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1月19日(火)17:00から 水曜の会

皆様

あけましておめでとうございます。

1月は試験直前であったり、様々な教職系企画があるために日程が組みにくいのですが、一応、

1月19日(火)17:00から18:00

で時間を確保することに致しました。テーマはまだ決まっておりませんが、一応今年度の最後の回ということにはなります。教室やテーマが決まりましたら再度ご連絡致します。まずは日程のお知らせでした。

よろしくお願いいたします。

追記:
テーマは「自己嫌悪について」にしました。人数が少ないでしょうから、まず11号館3階の、私の研究室にお集まり下さい。もし人数が多ければ、向かい側の11−302教室に移ります。
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福沢諭吉『学問のすゝめ』岩波文庫 理解できた範囲で

一遍から四遍まで。

私には、こう聞こえた。私は、とても格好よいと思った。

〔そりゃぁさ、やれることといったら食って寝ること、学ばないくせに欲ばっかり前面に出て、子どもはたくさん産んでもどうやって育んで行くのかも知らない、恥も法も知らない馬鹿者が大量にいれば、そりゃぁ力でおどして、やばいことが起こらないようにしなけりゃならねぇよ。これが暴政の元だ。もちろん、力でねじ伏せるっていうのは、馬鹿のやることだ。しかし、それは暴君のせいだけか? 違うだろ? 暴君が出て来ちまうのは、人民が馬鹿なときなんだよ。どっちにも問題がある。俺らは人民側なわけで、それが多数なのであって、この人民の在り方が鏡みてぇに映されて、暴君が現れてるって考えてみたらどうなんだい?

だから俺がこうして語ってる、伝えようとしている。だったら俺の話を聞いたやつらの中から政を行う者が出るように望んでるかって? もちろん、そういうやつが出て来たってかまわない。でもな、それを求めてやってるわけじゃねぇ。政治家排出のためにやってることじゃねぇ。

なぁ。俺が人は同等だって言ってた意味は届いてるか?

あのな。たとえば相撲取りが腕力があるからって、隣のやつの腕をへし折ったら、そりゃ迷惑だろ。それは、相撲取りが上位の人間だってことなのか? 違うよな。腕力がある、ってだけだろ。それ以上でもそれ以下でもねぇ。隣のやつにだって腕はある。もちろん、相撲取りほどじゃねぇが、腕力がある。腕力だけじゃねぇ。歩く事だって、耕すことだって、色々あるだろ。問題は、それを適切に使えるかどうか、ってことだ。俺はそういう意味で、人は同等だって言ってるんだ。

農民は農民として、商人は商人として、まぁ何でも良い。生きて行く時によく考えて、学んで、自分の力をちゃんと発揮しようぜって言ってるんだよ。政治家だって同じだ。全部が揃ってシステムが出来上がってるんだよ。どこが抜けたっていけねぇんだ。上も下もねぇ。

俺が言ってる学問ってのは、いわゆるお勉強のことじゃねぇぞ。どうも誤解があるんだよ。高尚な本だか理論だかをたくさん覚えておくことが学問だって、それやってりゃ金が儲かって地位が上がるとか、それが貴になることだとか、そういう誤解をされちまう。違う。俺が言ってるのはその真逆だ。地位が上とか下とか言ってる時点で、システム全体が見えてねぇ。

俺が言おうとしてる貴ってのはな、自覚してるってことなんだよ。自立してるってことなんだよ。依存してねぇってことなんだよ。

誰かがやってくれる、なのにやってくれない、そう文句をつける。不平ばっかり言ってる。それはな、気持ちが誰かに寄生してるってことなんだよ。依存してるってことなんだよ。そういう奴しかいなかったらどうなる? 全員が「誰かが動かしてくれるんだー」って待ってるだけなんだぜ? どこにも行けねぇよ。

俺が私学私学ってうるさく言ってるのはな、そういう寄生状態から抜けてみろよ、ってことだ。マザコン・ファザコンから脱出してみろよ、ってことだ。自分の脚で歩いてみろよ、ってことだ。象徴的だろ? 金っていうのはさ。出してもらってるうちは、国に口を出されてるうちは、そっちになびいちまうよ。マザコン・ファザコンだよ。

外国語なんてな、そんなもんは道具だ。いいか、知識だって道具なんだぞ。西洋の学だとかって、知識だけ付けていい気になってる奴なんてのは、寄生虫みてぇなもんだ。知識問屋だ。そんな野郎は穀潰しだぜ。俺が学問って言ってるのは、その道具をどう使うのか、誰にも依存しねぇで自分で考えろってことだ。西洋にも依存するんじゃねぇよ。馬鹿なままでいるんじゃねぇよ。

