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仕事選び:自分が本当にしたいこと

就職活動に関して問われる時期に入ったようなので、少し考えをまとめておこうと思う。実際のところ、私は就職活動もしていないし、自分で仕事を決めたというより、“私を私よりも知っている人”が私に仕事を任せてくれたために、何とか食いっ逸れていない程度のことなので、偉そうなことは言えない。それでも、一応考えるだけは考えたい。

1.趣味と仕事の違い

多くの学生が、“自分が本当にしたいこと”“本当の自分にあった仕事”という探し方をしているようだ。それは悪いことではないのだろうが、“本当の自分”というものを、一体どのような形で把握しているのかが問題となっては来るのだろう。強烈に深い意味で“本当”を受け取れば(たとえば霊的自己実現など)、私などは“本当の稲垣”をつかむことなど、一生できないだろう。軽い意味で“他者に迎合せず、相手に合わせていない自分”レベルであれば、まぁ多分、そのくらいはつかめてはいると思う。

ただ、「自分が本当にしたいことがわからないんです」と学生が言うとき、私としては腑に落ちないニュアンスを感じることがある。まるで、「まだ見ぬその仕事に就けば、自分のまだ知らない特別な能力が発揮され、周囲から賞賛の眼差しで見られ、楽しく愉快で快活で満足感が得られ、充実感が得られるのではないか。でも、まだ私は本当の自分を見つけられていないので、その夢のような仕事が見つかりません。で、本当の私はどこにありますか? 稲垣先生、わかりますか?」と聞かれているかのような、そんなものを感じる「ことが」ある(当然、誰にでも感じるわけではない)。

また、「本当にしたいこと」の中に、「やっていて楽しい」というニュアンスがとても強く感じられる(これは大多数の人から感じる)。

趣味と仕事を混同しているのだろうか。

趣味とは、金を払って楽しむものである。人は、好きなこと、楽しみたいことに対しては“お金を払う”ものである。ディズニーランドに行ったらお金がもらえる、はずがなかろう。金を払ってチケットを買い、入場する。私がバンドをするとき、カメラを買うとき、プラモデルを作るとき、CDを買うとき、金を払うのである。やっていて楽しいこと。そのためにお金を払うもののこと。それが、趣味である。

対して仕事とは、嫌なことをするかわりに、お金をもらうことである。

この2つは混同してはいけないだろう。

楽しんで、さらにお金も欲しいとなると、それは貰い過ぎである。好きなことだけを行って金銭を取得できるということは、残念ながら極めて少数の天才か恵まれた人間にしか許されてはいない。それは、“特権階級”である。

仕事が楽しい、充実している、という人はいる。私だって、それなりに楽しいと思っているし、充実しているとも思っている。しかし、楽しくて楽しくて仕方がないとは決して思わない。嫌だと思うことも、当然やっている。その中で、まぁ考えようによっては随分ありがたいよな、楽しいよな、そういうことを見付けることは可能である。多分、仕事が楽しい、と言っている人の“楽しい”の定義と、夢を見ている学生における“楽しい”の定義が微妙に異なるので、混乱も生じているのだろう。苦しいこともやるからお金がもらえる。その状態の中で、非常に楽しいことや嬉しいことがあれば、「なんかすみません…。ただでさえお金もらっちゃってるのに…。なんとお礼を言ったら良いのか…」と、深く感謝するようなものなのである。

2.やっていて苦ではないものを仕事に選ぶ

ということで、仕事をどのように選ぶのか、という点を考えてみる。

まず、私が持つ最大の基準は、

「やっていて、苦ではないもの」

である。一種の消去法ではあるのだが、その消去法はかなり緻密に、細部にわたり、徹底的に行わなければならないのだろう。これを大雑把に行うために、良くわからないことになってしまう部分があるようだった。

嫌なことをするかわりにお金をもらうのが仕事なのであれば、その“嫌なこと”と感じる主観的な度合いが問題となる。あまりにも苦手なことを無理してやらなければならないとき、その“嫌さ加減”は破滅的になる。対して、他の人が嫌がることをさほど苦ではなくやれるのであれば、それは金銭をもらっても良いのだろう。

