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恋する能力

エーリッヒ・フロムは、「恋は落ちるもの」であるという。落ちるようなものは愛ではない、愛は技術である、と。

ならば、恋はいけないことか。フロムは、そうは記していない。あくまで、恋と愛を混同してはならないと警告しているだけである。

恋と愛を、エロスとアガペーに対応させても良いだろう。肉欲と理性でも良い。しかし、どのように分けようが、エロス的で、肉欲的で、恋的なものが消えてなくなるわけではない。

本気で誰かから何かを学ぶ際、その相手に対して恋をする。それは疑い得ない事実である。相手は、作家であっても良い。ラジオパーソナリティであっても、映画監督であっても良い。同性でも、異性でもかまわない。何らかの契機があり、「この人だ!」と“思ってしまう”のである。そのとき、恋に落ちる。惚れる。

あばたもえくぼとは、欠点といわれるものすら美しく、魅力的なものとして、“でっち上げてしまう”ことである。それは恋をした者の特権ではある。あさましいことなのであろうか。いずれ醒める理想化であると人は言う。しかし、何かを学ぼうとするとき、師と仰ぐ者に恋することができぬ者は、何も学ぶことはできない。恋をしたとき、人の吸収力はMaxになる。

ただし、相手も人間であるので、当然間違いも犯すし、完全ではない。神ではない。あばたもえくぼに見えているのは、ひとえに自らの思い込みと想像力による補完処理である。それが、あばたであることを無視させる。それをわきまえた上で、恋をする必要がある。

飛翔するためには、想像力の翼が必要である。それが事実と異なっていたとしても構わない。他者に対して、恋をした相手についての勝手な解釈を垂れなければ良いだけの話である。あばたを指して、あれはえくぼだと力説しなければ良い。内に秘めていれば良い。

そして、その人のかたちを借りて何を「観たかったのか」に意識が及び、それを映してくれた鏡として感謝できる者だけが、その先に進める。そこに観ようとしていたものは、ある意味では神であり、自らの内に息づく力であり、内的な導者であり、ウェルギリウスであったことを自覚できる者だけが、先に進める(注1)。

いずれ、恋は醒める。等身大の相手が見え始めた際、自らが作り上げた偶像とは随分違うことに落胆もしよう。ここで恋した相手を悪し様にけなすような人間は、恋の初心者である。恋の田舎者である。野暮である。勝手に作り上げ、相手そのものを見ていなかった自らの落ち度を相手のせいにする幼児である。恋とは、落胆するまでが「込み」なのである。何より、恋に落ちたことにより、飛ぶことができた距離を忘れてはならない(注2)。

単純に相手を「人間として」理想化するような、一重の意識では足りない。常に二重の意識を働かせなければならない。

実在の人物であれば、恋が醒めた後、人間同士の関係に移行するであろう。そのときは、恋ではなく、確かに愛に変化する必要がある。しかし、それはまた別の物語である。恋において必要な観点は、「受け取る立場」における作法である(注3)。

恋の花ともいう。それはいずれ散る。しかし、実を結ぶ。結ぶか否かは、咲かせ方による。放っておいても咲く。避けることはできない。ならば、苦しさと辛さと痛みを覚悟した上で、真摯に全力で咲かせてみてはどうか。

咲かせ方には作法がある。見せ方も、魅せ方もある。散り方もある。それを知るには、ある程度の場数と、美しい咲かせ方をしているサンプルを出来るだけ多く観ることである(注4)。

恋の花が、いずれ訪れる腐臭を内包していることから目を逸らさず、引き受ける覚悟を持つこと。

恋する能力を磨くことである。許された時間は、そう長くはない。

自戒の念を込めて。

〈注〉
注1:私は、小林秀雄の『モオツァルト』を読んで、井筒俊彦の『意識と本質』を読んで、恋に落ちた。私が知りたいと思ったことは、そこに総て書かれてあると「思い込んだ」。彼らに、私自身を導くウェルギリウスを観た。しかし私は、それが非人間的なものであることを理解していなければならない。ウェルギリウスが小林の口を借り、井筒の手を借りて語っていると「思い込み」、翼をはためかせている自覚を持つ必要がある。

