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björkの「All Is Full Of Love」について

昨日の水曜の会、テーマ:「何らかの映像を見て、いずれにしても小首をかしげる会」が終了した。卒業するにも関わらず、また春休みにも関わらず、集まっていただけた学生の皆様に大変感謝。

当初の予定では、

『チリンの鈴』(やなせたかしの1978年作のもの。大変ダークな作品だが、私は好き)
『多田宏師範 合気道技法全集 第一巻』の中から、「呼吸法」(大変胡散臭いが、私はわりと好き)

の2つを見て、皆で小首をかしげる予定であったが、どうも朝から気になって仕方がないので、björkの「All Is Full Of Love」のプロモーションビデオも見てもらうことにした。合計3つ。随分、皆様には負荷をかけたと思う。この場を借りてお詫びを申し上げたい。

「All Is Full Of Love」は、学生時代に見て、何だかわからないが、驚くほど背筋が凍る思いをしたPVだった(1999年作品)。居ても立っても居られず、DVDを手に入れた。ロボットがセックスをしている映像。その、あまりにも不気味で得体の知れない印象が拭えなかった。意味を汲み取ることができなかった。

All Is Full Of Loveと言っているのに、全く愛を感じられない。無機質で、どうしようもなく閉ざされた印象の中に、救いを感じ取ることができなかった。

1月末から今月にかけて、私はプラトンとプロティノス、井筒俊彦を読んでいた。あまり神秘主義に傾くのもどうかとは思ってはいるが、ただ、それらに照らし合わせた場合、All Is Full Of Loveは、もしかしたらこういう意味なのだろうか、と、ふと思ってしまった。

プラトン『国家』の中の有名な「洞窟の喩え」。

人間は、椅子に縛られていて、洞窟の壁面を見させられている。背後には塀があって、その後ろを、人々が通り過ぎている。人々は頭の上に、壷であるとか、籠であるとか、色々なものを掲げて通り過ぎて行く。塀と人々の先には、松明がある。その松明の光に照らされ、洞窟の壁面には、人々が運ぶ物体の「影」が映る。椅子に縛られた人々は、その影のみしか見ることができない。その影が、「実体」であると思い込んでいる。ごく稀に、縄の縛りが緩く、後ろを振り向くことができてしまう人が出てくる。しかし、影のみを見ていた目には、松明の光は強すぎる。また、二次元の平面である影に見慣れた目には、立体物はグロテスクに過ぎる。恐ろしくなり、結局また、壁面の影に目を向け、それが「現実」であると思い込もうとする。

しかし、洞窟の外には、太陽がある。松明ですら目を潰すのに、太陽が控えているのである。「哲学者」は、洞窟の外まで行かなければならない。しかも、太陽の光に照らされた世界を見た後に、再度、もう一度暗闇に目が慣れる訓練をした上で洞窟に戻り、人々にその見方の「コツ」を伝える「義務」が発生する。

それが、井筒俊彦『神秘哲学』におけるプラトン解釈であると、私は読んだ(私にはそう読めただけなので、間違っているかもしれない)。この解釈が正しいとするならば、真の哲学者とは、いわば、「あちら側」を見たものであるということになる。

「それ」は、太陽の光にたとえられる、と、プラトンもプロティノスも記す。それ以上に喩える手札がない、ということなのだろう。プラトンはそれを「善のイデア」と呼び、プロティノスは「一者」と呼んだ。井筒は、「本質」と呼んだ。私なら多分、「エネルギー体」と呼ぶだろう。

そこから切り離されてしまった場合、まるで粘土の世界に生きているかのような、現実感のない、膜のかかったような生となるということ。おそらく、その感覚は映画『マトリックス』で、極めて適切に表現されていたと、私は思っている(ただし、あくまで「世界が2つあること」の喩えとして秀逸であるという意味で、『マトリックス』の内容そのままが真実だとは思っていない)。

とすると、All Is Full Of LoveのPVは、「それ」から切り離された状態を映像化したものである、と考えると納得が行く。<この真実の所有ということは、外部から肉によって包まれていない者にして初めて許されることなのである>(プロティノス「エネアデス(抄)1」中公クラシックスp.111)という表現から私が連想するのは、肉体が、粘土でできている印象である。

粘土同士のセックス。もしそれを、現代的に表現するとしたら、ロボット同士のセックスとなるのではないか。徹底的に滅菌された、白と黒の世界で、無機質に交わること。それ以外に、快楽へは残された術がないほど、閉鎖された空間で生きていたこと。まるで、椅子に縛られて、洞窟の壁面しか眺められなかったかのように。そのような閉鎖された状態の中では、粘土同士のセックスであっても「最上」の快楽であるように思えるのではないだろうか。

björkがどこまでそういうことを考えていたのかは分からないし、どの「ランク」まで駆け上がった人なのかも知らない。ただ、björkの歌を聞いていると、私はいたたまれなくなる。苦しくなる。

私の感じるその苦しさが、閉鎖されていることに対するbjörkの自覚から来るとしたら、どうなのだろう。

大友克洋の『AKIRA』も、同じ主題を扱っていたと私は思っている。ハイデッガーは、そこに理屈一点突破で近づこうとしたのだと(そして失敗してしまったのだと)、私は思っている。サルトルはうっかり垣間みてしまったのだろうと、私は思っている(『嘔吐』におけるマロニエの木の部分)。カミュも、カフカも、そしてドストエフスキーも。

それらが、強力に閉鎖された状態で、今私が生きている「生」が映像化されたとしたら、こういうことなのではないか、と、私には思えてしまったのだろう。まぁ、悪趣味であることには変わりないのだが。

All Is Full Of Love

you'll be given love
you'll be taken care of
you'll be given love
you have to trust it

maybe not from the sources
you've poured yours
into

maybe not
from the directions
you are
staring at

twist your head around
it's all around you
all is full of love
all around you

all is full of love
you just ain't receiving
all is full of love
your phone is off the hook
all is full of love
your doors are all shut
all is full of love

あなたは愛を与えられるだろう
あなたは慈しまれるだろう
あなたは愛を与えられるだろう
そのためには、「それ」を、真に感じ取らなければならない

「それ」は、あなたがエネルギーを注ぎ続けて来たところからは得られないだろう

「それ」は、あなたが大切だと思って「印」をつけた、その方向からはやってこないのだろう

見回してごらんなさい
「それ」は、あなたの周りに或る
すべては、愛に満たされている
すべては、あなたの周りに或る

すべては、愛に満たされている
あなたが受け取ろうとしていないだけ
すべては、愛に満たされている
あなたの「受話器」がはずれているだけ
すべては、愛に満たされている
あなたの「ドア」が、すべて閉じられているだけ

本当は、すべては、真実に満たされているのに

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