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詐欺師の流儀

気功の整体をするところへ行った人から聞いた話。

まず、建物自体がカルトっぽかったのだそうだ。真っ白なカーテン、真っ白な服、真っ白な壁。妙ににこやかな受付け。大変気持ちが悪かったという。そして、気功整体を受けるにあたって、随分時間のかかる「カウンセリング」をされたらしい。背中に手を当てられて、「凝っていますね…。麻痺しているところもありますよ」と言われたそうだ。

「たとえば、今飲んだお茶、おいしいな、って感じましたでしょう? それだけで良いのです。あなたの場合、きっと産地を調べたりするでしょう。もしかしたら、成分まで調べるかもしれませんね。しかし、そんなことをしなくても、おいしいものはおいしいのです。良いですか、あなたは考えすぎなのです。考えすぎだから、凝ってしまうのですね。考えないことです。良く、考えないようになったら感じることもなくなるんじゃないか、って言われますが、そんなことはありません。考えないことです。考えなければ、ちゃんと身体が感じられるようになります」

しかし、その人はこう答えたという。

[私は…、考えなさすぎて、困ったことになってるんですけど…]

「考えない」ことを推奨し、最初は6回毎週通わせ、その後2週間ごとに通わせ、ということを続け、道場のようなところに通わせて行こうとするのであろう。その人から聞いた話を総合すると、そういうことであるらしい。

「考えない」ということをコアに持ってくるというのは、手段としてはわかる。確かにこのパターンで「入信」させるのであれば、考えさせたら終わりである。「考えるな、感じろ」などという戯言を言う人もいるが、まぁ、所詮戯言である。考える、というのはクオリティがあるので、雑な考えならグルグル回しても意味がない。確かに考えない方がマシかもしれない。しかし私なら、少しでもクオリティを高めた「考える」やり方を伝えたいと思う。そもそも、言語を用いている時点で「考えている」のである。人間である以上、残念ながら「考える」ことを止めることはできない。「考える」ことをやめたフリぐらいしかできない。ただ、そのフリの元では、無批判に相手の言った内容を受け入れることにはなろう。おそらくそこが目的である。

ここまではわかる。

しかし、残念ながらその人は「あんまり考えない人だった」。そして幸いなことに、その人は「自分の考えのクオリティが低い」ことに自覚的であった。結果、その人は気功のところには一回だけでもう行かなかったのだそうだ。

気功自体は、上手く用いれば有効なことはあるだろう。存在しないとは思わない。しかし、真っ白にしなくてもよろしい。一等地に金をかけたビルを構えなくてよろしい。健康とはもっと日常に密接したものであろう。せめて本で伝えればよろしい。自分でできるように。高い金を払って道場に通わなければ身につかないタイプのものではない。そのランクは「競技」である。「世界グランド気功大会」とかがあって、そこで優勝を狙うためであれば別だが。

そういえば先日、写真を撮りに歩いていたら奇妙な場所を見つけた。そこは「クリニック」とうたっているのだが、ネットで調べると「放射線を使わないがん治療」「酸素吸入によるアンチエイジング」「ビタミンC点滴健康増進」など、胡散臭いと思われるもののデパートのような場所であった。雑誌にも特集「してもらっている」らしいし、テレビにも出演「させてもらっている」ようではあった。

もちろん放射線を用いずにがん治療できることもあるのだろう。しかし、それが確立されているのであればノーベル賞ものである。全ての医療に携わる人々が全力を挙げて研究しているような分野であろう。

胡散臭いものは溢れている。私のするカウンセリングなど、その筆頭に挙げられて良い。カウンセリングだけで全部OKになるはずがなかろう。度々言っていることだが、私がするカウンセリングは、日中に行う酒の出ない水商売である。技術を売っている。もし必要とあらば、胡散臭いことは重々承知の上、夢分析を行う。それが、相手側に「騙して欲しい」という欲望があり、私の手札にあるいくつかの知識と相手の求めているものが合致している場合、全力で騙す。もちろん金は取る。しかし、それはあくまでも私の「レンタル料」である。脳内伝達物質関連の知識が「騙す」ために必要なのであれば駆使する。フロイト的な考え方が有効なのであれば用いる。ユング的なものが好みであれば発揮させてもらう。哲学が有効なのであればできる限り使う。ソーシャルスキルトレーニングが必要ならば行う。教育的な対応が効力を持ちそうならば私は教師になる。

騙すためである。騙されたい人が目の前にいて、騙されることがその人の日常生活を円滑にする可能性があるのであれば、私は喜んで騙す。適切に騙すその技術に金を払って貰う。

私には「良いこと」をしているという意識はまるでない。ばれないように全力を挙げるだけである。女性を騙して落とすこととまるきり同じではないか。訴えられると面倒臭いし、私が選んで呼び込んだ人たちでもないから、女性の患者に手を出さないだけである。極めて魅力的な女性が患者として来たら、絶対に手を出したいという欲望が生まれるだろう。ただ、面倒臭いから仕事上では手を出さないというだけである。欲望はちゃんとある。

詐欺師には詐欺師の流儀がある。速攻でバレる技術を平気で売る人々が、私には許せない。

ダサいからである。
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加算法での評価

人を加算法で評価することはとても難しい。

減点法は簡単である。ちょっと気に入らない部分があれば減点すれば良い。基準は100点。そこから引いて行けば良い。小テストの点数が低ければそこから引く。リアクションペーパーが酷ければ、引く。レポートでも、基準に充ちていないと感じれば引いて行く。それだけである。

しかし、加算法となると、「良い」と思われる部分をどんどん見つけて加算して行く必要がある。気に入らない部分があっても、それは引かない。ここが難しい。結果的に、学校などでの評価は、加算法と減点法を合わせた形で評価しなければならない。加算法だけでは点数がインフレを起こすし、減点法だけではミスのみ注目することになる。だから、加算法で判断する部分は平常点、テストは減点法で行う、などと、それぞれの領分を決めなければならない。

しかし、それは仕事だからできることである。プライベートで他者を見る際に、加算法を選択できる人というのは本当に尊敬する。私はできない。仕事のつもりにならなければできない。

だったら、仕事のつもりになってしまえば良いのであるが、それも限度がある。感情が関わる。仕事の上では無理に感情を脇においておけても、プライベートで感情を脇に置くには相当な鍛錬を必要とするのだろう。現段階で、私には無理である。

加算法で他者を判断できるのであれば、良い評価がインフレを起こし、どんどん良い評価となる「はず」なのである。しかし、意識的に加算法で判断しようとしても、結局は「打ち止め」がある。減点は減点で、結局別軸で蓄えられてしまうことも多い。あの時ああだった、というような「恨み」や「根に持つこと」が残るのは、別軸だからである。

恨みを持たない人というのがどれだけいるのだろう。恨みを表に出さない人ならいる。しかし、抱かないという人がどれだけいるのか。

ならば、失敗は許されない。そういうことになる。しかし、私たちは人間であって、必ずしくじる。失敗をする。対人関係において100%、120%で接することができる人など、聖人でもない限り、いるはずがない。

恨みもあって当然。根に持つことがあっても当然。そのぐらいに思うしかあるまい。せめて、それを表に出して、他者を責め続けることさえしなければ御の字だと思うしかない。それだって出来る人は限られているのである。恨みを思うぐらい、感じてしまうぐらい、許さなければなるまい。自分に対しても、他者に対しても。

