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世阿弥によるペルソナ一覧

教育基本法にこうある。

「教育の目的は、人格の完成をめざし…」

「完成した人格」の人間に会ったことがないので良くわからぬ。とりあえず「人格」という語が、相変わらず輸入された外国語の訳語であるので、そこから考えるしかあるまい。

人格はpersonalityの訳語である。明治時代に井上哲次郎がpersonality / Persönlichkeitを人格と訳したとのこと。造語である。

さらに、personalityの元はperson(人)であり、personの元はラテン語のpersona(仮面)である。

ユングの概念であるペルソナも、仮面の意味で用いられている。

「もし彼が個性的であれば、構えがいかに変化しようとも同一の性格をもちつづけるはずである。彼はその時々の構えと同一化したりせず、いかなる状況においても自らの個性が何らかの形で表現されることを彼は阻むことはできないし、また阻もうともしないであろう。実際には彼は、どんな生物でもそうだが、個性的であるけれどもそのことを意識していないのである。彼はその時々の構えと多少なりとも完全に同一化してしまい、そのため自らの真の性格について少なくとも他人を・しばしば自分自身さえも・欺いてしまうのである。つまり彼は仮面をかぶるのであるが、彼はこの仮面が一方では自らの意図にそい他方では環境の要求や意図にそうものであり、しかも時に応じてこのどちらかの要素が優位に立つことを承知している。この仮面・すなわち《この目的で》前面に出される構え・を私はペルソナと名づける」(Jung,1921)

「非常な苦労の末にようやく実現される、この集合的心の一断片を、私はペルソナと名づけた。ペルソナという言葉は、実際それにふさわしい表現である。というのは、ペルソナがもともと、役者のつける仮面で、役者が演ずる役を表わしているからだ」(Jung,1928)

「人格」が仮面的なものの総合体であるとするならば、その「完成」は、“仮面的なものが一通り揃うこと”ともいえる。“仮面をかぶる”ことが否定的に用いられることもあるが、相手に合わせて話法や伝え方などを、当たり前に変化させるものである(内容まで変えてしまうのは病的である)。仮面が三種類くらいしかない者は不適応となるであろうが、これを数百種保持できているものは、相手の特性に合わせ、極めてきめ細かいもてなしが可能となるだろう。

言ってみれば、環境に適応できるものとは「超」多重人格である。中途半端に少ない仮面しか用いられないものが、多重人格である。いつでも同じ仮面しか用いられないものは、愚と呼ばれる。

では、仮面にはどのような種類が存在するのか。

ここは日本である。お面をつける演劇といえば能。能といえば世阿弥。せっかくだから『風姿花伝』を参照しよう。

風姿花伝の第二章は、物学(ものまね)シリーズである。そこには、役として稽古し、身につけておくための留意点が記されている。その順番は以下の通り。

(1)女(異性、と受け取って良いだろう)
(2)老人
(3)直面(ひためん。面をつけずに能を行う)
(4)物狂
(5)法師
(6)修羅(修羅道に堕ちた武人)
(7)神
(8)鬼
(9)唐事(外国人と受け取って良いだろう)

こう並べてみると、ユングの元型シリーズ(太母、アニマ、老賢者、トリックスター、影など)と、それなりに対応するように見える。まぁ、元型とは神話素なのであるから、能の脚本に使われる題材を考えれば、それはそうか。

どれも重要ではあるのだろうが、(1)から(4)の重要度が際立っているようである。

『風姿花伝』の中では、こういったものを演じる際には「物学(ものまね)」という用語を用いてはいる。しかし、形だけを真似ても見苦しくなるだけで、そこに花はない、と繰り返し述べられている。老人の箇所がわかりやすいだろうか。

「およそ老人のたちふるまひ、老いぬればとて、こしひざをかがめ、身をつむれば、花失せて古様にみゆるなり。さるほどに、おもしろきところ稀なり。」

「古様にみゆる」というのは、古くさく見える、ということらしい。コントでおじいさん役を演じている芸人を見て、本当に老人に見えるなどとは思わず、むしろ滑稽なものと見えるはずである。芸人はそれを狙っているのだから良いのであるが、能でお笑いになってはまずい。しかし、形から真似ようとするとコントになってしまう、ということだろう。

