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2015年度 春セメスター 予定

よろしくお願い致します。

その他イベントとしては、

月1回:水曜の会
月1回:ミニ四駆 稲垣杯(【条件】ある程度人数が揃った場合)
月1回:模擬授業を稲垣に見せる会(【条件】希望者がいた場合)

が予定されております。詳細は問い合わせのこと。

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調子に乗ること

大抵、大きなミスをするときというのは、調子が良いときである。それは、事業であっても、金融であっても、対人関係であっても、おそらく何でも一緒である。

調子が悪いときというのは、どんな事象もネガティブに感じられる分、様々なものに警戒心が働く。そのため、実際にはそれほど酷いことにはなりにくい。しかし、調子が良いときというのは、どんなものもポジティブに見えてしまう、ある種の高揚感のただ中にいるため、物事を吟味する精度が落ちやすい。それゆえ、ウカツなことや、抜かりが生じる。

極端な話ではあるが、たとえば統合失調症の患者さんで、“テンション高く、睡眠時間も短く、多弁になっている状態”のことを、精神医療関係者は“具合が悪い”と表現する。これは、躁うつ病の患者さんであっても同様である。統合失調症の発病寸前のときに、極めてハイテンションになり、万能感に浸る時期が見られることも多々ある。

つまり、“調子に乗っている”のではあるが、その状態が人間にとって、実は“具合が悪い”ときなのである。

だから、私が今まで出会った“人を見る目がある人”は、他者の調子が良い状態を、特に観察しているようである。言ってみれば、状況や精神的コンディションが“良い”ときに、どれだけ節制(temperance)できる人なのかどうかで、その人のキャパシティを判断することが多いようであった。

私自身、わりと調子に乗りやすいタチではあるが、振り返ってみても、大きなミスをするのは決まって調子が良い時である。そのため、さすがに36年も生きていると、調子が良いときには警戒するようになった。

思い出すのは、アリとキリギリスの話である。あれは、真面目でコツコツ努力をして金銭を貯えたアリが最後には笑い、その日暮らしで、その時が楽しければ良い、というキリギリスがしっぺ返しを食らう、という教訓と受け取られることもあるのだろう。しかし、私にとっては、“調子が良いときに節制できるものと、調子に乗っているものの視野の狭さを対比させている”ようにも思える。

金銭的なものの話だけではない。他者からの信頼であっても、仕事の信頼であっても、同じことである。対人関係が絡む事項すべてに当てはまるものなのであろう。

だから、その人を見極める際には、“調子に乗せる”ことが手っ取り早いことも多い。実際に、企業などの採用面接における技法の中に、このような手法はいくらでもあるのだろう。また、他者を陥れる手管の中に“お世辞攻撃”があることも同様なのであろう。

権力者が失脚するときというのは、たいてい“調子に乗っている”ときである。私はさほど詳しくはないが、三国志にしても、戦国武将の逸話にしても、そのような内容には事欠かないのではないか。

調子に乗っているものを馬鹿にするのは容易い。問題は、そういった教訓的な話なり、実際のお調子者なりを見て、自らのこととして考えることができるか否かなのであろう。

患者さんではなくとも、精神的に不安定な方は、大抵、気分の波乗りが下手である。調子が悪いときに何もできなくなることを知っているだけに、調子が良いときには“もったいない”感じがしてしまうらしい。そして、睡眠時間を削り、様々な活動をしてしまう。その分、調子が悪くなる波が訪れた際、落ち方が急激なものになってしまう。高く舞い上がれば、落ちる時も派手なものだ。そして、同じことを繰り返すことになる。

人間も生物であるので、気分の波はある。それは、決してなくならない。一日の中でも気分の波はあるし、女性の場合にははっきりと、月の周期によって気分は変動する。もう少し大きな流れで言えば、季節の変化と気分の流れは大きく関わりがあるのだろう。

これは、幸田露伴『努力論』からの引用ではあるが、春は「張る」、夏は「生り出ずる」「成り立つ」、秋は「あきらかなること」(空疎晴朗なこと)、冬は「冷ゆる」が語源であるという。これらは、「気」に関する問題である。気が張る、気が成り立つ、気があきらかになる、気が冷える。そういうことである。

「気」などと聞くとうさん臭いものを感じる人も多かろうが、「気」分にしても元「気」にしても「気」が合うにしても、「気」の概念を私たちは日常的に使っている。何も難しく考えることはない。その、普段何気なく使っている言葉の根本にあるエネルギーだと思えば良い。その「気」には、大きな流れがあると、幸田露伴は記しているだけである。