ただ、対人関係は、たとえかなり親密な間柄だったとしても、ある意味では「仕事」である意識は保った方が良いのだろうとは思う。それがおそらく、「親しき仲にも礼儀あり」ということなのだろう。

礼は、相手を尊重することを含む。ということは、自分だって恨みを抱くことや根に持つことがあるのだから、他者にだってあって良い、という認識を持つことが前提である。それを表に出さないという取り決めが礼でもあろう。それを基盤として、意識的に、努力をして「加算」して行く必要がある。

つまり、「良いところ」を加算することにはエネルギーがいる。厭だったことを覚えておくのは容易い。「良かったところ」というのは、繰り返されると慣れてしまうものである。慣れたら最後、それが基準となり、減点法が再開されてしまう。あまつさえ、良かったということが記憶にすら残らなくなる。

毎回、新しい人と会うイメージを持てたら最高であるが、まぁそれは無理である。私たちには記憶がある。だからせめて、良いと感じたところを刻み込む努力をしなければならない。

それが、誰かを好きになることである。

恋に落ちる際には、そういった努力はいらない。何せ、見えているものは自分の内側に存在する理想像だからである。良いに決まっている。良いという基準に照らし合わせて、合致したと思い込んでいる箇所を数えるだけである。簡単だ。

しかし、そういった「恋の病」的、いわば「病的」な関係ではなく、本当の対人関係が始まった際、理想に照らし合わせる方略は消える。目の前には見知らぬ他者が存在しているだけである。厭なところは残り易く、良いところはすぐに慣れ、忘れ去られ易いことを肝に銘ずる必要がある。できれば、良いと感じた部分はどこかに書き付けても良いのだろう。日付とともに。どうせ、厭だったことは覚えているのだから、それは書かなくても良い。忘れられればそれに越したことはないのだから、刻み込む必要はない。

何だか自己啓発本に良くありそうな内容で厭であるが、やはり誰かを好きになるには努力が必要なのである。ひいては人を愛することにも繋がる。それは努力が必要であるし、技術も磨く必要がある。放って置いたら好きになるというのは、恋でしかない。それだって大切なことではあるが、あくまで対人関係が始まるとっかかりであって、本番は「恋の花が散った後」なのである。

その覚悟が、私にはあったのだろうか。書いていて反省し切りである。一体どれほどの人を、今でも減点法のみで判断しているか。恨みを抱いているか。根に持っているか。それを捨て去ろうとは思わない。しかし、人を好きになる努力を、もっと緻密に行っても良いように思える。

はい。努力します。精進します。今から。

感謝できる能力と度量

他者に感謝できるかどうかでその人のキャパシティは相当な部分が決定している。度量と言っても良いが、これはどうも本当らしい。私は、なるべく感謝しようと努力をしているものの、うっかり抜けることが多い。感謝してしかるべき部分に、気持ちが向いていないときがある。これは、私のキャパシティが小さいことを示している。

周囲を見ていても、誰かに対して、あるいは環境に対して、感謝できる人というのはかなりキャパシティがある。余裕がある。ならば、キャパシティは生まれ持ったものか。ある程度はそうかもしれない。しかし、感謝できるかどうかという点をバロメーターとして、できるだけ感謝できるよう訓練をしてみるのは手であると思う。

感謝をするためには、「自分の方が優位である」という意識をおさえなければならない。まずこれが大きな障壁となる。自分の方が優位であるという観念が強いと、「一緒にいてやってるんだから、感謝しろ」となる。この場合、感謝するのではなく、「感謝されないこと」に対して腹を立てることになる。しかし、常に他者から感謝を得ようとしている人間が、誰かから感謝される図というものが想像できるだろうか。極めて困難ではないか。かといって、誰かから感謝されたいから、先手を打って感謝しておく、という状態では、結局押し付けがましいだけになる。

感謝をする、というのは、相当難しい技術なのである。

強い自己卑下の元に行う疑似感謝も、極端に頭を下げるという逆ベクトルのエネルギーによって、自分の内部に潜む「反撃を行うエネルギー」を抑え込んでいるだけでもあり、これもひとひねりされた「自分の方が優位である」観念でもある。

結局、多くの人は「自分の方が優位である」と思っている。これを基準で考えた方が良い。自分のことを適切に評価できる人間など、孔子レベルである。「自分の方が優位である」という観念が湧き、他者を見下した時点で、自分が「一般人」であり、「普通」であることを身にしみて感じた方が良い。

一緒にいてくれてありがとう、話を聞いてくれてありがとう、場所を提供してくれてありがとう、お金を払ってくれてありがとう、声をかけてくれてありがとう、お土産を買って来てくれてありがとう、協力してくれてありがとう、悪口を言わないでいてくれてありがとう、非難ではなく成長を促す言葉をかけてくれてありがとう、我慢してくれてありがとう、教えてくれてありがとう、叱ってくれてありがとう、傷つけないでいてくれてありがとう、尊重してくれてありがとう、生まれて来てくれてありがとう。

感謝されるための布石ではなく、純粋に、上記の内容をそのままで表出することがいかに困難か。しかし、それが「誰かを愛する」ための基礎体力なのである。それが、見返りを脇に置いて行為する基本的な部分なのである。愛するとは具体的な行為であるため、上述の感謝だけでは愛することにはならない。しかし、その基本構造は同様である。

見返りなど、欲しいに決まっているではないか。見返りが欲しくない、一切気にしないなどという人間を信用してはいけない。それは詐欺師か馬鹿である。『葉隠』によれば、聖(ひじり)の語源は「非知り」であるという。とすると、たとえば「私自身の中で、見返りをまったく気にしない、という状態を、私は知らない」ということを認識できている人間が「非知り」であるともいえるではないか。ならば、見返りが欲しいが、その気持ちを一旦脇に置いておける智力がある人間を聖といっても良いように思う。

もちろん、「非知り」である状態だけでは前に進めない。そこから具体的に行為を発動しなければならない。しかし、まず「感謝の念」が湧くように、修行をしても良いではないか。

そのために、「私は、結果的には〜という見返りは欲しい。それは認める。でも、やっぱり、これはとても有り難いことだし、本当にうれしかった。だから、声を大きくして言おう。ありがとう」という意識を育んでも良いような気はする。

さて…。道のりが遠い。

笑顔

笑顔が魅力的であるということは、実際にはかなり難度の高い技術である。「カッコつけ」の人の場合、笑顔は魅力的にはなりにくい。鏡で笑顔を作ってみればわかる。鏡を見ながらであると、その笑顔は不自然になる。実際に、自分の笑顔が写った写真を見ると、あまり心地よい思いはしないことが多い。それは、作った顔ではないからである。

笑顔とは、ある部分では「崩れた表情」なのである。最も強い笑顔の表現を「破顔」というではないか。それは整ったものではない。いわゆる「キメ顔」とは真逆の位置にある。

作り笑いがすぐにバレるのは、それが奇妙に整った笑顔だからである。本当に魅力的な笑顔には、他者の前で「崩せる」余裕が現れる。それは、扉を開けることである。人前で表情を美しく崩すことが出来る人は開かれている。芯が強くなければできない。

アマテラスが閉じこもった天岩戸は、何を契機に開いたか。岩戸の前で神々が「笑った」ことである。笑いは、相手の戸を開く。笑う人の前にいると自分の戸が開き、まだ識らぬ自らの性質すら垣間見る。

