スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「悟り」に関する覚書

「悟り」の状態は道の半ばであるという。これは井筒俊彦の『意識と本質』(岩波文庫)の中で読んだことであった。井筒の解釈としては、言語によって世界を分節している状態から出発し、それらが分節される前の混沌とした世界を直接認識することが「悟り」、その後、再度言語によって分節された世界に戻ってくることで旅が完了する、ということになる。この旅は幾度も繰り返されるのだろう。その度に螺旋状に上がっていく、というイメージだと思われる。

少なくとも、一度分節状態から離れ、混沌を直接感知する状態に至ると、山は山ではなくなり、川は川ではなくなる。それらは渾然一体となっている。ただのエネルギーそのものである。そもそも、山を山と区分しているのは、私たちが「山」と呼ぶ区分けでしかない。別に混沌のエネルギーそのものを見なくとも、「山」と呼ばれているものと「平野」と呼ばれているものを区分けしている明確な線があるわけではない。それはなだらかにグラデーションしており、はっきりとした境界線があるわけではない。「川」と「岸」でも同じで、「浜」と「海」でも、「沖」と「浅瀬」でも同じである。遠くから見れば確かに「線」は見えるかもしれないが、近くに寄れば当たり前に小さな石であったり、水が浸透している状態であったり、はっきりとした区分はなくなる。分子レベルに落としても同じで、さらに電子、クォーク、どのような小さなレベルまで落としても、すべてはグラデーションしているだろう。これらはあくまで「頭」で考えた状態であって、「悟り」ではない。これらを実感するのが「悟り」である。

ただ、悟った状態ではまだ足りない。それはただの一瞬である。この状態をキープしなければならないのである。また、混沌を見ているような朦朧とした状態だけではいけない。分節状態の視点も保持していなければならない。そうでなければ生きて行けない。この二重の視点を常に保持しながら、行ったり来たり、というよりも混沌と分節を同時に生きなければならない。この状態をキープするために数十年の修練が必要である、そういうことなのだろう。

〈「道というものは、知るとか知らないというレベルを超えたものだ。知ったといってもいい加減なものだし、知ることができないといってしまえば、何も無いのと同じだ。しかし、もし本当にこだわりなく生きることができたなら、この大空のようにカラリとしたものだ。それをどうしてああだこうだと詮索することがあろうか」。この言葉が終わらぬうちに、趙州はいっぺんに悟った。/無門は言う、「南泉和尚は趙州に問いつめられて、ガラガラ音を立てて崩れたな。もう何の言い訳も出来ないだろう。趙州の方だって、たとえここで悟ったといっても、本当にそれが身に付くためには、まだあと三十年は参禅しなくてはなるまい」。〉(『無門関』岩波文庫 p.89)

その状態に至ったら、世界がどう見えるのか。どう観えるのか。

〈夾山の善会は、「夾山の景色はいかなるものか」と訊かれて、こう答えた。

猿は子を抱いて青嶂(せいしょう)の後(しりえ)に帰り
鳥は花を銜(ふく)んで碧岩(へきがん)の前に落つ

(猿はもう青い峰の背後の家に行った、
 子を胸に抱えて。
 鳥は深い緑の岩野前に降りて来た、
 くちばしに花びらをくわえて。)

わが法師は、この詩について、一度こう述べたと言われている。「三十年間、私は間違ってこれを外の風景描写と見なしてきた!」

 方眼のこの言葉は、この詩が本当は、内的風景の象徴的表現として受け取られるべきだということを意味しているのだろうか。明らかにそうではない。彼は全く違うことを言おうとしているのだ。…それらは、数多くある具体的にリアルなものである。そして、この意味で、詩は外界の〈自然〉の具体的描写である。ここで重要な点は、その自然風景がSEEの眼で見られているということである。〉(井筒俊彦(野平宗弘訳)『禅仏教の哲学に向けて』ぷねうま舎 pp.54-55)

