スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

劣等感と優越感について

劣等感が極めて強い人、たとえばそういう生徒がいたとする。すると、教師としては「自信をつけさせるために、成功体験を与える」という方向になることが多い。それはそれで大切なことであると私は思っているが、成功体験そのものが本質的な部分ではない可能性について、出来る限り考えておきたい。

劣等感ということは、何かに「劣っている」という意識である。何に劣っているのか。それは他者と比較して、ということになる。その意識が過剰であるということは、他者を必要以上に意識している、ということが基礎として存在している。この点をまず押さえなければならない。

とすると、何らかの契機があると、この極端な劣等感は、極端な優越感に変化する可能性を秘めている。たとえば、現実的な能力(書類作成や金銭感覚)にやたら劣等感を持っている人が、何らかの契機があると、「自分に予知能力がある」というような、突飛な優越感を示したりする。プレゼンテーション能力に強力な劣等感を持っている人が、何らかの契機によって、「自分は世界を変えるのだ」と言い出すこともある(誇張はあるものの、どちらも私自身にある程度当てはまる)。

つまり、劣等感は、「優越感を持ちたい」ことの裏返しである。そのため、何かの形で強めの精神的負荷がかかったり、偶然の力が強い成功体験などを得てしまった場合に、過剰な優越感、ある種の万能感のようなものが生まれる場合がある。

人間であるから、浮き沈みはある。しかし、上述の例は、その浮き沈みが激しすぎる。劣等感と優越感は、いわば針の振れ幅である(サディズムとマゾヒズムのように)。どちらかだけ、というわけにはいかないことが多い。まったく針が振れないということはあり得ないが、それがあまりに激しく動く状態に対しては、大抵の場合、「不安定な人」という評が下る。

極端に優越感が強い人は、どこかにごまかしがあって、それが自分自身に露呈した場合に、極端な劣等感に苛まれることがあるかもしれない。極端に劣等感が強い人は、本当は他者よりも優越したいという欲望が猛烈に強いことになるのかもしれない。

劣等感であっても、優越感であっても、それが「極端」である場合には、いずれにしても自分自身の状態・性質を、正確にとらえることに失敗している。しかも、関心が、「他者より劣っているか優れているか」という点にしかなく、自らの能力をなるべく有効に活用する、という方向に向いていないということは、大きな問題点である。「劣っているのか、優れているのか」という部分にのみ関心があるという心性は、場合によっては、「他者にコントロールされるか、他者をコントロールするか」という思考パターンに直結する。

力関係や、そのバランスを無視しろ、と言いたいわけではない。パワーゲームをすべて回避しろ、と言いたいわけでもない。どんな人間においても、強い/弱い、速い/遅いなど、何らかの特性において、得意/不得意が存在する。ということは、人間が二人以上集まれば、パワーバランスに不均衡が存在することになる。その時に、補い合うことができるかどうかがポイントなのであり、勝つか負けるかがポイントになるわけではない。

パワーゲーム、というように、それは「ゲーム」である。ある種の「ごっこ」である。その「ごっこ」を通して、「負けたくない!」という思いのもと、練習し、技術を磨き、鍛錬する。それが、いわゆる競技スポーツにおける基本ではあろう。しかし現代において、それらは戦争ではないので、生きるか死ぬか、ということではない。「ゲーム」である以上、「ごっこ」である以上、それは「遊び」である。その目的は、相手を打ち負かし、コントロールすることにあるのではない。ある種神聖な「遊び」の中で、自らの能力を少しでも開花させ、成熟させることにある。

ここでいう「ゲーム」とは、「何らかのルールにもとづいて、勝敗が決定するシステム内で行われるごっこ遊び」のことである。前述の通り、私が「遊び」というとき、そこにはかなり神聖な意味を込めている。これに真剣に取り組まない場合、それは単なる「作業」に堕する。

ここでのポイントは、「何らかのルール」という部分である。同じプレイヤーであっても、ルールが変われば、優劣はすぐにひっくり返る。たとえば、ラグビー界ではいくら優秀な選手であったとしても、卓球をした途端、中学生に負けることも十分に考えられる。逆に、優秀な卓球選手がラグビーをしても、多分、そこまで芳しい成績は残せないだろう。そのとき、そのラグビー選手は「劣っている」のだろうか。その卓球選手は「劣っている」のだろうか。そういう話ではないことは、すぐに想像できるだろう。それは単純に、「ルールが違う」というだけである。