では、アメノウズメはいかにして神々の笑いを引き出したか。乳房を出し、陰部ギリギリまで服を下げることによって、である。しかし、それはいやらしいことではない。下品なものではない。神聖な開きである。

腹を割る。胸を開く。あくまで比喩である。リアルに服を脱いで相手が笑う筈がなかろう。性欲と笑いは同居しない。

私としては、普段秘している筈のものを「さらっと」出すこと、それもあからさまにではなく、タイミングを見極め、さっと、ギリギリのラインで示すことが重要なのだろうと思っている。自分でも処理し切れていないようなものを露悪的にさらけ出すことは、決して笑いを誘いはしない。痛々しい思いと嫌悪を引き起こすだけである。それは笑いではない。冷笑である。そうではなくて、十分に処理が終わり、どう触られてもびくともしない部分を、相手の意向も汲みながらさらっと開くことである。上手なお笑い芸人は、これができる。下手なお笑い芸人は、これができない。見ていればわかる。

自己開示が、他者の自己開示を引き起こすなどというのは、あくまで表面的な言い方である。開けば何でも良いわけがないだろう。聞いた相手が「引いてしまう」自己開示とは、開示した人が実は処理し切れていないものを露悪的に出した時に起こるものである。性的なものはその傾向を持つことが多いが、たとえば明治時代の銭湯はすべて混浴であった。裸であることと、性的な仕草というものは別種のものである。ヌーディストビーチに行ったところで、エロい気持ちにはならない。もし、それだけでエロい気持ちになるとしたら、それは性的なものに関する何らかの処理が終了していない証でもあろう。

アメノウズメは、性的な意味そのものではなしに、乳房と陰部を露出した。私は、その時のアメノウズメの表情に関心がある。当然、恍惚とした表情ではなかっただろう。かといって、爆笑していたとも思えない。あり得るとしたら、穏やかな微笑みか、少し挑戦するような「笑み」だったのではないか。

…。笑顔ってどうやって練習すればいいんすかね…?

25歳を越えてからの表情

息子の関節は柔らかい。妙な方向に股を開くことも可能である。小さな子どもは大抵柔らかい。しかし、これが小学生、中学生と年齢を重ねて行くごとに硬くなる。

筋も、筋肉も、皮膚も同じである。加齢とともに硬くなる。

表情もまた、関節と筋肉でできている。若い内は良い。柔らかいので、形は固定しない。どんなに歪んだ表情を続けていても、まだ可塑性がある。皮膚も柔らかく、皺も固定しない。

しかし、25歳を過ぎたあたりから状況は一変する。男女ともに同じである。筋肉は硬くなり、皮膚も可塑性を失う。作り笑いを続けていれば、同じ形の笑顔が繰り返されることになり、奇妙な場所で皺が固定する。全体的な筋肉を使わないために、妙な位置が垂れ下がることになる。特に目元にそれは如実に現れる。口角にも、頬にも現れる。

無表情もまた同様に、筋肉を一切使わないため、皮膚は張りを失い、筋肉は緩み、だらしのないものになる。

張りついた笑顔しか作れない者が泣いた姿を見たことがあるだろうか。それは、笑うことを知らない者が無理をして笑おうとするよりもグロテスクである。

ダ・ヴィンチは、美しい顔立ちの者が歪んだ笑顔を示した際、最も醜悪であると記した(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫)。表情は、その人の生きて来た軌跡である。残念ながら、誤摩化しは効かない。

拗ねて、不服を溜め込めば、下あごが出て、唇が尖る。人を見下し続ければ、上まぶたは中途半端な位置で固定され、頬の上側に力が入らず、口角の片側がつり上がる。左右の均等は失われる。戦い続ければ、あごは引かれ、上目遣いになるため、眉に大きな筋力がついてしまう。口角は下がる。不自然な笑顔は、鼻と頬の間、いわゆるほうれい線と呼ばれる部分に、奇妙に細い、一定過ぎる皺が刻み込まれる。

俳優や女優の顔が美しさを保つのは、それを売り物としているという部分もあるだろうが、様々な役、様々な表情を作らざるを得ないために、表情筋がまんべんなく鍛えられるという部分もあるのではないかと思う。「無表情」を売りとする女優が、40歳を越えても役者を続けているという例がどれだけあるだろうか。表情のバリエーションが少ない役者は、どこかで使われなくなってしまう。それはおそらく、演技力が乏しいという問題だけではないだろう。

誰かの真似をできることは重要である。役になり切ることは重要である。作ることができる表情は、その気持ちを身体で把握することができる。声色もまた(注)。

誰かの真似をしようとする時、特徴的な口癖のようなもののみを真似るのでは甘い。それは、単に目立つ末梢部分でしかない。その枝先の元にある幹、その根をつかみ、あらゆる状況でどのような枝が伸び得るかを表現できることが、いわば世阿弥のいう「ものまね」である。憑依型の物真似である。

そしてそれが、共感力の源でもある。真似ができぬ在り方は、本当は理解などできていない。

よく笑い、良く泣き、良く疑い、良く落ち込み、良く考え、良く怒り、良く驚くことである。なるべく作らざるを得ない状況を避け、人を愛し、傷つくことである。

自戒の念を込めて。

注:それを、相手の目の前で行うことは、バカにすることにもなるのでやめた方が良いだろうけれど。

ぼんくら

「ヒポクラテスの誓い」の中に「First, Do No harm !(まず害を与えてはならない)」というものがあると良く聞くのだが、岩波文庫版『古い医術について』の中を探してみても書いていない。

いわゆる「誓い」の部分は極めて短い章である。すぐに読める。そこにある似た文は、

〈わたしの能力と判断力の限りをつくして食養生法を施します。これは患者の福祉のためにするのであり、加害と不正のためにはしないようにつつしみます。〉(ヒポクラテス『古い医術について』岩波文庫 p.191)

しかない。

その他の章で、多少「まず害を与えてはならない」と意味合いが近い部分でいえば、

〈医術は助けになる諸々の理論を自らの内にそなえているということ、治療不能の病気に手をくだすのを拒むのは正当であること、もしくは手をくだすばあいは誤りない治療を期するということ〉(同前 p.98)

あたりだろうか。

もちろん、「まず害を与えてはならない」というのは極めて重要な観念である。それは認めるが、これは「素人」の場合である。知識も技術もない素人が下手に手を出して傷つけてしまうのであれば、何もせずそこで突っ立って見ていろよ、と言いたくもなる。にわかな脳外科の知識で頭蓋骨を開けられてはたまったものではない。

しかし、玄人の場合は話が違う。持てる知識と技術を総動員して、困った状況を何とかして欲しいものである。それができないのであれば、達人、エキスパートとは言えない。深い判断のもとで、「これは手を出さない方が結果的に良いだろう」ということで、何も施術を行わない、ということはあるだろう。しかし、それだって判断なのである。害を与えてしまう結果を恐れて手をこまねいているわけではない。だからヒポクラテスは〈わたしの能力と判断力の限りをつくして〉と記しているのだろう。

たとえば、以下のような記述がある。

〈充満が生む疾病は空虚が癒し、空虚からおこる疾病は充満が癒し、激しい労働から生じる疾病は休息が癒し、怠惰から生まれる疾病は激しい労働が癒す。〉(同前 p.108)