この視点で、芭蕉や西行を読む必要がある、ということなのだろう。世界を貫通するエネルギーそのものの顕現を外的世界に「観る」(SEE)状態での自然描写、ということなのだろう。おそらく芭蕉や西行は、その眼を持っていた。
スポンサーサイト

オート・パイロット

昼の12時。喫茶店にて。70代の男性と、30歳前後の男性が向かい合っている。若い男性はスーツを着て、「営業」という出で立ちであった。老人は普段着のようであるが、清潔そうな服装をしており、知的であった。

若い男は言う。

「どれだけこの時間を楽しみにしてると思ってるんですか(笑) 一人で飯なんて食ってられないですよ」

前後の文脈はわからないが、上手い。老人には「全体」の意図はわかっているのだろう。それでも、これは嬉しいだろうと感じる。すべてが嘘ではないことは十分に伝わる。

老人の携帯に電話がかかってきた。友人からのようである。北海道からでは飛行機が飛ばないだろう、というような話をしている。

その間に若い男も電話をかける。こちらの相手は仕事仲間であろう。同僚か、後輩か。しかし、上から目線の話し方はしない。まず、少し笑いを誘うような他愛のない話を振り、相手の状況を丁寧に聞き、まるで雑談のような流れの中で意図を滑りこませている。おそらく電話の相手は男性であるが、まるで女性を口説くときのようなやり方であった。

上手い。これは上手い。

老人は電話を切る。ほぼ同時に若い男も電話を切る。

その後、老人が、家ではネットで麻雀ゲームばかりやっているのだ、という話を自嘲気味にした。若い男は少し間を置いて、

「玄人の力を見せつけるわけですね」

と言った。老人は照れたように顔をほころばせた。

この若い男には本当に舌を巻く。凄いとしか言いようがない。

間を溜めすぎてはいけない。傷つけてしまうような言葉を削除している時間と受け取られかねない。かといって、間髪を入れずに反応してもいけない。それでは、反射で応えるストックフレーズだと受け取られてしまう。この微妙な間は、「ただ言葉を配列するのに要した時間」であることが示されなければならない。

若い男はツボをおさえている。無駄な世辞はない。本当に感じたことしか口にしていない。しかもそれが、相手を傷つけないようにとか、そういう意図を一切感じさせない。そんなものはとうの昔に「自動で避けられるようになっている」ようであった。

おそらく商談なのであろうが、売り物の内容には一切触れていない。売り物のことなどどうでも良いかのようである。そして老人の方から「明日、12時に私の家に来れば良いじゃないか。その時に用意するよ」と言うのだった。おそらく成立である。にも関わらず、若い男は「いいんすか? じゃぁ…」と言う程度で、まるで友人の家に遊びに行くかのようである。

しかし、何故だろう。どうして「カラ」のような感じがしたのだろう。若い男の中で、何かがフリーズしているような、奇妙な印象がつきまとった。

ならば、「空虚ではない会話」とは何なのか。私が行う会話は空虚ではないのか。

結局その若い男に、私自身のある部分の性質を誇張して見ていただけなのかもしれない。そして老人に、老いた私を重ねていたのかもしれない。

勇気

「おい! こうやって人が来たら、どくとか避けるとか、考えろ! 何も考えてないのか? えぇ? これだけ言われても動かないのか? まったく最近の若いもんは…」

朝、混んだ電車の中。駅でドアが開く。優先席の方へ入って来た70歳ぐらいの老人だった。優先席の前に立っている大学生ぐらいの男性に向かって息巻いている。学生は少し後ろを向いたが、頑なに動かなかった。混んでいたので、動いたとしても大した隙間は開かなかっただろうけれど。

老人はブツブツ言いながら、車両連結部のドアを開け、その中に入った。ドアの窓から、先ほどの学生を睨みつけてブツブツ言っている。

朝早く、この老人はどこへ行くのだろう。誰かを好きになったことはあったのだろうか。誰かを愛することはあったのだろうか。傷つくのが怖かったのだろうか。誰も相手にしてくれないことに怒りを感じているのだろうか。死が迫ってきていることに不安を感じているのだろうか。

