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7月15日(金)17:10から 水曜の会

7月15日(金)17:10から18:20
11−304
テーマ「説得の技法」

です。よろしくお願いいたします。

(6月17日(金)17:10から18:20 11−304 テーマ「マザコン・ファザコン」でした。事後報告で申し訳ありません)

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本を書きました 『狂気へのグラデーション』

勢いで書いてしまいました。多分、7月13日発売なのではないかと思われます(そう書いてあるので)。

エッセイ集ですが、紹介文としては「心理学のテキスト」となっております。いつも突っ込みどころが満載な文章ばかり書いておりますが「稲垣に興味が出てしまった奇特な学生の方ぐらいしか買わないだろう」と高をくくりまして、せっかくたまってきたので項目をまとめ、大学の出版部から出していただくことに致しました。

もし、お金を払ってまで稲垣の駄文にお付き合いいただけるなどというボランティア精神にあふれる方がいらっしゃいましたら、何卒、よろしくお願い申し上げます。部数が少ないから(確か初版1500部くらい)値段が高いです。334ページで2400円なのです。

怖いものです。たいして売れないことはわかっているものの、これほど他者からの評価が気になるものだとは思っておりませんでした。授業のようにある程度「閉じられたもの」とは随分感覚が異なるように思われます。

以下、目次です。こちらのブログに書いた内容のものもありますし、そうではないものもあります。いずれにしても書籍になる段階で加筆修正されています。

序 狂気について
不条理の中で/狂気について/狂気のフリを続ける狂気/怖がる勇気

一 ヒトとモノ
マネキン/ヒトとモノ/「ごめんなさい」と言えること/良かれと思ってやっているのに/「ありがとう」と言えること/惜福、分福、植福/自己卑下について

二 恋愛について
性欲とコントロール/恋する能力/告白するときのこと/理想化と幻滅/モテること/甘え上手と甘え下手/「自分自身のことが嫌いである自分が好きである」的な状態への対処/バランス理論/恋愛にスリルを求める人

三 愛すること
乾いた地面/最後の望み/身近になった人を、面と向かって褒め続けることの難しさ/加算法での評価/悪口/嫉妬/「愛する行為」と「愛されるための行為」は背反するか

四 話を聴くこと
丸く収めること/話し手と聞き手/「訓練の声」と「希みの声」/話を聞く型について/コミュニケーションにおける代価

五 共感について
x軸とy軸/引き換えたもの/deep layer への Dive/相手を深く知ること/「理解すること」のトレード

六 思い込みについて
偽善臭/思い込みと直観について/魔術的思考/信じたかったもの/『エスパー魔美』と「調子に乗ること」/すぐに合理化してはならないこと

七 仕事について
「ファン」と「仕事」/仕事選びと自分が本当にしたいこと/自信について/瓦礫どかし/趣味と仕事の相関/ぼんくら/自己分析を進めるにあたって/調子に乗ること/三年以内に職を変わること/三日、三十日、三ヶ月

八 目減りするものと増えていくもの
アイドル/十年後/目減りするもの/笑顔/楽器としての声/二十五歳を越えてからの表情/知的な踏ん張り力/三十五歳における「生き方」の固定化/ジャンクに割く時間/生き方の生活習慣病/人を見る目/継続して掘り進む「勇気」について/ストックフレーズを用いないように/誰かを査定しているつもりでも、相手もあなたを査定している

付録
投影について/個人的無意識と集合的無意識/アウトサイダーについて

アンビバレント

両価的、アンビバレントな状態というのは人間にとって基本であるのだろう。何かに迷うときというのは、AとB、どちらも同じくらい魅力的に映っているときである。そうでなければ迷うことはない。

薬物を続けることと、薬物をやめること。大量の酒を飲み続けることと、酒をやめること。異性あさりを繰り返し続けることと、おとなしく暮らすこと。リストカットをすることと、しないこと。そのような嗜癖や依存、中毒に関するもの以外であっても「迷う」ことはいくらでもある。仕事を決めるとき、結婚を決めるとき、勉強するか遊ぶかを決めるとき、仕事か友人かを決めるとき。どういうときであっても両価性は関わっている。