極めて端的で、当を得ている。ここで記されているのは身体疾患についてではあるが、精神疾患にも当てはまる。これを知らない素人が、たとえば「うつ病? それはゆっくりやすまなければ!」などと一元的に考えて無理矢理休ませたりすると、より病状が悪化することなどざらである。「うつ病は怠けじゃないんだ!」と言われることもあるが、これには注釈がいる。「うつ病は、一見怠けているだけに見えるけれど、全部が全部、怠けている人だというわけではありません。でも、実際には怠けているだけの人もいます」。当たり前である。怠けているだけであるならば、激しく働く機会を提供した方が元気になる。しかし、だからといって、誰にでも激しく仕事をさせれば良いわけではない。本当に充電切れ状態でダウンしているうつ病の人もいるのである。

このように、浅薄な知識と技術で素人が手を出すと、害を与えることはあり得る。だからこそ、それで金を取るのであれば、限りなく正確な知識と技術を身につけましょう、ということに繋がる。

では、対人関係においてはどうか。カウンセリングであるとか心理療法であるとかは、いわば先鋭化された対人関係場面である。この状態で「まず害を与えてはならない」を実行できるかどうかを考えてみた方が良い。

人は、他者の目の前に立つだけで害を与えるのである。害という言い方がきつければ、「影響」と言い換えても良い。完全に、まったく、相手に影響を与えない人間がいるとでもいうのか。そんなはずがあるまい。相手がモノなら、無影響ということはあり得る。しかし、人間は社会的動物だとこれほどいわれているではないか。人をモノのように扱うことは、そもそもできないように「つくられている」。人とモノの区別がつかないとしたら、それはある種の疾病なのである。

私はよく「邪悪さを身につけることが必要である」という言い方をしている。しかしそれは、他者に対して害を与えるように振る舞え、ということではない。そうではなくて、じっとしているだけでも他者に対して害を与えてしまう自らの存在を意識しろ、ということである。性善説であるとか性悪説であるとか、私が言いたいのはそういうことではない。他者に対する影響のことである。それをなるべく意識化しておく必要がある、と言っている。

ぼんやり暮らしている者がいかに害をなすか。アレントが指摘し、ミルグラムとジンバルドーが実験で実証した内容を忘れたか。「悪は、卓越した超人のような悪魔が行うものではない。そうではなくて、悪とは、平凡さゆえに行われる所業である」。ある状況に放り込まれれば、意識的ではない者は、平気で害をなす。無邪気に、人でさえ殺せる。600万人のユダヤ人でさえ殺せる。「アイヒマンは悪魔だったのではない。ただの、愚直な官僚だった」。

対人関係についていえば、どんな人であっても素人ではいられない。誰とも接触せずに生きて行ける人間は存在しない。複数の個体でシステムを構築し、やり取りをして作業を分担し、様々な環境でも生きて行く能力を身につけ、繁栄して来た種なのである。残念ながら、「身勝手」な者は必要ない。私たちは、人である前に、生物である。フロイトは、人間の本能は壊れていると表現したが、壊れていても生物としての仕組みは残存している。

もちろん、対人関係で金を稼がなくても良い。それは、カウンセラーだか心理療法士だか、教育者だか福祉職だか、そういう得体の知れないやくざな仕事についている人間に任せれば良い。いっそ、水商売と自称した方がはるかに潔い。しかし、多少でも「生きて行こう」という気持ちがあるのであれば、対人関係について「ズブの素人」から「少しはものが分かっている状態」ぐらいまでは持って行きたい。

対人関係における「ズブの素人」のことを、ガキというのである。対人関係について、多少はものが分かっている人のことを「大人」というのである。身体だけは大きくなってもガキである人などいくらでもいる。私だってガキであろう。しかし、ガキのままではいたくない。だから、自らの邪悪さを、つまり「平凡さ」を意識しておきたいのである。

他者を自らの思い通りに動かそうとする。他者を欲望の対象とする。他者を道具のように扱う。どんなにきれいごとを並べても、そういう人間の性質から逃れることはできない。それは、そのものでは「悪」ではない。しかし、状況と合わさると、それは「悪」になる。対人関係を基礎としたシステムを害するものとなる。

私は真摯な人間です、などと自称している人間が最も害悪になる。本当に真摯になろうとするのであれば、自らの、人間としての「平凡さ=邪悪さ」から目を逸らしてはならない。そうでなければ、邪悪さを回避することさえできない。

いいだろうか。あなたは、特別な人間ではない。

自戒の念を込めて。

3年以内に職を変わること

職場がいくつも変わる人がいる。それ自体がいけないわけではない。たとえば欧米では、ある一定期間以上同じ職場に居続けることの方が「異常」扱いされることもある。河井隼雄によれば、20年同じ職場に居た人が、ヨーロッパで精神疾患の兆候としてケースに扱われていたことが記されている。しかしここは日本であるので、流れている文化的力は相当に異なっていることを考慮する必要がある。この国において、3年以内に職場を変わる場合、「何か」あると考えて差し支えない。

立場上、職場を点々とする人の「言い分」を聞くことは多い。その時、必ずといって良いほど話題に出るのは、上司との関係である。上司との関係が良い時には仕事が続く。しかし、上司が変わって相性が悪くなると「色々な理由をつけて」違う職場に変わる。同じ上司であっても、その上司に対して「理想化」が効いているうちは職が続き、「幻滅」するとその上司との関係が一気に悪くなり、まるで違う上司に変わった時のような反応が出現することも多い。

職を転々とできるのであるから、ある意味では能力が高い。バイトだけ、あるいは非正規雇だけの場合もあるが、正社員、準正社員のような境遇を次から次へと見つけてくる人もいる。

多くの場合に共通するのは、「(自分がどんな状況であっても)頑張っていることを認めてくれて、かわいがってくれる上司なら良い」ということらしい。認め方、かわいがり方は、その人の「して欲しい」やり方でなければならないことが多いようだった。

こうやって文章にすると、随分なものである。その人自身が上司になった際、部下に対してできることなのであろうか。自分の言いたいことを言いたいように言って、自分のやりたいように勝手に努力をして、頑張って、それを認めろと要求し、褒めろと要求していることになる。しかも、どのように褒められたいのかを先読みしてくれないとダメだ、とまでいう。

実にかわいげがない。

かわいがられるためには、かわいげがなければならない。かわいがられるための努力も必要である。ここでいうかわいげとは、ぶりっ子のことでも、媚びることでもない。「教えてください」という姿勢である。そして、気持ち良く教えさせる技術である。さらに、そこで得たものを自分なりに深めて、より進化したものとして見せることである。つまり、相手の教育欲に火をつけることである。ただ覚え込むだけではダメである。

ここで、「誰にでもかわいがられたいわけではない」という発言が生まれる。それはそうなのだろうが、換言すれば「自分が望んだような理想的な人から、特に工夫を凝らさなくとも、やりたいように努力していれば褒められる」状態が望まれていることになる。

ここに、根深い父親コンプレックス、あるいは母親コンプレックスが見え隠れする。ここでいうコンプレックスとは「劣等感」のことではない。関係が複雑になってしまい、絡まり、ある一定の刺激が入ると深く考えることなく、いつも一定の反応が導き出されてしまう、いわば回路がショートしている状態のことである。象徴的な父性・母性に対するコンプレックスでも、実際の父母に対するコンプレックスでも、3年以内に職場を変わる人の場合、かなりややこしくなっていることは多いように感じられた。