なぁ…。そういう奴が増えればさ、政治だって多少まともになるんじゃねぇか? まともな奴が政治家になるようにこうして言い続けてるんじゃねぇ。慶応義塾を作ったわけじゃねぇ。大多数の、人民が多少でもマシになるようにってこった。それが、鏡みたいに映されるんだよ、政治に。どっちが先だ? なぁ。

でな。問題は、これを読んでる奴、お前だお前、自分は馬鹿じゃねぇって思ってるだろ? あのな。そういうのを馬鹿って言うんだよ。馬鹿の自覚持てよ。それがなきゃ、考える工夫なんてできねぇんだよ。俺は自分を除外しねぇぞ。俺は馬鹿さ。でもな。だから考えるんだよ。

いいか。明治維新が起きて、開港されて、今まで俺らが生きて来たシステムとまるっきり違うものが入って来たんだ。良いとこ取りなんてできねぇよ。絶対ぶつかるんだよ。どっちかを選んじまえばいいなんて、そんな簡単なもんじゃねぇよ。そのぶつかりを避けるんじゃねぇ。解決なんて出来るかアホ。解決できると思ってる奴は、自分で考えてねぇ馬鹿だ。愚鈍だ。

なぁ、悪いな。俺は自分が馬鹿な自覚はあるって言ったよ。これを読んでる奴の大半が馬鹿だって言ったよ。でもな、本当は、馬鹿ですらねぇ奴らに向けてこうして喋って、こうして書いてるんだ。サルだよ。俺はサルに向かって書いている。表面的にしか受け取らねぇ、理解しねぇ。…そんなもんだよ。

でもな。やらねぇよりマシだ。それが、俺の腕力の使い方だよ。出来る限りのことはする。答えだって出やしねぇ。その、わけわかんねぇ、巨大なぶつかりを抱えたまま生きる姿を見せるしかねぇだろ。1000人に1人、それがわかる奴が出て来るかもしれねぇ。いや、望み過ぎか。でも、やれることやるしかねぇだろ? それが生きるってことだろ?〕

継続して掘り進む「勇気」について

理論は言語のようなものなのである。同じ出来事についてであったとしても、理論によって分節が異なり、見え方が変わる。逆に言えば、言語は理論のようなものである。

恋愛的な出来事を「男の理論」から見るときと、「女の理論」から見るときでは、分節する区分やセクションが異なるため、見え方も、結論も変わりはする。しかし出来事自体は一つではある。また、最終的に行為をなす者も「その人」でしかない。だから、理論による結論が異なっていたとしても、アウトプット自体は変わらない可能性はある。もちろん、理論自体が杜撰だと、奥まで到達できずに、皮相的で浅薄な行為が導き出されてしまうだろう。ただ、最終的な行為まで行き着く道筋自体は異なっていたとしても、行為自体はそれほど変わらなくなる。そういうことはあり得る。

たとえば、キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラームの「最深部」に到達した者のことを考えてみる。それぞれ道筋は相当異なっていたとしても、「人を殺めることなく、他者を慈しみ、暖かさと厳しさを同時に持ち、厳粛に生きる」というアウトプット自体はそれほど違いがないだろう。

日本語で考えたら到達できず、英語なら最深部に到達できる、というのはあまりにも短絡的である。そんなはずはない。科学でしかわからず、「非科学」は無価値だと断じてしまうこともまた。

ただし、それぞれの理論は、入り口付近では「道筋がはっきり」しており、「答えがある」ように見えることに注意しなければならない。どんな道を通ろうとも、掘り進むほどに複雑さを増し、「こうすれば正解」というものが霧消する。

多くの人は、それを恐れる。恐れるから、表層的で、答えがはっきりしているように見えるものにすがりたくなる。そこから「逃げる」。つまり、「続けられなくなる」。

バスケットボールだって、初心者から少しだけ進んだ段階では、「ある特定の型」に従えば(その「答え」に従えば)、シュートが入るようにはなる。野球も、短距離走も、水泳も同じであろう。

しかし、あるラインを越える際、いきなり「答え」がなくなる。

字の書き方だって、歌だって、踊りだって、楽器だって、おそらく何だって同じである。写真も、ミニ四駆も、ガンダムのプラモデルでさえも、同じである。当然、哲学も、宗教も、心理学も。

様々なことをちょっと触ってやめる(注)ことは、「複雑さに到達していない」「複雑さに堪えることができていない」ことが現れているのかもしれない。

男女関係が続かないことも、友人関係が続かないことも、仕事が続かないことも、皆同じである。

人と接していれば、徐々に複雑なものが見えてくる。見えて来ないはずがない。それが「当初の思い通り」ではないことに嫌気がさし、エネルギーを向ける先を変えてしまう。新しい、「答えがはっきりしている」ように見えるものに向かってしまう。