問題はそこで「緊急性」をとるのか「重要性」をとるのかである。これは私が繰り返し言っていることであった。基本的に「重要性」を軸にして物事を組み立てれば間違うことはない。しかし多くの場合、「緊急性」が「重要性」であるかのように見えてしまう。それが両方に価値がある「かのように」見える原因でもある。ほとんどの場合「重要度」は決定的に差があることが多い。

そして、重要性はその人が生きて来た中で培われた「生きることに関する指針」、いわば哲学によって判断される。どこかからか持ってきた借り物の哲学ではその場限りのものにしかならない。継続性はない。

何を重要だと思って生きているのか。大抵、意識していないことが多い。だからこそ緊急性に惑わされる。自分にとって本当に重要なこととは何であるのか。それをまず特定できるかどうかが肝である。

多くの金を稼ぐことなのか。賞賛を得ることなのか。他者の人生を操作できることなのか。ちやほやされることなのか。名声を残すことなのか。

本当だろうか。

無意識的に何を望んでいるのか。それを分析するところから始めるしかない。頭では何が大切であると思っていても、それはあくまで「頭で」考えただけなのである。家族が第一であると言う。子どもが大切であると言う。しかしギャンブルで借金を作り続けているとしたらどうなのか。「子どもを大切にしている行動」ではないのである。

行動である。それだけが判断の基準になり得る。「本当はこんなことを思っていたけれど、どうしてもやっちゃうんです」。ならば、「やっちゃうんです」の行動の方が真実である。

自分自身に対しては甘くなる。他者に対してはいくらでも「思ってるだけで、実行が伴わなければ意味がない」と言う。私もそうだ。しかし、自分自身に対しても、まず「自分自身の行動」から分析するしかないだろう。

自分自身を他者として扱うこと。それが自分自身をモニターすることの本義である。

平均的な一日のスケジュールを書き出してみることが功を奏することもある。だからこそ、ネット依存に対して、一日のスケジュールを書いてもらうのであろう。

書いてみると愕然とするのである。直面化したくないものをまざまざと見せつけられるのである。本当はそんなつもりではなかったのに、ということがはっきりと示される。

「こうありたい」という自分像といかにずれているのか、それに気がつくことになる。

気がついてヤケになる人もいる。自暴自棄になることもある。しかし、その「ヤケな行動」は本当に望んでいたことなのだろうか。

私は何を求めているのか。私の行動はどのような意味を持っているのか。

「ごめんなさい」に付ける言い訳

「すみませんでした」と学生から謝られることは多い。レポートや書類の提出遅れ、報告忘れ、遅刻、無断欠席等々。それらがメールでなされることもある。

大抵、それらには理由が付されている。しかし、どうもその理由付けが下手であることが多い。

何故理由を付すのか。私が誰かに謝る際に理由をつけるとしたら、「……ということがあったので提出が遅れました。事情を察して下さい。ね。事情がわかれば『だったらしょうがないな』って思いますでしょ?」と伝達するためであろう。誰でも同じかはわからないが、似たようなものではないかとは推察する。

ならば、それは言い訳なのである。本格的にやむを得ない事情であるならば(被災した、入院していた、忌引であったなど)公式の書類が存在することが多い。それを提出すれば良い。言い訳が必要な場合というのは「公式ではない」場合である。やむを得ない事情もあるかもしれないが、本人のやりようによってはどうにでもなったタイプの場合が多い。

そういう行為に対して言い訳をするのであるから、かなりの説得力が必要になる。だから私は「まず、言い訳してみようぜ。俺を説得できれば良い。作り話でも構わない。俺が感動したらOKだ」と言うことがある。しかしそう言うと、今度は言い訳をする学生がいなくなってしまう。不思議なものである。言い訳など、極端な話、フィクションでも良いのであるが。