私としては、実際の父母との関係というものはそれほど大きな影響はないと考えていた。しかし、父性・母性という象徴の問題を考えた場合、その象徴をかぶせる先は、実の父母であることは当然多くなる。つまり、実の父母との客観的な関係性というより、その人の内的な父性・母性との関わり方が、実の父母に対する幻想として現れている、と考えれば良いのだろう。その人の父母に対する言及内容は、客観的な(そんなものはないだろうが)父子・母子関係とは異なることなどいくらでもある。それは、結局は内的な想像・幻想の吐露である。

そしてその力は、上司、あるいは会社に向けられることが多い。上司には父性的な、会社には母性的なものが投影される確率が高い。上司は叱責し、褒め、支配する。会社は包み込み、育み、守る。そういうことである。

もし自分がそのような傾向を有すると思うのであれば、実の父母をひとつの題材として、自分が父性・母性とどのように関係を持っているのか、探ってみると良いかもしれない。私のカウンセリングに50分1万円も出して通ってくる人は、自分一人ではそのあたりを探ることができないという自覚があるので、むしろ踏ん張って探ろうとする傾向はある。多くの人は「自分には問題がない」と思っているから厄介である。たとえ、傍目には仕事が続かないことが明白であり、ファザコン・マザコンが明白であっても、先にも記したように、自らに対して極めて巧妙な「言い分」が存在する。しかしその人たちは、どの職場に移っても、最終的に言っている「愚痴」の内容は酷似してくる。どこかで聞いた話になって来る。4つめの職場ぐらいで本人がそのことに気づくこともあるが、8つ職場を変わっても、型が同じであることに気づかない人もいる。付き合う男女の場合も当然同じである。職場との関係と男女関係は、ほぼ同期する。

欧米で転職がスタンダードだとはいっても、日本における職を転々とすることとは意味合いが異なることを十分に吟味しておく必要があるだろう。欧米であっても、何かひとつのことを継続できない、移り気が激しく踏ん張る力が無いものは信用を失う。当然である。実力という一点を持って、その売り物をより高く買ってくれる場所に移るのである。合わないから努力せずに逃げることとは違う。もちろん、あまりに酷い職場というものもあるが、自分のやりたいように努力するだけではない努力というものが存在する。「努力」なら何でも良いはずがないだろう。極端な話、販売の仕事中にずっと二の腕の筋肉を硬直させ続けるという「努力」もあり得る。しかし当然、その努力は「お門違い」である。

私はたまたま、非常勤ぐらしが長かったこともあり、職を転々としても「あまり不自然には見えなかった」だけである。しかし、上司に食ってかかる自らの様、努力の身勝手さには、30歳ぐらいでようやく気づいた。遅い。私のファザコン・マザコンは、おそらく根深い。しかし、無自覚であるよりはマシであろう。マシだというだけだが。

「やらなければ気がすまない」人

〈「気がすまない」というのは、自分がきめたように事が運ばないときに起きる感じである。〉

〈仕事をしていないと気がすまない性格の者は、仕事を休むことができない。また遊ぶこともできない。遊ぶとしても、義理とかお付き合いが多く、その際遊びは遊び本来の性格を失い、一種の仕事となる。あるいはまた、時にどんちゃん騒ぎなど滅茶苦茶な遊び方をすることがあるが、それはそうすることによって一時なりとも気がすまない気持ちから解放されようとするためであろう。なお今日ではレジャーブームと称して遊びが奨励される時代となっているが、しかし本当に人々が自由に遊ぶようになっているかは疑わしく思われる点がある。というのは人々は遊ばなければならないので、遊んでいるように見えるからである。いいかえれば遊ばないと気がすまないのである。〉

〈逆説的なことだが、日本人は本来甘えたいがために、しかし実際にはなかなか甘えられないので甘えを否定し、かくして気がすまないという窮屈な心境に低迷することが多いと考えられるのである。〉

以上、土居健郎『甘えの構造』弘文堂(pp.128-134)からの引用である。

たとえば、ものすごく緻密な書類を作らなければ気がすまない人というのはいる。時間をきっちり守らないと気がすまない人、メールを返さないと気がすまない人、準備をきっちりしないと気がすまない人など。私はたいてい当てはまっているわけであるが、その背後に「甘えたいけれど、甘えられないので甘えを否定し、気がすまない窮屈な心境に低迷している」という状態があることは、実感としても良くわかる。たとえば、私は自分で人が集まる企画を勝手に立てて、かなり前から告知をし、準備をしないと「気がすまない」。これは「誰か他の人に頼るという甘えを行いたいのであるが、自分が思う通りに動いてくれるわけではないことが多いので、甘えることはできない。そのため、甘えたいという気持ちは押し殺し、自分で行ってしまう。ただしその際、抑えこんだ甘えたい気持ちは漏れ出し、過剰なまでに緻密に行おうとする行為として出現している」と考えると実にしっくり来る。という状態を認識したからといって、結局自分が心地よいようにするには誰か他の人に任せるのではなく、自分でやってしまった方が早いために、自分でやってしまうことにはなる。認識したからといって気持よく甘えられるわけでもない。もちろん、部分的に緻密に行える人を発見した場合には、その人に委ねることは行う。そこはできる限り意識的に「甘える」ようにする。

しかしそういう自分の状態に気づかないでいると、本当は誰か他の人にやって欲しい、自分の負担を減らして欲しい、甘えたいと感じているにも関わらず、たとえば緻密な書類をわざわざ作って、まるで見せつけのように提出するという行為が出現することがある。周囲としては「…まったく…。見せつけみたいな書類作りやがって…。何? ほめて欲しいの?」という気持ちを掻き立てられる。これを「逆転移」という点から考察しても良い。周囲の人が否定的な気持ちを極端に掻き立てられる場合というのは、行為者が無意識的に動いている時であると考えてほぼ間違いない。だからといって、言語的に指摘したからどうなるというものでもない。抑えつけ、無意識的に行為しているのは理由がある。本人が抱えきれないからである。

つまり、誰かに甘えたい、という気持ちが自分自身の中にあることを認めるだけの「強さ」がない、ということになる。実際には、適切に甘えるためには強さが必要になる。許容量が必要になる。ただの「甘ったれ」の場合には、何も考えていないボンクラであるが、意識的に誰かに甘える、誰かに頼るというのは、ある種の覚悟が必要になる。強さというと語弊があるかもしれない。それはしなやかさのことである。柔軟性のことである。基本的に何かをしなければ「気がすまない」人は、硬い印象を与える。しなやかさが失われているからである。そういう人は、周囲の環境である種のパターンが出現した際、とても脆い。

では、しなやかさを身に付けるにはどうしたら良いのかというと、これもまた難しい。結論としては「遊べるようになること」なのであるが、土居も記すように、硬い人は遊ぶことですら義務と化す。遊ぶということが、何か目的を果たす「ため」になってしまったり、成長の「ため」になってしまったりする。「〜のため」というものが解除された状態が「遊び」であるにも関わらず。

と、書けば書くほど自分のことを分析しているような気になってくるのであるが、まぁそういうことなのだろう。こうして文章を書かなければ「気がすまない」。ということは、私は何を抑えつけているのか。誰にどのように甘えたいのか。