恋人と深い関係になる前に、次の相手に移る。友人とも続かない。仕事も、趣味も、どれも「表層」で終わる。複雑なところまで行かず、ちょっと頑張ればコツがつかめて、初心者状態からちょっとだけ進めて、かりそめの「成功体験」を得る。それを、コレクションして終わる。

永遠の少年・永遠の少女とは、そういう状態を指す。可能性を捨てることができない、それゆえに、何も選び取ることができない。受け取るだけの立場。

とどまることである。せめて、続けることである。三日坊主でも良い。しかし、三日坊主を止めないことである。全体の中にある種の巨大なルーチンを見、いずれ、元いた場所に戻ることである。そこから離れるとしても、「戻るために離れる」ことである。

複雑さを抱えるために。

「深い」とは、「単純ではない」ということである。つまり、複雑であることと同義である。

男女でも友人でも仕事でも趣味でも、「合っていない」ものを選んではいけない。「合っていない」ものでは続かない。しかし、合うか合わないかは、やってみなければわからず、はじめてみなければわからないという部分がある。

スタートの時点から複雑なのである。

複雑さを抱える、という最終的な目標点のようなものが見えていなければ、ただ嫌なことを堪えて続けるという、よくわからない「我慢比べ」のようになってしまう。「我慢比べ」では結局、複雑さを抱えるところには到達できない。馬鹿の一つ覚えにしかならない。

さらに、「合うのか合わないのか」は、自らを深く知らなければ見つけることができない。たまたま相性が良いものに出会ったというだけではやはり、複雑さを抱えるところまで到達できない。しかし、何かを続けなければ、自らを知ることもできない。

すべて、背反する。答えはないのである。その、スタート時点の複雑さを抱えることができる者のみ、その先に進むことができる。

自戒の念を込めて。

注:もちろん、この「ちょっと」というのは、大きな壁が現れる個所が、人の生まれ持った資質によっても変わるため、一概には言えない。たとえば、身体能力が非常に高い者にとって、100メートル走で13秒を切ることは、特に壁とは感じられないだろう。

瓦礫どかし

卒業生から連絡があったり、現在の状況を聞いたりする場面がある。就職をして少し経つと、色々と不満も出て来るようだ。それはそうだろう。

中学から高校に上がる際、どれだけ「勉強」をしたか、あるいはどれだけ「勉強」ができたかによって、進む道が変化する。「運動」の場合もあるが、現在の日本におけるシステムの場合、いずれにしても15歳前後で一度、大きく振り分けられる。その後、大学に入学する際に、また大きく振り分けられる。当然、大学に入らないパターンもあるが、ここでは大学に入ったパターンについて考えてみる。

入学する学部が文系か理系かでもかなり違う。入学した後で訓練されるものが異なる。言ってみれば、用いる筋肉が違う。トレーニング方法が違う。使う器具が違う。そのため、大学入学後にまじめに訓練に勤しむ場合には、結果的に使える身体部位が変わってくる。だから入学する段階で自らの特性を多少は掴んでおかないと、もともと足が弱いのに「走り込みばかりさせられる学部」に入ってしまって後悔したりする。それは事前の考えが足りなかったというだけであるので、なるべく早期に所属を変更した方が良いのだろう。世界史が大嫌いだったのに歴史学科に入ってしまうとはそういうことである。そこまで顕著ではなくとも、事前に良く調べておかないと、驚くほど素質と異なる筋トレをさせられることは多々ある。

ひとまず、自らの特性にある程度合致した学部学科に入学できたとしよう。大学の校風や全体的なレベルも合致したとしよう。

そこからまた問題が噴出する。

モラトリアムという言葉も一般化したが、学生というのは猶予期間でもある。「誰かに何かを与える」というポジションに軸足を移すまでの間の、「受け取るポジション」のままでいられる最後の期間である。当然「受け取るポジション」のままであると、いきなり「与えるポジション」に変更できないので、学生のうちにアルバイトという名の「仕事ゴッコ」をし、一時的に「与えるポジション」の感覚を掴んでおく必要はあるのだろう(もっと前から「与えるポジション」の予行演習をしていることが好ましいのだろうが)。

良く「学生気分が続いている」と言われるのは、この「与えるポジション」に入ることができず、「受け取るポジション」のまま仕事が始めてしまった人に対して用いられていることは多い。私はあまり「学生気分」という言葉を用いることは好まないが、そのように呼称される人々に会ってみると、なるほど「受け取るポジション」のままの人だ、と感じることは多い。