寂しいのだろう。話しかけて欲しいのだろう。寂しいのだと、話しかけて欲しいのだと、そのまま言えたら何か変わっただろうか。変わったかもしれない。変わらなかったかもしれない。

私が誰かに対して怒るとき、そのほとんどが寂しさのせいであった。私に「寂しい思いをさせたこと」に対して怒っている。しかし、それは怒りなのだろうか。寂しさをごまかすために力んでいるだけのようにも思える。

力んで、怒って、寂しさはどうにかなるだろうか。寂しさは、誰かと一緒にいなければ解消されないようには思う。しかし、怒りは人を遠ざけてしまう。

狭く暗く不安定な連結部の小部屋に入って、窓越しに誰かを睨んでいるとき、私ならどんな気持ちがするだろう。本当は泣きたくなるのではないか。寂しくて、悲しくて、どうしようもなくなるのではないか。

どうしたら良かったのだろう。どこで道を間違えてしまったのだろう。

勇気がなかった。自分の時間を、自分の空間を、誰かのために使うことが惜しかった。本当は、その時間と空間を満たすためには、自分の時空を誰かに使わなければならなかった。しかし、目先のことにしか気持ちが及ばなかった。

作業の手をとめて、人の話に耳を傾けることだった。酒を飲む金で土産を買って帰ることだった。見たいテレビを少し我慢して、ほんの少しでも一緒に遊ぶことだった。

本当に微量なものの積み重ねでしかなかった。しかし、その微量なものを積み重ねていく勇気が持てなかった。「もう手遅れだ。巻き返しはできない。今までずっとやらずに来てしまったのだから」。しかし、手遅れだと思わないものなど一つもない。だからこそ、勇気は少数の者にしか発揮できない。

分かれ道は毎分、毎秒訪れている。どこかに大きな分かれ道があるわけではなかった。知らぬ間に、身の回りには誰もいなくなっていた。金で買える人間関係以外、何も残らなかった。

どうしたら良かったのだろう。どうすれば良いのだろう。

「人間関係に困難を感じる人がまずしなければならないこと」についての試論

ある本を読んでいると、その本を紹介した人のことが頭をよぎる。その人がどのように読んだのか、この本のどこに線を引いたのか、どのように理解したのか、どこを飛ばしてしまったのか、どこを誤解したのか、そういったことを考えながら読んでしまうような本がある。

もし、大変不快なタイプの授業を行う大学教員がドストエフスキーを紹介したとする。『カラマーゾフの兄弟』ぐらい読んでいなければ人として認めないとかなんとか、上から目線の言葉で紹介したとする。『カラマーゾフの兄弟』だけではなく、ドストエフスキーが書いたものであればどれを読んだとしてもその教員が浮かんでしまうことはあるだろう。これは大変読みにくい。

しかし、とても惚れたような人がドストエフスキーを薦めたとする。むしろ、その人と同一化したいような人がその本を読んでいたとする。これなら良いのかというとそうとも言えない。読んでいて没頭はできるかもしれないが、ドストエフスキーが描いている世界に入っているのかどうかは疑わしいものとなってしまう。

ある曲を聞くと、その曲を好きだった人のことを思い出す。思い出す内容がプラスの関係性であれば良いが、非常に不快な人のことを毎回思い出し、その人との不快な出来事が毎回呼び起こされる。しかも記憶力が良ければ、その組み合わせがどんどん増える。いわば「トラウマ」のようなものがそこら中にはびこり、いたるところで「フラッシュバック」が起こることになる。そういう記憶の性質を持つ人が実際にいるが、これは大変である。ただ、こういう人の場合は実際の人との関係に重点が置かれ過ぎており、作品自体が軽視されていることはとても多い。そして、質の高い作品に「ちゃんと」接していない。それまでも質の高いものに触れてはいるものの、人との関係性が過剰に注目されているために、紹介した人のことばかりが浮かんでいるからではある。作品はあくまで紹介した人との媒介物でしかなくなっている。

