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目減りするもの

目減りするもので戦ってはならない。これは私が繰り返し伝えようとしている内容ではある。戦うという表現が剣呑であるなら、目減りするものだけに頼ってはならない、と言っても良い。

加齢とともに「確実に」衰えるものとは何か。それが「目減りするもの」である。筋肉のみ、美貌のみ、高音域が出る声のみ、大量に食料を食べることができることのみ。基本的に「肉体」のみを用いるタイプのものが、加齢とともに目減りするものの代表格である。あるいは、知識的なアーカイブ「だけ」のような状態もまた、たとえばコンピュータによって代替可能になり得る。これも目減りしていくタイプのものである。単なる物知りなど、大して使いようが無い。

投資家の場合を考えてみる。目減りしていくことが確実なものには投資をしない。「今後も成長を続けるもの」に投資をする。だから、目減りしていくものについては「レンタルする」。購入などしない。古くなったら新しいものに替えれば良いのだから、いつでも変更できるよう、身軽な状態をキープしようとするはずである。職場にある多くの機材は「リース」であろう。コピー機などの電化製品など明らかに「消耗品」である。そういうものはレンタルするに限る。そういうことである。

筋骨隆々としていて重いものを運ぶことに長けている「だけ」の男は、労働力としてレンタルすれば十分である。若くて綺麗な女の子な「だけ」であれば、それもレンタルで十分である。正規雇用する必要などない。もちろん付加価値として筋肉や美貌がついているのであれば、それは「お買い得」ではあるが、真の投資対象は知性と感性である。

これを結婚に置き換えても良い。見目麗しい「だけ」の女性を、大金持ちの男が結婚相手として選ぶかどうかを考えた方が良い。美しさはあくまでも付加価値でしかない。本体がなければならない。

失明したとしても、その人と一緒に居たいと思えるだろうか。『春琴抄』ではないが、それなりに良く用いられるたとえではある。ただこれは、結婚であるとか誰と付き合うかであるとか、そういったことを考える際には非常にわかりやすい。表情にその人の生き方が出ることは確かではあるが、それよりも声質、用いる言葉、そういったものの方にはるかに出やすい(というか、隠しにくい)。脳の情報処理過程を見ても人間は視覚情報に頼りすぎている。逆に言えば、そちらが「誤魔化される」影響を最も強く受けるシステムでもある。そちらを一旦脇においておく必要はある。

もちろん、目減りしていくタイプのものを全く用いないというのでは話にならない。あるものはフル活用する必要がある。それが、手札をうまく使うということでもある。しかし、使い勝手が良い、時間限定の、目減りしていくだけの「ジョーカー」だけを用いていたら、他の手札は何も使われず、使い方さえ知られることなく終わる。気づいたときにはもう遅い。たいてい、期間限定のものがなくなってから気づく。「若さ」を失ったとき、目減りしていかないタイプのものを「増殖」させていなかったことに気づく。

「若さ」は、そのまま武器として使うのではなく、目減りしていかないタイプのものを「増殖させるため」に用いなければならなかったのである。具体的に言えば、「視力」が整っているうちに本を読むことであったり、「長距離歩いても大丈夫」なうちに様々な場所を見に行っておくことであったり、ということにはなるのだろう。どんな本でも良いわけではないし、どんな場所を見ても良いわけではないから物事はそう単純ではないが、たとえばそういうことである。

私は良く、「容姿の上にあぐらをかく」という言い方をしていた。特に私自身が大学生の頃、見た目が格好いい男、パッと見が綺麗な女性、そこ「だけ」で、目減りしていかないタイプのものを一切磨こうとしない傲慢な男女を見て思っていたことだった。そして自分もその仲間の一人なのではないかと感じ、戦々恐々としていた。そして、もがいていた。

学ばなければならない、自分自身に「投資」しなければならない最大のものは、「誰かを愛すること」なのである。たいていの人は、目減りするもの、多くの場合は肉体を「誰かに愛されること」のために用いてしまう。これが最大の敗因である。