「受け取るポジション」から「与えるポジション」に移行するためには、ある種の覚悟が必要である。

この場合の覚悟とは一体何であるか。

それは、人を愛する覚悟である。

つまり「受け取るポジション」の人とは、「誰かから愛される」ためにエネルギーを集中して用いており、「誰かを愛する」ためにエネルギーを使えていない人のことである。

学生のうちは可能性が残されている。逆に言えば、可能性が「消されていない」。ある程度、何にでもなれる(ように見える)。当然何にでもなれるわけではないものの、限界を目の当たりにさせられていないため、「夢見る」ことができてしまう。夢想することができる。白日夢に浸ることができる。それを逃げ道に用いることもできる。その白日夢が狭く激しかった者は、実際に仕事が始まると多量の不満を語ることになる。それはそうだ。あなたはヒーローではないし、ヒロインでもない。一般人である。

しかし本当にヒーローと呼ばれるような人も、自覚的にはどこまでヒーローなのかはわかったものではない。実際に大きな名を上げた人も、直接話してみれば私たちと大差ないことに気がつくだろう。ヒーローがヒーローである理由は、表に出ている情報が華々しいもののみに制限されているためでもあり、そのため部分的に見聞きした人々が余白を勝手に埋め、夢想の対象とするからである。大抵どんな仕事も地味で、どんな役職も冴えないものである。芸術家だって大差ないだろう。生きていくこととは極めて地道な作業の連続である。

専属として何らかの仕事に入ると、そこに気付かされる。その地道さに嫌気がさし、もっと華やかでもっと楽しくもっと羨ましがられもっとやりがいのあるようなものを想定していたのに、外から聞いていただけではわからない地味すぎる現実を目の当たりにする。その地味さに耐えられない。まだ可能性が残されているはずである。「派手で、生きがいを感じられるような夢の職業が」。

本当は、地味さを目の当たりにしたところからなのである。可能性が剥ぎ取られ、大したことのない自分を目の当たりにした時からが勝負である。それが地に足がつくということである。仕事というのは、金銭を稼ぎ、それで衣食住を満たすために行うものである。生きがいを得るために行うものではない。そこを理解できない人間は、その先に進むことができない。

つまり「誰かを愛することができない」。

地に足をつけて歩くことは痛みを伴う。空中に浮遊している(つもりの)最中は、痛みも感じないかもしれないが前にも進まない。仕事の地道さを我慢して不平不満のみを並べているだけの人は、まるで痛みを感じているかのように見えるが、実際はそうではない。「飛べるはずなのに飛べてない」という思いにこだわり、「飛べていた(つもりの)」時期へ郷愁を抱いているだけである。進んではいない。

震災が起こった際、大学教員であった内田樹はバイクで職場に乗り付け、大学の瓦礫を手でどかし続けたという。ある教員は、瓦礫情報を中央に集中させ、人的リソースを効果的に配分するために会議を行うべきだ、と騒いでいたそうだ。しかし内田樹は、目の前の瓦礫をどけない、地道な作業を続けない人間に発言権などない、と言い放った。ぐだぐだ言ってないで目の前の瓦礫をどかせ、と。私もそう思う。仕事とは、目の前の瓦礫を地道に手で拾う作業のことである。それは極めて地味で、華々しい生きがいなど感じられない、実に単調なものである。

「浮遊すること」は、趣味の世界で行えばよろしい。楽しいこと、生きがい、手応え、何とでも言えるが、そういうものは単調な「瓦礫どかし」で得られた金銭を投入して得るものである。金銭とは、何度でも記すが、「嫌なことをしているからもらえる」のである。「瓦礫どかし」は好き好んで行うものではない。だからこそ、「瓦礫どかし」を継続して行う者は、報酬を得て良い。

では、稲垣は大学で教員を行っていて嫌なことばかりなのか、授業を行うことは「瓦礫どかし」なのか。そういう当然の質問が出るだろう。その通りである。私が行っている仕事は「瓦礫どかし」である。何を好き好んで毎期毎期ほとんど同じ内容の授業を繰り返していると思っているか。私は水曜の会や木土の会のように、好きなことをしゃべっていたい。しかし授業は文部科学省の指定にある程度沿わなければならないのである。これを「瓦礫どかし」と言わずに何と言うか。レポートの採点などやりたくてやっていると思うか。苦行以外の何物でもない。論文など書きたくもない。こうしたエッセイだけを書いて金がもらえるのであればそれに越したことはないが、そうも行かぬ。受け持つ授業に関連させた論文タイトルに沿った内容を記す必要がある。