私は理解して欲しいのだろう。大切な人に。

恋愛にスリルを求める人

恋愛にスリルを求める人とは一体何であるか。

スリリングな恋愛と言った場合に、第一に危険な状態が想起される。しかし、その危険とはどの程度のものであるか。たとえば、いくらスリルを求める人とはいえ、シリアルキラー(連続殺人鬼)とぜひ付き合いたいと言う人はほぼ皆無であろう。つまり、求めているものはせいぜいジェットコースターや、極端な場合でもパラシュート有りのスカイダイビング程度ということになる。シリアルキラーとぜひ付き合いたいというのは、基本的にはパラシュートを付けずに飛び降りたい、ということと等しい。

多くの場合、不倫、浮気など、ある種のルールによって定められている範囲を超える恋愛をしたい人々がこれに当たることが多い。場合によっては「危険な香り」などと言って、不法行為を行っている「アウトロー」な者と付き合いたい、そういう人を求めるという場合がある。しかし、基本的にその場合でも、どこかでリカバリーが利く、修正が可能であるという漠然とした「甘い」考えがあることが多い。実際には本格的に取り返しが付かないことも多いのであるが、それは実際に取り返しがつかなくなってから「甘かった」という認識を得ることになる。フィロバティズム(怖いもの知らず)の場合は、このリスクを低く見積もる、あるいは「自分は大丈夫!」という謎の自信によって派手に動くことになる。

リスクを高く見積もり過ぎて、まったく動かない状態がオクノフィリア(引っ込み思案)である。引っ込んで、「安全基地」に残っていようとする。しかしこれもまた、安全基地を過剰に高く評価している状態でもある。比較的安全ではあるかもしれないが、本当に安全なのであろうか。内田樹がいうように、リスクではなく「デンジャー」が訪れた際、そこは安全でもなんでもなくなる。避難所は「比較的」安全かもしれないが、そこにゴジラがやって来れば、当然安全ではなくなる。

どちらにしても、安全という点に関して思い違いをしていることはわかる。フィロバティズム(怖いもの知らず)の場合には、空や地面、空気や木々、岩や崖などが自身と融合してしまっている。まるで、母子が一体になっている乳幼児のように。世界と自分は相互に浸透し、ぐちゃっと一体となっている。オクノフィリア(引っ込み思案)の場合にも、怖いことがあったら抱きつく「母親」的安全基地を過剰に評価している。やはり、母子一体の乳幼児のようである。

バリントは、溺れた人を例としてあげている。もし溺れたとして、「いやぁ、オレっちは全然平気!」と言っているフィロバティズム(怖いもの知らず)的人間は、川の流れも体力も水の冷たさも甘く見すぎている。おそらく溺れるだろう。かといって、ワラにつかまってなんとかやり過ごそうとするオクノフィリア(引っ込み思案)的人間も、つかまっているのはただのワラなのであって、溺れている状態から救われることはない。やはり溺れるだろう。そうではなく、泳ぐ能力をある程度身につけておくという準備があり、自身の体力を正確に把握し、適切に環境を観察して把握し、それらを通して近くの岸になんとか泳いで行き、陸に上がるという具体的方略を冷静に採る必要がある。それがreality testing、つまり「現実検討」である。フィロバティズム(怖いもの知らず)も、オクノフィリア(引っ込み思案)も、「現実検討」ができていない。ある種のフィルター越しに世界を見ていることになる。そのフィルターは、危機が訪れた際、大変脆い。ある場面では有効に働いていたとしても、である。

もちろん、恋愛にスリルを求めるという場合に、実際に存在する「ルールを破る」危険が必要なわけではない。「何が起こるかわからない」というスリルも存在する。次にこのタイプについて考えてみよう。

たとえば対人距離といった場合、物理的な距離と、精神的な距離の2種類に分けて考えることは有用である。当然、物理的な距離と精神的な距離は連動している。密着して歩く男女は恋人同士と考えてまず間違いないであろうし、「半径10メートル以内に近づけたくない」という相手とは精神的にも離れている相手だと考えておよそ間違ってはいないだろう。ただ、まったく同じではないことは留意しておく必要がある。文化によっても異なる。

「相手が入ってきても良い距離」というのは、日本的に言えば「間合い」である。これ以上入ってきたら斬るぞ、という距離のことである。当然現代日本で帯刀している者はいないので、斬ることはないが、相手の間合いに意識的に入り込み、取り入ることができる人間を「甘え上手」と呼ぶ。「甘え上手」な人は、相手が嫌がらないギリギリのラインを瞬時にとらえ、その間合いに入り込む。また、入り込んだ後、嫌がられない範囲を拡大していく。元来、相手が「間合いに入れても良い」と感じられるような風貌を意識しているし、コーディネートしていることが多い。それは見た目・服装・言葉遣いなど、表面的なものから始まり、相手の「思い通り」であるように振る舞う技術を携えている。甘え上手とは生まれつきだけではない。それは、生まれつきの感度の良さを土台として、学習と修練によって身につけた特殊専門技術である。

逆に「甘え下手」とは、(1)間合いの取り過ぎ、(2)間合いに入りすぎ、という傾向を強く持つ。ここには土台として「甘えたい」というものがなければ話が進まないのであるが、甘えたいにも関わらず間合いを取り過ぎている状態とはどういうことか。つまり、遠慮しているわけであるが、その遠慮している心境を読んでもらい、相手から近づいて来てもらって、甘やかして欲しい、ということになる。しかし当然、間合いをとっていたとしても強烈に魅力的でなければ、相手は近づいてはくれない。面倒くさいからである。結果的に、求める「甘える状態」が訪れる可能性は低くなる。逆に、相手のことを大して考えず、性的魅力だけで突進してくるような不躾な輩が多数押し寄せてくる可能性も否定出来ない。

次に、甘えたいからといって間合いに入り過ぎるとどうなるか。「鬱陶しがられて嫌われる」。これは、「甘え上手」の人々が行う「どのくらい入ると嫌がられるか」を看取するセンサーを発達させていないことに由来することも多い。また、相手が間合いに入れても良いと感じるような見た目などのコーディネートがおろそかになっていることも多い。あるいは、知識だけで動く「野暮な人」も、このパターンに入り込みやすい。

この(1)(2)の混合のようなパターンとして、間合いに入り込む際に使用する技術選択の誤りというパターンも存在する。つまり、適切に「頼む」ことが必要な状態で、「食ってかかる」行動を選択する人は、基本的に鬱陶しがられる。やはり、嫌われる。これは、間合いに入りすぎて、かつ間合いをとる際に使用する行動(ヒット・アンド・アウェイ)をいきなり使用することによっている。食ってかかることが効力を発揮するためには、相互にかなり強固な関係が成立しており、いわば「ヒット・アンド・アウェイごっこ」として遊べなければならない。まだ関係が成立していない男性の前で「…嫌いよ…」とつぶやいたところで、相手としても「あぁそうか。俺のこと嫌いなんだな」で終わってしまうのである。そこに「本当に好きよ。もっと私を見て」というメッセージを汲みとってもらうためには下準備が必要である。

さて、相手との間合いをどのようにとるか、というパターンを観察することで「甘え上手」か「甘え下手」かが理解できるわけであるが、関係が成立した以降は、距離調整そのものをスリルに、つまり「刺激」として使用することが可能となる。日常的な表現では「押してダメなら引いてみな」である。「恋はギブアンドテイク」である。ミスチル曰く「シーソーゲーム」である。どうでも良いけれど。