モンスーンの中でも特に四季のはっきりした日本に暮らす以上、季節によって気の変動があることは避けられない。その大きな気の流れを無視して、理性による制御で、常に“調子が良い”状態を望むこと自体がおこがましいことであるとも言える。

理性による、小さな我による欲望の流れに乗ってしまわぬことである。もっとゆるやかな、たおやかな、全体の気の流れに身を委ねる勇気を持っても良いように思う(注)。

自戒の念を込めて、ここに記す。

注:“大きな気の流れに身を委ねている者”のイメージとしては、熟達した侍や禅者を思い浮かべると良いのではないかと思う。イメージがわきにくい場合には、井上雄彦『バガボンド』を読めば一発ではある。沢庵和尚が良い例、若い時分の又八が悪い例であろう。“お調子者”は、常に小物である。

モテることについて

私に恋愛相談をしてどうなるというのか良くわからないが、とりあえずまたそういう内容を受ける。俺に恋愛相談をするのはやめておいた方が良いと思うんだけどなぁ…。

パターンとして、おとなしい感じの女性を好きになるタイプの男というのがいるらしい。穏やかで、優しそうで、話していて面白く、温かそうである女性。ついでに見た目がかわいかったり綺麗だったりすればなおのこと良いらしい。わからないでもない。しかし、好きである理由が「穏やかで、優しそうで、話していて面白く、温かそうである」だけであると、男がそういう女性に告白をしてもふられる。

女性の場合には、頼りがいがあり、知的で、冷静で、戦う時には勇ましいような男性を好むというパターンはあるらしい。当然、見た目がかっこ良ければ尚良いらしい。しかし上述の場合と同様、それだけで告白をしても、やはり、あまり上手くは行かないようである。

どうも、男性は女性に母親を求め、女性は男性に父親を求めるらしい。受け入れて欲しい。よしよしして欲しい。それはわからないでもないが、残念ながら、そういうことを求める女性・男性はそうそう多くはない。だって、そんなマザコン男、ファザコン女、気持ち悪いし。年長者が年少者を“かわいがる”場合には別であろうけれど。

性別的な男性・女性から離れて、男性性/女性性と分けて考えると、確かに男性性は「ロゴス(理性)・力」、女性性は「エロス(つつみ込むような、つなげる力)・感情」というような感じになるのだろう。ギリシャ神話に登場する男性神・女性神を見れば、たいていそのような分かれ方をしている。当然、男性も内側に女性性を持っているし、女性もまた、内側に男性性を持っている。だから、結局皆、精神的には両性具有ということにはなる。
しかし、せめて告白する際には、「自分を受け入れて欲しいのです」というアピールで終わるのは止めておいた方が良い(注1)。

モテモテになる必要はないだろうが、しかし“モテるとは何か”ということは、少し考えた方が良いようにも思う。
“モテる”は、“持てる”から来ている。つまり、“持つことができる”という可能性を表わしている。これは、異性を持つことができるということではない。“与えるものを、これから先も多く持つことができるキャパシティがある”ということである。必ずしも、今、多くを持っている必要はない。重要なのは、未来のことである。

男が“持てる”ものは、智慧や知識、権力、あるいは金銭であることも多い。女性を引きつける力として、このあたりは見た目よりも強い力を持っているようである。それは、女性を引っ張って行く力でもある。

女性が“持てる”ものは、やはり智慧もあるだろうが、包容力、温かさ、情緒の豊かさなどでもあろう。ただし、男性よりも美貌というものがかなり強力に働くようではある。

しかし、重要なことは、“持てる”という言葉に、可能形が用いられていることなのである。そこで示されるものが、今後も増大して行く可能性が示されていなければならない。

この観点から言えば、男女ともに、“美貌”というものは、担保として極めて不安定であることが露呈する。残念ながら、身体的な美しさ、特に性的な魅力というものは、目減りする。年齢が上がるほど魅力的になる部分もないとは言わないが、性的な部分に特化するのであれば、必ず目減りして行く。

身体能力というものも、残念ながら目減りする。いかに華々しいスポーツにおける成果を上げても、年齢とともにその能力自体は衰える。これもやはり、目減りするものである。

だから、本気でモテようと思うのであれば、目減りするようなものを担保として行かない方が良いことになる。
グラビアアイドルの中で、単純に若さや、生まれ持った性的美貌“だけ”で売っていた人がどれだけ生き残っているだろう。日本代表選手となったとしても、50歳まで生き残っている人がどれだけいるだろう。生き残る人に共通するのは、“考える力”があることである。ある意味では、頭が良くなければ、結局生き残れていない(注2)。

芸能人や有名人の場合、“モテて”いなければならない。人気がなければ番組などで起用されない。衰えて行くものだけを担保としている人物であれば、それが衰えれば、新しい人物と取り替えられるだけである。