そのため、『風姿花伝』での役作りは、どちらかというと憑依型である。本質をつかめば、それを降ろせば良い。すると、わざわざ腰を曲げなくとも、声色を使わずとも、老人に見える、というように。そうでなければ「誠の花」、つまり「稽古と工夫を極めた所に成立する、散ることのない花」は存在しない。

とりあえず、私たちは能を舞うわけではないので、稽古までは必要なかろう。とはいうものの、自らが憑依させることができる、つまり接続できるエネルギー体の“一覧表”として、地図として、世阿弥の記すものは重要ではなかろうか。

まずは、異性を憑依させることができること。
次に、老いたるものを憑依させることができること。
素の自分(おそらく、影)を憑依させることができること。
狂者のエネルギーを憑依させることができること。

さて。教育の目標は「人格の完成」でもあったが…。私は…、これなら、学校教育でやっても良いような気がして来たけれど…。

文献
Jung, C. G. (1921): Psychologische Typen. Rascher.(林道義訳(1987):タイプ論.みすず書房.)
Jung, C. G. (1928): Die Beziehungen zwischen dem Ich und dem Unbewußten. Reichl. (松代洋一・渡辺学訳(1984):自我と無意識.思索社.)
世阿弥(1400年頃)『風姿花伝』岩波文庫
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身近になった人を、面と向かって褒め続けることの難しさ

他者を褒めることは難しい。

いや、相手による。関係性による。それは確かである。

まず、異性の場合。気を惹きたい、口説き落としたい相手の場合、かなり意識を集中して褒めることは案外容易である。何せ、いやらしいことをしようとする強力な動機がある(特に男側。しかし、女性側も例外ではない)。もちろん、何でも褒めれば良いというのではない。相手が大切にしているポイントをつかみ、そこをほのかに褒める。これは効く(実際に、カウンセリングの技術を学ぶ中でもかなり訓練させられるのだから、確かである)。

しかし、問題は関係が出来上がった後である。付き合ってから、同棲してから、結婚してから、相手から褒められなくなった、けちばかりつけられるようになったという体験は、案外多くの人が持っているのではないかと思う(保護者面接なんかをすると、本当に良く聞く)。ここで相手を褒め続けることができるとしたら、それはかなりの達人である。

これは何も、異性交遊の場合だけではない。サークルなどでの新入生勧誘も同じである。何かのグループに誘い入れる際も同じである。最初のうち、先輩はとってもやさしくしてくれたが次第に云々。これも良く聞く。

会社でもどこでも、最初に引き入れるところでは褒めることはできる。引き入れる、という動機が強く関わっていることと、まだ良く知らない相手でもあるために、表面的な部分しか見えていないというのもあるだろう。しかし、近しい間柄になり、一緒に仕事をするようになると、アラも見えてくる。マイナスの部分が露呈する。色々と突っ込みたくなる。加算法から減点法に変化して行く。幻滅が訪れる。

新勧や新入社員などのように「初速」がなく、最初から近しい関係であった家族を考えてみれば良い。一緒に暮らす親きょうだいを、面と向かって褒めることができるだろうか。できたら凄い。偉い。真剣に尊敬する。

もちろん、頑張れば、技術的には褒めることはできよう。しかし、異性を口説くときのように自然と湧き出てくるだろうか。恋をしたときのように自然に。

年少のものに対しては、これは案外できる。弟妹、息子娘。それができない人の話も良く聞きはするが、それなりに成熟していれば、できる。

しかし、夫に対して、妻に対して、彼氏に対して、彼女に対して、面と向かって、最初に口説くときと同様に褒め続けることが果たして可能であろうか。褒め続けられたいと望むのはかまわないが、ならば自分ができているかといえば、これはかなり困難である(注1)。

「面と向かって」という点がポイントである。面と向かっては褒めないが、誰か他の人にはのろける、自慢をする、というのは、それは少々性質が変わってくる。なぜなら、「こんなすごい人と一緒に暮らしているんですよ」的な勲章となってしまっている部分がある。つまり、「のろける」というのは、そののろけを聞かせている相手から認められたい、という思いの方が強くなってしまっている。もちろん、面と向かっても褒めず、周囲にものろけることがないよりかはマシではあるし、巡り巡って本人の耳に入った際には案外うれしいものではあろうが。