私が謝る場合の大半は、書類の提出遅れである(頻発する)。これは本当に失念していることばかりなので、「申し訳ありません! 失念しておりました!」と言うしかない。私の場合忙しいわけでもないので、大した言い訳が思いつかないのである。しかし書類を提出しなかったことによって、相手方の作業が増えていたり、滞りが発生することも多々あり、それに関して本格的に申し訳ないと思う。私の場合を考えても、学生が何かを提出することを忘れていた場合、私の作業量は何かしらの形で増える。私が書類を提出しなかったことによっても相手に同じことが起こっているわけであり、それを考えれば誠に申し訳なかったとしか言いようがない。

言い訳を付すのは「察してくれるだろう」という期待があるからなのだろう。ただ、作業が遅れたことによって相手方に被害が生まれていることを考えた方が良い。私が提出しそびれていた書類のおかげでイライラしている人がいる(先ほど4カ月前に提出しなければならなかった書類を提出したばかり)。思い出したらとにかく速攻で送るしかない。緊急を要する事務作業の場合は特に、言い訳を「読む」時間など、相手方としては必要ない。むしろ仕事が増えるだけである。わざわざ相手の仕事を増やさなくても良い。そんなことをするぐらいなら次にしくじらないように、次につなげなければならない(でも、私は本気で書類提出を忘却する)。

しかし「相手の気持ちを傷つけた」というタイプのものについてはどうなのだろうか。これも基本的には謝る方が良いわけであるが、確かに書類提出忘れとは状況が異なる。異なりはするが、言い訳を付ける場合、「自分にはこういう事情があったのだから仕方がないですよね。それ、察してくれますよね」というものになり、近似の状況になるのだろう(注)。

謝る行為も情報のやり取りである。コミュニケーションである。ならば、一方的ではいけない。この場合「言い訳」と称するか否かは難しいところではあるが、ある程度の情報提示はした方が良い。そうしなければ自分の状況を伝達することができない。つまり「話し合い」をした方が良い。

「話し合い」ということは、そこには何らかの「トレード」が必要である。特に謝るというコミュニケーションは感情(気持ち)が強くからんでいるので、相手の状況や気持ちも理解した上で、それを理解していることを伝達した上で、自らの都合を伝えなければならない。それをせず、自らの都合だけを言い訳として用い、相手に伝えようとするから失敗する。自分勝手になってしまう。「察して下さい」のみを前面に出すから相手の怒りに火に油を注ぐことになる。受け入れてもらおうという意図だけだから問題なのである。それは単なる押し付けになってしまう。そうではなくて、「あなたの状況を察しました。まだ伺ってはおりませんが、私が察した内容はこのようなものでした。その点について本当に謝ります。ただ、それを理解した上で、私の状況も説明させていただきます」という形式、これが最低限必要になる。

「言い訳が思いつかないから一切言い訳をしない」という割り切りもどうかと思う。ただ「相手のことを察する」ということを第一に考えれば、上手い言い訳、というより話し合いがもう少し円滑にできるかもしれない。

「察する」などというと「何を日本的なことを言っているか」と言われそうであるが、欧米人だって「察する」ものであろう。少なくともロジャーズはempathyについて延々と記している。「共感する」ことと「察する」ことには共通部分が多い。いずれも言語化されていない感情を受信することなのである。目に見えていない部分で何が動いていたのかを推測し、それがいかに困難なことであったのかに思いを馳せるのである。目に見えている、言葉になっていることだけしか見ない者を「野暮」と言う。

しかし、言い訳をエレガントに行うというのも、たとえ優雅であったとしても「低次」の話である。なにせ、言い訳なのであるから。

何かが行われるためには準備がいる。見えない部分で動いている人たちがいる。コインを入れたら完全に出来上がった料理が出てくるわけではない。仕込みがある。皿洗いがある。包丁を研いでおく準備がいる。そのために、一体どれだけの人が関わっているか。どれだけの準備が必要であるか。そこに思いを馳せることができない人間が「野暮」と呼ばれるのである。たとえ実行する人間が一人きりであったとしても、何かが行われるためにその人は準備をしている。周到な準備が行われているほど、それを享受する者は「まるでその場で、即興で行われたように見える」。つまり、準備がなされていたことなど感じさせない。準備が透けて見えるうちはまだまだである。準備を褒めて欲しいだけの青二才である。