たとえば、私は事務仕事が滅法苦手である。本格的に、致命的に苦手である。自分の履歴書すらまともに書けない。集計は致命的に間違える。間違えないようにするために、とんでもない労力を必要とする。その時点で、事務職は消える。他にも、始終身体を動かしていたり、寒い中ずっと立っていたりすることはダメである。できないこともないが、それをメインとすると、やはりとんでもない労力を使うことになる。気に食わない人の言いなりになることには極端にアレルギー反応を起こす。やはり、できないこともないのだが、驚くほど労力を使う。これらが“苦”であるために、どこかの組織に入って働く、というパターンが極めて困難であることがわかる(なるほど、かなり深刻な社会不適格者である)。

しかし、誰かの話を聞く、という点では、さほど苦を感じなかった。また、人前で自分が考えていることを滔々としゃべることに関しても、さほど苦を感じなかった。興味関心を広げることに関してもさほど苦を感じなかった。細かい手作業をすることも苦ではなかった。コンピュータをいじることにもさほど苦を感じなかった。文章や映像作品などの作者がどのような気持ちでそれを作成したのか、ということを考え続けることにも苦を感じなかった。

その結果、カウンセラーやら大学教員やらが、折衷案としてたまたま残ったことになる。他にも占い師や詐欺師も候補にはあったが、胡散臭さが強すぎることや違法行為が関連するために、除外されてはいる(占い師は諦めていない。“研究”の副産物でタロットも使えるようになったし)。

たいてい、苦ではなく行えるもののことを、他者は才能と呼ぶことが多い。

3.“好きこそものの上手なれ”について

次に、“好きこそものの上手なれ”という諺について考えたい。好きなことを仕事にしたい。声優であったり、イラストレーターであったり、アニメーターであったり。これは良く聞くものではあるが、少々立ち止まって考えたい。

得意/不得意と、好き/嫌いは同一次元で考えてはならないように思える。“好きこそものの上手なれ”という諺では、ある意味では一面しかとらえることができない。好きなものであれば、熱中する時間も、総合的に費やす時間も増加するであろう。そのため、嫌いなものよりも上達する可能性は高い。それは確かである。

しかし、たとえば“大工に家を建てて欲しい”という希望を持った人がいる。以下のどちらに仕事を依頼するであろうか。

(1)ものを作ることは大好きであるが、器用ではない人
(2)ものを作ることは好きではないが、とても器用な人

もちろん、“ものを作ることが大好きで、センスがあり、しかも器用な人”がいるのであれば、その人に依頼したいところではある。しかし、上述の二人しか選択肢がなかった場合、人は“器用な人”に依頼するであろう。おそらく、それが仕事を依頼する際の最低基準である。残念ながら、仕事の場合には他者との比較が問題となってしまう。金銭が絡むのだから仕方がない。

しかし、好き/嫌いというものをつかまえておかなければ、仕事を選ぶ“方向性”が定まらない。(1)の人と、(2)の人ではどちらが“幸せ”なのか。もちろん、その判断は容易ではないが、少なくとも、作業をする喜びという点に照準を合わせるのであれば、“(1)ものを作ることは大好きであるが、器用ではない人”の方が、大工をしていても喜びを感じるであろう。仕事は金銭を取得するためのみのものである、となった場合、生きることは苦しくなるだろう。ただ問題は、(1)の場合、仕事の依頼そのものがやって来ない可能性が高いことである。

内的なエネルギーは、興味関心が向く方向に流れる。“絵が好き”であるならば、誰でも漫画家になれるわけではない。画家になれるわけではない。しかし、その方向性を見誤らなければ、美術館の学芸員を仕事とすることで喜びを見出すことはできるかもしれないし、漫画雑誌の編集者として喜びを見つけることもできるだろう。その際、たとえば学芸員であるならば、丁寧に美術品を取り扱う技術を修練する必要がある。漫画雑誌の編集者であるならば、時間管理や交渉の力、売れる漫画家を発掘する技術を修練する必要がある。その技術が、金銭と交換可能なものにまで洗練されていること。それが、仕事である。そして仕事を行うことができる能力は、“生きる力”の重要な側面である。

4.一応、結論

と、いうことで、条件は2つになった。

・自分が好きなものに共通する系列をつかむこと
・やっていて苦ではないものの系列をつかむこと

好きなものをそのまま行うのではなく、系列をつかむ、という作業が重要である。そして、大まかな方向性の中で、やっていて苦ではないもののクオリティを上げること。それが、金を払ってもらえるだけのものになるように。

でもね。俺、就職活動してないんです。だから、説得力ありませんよ。

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