわけではない。

おそらく、私を駆動する原動力は“餓え”である。たとえば、“本を読みたい”という思いは、“知りたい”という渇望なのだと思う。おそらく、何かを薦めるのが上手な人というのは、相手の餓えを引き出すのが上手なのだろうと思う。渇望を引き出すのが上手なのだろうと思う。多くの人は、自分が餓えていることに気がついていないのだろう。

そのやり方は、怒鳴り散らしたり、蔑んだり、脅すこととは随分違う。

5.再度、喫茶店にて

喫茶店で話していた男子は、「本を読みたい」と言っている。たとえばそこでプラトンの『国家』を渡すことは、明らかに間違っている。お笑い芸人に興味があるのだから、たとえばお笑い批評の新書であるとか、お笑い芸人本人が書いた本であるとか、そういったものが良いのだろう。その際、小難しく書かれているものではなく、できれば、口頭で喋った内容を書き起こしたタイプの新書なら、なお読みやすいだろう。

おそらく、今まで面白い本に当たっていないというだけである。だったら、興味関心があるところから、さらに世界が広がる体験をすれば良い。そうすれば、そこから「本」というものが自分にとって極めて有用であることが理解できるはずである。

強制されるから読みたくなくなる。単純に、新しい視点が獲得できると面白いということ。それを、どうして伝えてもらえなかったのか。もったいない。絶対、センスが良い。語彙が増え、表現力が増せば、よりいっそう、テレビ番組の興味深い点を、友人たちに伝えることもできるだろう。理解できる友人を呼び寄せることもできるだろう。

私は、学校の先生たちに、それをして欲しいと感じているのだと思う。大学で、なんとかそれをしようとしてはいるが、まぁ、どうなのか…。どこまでできているやら…。

(注)
注1:ギャバン。
注2:単行本とは、おそらくマンガの単行本のことなのだろう。
注3:Loftusの目撃者証言や偽記憶の研究を少しでもかじったことがあれば、それはよくわかるだろう。記憶はすぐに書き変わってしまう。
注4:そのレベルの人は、こんな言葉を言わないのかもしれない。もしかしたら、「…本…、読んだ方が良いように思うけど…」と、少し悲しげに、ぽそっと言うかもしれない。それは、同じ言葉であっても届き方が異なるのだろう。

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