スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

投影について

1.はじめに

投影(projection)とは精神分析の概念で、防衛機制(defense mechanism)の一つとされている。私は、フロイトが投影について書いている箇所を知らず、土居健郎(『精神分析と精神病理』医学書院)の説明を元としている。申し訳ない。

投影とはどういうことを言うのか。

たとえば、稲垣がAさんという女性と初めてデートに行ったとしよう。場所はディズニーランド。大変楽しみにしており、また、体力があるところを見せようと気張っていたとする。あまりに気張りすぎていて、普段なら大丈夫なところが、すぐに疲れてしまった。気をつかいすぎている。しかし、彼女の前で格好悪いところは見せられない。稲垣の“意識”には、“自分が疲れた”などという軟弱な考えは、抱えておくことができない。

だから稲垣は、“俺、疲れた…”という“思い”を、無意識側に追いやってしまった(注1)。

無意識領域に追いやられた “俺、疲れた…”という“思い”は黙ってはいない。このエネルギーが“光源”となって、まさにプロジェクターのように、外に向かって映像が投映される。向かう相手は彼女、Aさんである。

すると、Aさんに、稲垣が無意識側に追いやった“俺、疲れた…”という“思い”が映る。さて、稲垣にはAさんがどのように見えるか。そう、“Aさんが疲れた”ように、稲垣には見えるのである。そして稲垣は、たいへん滑稽な言葉をAさんに投げかけることになる。

「ねぇ、Aさん、ちょっと疲れてない? 疲れてるみたいだから、少し休んだ方が良いんじゃないかな?」

(でも、Aさんはピンピンしている…)

………。

もちろん、多かれ少なかれ、人間はdefenseしなければならない。外界からの要請、自分の内部に存在している倫理的基準のようなものからの要請、生物学的な本能による欲求。それらすべてをうまいこと調整し、なんとか「わたし」と呼べるものを維持しようと、必死なのである。だから、投影をすべて非難するわけにはいかない。とはいうものの、過剰に行っている場合には、少し考えた方が良いだろう。何せ、周囲から見ると、あまりにも滑稽であるから。

2.土居健郎の例

土居が引用する例は、さらにえげつない。

「自らの結婚を断念している者が他人の結婚の世話は夢中でするという場合がそれにあてはまる」(p.98)

何らかの理由があったのであろう。仕事の関係、家庭の事情。様々なことが考えられる。結婚したいという思いを押さえ込んだまま、50歳になった。もちろん、今から結婚することもできるであろうが、20代に思い描いた結婚とは性質は異なってくる。それには納得がいかなかった。結婚したい、という思いは無意識側に追いやった。意識に抱えておくには、あまりにも辛いものだったから。そして、無意識側に追いやった“結婚したい”という思いは、心のプロジェクターによって他者に投映される。彼女には、他者が、“結婚したがっている”ように見えることになる。だから、世話をやくことになる。

土居の提出する例は、換言すればそういうことになるのだろう。

私はそういう“おせっかいおばさん”がいても良いと思う。多少は害があるかもしれないが、それでも、実際に出会いを提供してくれるわけであり、案外重要な役割であろうと思っている。

3.カウンセラーや教師は?

しかし、たとえばこれをカウンセラーに当てはめてみる。一応、カウンセラーとは“他者を救う”仕事である。とすると、カウンセラーになって、誰かを救ってあげたい! と言っているような人間(私のことだ)は、どんな“思い”を無意識に追いやっていることになるのか。そして、何を投影していることになるのか。

そう。「俺が救われたい」という思いである。

では、教師はどうか。教師とは、“他者に教える”職業であり、“他者をかまう”仕事であり、“他者に愛を注ぐ”職業である。ならば、教育者になり、誰かに教えてあげるなどと言っている人間(私のことだ)は、どうなるだろう。

「俺は教えられたい。育てられたい。かまわたい。愛を注がれたい」

ふむ。あさましい。

4.「子どもから学ぶ」「患者から学ぶ」

そして、「教師は子どもから学んでいる。子どもは、教師の先生である」などという言葉を聞く。これは一見、聞こえが良い。先の例で言うならば、投影している内容を自らに引き戻しているかのように聞こえる。そして、子どもたちの目線に立ち、ある意味では対等に、権力を振りかざすことなく、真摯に仕事に取り組んでいるように聞こえる。

しかしたとえば、以下のような例を考えてみよう。

30代男性教師B。授業がクソ下手で、見た目にも気を使わず、誤字脱字多発。授業準備もろくにせず、保護者会もまともに開けない。しゃべり言葉には「えー、まぁ、あのー」が乱発され、歯切れも悪く聞きにくい。時間は守らず、プリントの出し忘れも多い。採点ミスは日常茶飯、テスト問題もろくに作れない。

この男性教師Bが言う。

「教師は子どもからね、えー、学ぶんですよ。子どもたちは、まぁ、教師の先生である、とまぁ、いえるでしょうね、えー」

………。

30代男性カウンセラーC。知識も少なく、技術も未熟。文章の誤読も多いし、思い込みが強い。身体化が激しく、考えもまとまらない。傾聴技法はろくにできず、相手に流されその場その場で反応するだけ。記憶もままならない。△△大学の○○先生の元で勉強しているということを誇りとしているのは良いが、先週その先生が言った内容ですら、完全に誤解して受け取っている。時間は守らない、延長もしばしば。ダブルブッキングも多発。

この男性カウンセラーCが言う。

「カウンセラーはですね、患者さんから学ばせてもらっているんですよ。患者さんが、私たちを救ってくれるんです…(しんみりしたり顔)」

………。

精神分析学者のウィニコットはその著書“Playing and Reality”の謝辞において、以下のように記している。

“To my patients who have paid to teach me”
(お金を払ってまで、私を学ばせてくれたクライエントに感謝の意を込めて)

これは、ウィニコットレベルの治療者が言うから格好いいのであって、素人が口にして良い内容ではない。卓越した治療を提供できる技術を持っており、かつ患者側が感謝しているという土台がはっきりと存在してはじめて、効力を発揮する言葉である。客観的にも主観的にも、相当な土台がなければ発言できないレベルの文言である。

5.おわりに

教師になってもいない段階から、「子どもたちから学んで行こうと思います」などと口にしてはいけない。カウンセラーになってもいない段階から、「クライエントが救ってくれるんです」などと口にしてはいけない。まず、“金を取っても良いレベル”まで、研鑽を積んで行かなければならない。

もちろん、その中で、実際に子どもたちから学ぶことは大量にあるだろう。クライエントから救われてしまうこともあるだろう。お金を取っている上に、学ばせてもらい、救われることがあるとしたら、本気で感謝しなければならない。おそらく、そういうことなのだろう。

……稲垣、猛省致します。がんばって授業準備します。ミスのないよう採点します。カウンセリングの技術磨きます。

(注)
注1:無意識というのは、思い出そうと思えば思い出せる、というもののことではない。そういうものは前意識と呼ぶ。たとえば、今朝食べたご飯のメニューや、来月の予定などは、言われれば、思い出せる。そういうものは前意識である。無意識とは、本格的に、夢でも分析しなければ触れることができないような、本人には極めてアンタッチャブルなものである。それが、無意識である。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ina

Author:ina
水曜の会用 文書置き場

カテゴリ
写真保管庫
最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。