「今後成長する」とは、「今後成熟する」ということである。愛されること「のみ」を求める人とは、小さなお子さんである。誰かを養育することができるものだけが、後進を育むことができる。そして、それを大人と呼ぶ。養育するとは、与えることである。身体的に慈しむということは必要であるが、与えるものは智慧であっても、感性であっても良い。場合によっては知識や技術というものは必要であるが、特にコンピュータが発達している現在、これらは代替が可能である。「自習」できる。そのため、「知識を得る方法そのもの」であったり、「技術の見つけ方」であったりするものを伝える必要があるのだろう。

Googleで検索できないものをどれだけ与えることができるのか。他の「若い子」に交換できないものは一体何なのか。

これをどれだけ自問したのか、どれだけもがいたのかが、その人の「他者を愛する能力」を決定する。だから、元来体格が良かったり、美貌を持って生まれている人は「ハンデがある」とも言える。体格がそこまで整っていなかったり、さほど容姿が優れていない場合には、目減りしていく筋肉や美貌を「頼ることができない」ため、目減りしないものを探すことを早期に開始できる可能性がある。もちろん、体格が悪いこと、ブサイクであることに腐って、いじけて何もしないという人もいるだろう。過剰にプラスでも、過剰にマイナスでも、どちらも「ハンデ」として効力を発揮するということなのだろう。「誰かを愛する」ことができるかどうか。その能力の修練にとって「ハンデ」である。

しかし私は、その「ハンデ」を乗り越える人に興味がある。

……。はい。何か偉そうに書いてますが、私自身が努力します。頑張ります。
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「愛する行為」と「愛されるための行為」は背反するか

「誰かを愛する」ということと、「誰かに愛される」ということが背反するかのような印象を持っている人が多いようには感じる。つまり、エネルギーをどちらかにかけたら、どちらかが行えなくなる、という認識である。

しかし、そうではない。

私が「愛する」という場合、エーリッヒ・フロムの定義を援用している部分がある。フロムは、「あなたのことが必要だから愛する」という形式が「子ども」の愛であり、「あなたのことを愛しているから必要である」という形式が「成熟した」愛である、という。そして「愛は技術である」と。

それを踏まえた上で、私の定義を再度記す。

「誰かを愛するとは、その相手に“あばた”があるからエネルギーをかけない、という選択肢を排除すること」

私が用いる場合の「愛する」もまた、具体的な行為のことを指している。

さて、「愛されるために愛する」となるとどうなるか。これは「必要だから愛する」のパターンになることが理解できるだろうか。極端に言ってみれば、おっぱいが飲みたいから母親を大切にする、という話である。これが「子ども側から」の愛である。そして未成熟な愛の形式である。

母親側から授乳の現象を考えてみよう。母親はおっぱいを「与えている」。具体的に「愛する行為」を行っている。それは子どもから「愛される」ためであろうか。そうではない。子どもに対して具体的におっぱいを与えるという「行為を行うため」に、子どものことが必要なのである。即物的な例なので身も蓋もないが、行為が成立するためには対象が必要になる。これが、成熟した愛の形式の雛形である。

その結果、どうなるか。子どもは母親を必要とする。必要だから母親を愛する。外部から見れば、「子どもは母親を愛している」。もっと単純に言えば、「子どもは母親のことが好きである」。

結論だけを眺めれば、母親が子どもを愛し、子どもがそれに応えて母親を愛するようになった、ということになる。

最終的には、与えることによって「愛される」ことが成立しているのがわかるだろうか。

難しいのは、「愛されるために、愛する」という意識でいると、この形式に届かないことである。行為が「愛されるための道具」として用いられるとき、押し付けがましさが出る。「ほら、私のことを愛しなさいよ!」という強制力が働く。そして、そのタイプの行為は持続しない。与えたからといって好いてくれるわけではないし、むしろ嫌われることもあるだろう。反抗期の息子などが相手であれば、ほぼすべての行為は反発される。「ほら、私のことを愛しなさいよ!」系の行為は、見返りがないと頓挫する。あっという間に。

しかし、再度授乳の例に戻れば、「そのまま放っておいたら乳が張ってしまうし、かといって捨てるのも何だから、それなら赤ちゃんに飲んでもらえば良いか。それで子どもの身体が成長するなら一石二鳥だ」ぐらいの感覚であれば、拒否されようが嫌がられようが、そこまで大きな問題とはならない。そして、そのぐらいの寛容さがある行為に対して、人は好感を持つことも多いだろう。