AーーーーーーーーーーーーB
AーーーB
     ←      →

(1)この範囲が広すぎる(刺激がない)
(2)Bが動かな過ぎる(刺激に慣れるために刺激とならない)
(3)速く動きすぎる(刺激が強すぎる)

(1)から(3)の場合、適切な刺激ではなくなる。つまり、楽しむスリルではなくなってしまう。ジェットコースターではなくなってしまう。

結婚のような、「共同経営」の場合にスリルごっこをやっていたら経営が成り立たないので、基本的にこの距離は適切な位置をキープすることになる。結婚生活は、構造的に遊びではない(注1)。それは家庭という小規模社会システムを維持する「ため」の、具体的な「仕事」である。しかし恋愛となると、それは本来の意味で「遊び」(何かの「ため」がない、その関係性自体が目的となるような行為)であるので、間合いは適切に緩急を付ける必要が出てくる。そうでなければマンネリ化したつまらない「遊び」になる。遊ぶのであれば真剣にやった方が良い。

ここで、相手に対して、「自分が良く採用する間合いの取り方」はある程度パターンとして示す必要がある。それによって、相手に「先読みしてもらう」ことが可能になる。逆に言えば、ある種のパターンを作ることができたあとで、そのパターンを「崩す」ことを刺激として用いることができるようにもなる。

大抵のカップルは、この間合い調整を適切に行なっているのだと思われるが、たまにとんでもないパワーを持つ人がいる(大抵女性)。使用する方略は(3)速く動きすぎる、なのであるが、その人自身が持つ「魅力」があまりに強力なため、男は「振り回される」ことになる。そういう人が実際にいる。当人はその「魅力」について、否定的に捉えていることも多い。たいていは見た目であるとか、身体的特徴であることは多い。ただそれだけではなく、場を支配する精神力であるとか、感受性であるとか、知性であるとか、様々なものが関係しているので一概には言えない。ただ、振り回したくて振り回しているわけではないことも多々ある。

振り回されている男としては「刺激的な恋だ!」とかわめいていれば良いのであるが、まぁ大抵続かない。私も含め、男は愚鈍だからである。それは結果的に女性を傷つけることにもなる。そのことは知っておいた方が良いだろう。

そういう、「間合い」、いわば甘える距離感をめまぐるしく変化させる女性というのは、日常でも困難を抱えていることが多い。そのため、カウンセリングに来ることもある。かつてはこの程度でも「ボーダーラインパーソナリティ障害」「境界性人格障害」と言われていたが、さすがにその程度であれば最近はボーダーとは呼ばれなくなったようではある。それはそうだろう。

しかし、対応方略としては、極端なボーダーラインとほぼ同じであると考えて差し支えない。先ほどの図を再録しよう。

AーーーーーーーーーーーーB
AーーーB
     ←      →

Aを男性、Bを振り回す女性とする。この場合、Bが間合いを広げたら懸命に追いかけるAというのは、あまりよろしくない。これをしてしまうと、Bとしては、もっと試してみたくなってしまうのである。そしてAは振り落とされる(大体3ヶ月。3週間で脱落する者も、3日で脱落する者もいる。こういうタイプの女性が男性と付き合う継続時間を参照のこと)。

そうではなくて、中井久夫の引用したバリントの言い方を借りれば「激しい川の流れの上に浮かぶ落ち葉のように」(注2)やり過ごすしかない場合はある。その要点は、こちらから近づいて行かないこと、離れないこと、かといってまったく動かないわけではなく、思い通りには動かないことである。バリントは「アクティングアウトを許容するしかない」などの言い方を用いているが、土居を参照しつつ日本語でいうのであれば、「相手が甘えているということを認識して、ある程度甘えて良い雰囲気を作り出す」ということになるのだろう。

それは、ある種の一貫性である。上記は「治療」の場面でのことであるが、日常で振り回される女性に対応する場合にも必要な観点である。たとえば振り回してくる女性の場合、予定をドタキャンしたり、直前にならないと会うことがOKかどうかわからなかったり、ということは頻繁に起こる。そういう場合どうするか(注3)。予定の日程は確保しておく。これは確実に行う。そこで待ちぼうけを食らう可能性は常に考慮に入れる。そしてその時間、もしすっぽかされる、あるいは極端な遅刻をされるとしても、時間を有効に活用できるよう準備をしておく。たとえば、「いつかはどうせすること」の中で「どこでもできること」を、その時間に行うのは極めて効率が良い(注4)。ここで、いわゆる「暇つぶし」のような本を読んだりゲームをしたりしていると、振り回してくる女性Bに対して憎悪が生まれてしまう。来ることを前提とするからいけないのである。振り回してくる、しかしそれにも関わらず魅力を感じている相手であるならば、そのぐらいは覚悟しておいた方が良い。もちろん、「まったく…。またすっぽかしかぁ。まぁ、失礼ではあるよなぁ」ぐらいの感覚は覚えるのであるが、それは「憎悪」までには発展しない。ここは重要である。憎悪にまでは発展しないため、「反撃」を行うこともなくなる。

振り回す人、いわゆる「気分屋」というのは、結局この「甘えの間合い」がデタラメに操作されていることにほかならない。それを先読みして合わせようとするのではなく、基本は淡々と動かず、ある程度動かされるとしてもその動かされる範囲を最小限にとどめ、特に感情的な起伏が極端にならないように出来る限りハード面から工夫を施すことである。

そういう一貫した、安定した相手と接触を続け、また自らが持つ特徴を適切に把握し、使用する方略が熟練してくると、だんだんと「甘えの間合い」も適切にとれるようになってくる。だから、もしAがBを「育成」(注5)するつもりなのであれば、この「激しい川の流れの上に浮かぶ落ち葉のような」在り方は重要になる。もちろん、ただの落ち葉ではいけない。相手の特性を適切に把握し、フィードバックし、それらの使用法のサンプルを示せなければならないのである。強烈な人間的成熟への修練を前提としている。

結論。

「一般人は、振り回してくる魅力的な女子には手を出さないこと。それはレベルが高すぎる。」

注1:もちろん、家族成員同士(夫婦)で「遊ぶ」ことはあり得る。しかしそれは、会社の上司と部下が恋愛関係にあり、仕事の際には仕事、夜は恋人というように、適切に切り替えられる公私混同しない強靭さが必要になってくる。どちらか一方だけが強靭なだけではうまく行かない。互いに強靭である必要が出てくる。そうでなければ、「公」の場で「私」が出て来たり、逆の状態になったりする。それができないのであれば、どちらかに限定する必要が出てくるだろう。上手く立ち回れぬ者は、社内恋愛はしないことである。それと同じである。

注2:記憶を頼りにしているので正確ではない。おそらくちくま学芸文庫の中井久夫シリーズのどこかに記されているはず。

注3:別にそういう人と好んで付き合わなければ良いだけの話であるが。

注4:結局、「重要だが緊急ではないこと」の中でも「読書」が、ここでは効率が良いだろうと思われる。

注5:育成といえば聞こえが良いが、これは結局女性Bを思い通りにしようとする「暴力」の一種であることは認識しておく必要がある。

若年性老人の暇つぶし

明治時代に生きていれば、ご飯を炊くために釜戸を使い、薪を割り、火吹き竹を使った。食事をするだけでそれはそれは重労働であっただろう。風呂に入ることもまた同じである。洗濯など考えただけで嫌である。当然掃除は箒と塵取りであろう。これに加えて畑仕事などやっている場合には、24時間あっても足りない。私はそう思う。さらに、寿命としても50まで生きられるかどうか、という状態なのである。それは15歳で結婚もしよう。