注2:常に自らの力だけで飛んでいると思い込んでいる者の飛翔距離は短い。ヒトという種が、集団でシステムを作り、分担し、恊働して補うことで生き延びて来たことを看過している。想像力と感謝の念と畏敬の念が足りない。その者たちは、学ぶということの神聖さを理解していない。

注3:与える立場に軸足を移すことは必要であるが、それは受け取る立場の軸足を失うことではない。当然、どちらも必要なのである。自らは与える立場になったのだ、だからもう受け取ることはない。そう言い切る者は、単に思い上がった傲慢な者でしかない。学ぶことを忘れたお山の大将である。部分でも良い。全面的に惚れる必要はない。しかし、それは案外高度な技術である。身を焦がすほど全霊で恋に落ちたものだけが、部分に恋する余裕を持てる。そしてその余裕は、人を愛する必要条件である。愛するとは、あばたをえくぼに読み替えることではない。あばたはあばたである。愛するとは、「あばたがあるから育まない」という選択肢を排除することである。

注4:ただ通り過ぎるだけではいけない。
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7月10日(金) 17:00から 水曜の会

事後報告で申し訳ありません。

7月の水曜の会は、

7月10日(金)
17:00から18:20
11−302
テーマ「伝わるたとえのかたち」

でした。

お経

とても良い経を聴いたことがある。木魚はややシンコペーション、声の抑揚はなだらかだが尖りもあり、伸びやかで、切れがあった。複雑な色彩を持つ、単純な佇まいの唄だった。ロックだと思った。ギタリストO氏から聞いた「揺れて、転がる」という、本来の意味でのロック&ロールだと思った。

その住職は原チャリで登場した。汗をかきながら「道を間違えました…」と、葬式当日に遅刻した。もちろん、大幅に遅れたわけではない。しかし、予定の到着時刻からは30分遅れていた。

かといって、失礼には感じられない。私には、この遅刻は遺族への配慮ではないかとすら思えた。明らかに緊張がほぐれたのである。もしかしたら本当に道を間違えただけなのかもしれない。しかし、配慮であると感じられてしまうような、優しい遅刻だった。

彼の経を聴いて、身体を揺すりたくなった。何かが同期してしまう。葬式に踊るわけにもいかぬだろうが、本来葬式も「まつり」であって、リズムに合わせて踊るものなのかもしれないとも思う。

住職は、どこをとっても、何か飄々とした印象を与えた。しかしどこをとっても、研ぎ澄まされた作為のようにも見える。無作為なのか作為なのか、もうわからない。一流だと思った。この住職は、ある種のエンターテイナーだった。

「有名」になることに、どのくらい価値があるだろう。多くの人に何かが届く、という点では、それは重要かもしれない。しかしやはりそれは、やっていたら致し方がなく名が付いてきてしまった、時流と合ってしまったという場合にのみ、力を持つようにも思う。この住職の方が、私にはミスチルよりも重要だった。その経の方が、どんなライブよりも重要だった。少なくとも私のコアな部分が揺れ、極めて重要なタイミングで坂を乗り切る力を与えてくれた。

あの経の声で語れるようになるだろうか。もう一度聞いても、同じようには聴こえないのだろう。あの音色は、あの時の私の状況と、あの時の空の色と、草の匂いと、そういうもののないまぜになった印象なのであろう。ただ、それらすべてを合わせた何かは、確実に私の中に流れ込んでいた。再現するつもりはない。しかし、そこにつながることはできよう。そういう気がする。

人が変わることはある。変えようとして変わるものではない。それは祈りでしかない。
プロフィール

Author:ina
水曜の会用 文書置き場

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