ということは、本質的に与える行為を継続して行っている場合には、「愛される」ことが返報される確率は高くなる。

あるいはこういうことを考えてみよう。誰かに与えるために自分は我慢しなければならない、身をやつさなければならない、と思っている男がいたとする。彼女に尽くしまくるその男が、自分の服装はみすぼらしく、散髪に行く金もけちってプレゼントを買い、食事もカップラーメンで済ませて彼女にはフランス料理を振る舞う。「尽くしている」と見えなくもないが、実際のところ、そんなみすぼらしい男と付き合っていたいものであろうか。不潔で押し付けがましい男だと思われて終わるだけではなかろうか。

そうではなくて、相手の女性から「気に入られる」、言い方を変えれば「愛されるため」の身奇麗さを整えておくことは、彼女のことを「もてなす」ことにもつながっている。この場合、「愛する行為」の中に、一つの道具として「愛されるための行為」が含まれている。図で描けばこういうことになる。

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つまり、「相手をもてなす」ということが極めて重要になってくる。人によっては、そのもてなし方に得手不得手がある。言葉巧みに相手の長所を伝えまくることができるタイプの人もいれば、言語的には不器用な人もいる。部屋を清潔に保つことが得意な人も下手な人もいる。人間であるので、得意不得意はある。当たり前だ。しかし、少なくとも得意な分野(自分の中で、他よりマシな分野)では、相手に対して「もてなす」行為を「継続する」必要がある。その訓練をしておかなければ、子どもを育むことなど、おそらく極めて困難なのである。虐待を行いやすい親を見れば、このあたりが非常に手薄であったことが良くわかるだろう。いくら「子どものことが本当はかわいいのです」などと口で言っていたとしても、具体的な行為を継続して与え続けるという訓練がなされていないから、散発的な、気分屋的な行為で終わってしまう。そして、「こんなにやってやってるのに!」という思いのもと、反撃として暴力を行うこともあるだろう。もちろん、虐待の原因はそれだけではなかろうけれど。

若い時分は「誰かから愛されること」にエネルギーを割くのは致し方がない部分がある。それが「若さ」そのものの定義でもある。ただ、何歳までが「若い」のかどうかは難しい。ある時点で「愛されるための行為」だけに注力する段階から、「誰かを愛する」段階に移行しなければならない。

勉強をして行く過程のことをエスカレーターの比喩で表現する人もいるが、これもおそらく同じである。下りエスカレーターを頑張って登ろうとしてみる。一生懸命登っているのに一向に外の景色が変わらない。こんなに頑張っているのにどうして進まないのか。しかし、進んでいるのである。登っているのである。エスカレーターは終わる。次の階に到着する。ある瞬間を迎えたとき、「あぁ、こういうことだったのか」と極めて単純なことに気が付き、2階に到着している。あれほど登ることが困難であったのに、2階を歩きまわることができる。この、「急に楽になる」という地点まで踏ん張ったことがない人は、愛する行為であろうが、10キロ走ることであろうが、試験勉強であろうが、挫折する。頓挫する。継続しない。そういう意味で、意味がないと思われるような「お勉強」や「習い事」を我慢して続けることは有効である。そこで、ある種の踏ん張り力がつく。それは趣味であっても同じである。たとえミニ四駆やカメラであっても。

ただし、エスカレーターが2階で終わりではない、という部分がまた難しいところではある。3階、4階…。延々と続き、終わりはない。その都度、エスカレーターを逆に登っていかなければならない。階によっては、エスカレーターの速度も異なる。

しかし、「登り方のコツ」自体は同じである。だから、「何か」をやり遂げることができた人というのは強い。やり遂げるというのは、何も世界的なレギュレーションを突破できたかどうかに限らない。1年かけてレタスを育てた、ということでも良い。8000ピースのパズルでも良い。得意なことを努力せずにやっていたら褒められて愛されました、で終わっていなければ良い。生まれ持ったポテンシャルが高かったから、他の人よりもハイレベルな地点でまとまることができた、というだけの人には、残念ながら踏ん張り力はない。才能にあふれていたのかもしれないが、枯れるのが速いと感じられるような人は、たいてい「踏ん張り力がない」タイプの人であったと思えまいか。