移動手段は限られており、時間もかかる。移動だけで重労働である。しかもわりと頻繁に戦争がある。平均寿命ですら50歳に届いていないのに、戦争でいつ死ぬかわからないのである。「生きる」ということそのものに驚く程エネルギーをかけていただろうことは想像できる。

その時、「何故生きるのか」など、あまり考えなくとも良い。考える余裕が無い。生きたいから死なないように必死になるだけなのである。もっぱら「何故生きるのか」を考えるのは有産階級である。女中を雇い、重労働の家事は別の人々がやってくれる状態。その時にはじめて、「生きるとは何か」というようなことを考える余裕ができる。

しかし現在の日本は、洗濯機があり、エアコンがあり、コンビニがあって食べ物はすぐに手に入り、食洗機まである。風呂は自動で追い炊きまでしてくれる。

暇だ。暇になる。

寿命は延びに延びて、現在、日本の女性に至っては90歳に届こうとしている(平均で!)。戦争の頻度も少ない。巻き込まれる率も明治時代と比べれば格段に低い。伝染病も、多くのものは対応策がある。

暇である。かつ、そうそう死なない。

さぁどうする? 「死なないこと」を必死に考えている内に人生が終わる時代ではなくなった。ドストエフスキーの小説を読んでいても、大抵有産階級は社交パーティだか何だかを開いて「暇つぶしをしている」。それはそうだ。あいてしまった時間をどうにか埋めなければやっていられない。中世ヨーロッパの貴族は、肉体関係を持たずに3年もかけて色恋沙汰(大抵不倫で数股かける)をしていたそうじゃないか。どう考えても暇つぶしのためである。しかし、金持ちなら暇つぶしも様々なバリエーションを考案できるだろう。今はどうだ? 家電と住宅環境によって、重労働からは解放されているもののそれほど金はなく、しかし暇を持て余している人などいくらでもいるではないか。暇つぶしのバリエーションが少ない。社交パーティを開こうにも、なにせただ暇になっただけであり、クオリティの低い空騒ぎになりかねない。3年かけてようやくキスができる、というところまで暖めて、かつ楽しんでくれるような相手を見つけることは極めて困難である。

おそらく、村上春樹が好んで訳しているアメリカ文学の一群には、消費資本主義に入って奇妙に金持ちの国になってしまったために、空虚を抱えてどうしようもなくなってしまった「一般人」たちを主題として扱ったものが含まれているのだろう。『フラニーとズーイ』『ロング・グッドバイ』『ティファニーで朝食を』『グレート・ギャッツビー』あたりは特徴的であるように思う。そしてそれらの主題がドストエフスキーと共通して来ることも、わからなくもない。

暇つぶしは洗練されてこそである。プラトンたちの時代のギリシャには奴隷制があるため、重労働から解放された市民が暇つぶしを余儀なくされたのだろう。哲学でもやらなければやっていられない。ネットもパソコンもないのである。心意気がある人ならば、いくら扱っても「絶対に」終わらないような主題を論じたくなるだろう。つまり、神について考えることが最適である。少なくとも、私ならそうする。

しかし、もっと手近に、ぼーっとさせるような、考えずに過ごすことができるようなものが転がっていたらどうだろう。ドストエフスキーは既に論じている。『賭博者』。そう、ルーレットである。これはパチンコに置き換えても良い。課金性のスマホゲームに置き換えても良い。そしてドストエフスキー自身が、自分の着ている服を質に入れなければならないほどルーレットにはまり込んだのであった。ドストエフスキーの時代にスマホゲームがあったら、彼はやっているのではなかろうか。重課金で。

河合隼雄によれば、グリム童話の「じゅみょう」にこのように記されているという。ロバの寿命30歳であったが、荷役に苦しむ生涯が長いと神に不平を伝えた。結果、寿命を18年短くしてもらえた。犬もまた、30歳という寿命は長すぎると訴え、12歳短くしてもらう。猿も同様、30歳から10歳短くしてもらった。しかし人間だけは30歳という寿命は短いと不平を言う。そして、ロバの18年、犬の12年、猿の10年をプラスされることになった。結果、人間は30年の生涯を楽しんだ後、18年(48歳まで)は荷役に苦しむロバの人生を、続く12年(60歳まで)はかみつくには歯の抜けた老犬の生活を、その後10年(70歳まで)は子供じみた猿の生活を送ることになった。

ぐうの音も出ない。その通りではないか。30歳を越えてからが重大な問題を抱えている。私の実感としてもそうである。

良く、仕事人間は老後が心配、などと聞いた。時代はバブルの頃である。仕事が忙しい内は良い。仕事を辞めてから認知症になる、老人性うつになる。今でも聞きはするが、果たして老人だけで済むのだろうか。パソコンの登場によって、仕事の効率は異常に上がった(ジョブズよ、あなたのせいだぞ! Macユーザーより)。文章を書くという点で言っても、パソコンを使うのか、原稿用紙に鉛筆で書くのかでは、天と地ほど能率が違う。調べものの効率も全く違う。計算だって、表計算ソフトなどという凄まじいものがある。暗記や整理の天才だけが行えたことを、今は一般人でもすぐに行うことができる。最後に残されたのは、「発想」という、コンピュータでは(今のところ)不可能なものだけになってしまった。

この状況を苦しいと思えない人は、はっきり言ってどうかしている。もちろん、釜戸で暮らせとか、戦争があった方がマシだとか、そんなことを言いたいのではない。しかし、「何故生きているのか」という、とんでもなく大きな問題に一般人が向き合わざるを得ない状況というのは、それほど幸福な状態とは言えない。それと組み合うには相当な準備が必要であるし、導者も必要であるし、覚悟もいる。

カウンセリングの中で専業主婦の人を相手にすることがある。言葉にはなっていなくとも、大抵この問題にぶつかっている。結局、パートをするとか、資格を取るために勉強するとか、そういうことを始めると状態が落ち着くことはかなり多い。暇つぶしを見つけたということである。極論ではあるが、仕事など暇つぶしの一種である。農作物を育てている最中に、いつイナゴの大群がやって来るかわからないという状況で生きている時代の仕事とは話が違う。死にものぐるいで、生きることそのものに必死である時代の仕事とは全く違う。当時の人々からすれば、私たちのやっている仕事など、ハナクソをほじるようなものではないのか。

ということで私は、どうにかクオリティの高い暇つぶしにしようと躍起なのである。暇とは、地獄のことである。カミュに言わせれば、それは不条理を目の当たりにすることなのである。生きていたいのに死んでしまうということ。その砂漠の中で生き続けるしかない。自殺などという逃避を行わず。

〈真の努力とは…可能なかぎりその場に踏みとどまって、この辺境の地の奇怪な植物を仔細に検討することなのである。不条理と希望と死とがたがいに応酬しあっているこの非人間的な問答劇を、特権的な立場から眺めるためには、粘りづよさと明晰な視力とが必要である。〉(カミュ『シーシュポスの神話』新潮文庫 p.23)

暇は、これを強いて来る。ならば、受けて立とうじゃないか。

よし。ミニ四駆をいじろう。
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