ならば、「ルールそれ自体の構造」に目を向けられるようになった方が良い。

たとえば、ラグビー選手も、卓球を行うことによって、その「ルール」から学ぶことは多くあるだろう。手先の上手な動かし方、動体視力、相手の細かな動きから意図を読み取ることなど。卓球選手も、ラグビーから、学ぶことは多くあるだろう。巨大なフィールドを俯瞰し、全体状況を把握すること、体幹を鍛える重要性、時間制限の感覚など。

だからといって、手当たり次第に、あちこち手を出せば良いというものではない。そこには目的が必要である。

私にとって、「本を読むこと、音楽を聴くこと、伊集院光のラジオを聴くこと、映像作品を見ること、美術館などに行くこと」「写真を撮ること、音楽を作ること、詞を書くこと、バンド活動をすること、笛を吹くこと、石粘土で何か作ること、絵を描くこと、エッセイを書くこと、考えていることをしゃべること」は、上述の意味での「遊び」である。相当真剣に「遊んで」いる。これらの小目標は、表現のチャンネルを増やすことにある。

言語で伝えられるものと、音楽で伝えられるもの、映像で伝えられるものは、それぞれ特性が異なる。得意/不得意がある。「ルール」が異なるからである。まず、作品などを受信することによって、それらの「ルール」を看取する。それらを元に、実際に自分でも表現してみることを行う。これで1セットである。

表現のチャンネルは多い方が良い。何か伝えたいことがある場合に、それら「どれか1つ」では、そのチャンネルが持つ特性でとらえる側面のみしか伝えられないことになる。なるべく、複数のチャンネルを総動員して、伝えたいことを表現しなければ、多分追いつかない。

たとえば、『バガヴァッド・ギーター』において、 戦士アルジュナが、神であるクリシュナに真の姿を見たいと望み、 クリシュナがそれに応えて神の姿を現すシーンである。

<われは見る、多くの腕・腹・口・目を有し、一切方に向って無限の形相を示す卿を。われは見ず、卿に終りあり、中間あり、はた始めあることを>
<冠を戴き、戟(ほこ)を執り、輪盤(cakra)を手にし、一切所に輝き渡る光明の集積として、一切方に火炎・太陽の光線を散じ、凝視し難く、測るべからざる卿を見る>
<初・中・終なく、無限の威力を有し、無数の腕を有し、日月を眼とし、輝く火炎を口とし、自己の光明によってこの一切を熱しつつある卿を>
<天地の間のこの空間および一切の方所は、実に卿独りによりて充満せられたり。卿のこの希有にして恐しき形相を見て、三界は愕然たり>
<急ぎて卿の口に入る、牙突きいでて恐しき。或る者は頭(こうべ)微塵に砕けて、[卿の]歯間に懸りて見ゆ>
<あたかも河川の幾多の激流、海に向いて奔走するがごとく、かくかの人界の勇者たち、炎(ほむら)立つ卿の口中に入る>
<卿は一切方において全世界を呑噬(どんぜい)しつつ、燃え立つ口をもちて舐め尽す。卿の恐しき光炎は、全世界を光明もて満たして熱す>
<聖バガヴァッドは言えり。/われは「時」なり>
(辻直四郎訳『バガヴァッド・ギーター』pp.183-189)

この「神」の姿は、始まりも終わりも見えず、何やら様々な色に光り輝いてグラデーションがうねっているような姿、とんでもない数の目と腕があり、火炎を吐きまくる口があり、死したるもの一切を吸い込んで(おそらくは再生したものを吐き出し)、その牙には死体がひっかかっているという凄まじさである(しかも、<われは「時」なり>ときたもんだ)。これを言語だけでどうにか伝えることができるだろうか。もちろん、『バガヴァッド・ギーター』は言語のみで相当頑張っているが、やはり絵にも描きたくなるだろうし、音楽としても表わしたくなるのではないか。彫刻にもしたくなるのではないか。本来は目に見えず、耳に聞こえないものを表わそうとしたら、表現チャンネルを総動員するしかないではないか。そして、考え得る表現チャンネルを総動員(あるいはすべてを撤去)することでしか近づくことすらできないだろうと、私は思う。

表現するチャンネルを増やすことは、受信するチャンネルの感度を上げることでもある。死ぬまでに、その感度をできる限り上げること。それが目的である。そのために私は、真剣に、死ぬ気で遊ぶ。

たとえば、このような観点に立った場合、優越であるとか劣等であるとか、そういうことがどこまで意味をなすのだろうか。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ina

Author:ina
水曜の会用 文書置き場

カテゴリ
写真保管庫
最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。