しかし、生きている中で、何も踏ん張らなかったはずがないのである。それを思い出さなければならない。他者を、そして自らをもてなすために。

「相手をもてなす心意気」のことを私が何と呼んでいるか。

色気である。

はい。毎度のことですけど。継続性ないですからね、私。頑張ります。でも、エスカレーターで2階ぐらいまでは来たんじゃないかなぁ…。スカイツリーぐらいの高さの中で。

引き換えたもの

ドトールに入って窓の外を見る。ゲームセンターの入り口で『アイドルマスター』のアニメが流れていた。夏の空は鮮やかで、夕暮れは暖かく、海はタヒチのように青い。木々は若々しく、道にゴミは落ちていない。アスファルトは補修の跡など一つもなく、街に工事中の区画などない。映画のセットよりもさらに統制された、印象のみを戯画化したものになる。

もし、現実の世界ではなく、このアニメの世界を基準として世界を見たらどうなるのだろうか。

製作者はおそらく、ある程度わかってやっている。『ゴッホの手紙』を読んでいると、ゴッホにしたって、「観たまま」の個人的な印象をいかに画布に移すかを腐心していたように読める。この絵具では輝く小麦の色は出せない、海の色が出せない。しかし金がないからこの絵具で我慢する。そんな記述が多数記されている。現在では評価されている画家だとしても、本人は「まだ違う」と思い続けていたように読める。

たとえばゴッホの絵であらわされたパリを基準としたら街はどう見えるのか。ゴッホの観た世界は、そのままの形で画布に顕れることはなかった。残された作品は、あくまでゴッホの観た世界の「下方の」近似値でしかなかった。だが、その近似値を基準としたらどうなるのだろうか。より一層、ゴッホの観た世界には到達できないことになりはしまいか。

アニメの文法、ゲームの文法、絵画の文法、写真の文法。「自分の眼」を持つには、それらの印象を相対化するしかない。そのためには、「製作者の眼」を想定できなければならない。しかしそれは、騙されることの拒否でもある。その覚悟を決めたとき、ディズニーランドの魔法にかかることはなくなるだろう。

何らかの理論であっても小説であっても、おそらく同じで、そこに示されたものは、製作者が世界を眺めた姿の近似値でしかない。無骨で、ざらざらした、不器用なものでしかない。たとえ巧みな言葉を用いていたとしても。

いくら情報を集めたところで、製作者が観たものに直に触れることはできない。しかしそれは、何も芸術や文芸に限ったことではない。目の前にいる人が発した言葉も同じである。表情も身振りも、その人が観る世界の近似値しか現してはいない。

目の前にいる人「そのもの」には決して到達できない。恐ろしいほどの断崖がある。そんな断崖などないと思いたいものは魔法にかかれば良い。魔法にかかる能力と引き換えに得るもの。おそらくそれが、「他者を理解しよう」という覚悟なのではないか。

本当は騙されたい。十全に理解しあえていると思いたい。幸せに騙してもらって、安穏を欲しがっている。ならば、誰かを愛するとは、その安穏を拒否することを出発点とするのだろうか。

私は何に騙されたいと欲しているのか。私には、どれだけ膜がかかっているのか。

断崖を覗くのが怖いからだ。

『エスパー魔美』と「調子に乗ること」

Amazonプライムで見放題のため、藤子・F・不二雄の『エスパー魔美』をアニメで見ていた。

魔美の友人である高畑君は、自分がエスパーになったと思い込んでいた。しばらく調子に乗って、「魔美の前でだけは」その「秘密」を打ち明け、二人で特訓をする。しかしある日、魔美のちょっとした失敗のために、エスパーは高畑君自身ではなく、魔美であったことに気がつく。

そのとき高畑君は、「しばらく君とは会いたくない」という。「この気持ちに整理がつくまでは」。その理由は、魔美に対する怒りではなかった。「よく考えれば気がつくことなのに、自分がエスパーであると思い込んでいた、その迂闊さが許せない」からであった。