一流はその準備を見せない。一流の料亭を考えてみれば良い。そこでの対応、庭の感じ、出された食事のクオリティ、すべてが周到に準備されているだろう。ただし、その準備はことさらアピールされていない。

しかし、まったく見えないほど完璧な準備を、さらに看過する心眼を持ってこそ本当の「粋」なのであろう。そしてそれは気がついても言葉に出してはいけない。秘めて、察し、その上で適切に応じる必要がある。そこまで行けば、阿吽の呼吸の本質に触れることもできるのだろう。背後の膨大な準備を互いに看取した上で行われることが阿吽の呼吸であろうと私は思う。

野暮なままで生きていたいと思うか。私は嫌だ。そして私はまったく修練が足りない。

注:事実と異なる「誤解」があるならば解いた方が良い。しかし、その場合は「話し合い」と呼ばれる。言い訳とは呼ばれない。

「武力」とダークサイド

朝8:00、新宿。総武線ホームの「黄色い線の外側」で、若い駅員が、30代サラリーマン風男性にぶつかる。男性は駅員に押される形で柱にぶつかる。男性は駅員を見るが、駅員は黙ったまま無表情で男性を見下ろす。駅員の方が男性よりも背が高かった。

見ていて「あれ?」と感じた。こういう場合、さすがに駅員が「あ、すみません」ぐらいは言った方が良いだろうと思った。

男性は怒った。

「おい、お前がぶつかって来たんだろ? 何とか言えよ」

駅員はムスッとして見下ろしたままである。男性はヒートアップして、最終的には、

「お前がぶつかって、俺がこうして怪我したんだよ! てめぇ、何とか言えよコラ!」

と怒鳴り始めてしまった。しかし駅員は、そしらぬフリを(頑張って)通し、ホームに入ってきた総武線に向かって旗を振り、指差し確認を始める。男性はその様子にさらにヒートアップし、怒鳴り続ける。

やがてもう一人年配の駅員がやって来て、男性に話しかける。年配の駅員は本当に申し訳なさそうな顔をして謝っている。男性は激昂したまま状況を説明している(今度は「怪我をさせられた」までは言っていなかった)。

私は電車に乗ってしまったので、その後どうなったかはわからない。

もしこれが駅員と客という区分ではなかったら違ったのであろうか。客同士だったらその男性はどのような反応をしたのであろうか。混雑したホームではなかったら、朝ではなかったらどうだったのだろうか。

私には、二人が元々イライラしていたように見えた。駅員は「こんな仕事につかされて、やりたくないことをさせられている」というような雰囲気を漂わせていた。男性は、まるで昨日「取引先で下げたくもない頭を何度も下げて、相手のご機嫌をとることに疲れている」ようにも見えた。もちろん、想像でしかないけれど。

駅員は、その男性を見下ろすことで鬱憤が晴れたのだろうか。男性は、大声で恫喝することで鬱憤が晴れたのだろうか。お互い、相手がプロレスラーのような人だったとしたら、同じことをしたのだろうか。

もし相手がプロレスラーだったら「そういうこと」をしないのであれば、何らかの「武力」を担保とした暴力だったということだろう。体格の差でも良い。駅員と客という立場の違いでも良い。何かしらの「パワー」の不均衡を担保としている行為であるようにも思われた。

駅員にぶつかられたのが私だったらどうしていただろう。私も、駅員に対して何かしら言葉を発するようにも思う。大声を出すことはなかったかもしれない。それでも私の身体は戦闘態勢に入ったのではないかと思う。動悸は激しくなり、手に汗をかき、口は渇き、体温は上がっただろう。それを抑えて(舌打ちぐらいはして)立ち去るにしても、後から駅員の見下ろす目つきを思い出し、悔しい気持ちになったのではないだろうか。