ほら。ある程度は金をもらって当然である。

しかし、「瓦礫どかし」にはコツがある。苦痛な表情を浮かべて、イヤイヤやっている姿を見せてどうするか。誰かがどかさなければならないし、最終的に道を通れるようにする必要がある。いずれ壁の補修もしなければならない。だったら、一緒に「瓦礫どかし」をする人々を励ます必要があるし、その作業自体を多少はマシなものにする必要があろう。それが、「授業を面白くする」ことでしかない。「論文が興味深い内容になるように努力する」ことでしかない。「依頼されたらなるべく面白い内容の講演をする」ことでしかない。

力の入れ方も、どこから手をつけるかも、様々なコツがある。そのコツ自体を発明することには喜びを感じることがある。しかし、できることなら「瓦礫どかし」はしたくない。誰か他の人がやってくれるならそれに越したことはない。しかし、瓦礫の山を目の前にし、実際に手を動かしてどけてみるまでは、そのコツにも気づかず、道のりの遠さにも気づかない。周囲を見回せば、手札となりうる人々は限られている。この人たちと目の前の瓦礫をどかして行くしかないのである。ならば、近くにいる人々のポテンシャルが最高になる状況を作り、なんとか乗り越えたいものである。

それが「愛する」という具体的行為である。意気を削ぐような言葉をかけず、その人に腕力がなくとも体力がなくとも、瓦礫をどかしてくれるのであれば最大限動いてくれるようになるべく効率の良い身体運用を伝え、食料を分け、あまりひどい弱音は周囲に毒となるから控えてもらい、かといって毒を吐かなければ鬱積するので皆に聞こえない場所で聞き、疲れていそうであれば労る。そして、他者を労るのと同様に自らの身体も労る。自らもまた、瓦礫をどかすための重要な人手なのである。削ぐわけにはいかない。

チームで働くとか組織で動くというのは、そういうことである。

瓦礫がなくなり、道が通れるようになれば、確かに達成感はあるだろう。その達成感が目的となることはある。しかし道が通れるようになるのは、百年先になるような仕事などいくらでも存在する。極めて重要な働きをした人であっても、その人は大きめの瓦礫をどかしただけであることなどいくらでもある。科学の歴史を少し見ただけで、そのような例は履いて捨てるほど出てくるだろう。どかした先が行き止まりになっていることだってある。その場合、「行き止まりだった」ことをつきとめたことがどれだけ慰めになるだろうか。あまり慰めにはならないのではないか。

当然、猛烈に酷い職場というものは存在する。寝食させずに瓦礫をどかし続けることを強いる場所は避けた方が良い。それは「ブラック」である。しかし、多くの場合は大差ない。いくつも仕事を変更すると、大差ないことが見えてくるだろう。どこかで諦める必要はある。

瓦礫をどかすしかない。

しかし瓦礫をどかすだけで、後は寝て食ってぼーっとするだけの人生というのは味気ない。そこで貰った金銭は、元気に瓦礫をどかすための力となるように用いたいところである。私なら、多少は身体に良いものを食べたいし、うまい酒を飲みたいと思うだろう。踊りたいし、笑いたいだろう。そして、祈りたい。それが「趣味」と呼ばれるものである。

生きがいは、趣味に見出すべきものである。金を払って見出すものである。

趣味が良い、というではないか。日本語における趣味は、hobbyとして用いられることが主であるが、語源的に異なる。趣であり、妙味である。それは本来雅なものであり、色のあるものである。hobbyとtasteを合わせたような概念ということになろうか。しかし、それでもまだ足りない。そこに横たわっているのは、ある種の宗教的な力である。

趣味の中で見出した「本物の力」は、瓦礫をどかす際にも影響をあたえるだろう。しかしあくまで趣味は「瓦礫どかし」のためではなく、趣味そのもののためにある。それが「遊ぶ」ということである。たまたま、趣味で得た力が「瓦礫どかし」で発揮されるというだけである。趣味に「瓦礫どかし」的な目的をつけてはならない。絶対的に切っておく必要がある。「瓦礫どかし」と趣味をつなげない「度胸」と「勇気」が必要である。

大したことのない自分を抱きしめること。何度でも記そう。夢は、醒めてこそ夢である。一度、夢から醒める腹をくくる必要がある。可能性が消えていることを自覚する必要がある。

もう、「その」可能性は消えているのだ。いつまで可愛がられることを求めるか。いつまで誰かから愛されることを求めるか。

誰かを愛せるようになること。それが、最後の望みなのである。

自戒の念を込めて。
プロフィール

Author:ina
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