多くの場合、迂闊である自分の姿を気づかせた相手に対して怒りを持ってしまうものである。これが「恥をかかされた」感覚でもあるのだろう。ここで相手に怒りをぶつけず、自らについて内省する方向へエネルギーを用いることができる人間はとても強い。

ただし、エネルギーの向け方にもコツはいる。「どうせ俺なんか」というパターンでは先に進めない。それは、単に慰めて欲しいだけであったり、本当は違うよね、君は凄いんだよねと言って欲しいだけであったりする。結局、前には進んでいない。

実際には、「恥」の元となっているものは多くの人に「常時」公開されている。カツラみたいなものである。そのカツラを皆の前で取ったからといって怒りをぶつけても、あるいは何らかの方法で腹いせや仕返しをしても、結局「バレている」のである。周囲の人は、面と向かって「ハゲ」と言っていないだけである。

恥を露わにしてしまう行動は、うっかり人前で言ってしまう、叱る、嫌味、吐露など、様々な形式が考えられるだろう。どうでもよいことならば過剰な反応など起こらない。そこにある種の「迂闊さ」が存在する場合には、「恥ずかしさ」がセンサーとなる。

つまり、「恥ずかしさ」があるときこそ、乗り越える契機が訪れていることになる。

しかし、乗り越えるのはそう簡単ではない。上述のように、恥をかかされると、恥をかかせてきた相手に何らかの報復を行いたくなったり、すねたくなったりしてしまうものである。この難しさの元には何があるのか。

恥の元となったものを、消してなくしてしまうことはできない。ハゲはハゲである。植毛してもハゲである。多くの場合、恥の大本となった性質というのは、生まれ持った性質に起因していることも多い。消そうにも消せないものも多いのである。ということは、元来の性質をどのように用いるか、という点が問題となっている。

高畑君はそこに気づいた。「自分がエスパーではなかったことは残念だけど、僕にもやれることがあることに気がついた」。それは、魔美が使い方のわからない力を、適切な形で用いることをサポートする、いわばコーチとしての役割であった。そのために、分析能力や技術補助などを行うことにしたのであった。

最初、高畑君は「ないものねだり」をしていた。自らには備わっていないものを求めることによって、もともと持っている分析能力や冷静さ、論理的に組み立てる能力などを適切に用いることができていなかった。それは、魔美が超能力を持て余してしまっている状態とも相似形である。高畑君は魔美のコーチを行うことによって、自らの能力を用いる術も深めていった。その高畑君の姿がモデルとなり、また適切な論理構築や道具なども助けとなって、魔美もまた、自らの超能力を適切に運用することが可能となる。

もちろん、だからといって、私が誰かに恥をかかせてしまったことを言い訳するつもりはない。恥をかかせてしまったということは、それは伝え方やタイミングが最悪だったということである。恥をかかせずに、大切なことを伝達する必要はある。このあたりは繰り返し引用している『葉隠』が参考になるのだろう。

結局相手に何も伝えず、ニコニコして見守るだけでは、人前で、沈黙の中で、恥が晒され続けることになってしまう。もし本当に大切な人なのであれば、どこかのタイミングで、その性質を適切に運用できるよう、何らかの形で伝えなければならない。

私はその伝達に失敗する。うまく行く場合もあるが、失敗と成功はほぼ半々という感じがする。ただ、関係ができていれば、その失敗も何とかリカバリーできることはあるらしい。これは実感である。

問題は、関係ができていると思い込んでいるだけのときである。特に、相手に対してある種の「幻想」を投げ込んでいる場合、たとえ周囲からは仲が良く見えたとしても、そこには本来の交流は生まれてはいない。互いに、あるいは片方が、目の前の人ではなく、自らが作り出した映像とやりとりしている一人相撲なのである。

一人相撲を防ぐためには、まず「相手そのものには決して到達できない」「他者のことを十全に理解することは不可能である」という強力な自戒が必要になる。相手のことをわかった気になってはいけない。わかってなどいないのである。