音楽でも絵画でも映画でも何であっても、それに言及する人がいて、言及した人の姿が浮かびながら読んだり聞いたりすることはある(注1)。しかし読書に限っていうのであれば、既にある程度様々な「良書」にあたっている場合、たとえ誰が言及していようとも、「あの人は多分、このあたりを理解できていないのだろうな」「おぉ、今まで見くびっていたけれど、これを良いと思えるのであれば見込みがありそうだ」など、かなり穏当にどのような本でも読めるようになるらしい。「薦めた人の影響」から距離が取れるようになっている。

おそらく映画でも音楽でも同じで、誰がどう薦めようが自らの内に確固とした座標がある場合、誰が紹介したのかという部分は無視することができる(注2)。高い品質のものを大量に摂取しておくことは、質の低いものを選別する際の座標を獲得することにつながる。逆に、質の低いものを大量に摂取している場合には、その座標は不完全なものにしかならない。高品質なものにきちんと触れている人は、それよりも低い質のものを見分けることができる。低い品質のものにしか触れていない者は、それより上位のものは区別がつかない。ここは極めて大きな問題である。

食事で考えればわかる。美しい海岸でそのへんに落ちているウニを割って海水で少し洗って食べるようなことをしていた人間は、スーパーで売っているミョウバンで固めたウニは別のものの(下位の)味がするのだろう。味覚的にうまいとかまずいという問題ではなく、それが身体に染みるものか毒なのかを判断できる、ともいえるだろうか。

同じベートーベンであったとしても、凄まじく良質な演奏者が弾いたピアノ協奏曲を知っている者にとって、その他の演奏の質を判別することは容易いのだろう。低質なものしか聴いたことがなければ、それより上質なものは単に「すっごい上手」としか映らないだろう(注3)。

ということは、人との関係性に重点が置かれ過ぎている状態から距離を取るために必要なことは、人間関係に没頭することではない。そうではなくて、良質な本・映画・絵画・音楽などの作品になるべく多く触れることが肝要である、ということになる。逆説的ではあるが、良く考えれば、何らかの作品が媒介とならない人間関係など皆無と言っても良い。ならば、媒介となる作品についての感性を磨いておくことが重要になるということは、そう誤った観点ではないように思う。

人間関係が上手く行かない人が、無理をして人間関係を多数結んで頑張ろうとする。それはたいてい上手く行かない。ならば引きこもればよいかというと、引きこもっている際には自分にとって「都合の良い」ものにしか触れないことが多い(注4)。これでは質の高いものに触れることは困難になる。結果的に、ぬるま湯の中に浸かるだけの無為な引きこもりになってしまう。ということで、人間関係が上手く行かない人の場合は、きちんと引きこもって他者との関係がむやみに入り込まない状態を作り出した上で、質の高い作品になるべく大量に接することで、他者との距離を取る準備状態を作り出すことが必要である。そういうことになる。

これは不登校の対応をしていても、うつ病の対応をしていても、おおよそ同じような道筋を見ることが多い。問題は、(外的な世界に出てはいるが精神的に引きこもっている、という状態も含めて)引きこもっている際にどのように過ごすのか、なのである。質の高い作品は内的に成長させる、などと言う。それは確かにある。しかしこの場合「質の高低を見定める定点が出来上がっていない」ことが重大な問題なのである。それが人間関係の不安定さにまで波及している。

どんなものでも良いが、まずなるべく少数のジャンルで高品質なものに触れる必要があるのだろう。最初から多数のジャンルに手を出すことは控えた方がよいかもしれないが、最終的にはある程度様々なジャンルのものに触れる必要が出てくるとは思う。古すぎるものは判断ができなくなるきらいはあるが、それでも「長い年月生き延びた」という点には敬意を表した方が良い。漫画であれば手塚治虫、アニメであれば『AKIRA』や『風の谷のナウシカ』など、比較的新しいタイプのジャンルであっても、ある程度古典的位置を示したものには一応触れておいた方が基点ができるだろうと思う。ゲームであれば『スーパーマリオブラザーズ』や『ゼルダの伝説 時のオカリナ』、音楽であればモオツァルトやバッハ、マイルス・デイヴィスやピアソラ。小説であれば夏目漱石や森鴎外、哲学であればプラトンやアリストテレス。多分そういうことなのだろう。だから「教科書的」というものは馬鹿にはできないのである。本来教育における教科書はそういう「基点を作る」ために制作されている(はずである)。しかし、それを伝える教師の伝え方がまずいと、教科書に載っているものは「避ける対象」にしかならなくなる。それだけは避けなければならない(しかし、たいていそうなっている)。だから、小中高の「授業」はとても大切なのである。私はそう思っている。