結局、他者を褒め続けるということは相当困難ではある。これを続けられるものが、おそらく成熟した人間と言えはするのだろう。受け取るポジションから与えるポジションに変化することができた人とも言えるのだろう。

褒める、というものとは異なっていても良い。せめて、「面と向かって相手を認める」というぐらいでも、続けられる人は案外稀である。これは、相当の精神力を必要とする。「理想の上司」と言われるような人物像は、これができる強力な精神力と観察眼を持っている。で、あまりいないからこそ、理想とされる。

まぁ、挑みがいはあるのだろう。

白々しい褒め方ではいけない。異性を口説き落とすときと同じクオリティを保つことが目標なのである。もちろん、ニュアンスが変わるのは仕方がない。頻度も変わるだろう。しかし、続けられることを目指したい。

……うーん、無理かなこりゃ(笑

いや、ほら、俺、人から褒められたいからさ。認められたいからさ。けちばっかりつけられるのも生きててつまんないしさ。でも、そう考えたら自分が他者に対してできてるのか、って思うわけですよ。できてないわけですよ。そりゃカウンセラーもやってますから、仕事ならやりますけどね。で、俺を面と向かって褒めたり認めてくれたりする近しい人がいたりすると、マジでビビるわけです。本当にすげぇ、と思うわけです。

精進。

(注)
注1:褒め続けられたいが、妻から褒められなくなった男が、お金を払ってママやチィママに褒めてもらいに行くことも多い。カウンセラーのところへ行くタイプの人もいる。女性の場合も同様。スナック・キャバクラ・カウンセラー、皆客商売であるから、お金を貰えば、技術は提供する。金額分。

ゲーテの色彩論について少し

カラーサークルではあるが、半分より下と上で分けているのが興味深い。下から上へ行くと、エネルギーが「高進」するという考え方である。

下半分の黄と青が、光と闇。それらが中央で合わさると緑。黄がエネルギーを得ると橙(だいだい、オレンジ)になる。青がエネルギーを得ると菫(すみれ、紫色)になる。黄と青がそれぞれエネルギーを高進させつづけると、最終的にはどちらも深紅となる。

なるほど。興味深い。

以下抜き出し。
(ゲーテ『色彩論』ちくま学芸文庫)

黄色
純粋かつ明るい状態においては快適で喜ばしく、また強烈なときは明朗かつ高貴なところを有しているが、これに反してこの色彩がきたなくされたり、ある程度までマイナス側に引き込まれる場合にはきわめて敏感であり、ひじょうに不快な作用を及ぼす。(p.381)

赤黄色
黄色はエネルギーを増し、赤黄色になってより強烈、かつよりすばらしく現われる。
眼に暖かさと歓喜の感情を与えるのはほんらい赤黄色である。
沈みゆく太陽のやわらかい反照を代表している(pp.382-383)

黄赤色
最高のエネルギー
子どもたちも、したい放題にされて色を塗ったくり始めると、朱色をふんだんに使う
この色彩はほんとうに視覚器官の中へ食い入ってくるような気がする。それは信じられぬほど心情を震撼させ、
いつものようにどんよりとした日にだれかが緋色の上着を着ているのに出会うと、耐えがたく思われた。
マイナス側の色彩は青・赤青色・青赤色である。これらの色彩が惹き起こすのは、不安な弱々しい憧憬的気分である。(pp.384-385)

青色
黄色がつねに何か光を伴っているように、青はつねに何か暗いものを伴っている
刺激する無
葵面もわれわれから遠のいていくように見える。
われわれから逃れていく快い対象を追いかけたくなるように、われわれは青いものを好んで見つめるが…それがわれわれを引きつけるからである。
寒いという感情を与え、また陰影を思い出させる。
それが黒から導き出されている
青一色の壁紙…空虚で寒く感じられる
青いガラスは対象をもの悲しげに見せる。
青がプラス側から多少とも分有するのは不快ではない。淡緑色はむしろ愛すべき色彩である。(pp.384-385)