結局私の中には、その男性と同じような性質が眠っている。ただ、やり方が違うというだけである。

後から公開の文章で訴えたかもしれない。穏やかに「上」に話を持って行くかもしれない。しかし何かしらの方法で「戦おう」としていたのではないかと思う。

「駅員と仲良くなろうとする」ことではなく。

戦ったとして、駅員に「すみませんでした」と言わせたとしよう。「勝った」としよう。そこで私は何を求めるのだろうか。心の底から申し訳ないと思って涙を流して欲しいと思うのだろうか。駅員の給料が下がって、困ったことになって欲しいと願うだろうか。

私が誰かに謝るときのことを考えてみても、心の底から申し訳ないと思って涙を流すことなど「ない」。皆無とまでは言わないが、ほとんど皆無に等しい。なにせ私は多くの場合「自分は正しかった」と思っているのである。それを抑えて「むしろ、謝ってやっている」と思うだろう。ならば、駅員だって同じようなものではないだろうか。また、その駅員に今後指導が入るぐらいのことはあるかもしれないが、給料が下がって困ったことになるほどの罰は下らないだろう。

もし本当に、駅員が涙を流し、駅員に強力な罰が下ったとして、私の気持ちは晴れやかになるのだろうか。一時的にはなるかもしれない。しかし、長くは続かないのではないのではないか。

とすると「戦って勝つ」ことが、私の求めることではないことになる。では、私が望んでいることは何なのだろうか。

「相手から尊重され、敬意を払ってもらいたい」ということではなかったか。

「尊重」や「敬意」を得るために武力を用いることは、どうも効率が悪いようにも思う。いや、効率が悪いどころか、決して「尊重」「敬意」に到達しないようにも思う。核兵器で対外的に脅す国を「尊重」して「敬意」を払うかを考えてみたほうが良いのだろう。私だったら「尊重」もしたくないし「敬意」も払わない。内心で「バカだなぁ……」と蔑み、表面的には穏やかに「尊重」したフリをするだろう。もし周囲の人々が私と同じような感覚を持っているとするならば、武力を用いて威嚇することは相手から「バカだなぁ……」という蔑みを集める行為になってしまう。

ならば私が敬意を払う、尊重したくなる人はどのような人なのだろう。度量が広く、「自由にやりな。大丈夫、何かあったら俺がなんとかする。ただ、自分でできるだけはやってくれないと、さすがに俺は悲しいぜ」というような人に対してかもしれない。「そうか、みんな色々あるだろうな。人に八つ当たりするってのは見てても悲しいけど、でもまぁ、俺はなるべくそうしないように生きていたいって思うんだ」というような人かもしれない。

そういう風にできれば良いのだろうか。

部下や生徒、学生に対してはなんとかなるかもしれない。それは「仕事」だからである。金をもらっているから多少はできる。しかし、いわばプライベートな時間に、向こうからぶつかってきた駅員に対しても、私は、私が敬意を払うであろう人のような行動がとれるのだろうか。

相手がレイプ魔だったらどうするのか。相手が連続殺人鬼だったらどうするのか。

もちろん極端な話ではある。しかし、人間であるから許容範囲がある。とはいえ「不機嫌な駅員」ぐらいは許容範囲に入れられるくらいの余裕を持って生きていたいようにも思う。

ただ、思うことと実行できるかどうかは異なる。私は怒りっぽい人間であるし、何らかの形で復讐したくなる気持ちを抑えることが難しい。復讐など実行したことはないがしかし、もし「そういうこと」ができる「パワー」を身につけたら、私は気持ちを抑えることができるのだろうか。

できない気がする。

『AKIRA』の鉄男を見て、私は自分の性質を垣間見る。のび太の愚かさを見て、私は自分を重ねてしまう。超能力を持ってしまったらきっと、「どくさいスイッチ」を持ってしまったらきっと、私はすぐにでもダークサイドに落ちる。

いや、もう落ちているのかもしれない。自分ではわからない。
プロフィール

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Author:ina
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