作品の質をある程度見極めることができるようになると、人を観る目も養われる。多分そういうことだと思う。その人が好むものの羅列を見れば、その人の性質が透ける。理解の仕方を聞けば、内面が視える。「本棚を見ればその人がわかる」というのは、本に限ったことではない。音楽でも絵画でも映画でも、何でも同じである。それらの基準を持っていれば、人を判断する大きな基点ができる。

えぇと…。良質なものに触れなければなりませんね…。そして、ちゃんと理解しようと、感じ取ろうと、努力をしなければなりません…。頑張ります。

注1:私が授業で扱う「リアクタンス理論」というのは、単純に言ってしまえば「強力にものごとを勧められると、むしろそれをやらなくなる」という心理的反発が起こる、という理論である。これを元に考えると、誰が言おうがその言い方・伝え方が問題となってくることになる。それは事実であるとしても、これは限定された側面についての理論であり、当然「誰が薦めたのか」が最大の問題になる。それが実感ではあろう。

注2:座標が固定されすぎていると、今度は判断が頑なになってしまう。この座標は開かれていなければならない。常に「仮」のものであり、いつでも変更する準備がある、という姿勢でなければ、一言居士のようになってしまう。このあたりの配分は大変むずかしい。

注3:たとえば読書を今後の楽しみとするのであれば、あまりに高品質なものに触れてしまうとその他のものがカスに感じられ、楽しみが続かなくなる可能性がある。しかし、本を生きる糧として読むつもりであるならば、まず高品質なものに触れてしまい、あとはそれを基準として、それより質に劣ると感じられるものについてはその質に応じて流し読みしてしまえば良い。本当に重要な本であれば、数十回読んでも良いだろう。そこまで重大な本であれば、どうせ何度読んでも理解できないのである。映画や音楽の場合には「流し観」「流し聞き」が難しいところではあるが、それでも何でもかでも聞く・見るよりは事前に選択が入る。

注4:自虐的に被虐的に、鬱屈した状態を維持しようとする場合にも「自分に都合の良い」ものにしか触れていない、といえるのだろうか。実は「そう」なのである。自虐性というものはある種の快感を伴う「嗜癖」である。アルコール依存や薬物依存と構造的には酷似している。

河合隼雄『中年クライシス』朝日文芸文庫 安部公房『砂の女』について

安部公房『砂の女』について書かれたエッセイからの引用である。

<中年は毎日の仕事に忙しい。仕事をどのようにこなしてゆくか、家族の問題をどう解決してゆくか。毎日毎日が大変で、ほかのことなど考える余裕などない。しかし、そのなかでも、自分はなぜ生きているのか、死んでからどうなるのか、などと考える人がいる。いったい、自分の人生を導くものは何なのか。昔は神や仏によって導かれ、したがって自分の生命を「永遠の相」のなかで実感できる人が多くいた。しかし現代では、それほど簡単に神や仏に従ってばかりもおれない。そこで、われわれの主人公は昆虫の{みちしるべ}に頼ることにしたのだ。>(p.75)(注:ハンミョウは「みちしるべ」とも呼ばれる)

私は37歳になった。何歳からが中年なのかはわからないが、多分もう中年なのだろう。しかし、残念ながら私は「毎日の仕事に忙しい」というほど忙しくない。家族の問題は思ったより存在しているが、それでも「毎日毎日が大変」というほどでもない。多分、だから余裕をこいて「自分はなぜ生きているのか、死んでからどうなるのか、などと考える」ことになる。そのあたりを考え続けることが仕事のうちに入ってしまうような心理学というやくざな分野に籍を置いているために、仕事なのか趣味なのか良くわからないような部分もある。ただ、いずれにしても私にとって「いったい、自分の人生を導くものは何なのか」という問題はかなり大きなものである。