では、あなたは今、目減りしないものをどれだけ持っているだろうか。今後あなたは、どれだけ他者に与える可能性を有しているのだろうか。

ポイントはそこなのである。受け取るポジションから与えるポジションへのシフト。結果的に“モテる”人とは、他者を愛することができる人間である、ということにもつながる。

私としては、特に男が必要なことは、知識というより智慧を与えることができるかどうかが重要なのではないか、とは思っている。知っている内容の豊富さではなく、考える方略そのものを与える、あるいは考える方略を広げることができる可能性をどれだけ秘めているかが、女性を惹き付けるのではないか、とは思っている。

女性にとって必要なことは、どのように“感じる”ことができるのか、その方略を豊かにする可能性ではないか、とは思っている。つまり、感情の部分である。感情の豊かさでは、男性は女性に勝つことはできない。

いずれにしても、告白をする際には、過去ではなく、現在ではなく、今後のことが重要になる。当たり前だ。なにせ告白をして「これからあなたと付き合って行きたいです」と表明するのである。重要なのは今後のことに決まっている。

だから、フラレてばかりの人には、「日に2回、自分が何を与え得るであろうか、と頭の中でつぶやいてみてはどうだろうか…?」と提案することもある。午前中に1回、午後に1回。寝る直前は止めておいた方が良いけれど。
与え得るものは、金でも、家でも、土地でも、知識でも、性的満足でも、そういう浅はかなものでも構わない。大体、ある程度の金を与える可能性を示唆できなければ、少々生活に困るのであるから仕方はない。性欲だって結構長らく人間を患わせるのである。できればそれも与えていただきたいところである。しかしそれ以外に、智慧、情緒的豊かさ、そういったものを深めて行くことを与えられるのかどうか、今しばし考えてみるのはどうだろう。

さて。私は何を与えうるのだろうか。智慧は…? 情緒的豊かさは…?

注1:「うーん、俺この内容、もう何度も書いてるんだけどな」的な感じになってしまうが、相談者には初めて語ることにはなるので仕方がない。
注2:当然ここで言う頭の良さとは、勉強ができることではない。

『チャタレイ夫人の恋人』とアウトサイダー


福田恆存の『私の恋愛教室』を読んでいると、ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』が頻出する。福田恆存は、ロレンスの遺著『黙示録論』を訳した人でもある。

『チャタレイ夫人の恋人』は、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』にも登場していた。実際に、『チャタレイ夫人の恋人』内に、はっきりと「この人はアウトサイダーだ! アウトサイダーだ!」(p.40)と記されている。これは、チャタレイ夫人が、体験の浅さからうっかり本物だと見まがってしまった劇作家マイクリスに対する評であった。登場人物の中では一応本物のアウトサイダーは、その後に登場する森番メラーズではある。

アウトサイダーにもいくつか段階がある。

1)ただの「あぶれもの」である段階。これは、本来はとけ込みたいと思っているのだが、技術が足りずにあぶれているだけの状態である。
2)「反逆者」。言ってみれば、「あぶれもの」がヤケになって周囲にたてついているだけである。
この2つは、外面的な、行動的な特徴だけを見た場合の分類である。考えていることは、結局多数派に入りたい、大衆的な思考パターンである。
3)考え方が大多数の人々とは異なる場合。
とはいうものの、これも、“コピー・ペースト”で出力することができてしまう部分である。周囲があまり読んでいない本を読んで粋がっている場合には、このパターンなのかもしれない。
4)存在のあり方がアウトサイダーであること。

おそらく本物のアウトサイダーは、あぶれているという状態、反逆しているという行為、考えていると表明している内容という、外面から判断できるもの以外で判断されなければならない。この4番目まで来た際に、1から3の外面的なものが付随することはあるのだろう。しかし、あぶれている必要はないし、反逆をしている必要もないのである。多数派と異なる考え方を殊更表明しなくても良い。周囲にとけ込んでいて、従順で、考えていることも多数派によりそうものであったとしても、アウトサイダーである状態は存在する。

チャタレイ夫人はどうも、そういうアウトサイダーを嗅ぎ分ける嗅覚を持っていたということなのだろう。その嗅覚が少しずつ成長して行く。しかし、真に成長し切るところまで行かずに、小説は終わる。これは、あくまで途中経過である。私にはそう読めた。

アウトサイダーを嗅ぎ分けるためには、自らがアウトサイダーでなければならない。チャタレイ夫人の場合、自分よりも少し先を行く異性のアウトサイダーに惹かれている。そして、アウトサイダーは、アウトサイダーとしか結ばれ得ないのではあるが、どうしてもそこには、アウトサイダーの“深さ”に差があり、個の差があり、真に結ばれることはない。そのように読むこともできるのだろう。