話を戻すが、迂闊さを引き起こす元には、自惚れ、傲慢、自棄などが関わる場合もあるのだろう。このあたりは一括りのカテゴリでもある。これらは総じて「自己評価の低さ」のバリエーションではある。ただし「自己評価」を上げるために、かりそめの成功体験などを積み重ねてしまえば、よけいにあらぬ方向へ調子に乗ることになってしまう。エスパーではないのに、エスパーであると誤解してしまう。迂闊さを助長してしまう。

自己評価とは、自らの能力を実際以上に高く見積もることではない。無いものをあるかのように思い込むことでもない。適切に、正当に、冷静に、自らの性質を査定することなのである。だから、自己評価を適切に育もうとするならば、おだててしまうのはまずい。かといってけなすのもまずい。褒めるにしても工夫は必要で、何らかの留保は必要である。

高畑君に超能力があると思い込ませてはならない。どこかで、君には超能力はない、ということは伝えなければならない。さらに、それと同時に、論理構築能力や手先の器用さ、冷静さなどが具わっていることも伝えなければならない。ただし、それが「エジソン級」であるなどと不当なおだて方をすることもいけない。

「調子に乗る」パターンとしては、「ほんの少しの体験を全般に用いてしまう」ときに起こりやすい。高畑君も、たった3回のテレポート体験から、自らがエスパーであると思い込んだのであった。もちろん中井久夫のように、戦時中の小学校における体験から、いじめ全般に関わる本質的な部分を抽出できてしまうような天才もいる。しかし中井久夫は、その分析が「限定的である」ことを言及することを忘れない。

井筒俊彦も、小林秀雄も、自らの読書量は限定的である、知識は狭い範囲であると繰り返し記している。私などからすれば、どこが狭い範囲であるかと言いたくもなる。常人からすれば、それは広大すぎて把握することすら不可能なほどの知識量・読書量なのである。しかし、おそらく本人たちは本当にそう思っているのである。

その認識が、「調子に乗ること」にブレーキをかける。ある意味では「謙虚さ」ではあるのだが、これは何も、周囲に合わせて「へぇ。あっしは大した者じゃぁございやせん。いえいえ、皆さま方に比べれば、まぁ、屁みたいなもんでして。へへへ」ということとはまるきり違う。その証拠に、中井久夫も井筒俊彦も小林秀雄も、自らが考えた内容を堂々と伝えて来る。頭を低くしてやり過ごそう、あるいは油断させて一発かまそうとしているだけの者には、彼らのような芸当は逆立ちしても不可能である。

だから中井久夫たちも、一見「頭を低くしている」ように見える。しかしこれは、言ってみれば「自分は神ではない」ということの自覚でもあり、自戒でもある。正確な、自らの知識や思考の範囲を把握した上で出てきた言葉である。だから、嫌味には聞こえない。

十分ではない者ほど、知ったかぶりになる。十分ではない者ほど、頭を低くして「あっしは大した者じゃぁございやせん、へへへ」とやる。そうして不意を突くぐらいしか、攻撃手段を持たないからである。しかし残念ながら、そんな技は一度しか使えない、相撲における「猫騙し」みたいなものである。

ということで、うっかりすると知ったかぶりをしてしまい、うっかりすると調子にのる自分としては大変耳が痛い文章を自分で書くことになりました。はい。耳が痛いです。ですから、高畑君は素晴らしいです。尊敬いたします。中学生である魔美がヌードモデルになっている絵をことあるごとに見ても顔を赤らめるだけで動じないあたり、すでに修行僧です。

というよりも、このような話をさらっと書く藤子・F・不二雄は、やはり只者ではないと思われます。他にも、エスパーの自覚が生まれた魔美が、母親に「家族にエスパーがいたら、素敵じゃない?」と問いかけるシーンがあります。母親は、「こわいわよ。自分が考えていることが読まれるなんて、気持ち悪いわ」と答えます。他にも似たような質問を父親にしますが、父親は「最初はもてはやされるだろうね。ちやほやもされるだろう。でも、いずれ、おこらせてはまずい、何をされるかわからない、と、怖れられ、排除されるだろう。人は、自分と異質なものを排除しようとするものだ」と言います。こういう内容をふとしたシーンに、嫌味でも説教臭くもなく、自然に入れ込んでくるのは、最近の漫画家にはなかなか難しい芸当であるように思われます。
プロフィール

Author:ina
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