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『自閉症の僕が跳びはねる理由』からの連想

東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由 会話のできない中学生がつづる内なる心』エスコアール

〈手のひらをひらひらさせるのはなぜですか?
 これは、光を気持ち良く目の中に取り込むためです。
 僕たちの見ている光は、月の光のようにやわらかく優しいものです。そのままだと、直線的に光が目の中に飛び込んで来るので、あまりに光の粒が見え過ぎて、目が痛くなるのです。
 でも、光を見ないわけにはいきません。光は、僕たちの涙を消してくれるからです。
 光を見ていると、僕たちはとても幸せなのです。たぶん、降り注ぐ光の分子が大好きなのでしょう。
 分子が僕たちを慰めてくれます。それは、理屈では説明できません。〉(p.92)

指導教官から教えてもらった本であった。“重度の自閉症であり、会話をすることができない。しかし、パソコンを用いて文字による意思伝達はできる”という極めて異例な方である。この本は、東田さんが中学生の際に書いた本。現在東田さんは、絵本作家・詩人として著作を行っているとのこと。

私は直接東田さんを知らない。だからこの本が、東田さんご本人が本当に中学生の時に書いたものかどうか、それは知らない。しかし、たとえこれがフィクションだったとしても、極めて強い感性の元に書かれた描写であろうと思う。そして、支援教育に多少は関わったものとして、この感覚はかなり、当を得ていると感じる。

3歳の息子を見ていてもわかるが、“表現されている言語内容”と、“理解しているであろう内容”にはズレがある。当然、表現されている内容よりも、理解されている内容の方が豊富である。そうでなければ、言語を習得して行かない。それを、子どもは知っている言語で、何とか表現しようとしている。表現されている内容しか理解していないと判断した場合、子どもを理解し損ねるのだろう。

それは、自閉性障害でもアスペルガー障害でもADHDでも、いや、障害などという名前がついていようがついていまいが、おそらく同じである。子どもたちが心を開く大人とは、大抵、その表現されている内容の“奥”を見ようとする人たちである。彼らを“子ども扱い”するわけではなく、子どもの年齢相応に、あくまで真摯に、表現されている内容の“奥”を汲み取ろうとする人たちである。

確かに、障害と名のつく状態であると、通常とは相当異なるシステムによって思考や感性が駆動している。そのため、少しでもシミュレーションに手を抜くと、“さっぱりわからない”ということになるのだろう。

しかし、相手と自分がある程度似通っていると、“わかった気になる”。残念ながら、それは、気がするだけである。

多くの場合、女性の方が、表現されている内容の“奥”を汲み取る力はあるように見える。字面通りに受け取ることよりも、ニュアンスや、アナロジーとして受け取る力があるように見える。統計をとったわけではないが、それを感性と呼ぶのだろう。

大抵、男の方がアホなので、これを取り損ねることが多い。私も含め。だから男は、女性から良く言われることになる。

「女心が分かってないのね」

そう。表現されているものの奥まで届く眼を持っている人は、相手が子どもであろうが、老人であろうが、異性であろうが、障害を持っていようが、表現されているものの“奥”をつかむことができる。たとえそれを言語で表現できなかったとしても、つかんでいることは、おそらく子どもには伝わっている。老人には伝わっている。目に、その力は宿る。

もちろん、言葉で伝えられた方が、より伝わるのであろう。しかし言語は、どこまで信頼に足るものなのだろうか。

「友達」といったとき、それを定義できる人がどれだけいるだろう。「勇気」といったとき、「愛する」といったとき。私は自信が無い。理解できているかどうかですら、怪しい。

谷川俊太郎は記す。

(谷川俊太郎『世間知ラズ』思潮社)

〈私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
世間知らずの子ども
その三つ児の魂は
人を傷つけたことにも気づかぬほど無邪気なまま
百へと向かう

詩は
滑稽だ〉

〈倉渕への道の途中で女と花を摘んで束ねた
知っている花の名は僅かだった
もろもろの観念の名は数多く知っているのに〉

もちろん、私は谷川俊太郎ほど、言葉に精通していない。ここまで精通してはじめて、言葉が信頼できない、と言えるのだろう。私などが言えた義理ではない。

まずは、真摯に、言葉を磨くしかない。

追記:「自分を好きになれるのなら、普通でも自閉症でもどちらでもいいのです」。この感覚を、私はどれだけ看取することができているのだろう。

〈自閉症の人は普通の人になりたいですか?
 僕らがもし普通になれるとしたら、どうするでしょうか。
 きっと、親や先生や周りの人たちは大喜びで、「普通に戻してもらいたい」と言うでしょう。
 ずっと「僕も普通の人になりたい」そう願っていました。障害者として生きるのが辛くて悲しくて、みんなのように生きて行けたらどんなにすばらしいだろう、と思っていたからです。
 でも、今ならもし自閉症が治る薬が開発されたとしても、僕はこのままの自分を選ぶかも知れません。
 どうしてこんな風に思えるようになったのでしょう。
 ひと言でいうなら、障害のある無しにかかわらず人は努力しなければいけないし、努力の結果幸せになれることが分かったからです。
 僕たちは自閉症でいることが普通なので、普通がどんなものか本当は分かっていません。
 自分を好きになれるのなら、普通でも自閉症でもどちらでもいいのです。〉(前掲書、pp.62-63)

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