アウトサイダーが“生きている”と実感できるためには、肉体というものを通さざるを得ない。この場合の肉体は単なる精神が操るインターフェースではなく、精神と肉体が一致している状態を自覚することが必要である、という流れがあるようだった。そのために、性的な描写が頻出するということになる。

これは、いわば心身二元論を乗り越える一種の理想論である。ただ、乗り越えるためには、まず心身二元論的な思考パターンが定着していなければならない。欧米的な、個を主とした思考パターンが定着していなければ、乗り越えるも何もあったものではない。しかし日本人には、個を主とした思考パターンは馴染んでいない。定着など、まったくしていない。河合隼雄にいわせれば、日本は「場を主」とする国である。集団ですらない。それは、「場」なのである。

欧米においては、母性と無意識を代表するドラゴンを、意志の力である勇者が倒し、姫を助け出して結婚するような物語が“しっくり来る”文化なのである。そこに漂うものは、強力な意志の力による「個」である。

対して日本は、「鶴の恩返し」のように、結婚もせず、結局最後は何も起こっていなかった最初の状態に戻りましたとさ、という身もふたもない話が“しっくり来る”文化なのである。「浦島太郎」など、欧米的観点からすれば最低であろう。竜宮城(ドラゴンパレス)に行ったにも関わらず、そもそもドラゴンが出てこない。乙姫はとらわれているわけでもなく、浦島は乙姫に手を出すわけでもなく(当然結婚もしない)、ただ単純にもてなされただけで、あげくトラップ付きの箱を渡される。戻ってみたら数百年経っており、そのトラップ箱を開けたら鶴になるとか爺になるとかで、なんだか意味不明のどうしようもない話とされるであろう。そこに漂うものは、「空」「無」である。

当然、「個」を主とする場合と、「場」を主とする場合では、アウトサイダーの性質も自ずと変わってくるだろう。そこさえ間違わなければ、『チャタレイ夫人の恋人』も、アウトサイダー文学として、日本人の私でもそれなりに読める。そういう気がする。

ただし、「あぶれもの」である自覚それ自体は、個を主とするシステムの方が意識化しやすいだろうし、かつ文章や物語としても表現しやすいのだろうとも思う。場を主としたシステムの場合、「あぶれもの」は、あくまでその「場」になじめないものであるという文脈に回収されてしまい易い。そして、「あぶれものには皆才能があるのだ」というようなアホな極論に行きやすくもなる(冷静に考えればそんなはずがなかろうに)。そして「鈴と、小鳥と、それから私、 みんなちがって、みんないい」という金子みすずの詩が乱用されることになる。それも結構ではあるが、アウトサイダーとはそういう低次の問題ではない。この、金子みすずの詩そのものに反発を覚える感覚を持つ人間の性質のことを言うのである。

アウトサイダーにとって、周囲の人間は皆、死んだもののように見える。生きながらにして死んでいるように見える。ゾンビである。死んだ魚のような目を持つ人々。機械のように自動で動く人々。金金金と叫び、その使い道を知らぬ木偶の坊。偽物。アンドロイド。エイリアン。何とでも言えるが、とにかくここが自分が存在すべき場所ではないという強烈な感覚を持ち続けて生きている状態である。その状態を、ハイデガーは「アングスト(不安感)」と呼んだ。

つまり、アウトサイダーにとっては、生きているものが重要になる。生気を持つ者が、輝いて見える。それは決して幸せそうに見えるとか、そういうことではない。単純に、生を持っている者か否か、ということである。
私の解釈では、生きている者は、エネルギーとの接続を保っている。しかし、そのエネルギーのとらえ方が、個を主とした場合と、場を主とした場合では異なっているということなのだろう。

個を主とした場合には、最強の個である「ヤハウェ」「アッラー」との接続。

場を主とした場合には、最強の場である「無」「空」との接続。

最強の個と接続するためには、おそらく理性を用いる方向性になるのだろう。最強の場と接続するためには、おそらく肉体を用いる方向性になるのだろう。しかし、最終的には「どちらも」つかわなければならなくなる。遅かれ早かれ、理性と肉体が「同一」である次元に行き着くのではないか。その、とっかかりの部分が、理性側から入るのか、肉体側から入るのかの違いがあるだけのようにも思われる。

4/28(火)水曜の会

4月の水曜の会は、

4/28(火)17:00から18:20
11−302
テーマ:「エロスと肉欲」

です。
水曜日ではありませんのでご注意ください。
プロフィール

Author:ina
水曜の会用 文書置き場

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