<中年になってあくせく働き、時には出世したり、成功したりしたと思いさえするが、その間に、ほとんど目に見えぬほどの砂がだんだんと降り積もって、人間の「たましい」を侵蝕してきているのではなかろうか。そして、老人になって、ふと気がついたときは「もぬけのから」になってしまっている、というわけである。>(p.79)

あくせく働いているわけでもない。しかし「ほとんど目に見えぬほどの砂がだんだんと降り積もって」いる感覚はある。「たましい」が侵蝕されて来ている印象もある。何故だろう。何が間違っているのだろう。私は何を見ないようにしているのだろう。

<人間は時に「自分自身が、砂になる……砂の眼でもって、物をみる」のがよさそうに思う。といっても、砂の世界に生きる男は溜水装置というなぐさみ物をもっているし、女のほうはラジオを手に入れて大喜びしているのだから、何らかの工夫をしないことには、砂になってばかりいるわけにもいかない、ということになるだろう。中年の生き方には工夫がいるのである。>(pp.86-87)

河合隼雄は安直に答えを書かない。どういう人であったのか、本当のところは良く知らない。ただ、ある部分では誠実な人だったのだろうという気もする。多分河合隼雄自身、どうしたら良いのかわからなかったのだと思う。別の箇所で、以下のように記している。

<中年のエロスの困難さがよくわかる。そこで多くの人が、エロスの対象として人間以外のものを選ぶことによって、何とかバランスをとっている。そこに各人の工夫があり、それはそれで結構であるが、それについて自覚しておくことは必要である。>(p.98)

工夫はいるが、工夫だけではいけない。それが本質的なことから逃げることにもなっている。しかし、逃げざるを得ないときもある。それが良い結果を生むこともある。最悪の結果に導かれることもある。一概にはいえない。しかし、逃げていること、ごまかしていることを自覚しておく必要はある。そう記されているように私には読める。

それで、どうなる? 自覚したあとどうすればいい? それは記されていない。あるいは書かれていたとしても、違う箇所では遠回しに否定したりする。渾然一体となって答えは曖昧にされている。

曖昧にするしかなかろう。誰にでも通用するようなわかりやすい答えなどなかろう。答えを書かないというその点が、河合隼雄の誠実さなのだろうと私は思う。

3年前、私が『砂の女』を一気に読んだときに得体のしれないものを感じ、38度を越える熱が1週間も続くという強烈なオーバーヒートが訪れた。実際には蓄膿症であった。そして耳鼻科で治療を受けた。別段『砂の女』を読んだだけでこんなことになったわけではない。他にもある種の無理がたたっていた時期でもあったが、それにしてもこの『砂の女』が最後のひと押しを一気に推し進めたのは確かだろうという感じがする。

『砂の女』は、私の処理能力を超えていた。少なくとも『砂の女』を読み終わってしばらく、私の中には嵐が吹いた。妙に粘ついた、不気味なものが荒れ狂った。作品としてそこまで無茶苦茶なものではない。残酷なものや赤裸々なものなど他にもいくらでもある。多分、私の内部にある、まだ見る準備ができていない部分が急激に触発されてしまったのだと思う。

今ならオーバーヒートせずに読めるのだろうか。準備ができたのだろうか。

なんとも言えない。

<地上に、風や流れがある以上、砂地の形成は、避けがたいものかもしれない。風が吹き、川が流れ、海が波うっているかぎり、砂はつぎつぎと土壌の中からうみだされ、まるで生き物のように、ところきらわず這ってまわるのだ。砂は決して休まない。静かに、しかし確実に、地表を犯し、亡ぼしていく……>(『砂の女』新潮文庫 p.17)

安部公房は、そう記す。
プロフィール

ina

Author:ina
水曜の会用 文書置き場

カテゴリ
写真保管庫
最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。