赤青色
赤青色の刺激は赤黄色のそれとはまったく異なった種類のものである。その刺激は活気づけるというよりは、むしろ不安にさせるものである。
薄められた状態でこの色彩はリラという名…それは楽しそうなところはないにしても何か活発なものがある。(p.386)

青赤色
まったく純粋な飽和した青赤色の壁紙は一種の耐えがたい雰囲気であるに違いない。(p.387)

赤色
他のすべての色彩を含んでいる
高進した両極の合一において理想的満足と呼んでもよいような心情の鎮静作用が起こりうる
その与える印象は厳粛と品位とならんで愛らしさと優美である。
前者…暗い濃厚な状態…後者…明るい薄められた状態
深紅色のガラスを通して見ると、明るく照らされた風景はものすごく見える。最後の審判の日に天と地をおおう色調はこのようであるに違いない。(pp.387-389)

緑色
現実的満足(p.390)
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『タタール人の砂漠』を読んで

ブッツァーティ『タタール人の砂漠』岩波文庫

1940年の作品。辺境の砦に配属の決まった21歳青年軍人の話。砦は砂漠に面しており、周囲には何もない。侵略される可能性はほぼゼロ。どんなに見張っても、何も見えない。単調に繰り返す日々は感覚を麻痺させ、まさに「光陰矢の如し」状態で、月日が飛び去る。あっという間に4年、15年、30年。4年経った際、主人公は実家に長期休暇で帰る。しかし、自分は町から取り残されたような感覚を得る。戻る場所は砦しかない。いずれ、攻め込んでくるのではないかと夢想する敵兵をイメージし続け、それだけを望みとして日々が過ぎ去って行く。恋人を作ることもなく、結婚することなく。

極めて苦しい作品である。

読んでいて思うのは、長期化した不登校の子どもたちが言う、

「今までの時間を消しゴムで消したい」

という、その感覚である。この言葉自体は、私の師匠のうち1人が受け持っていた不登校のケースで聞いたものだという。しかし同様の感覚は、私が受け持った不登校の子どもたちから、いやというほど受け取って来た。

巻き戻すことはできない。やりなおすこともできない。今からやれるだけやるしかないのだが、過ぎ去った時間の重みがのしかかる。できれば、消しゴムで消してしまいたい。しかし、そんなことはできない。

単調な日々は、時間の感覚を麻痺させる。知らぬ間に1ヶ月が経っている。知らぬ間に、1年が経っている。気がつけば20歳。まだ若いと思っているが、気がつけば25歳。

もし、外に出たら、本気を出せたら、俺は。
もし、今日、バイトを始めたら。
もし、今から、勉強を始めれば。

しかし、それらは行われることがなかった。30歳になる。40歳になる。死は近づく。

「やらなかった」時間を、消しゴムで消したいという感覚。しかし、それは不登校であると際立つだけで、日々を暮らしている人々全般に言えることではあるのだろう。それが、不登校という特殊な、自主的軟禁生活の場合には際立つというだけではないかと、私は感じていた。

大学生の頃私は、長期休み中にはこれとかなり似通った感覚を持っていたし、そもそも中学高校と、学校に通っていたとしても、そのような感覚のただ中に生きていたようにも思う。たまたま大学の教員などになってしまったがために、夏と春には驚くほどの長期休みが訪れてしまう。私にとって、長期休みは地獄に近い。忙しい方が遥かに「楽」である。

この感覚を目の当たりにしてしまうより、ましである。

トーマス・マンの『魔の山』を読んだ際にも同じようなことを感じていた。山上のサナトリウムで単調な暮らしをしている内に、時間感覚が麻痺して行く様子。そして、最初はさっさと逃れたかったはずの場所から、逃れられなくなる様子。

これは何であろうか。

『タタール人の砂漠』解説には、「ここに描かれているのは人生である」などという、何とも言いようのない言葉が記されている(解説なんて読まなきゃ良かった)。まぁ、そうなのだろうが、私はずっと、死の匂いを感じながら読んでいた。

ならば、“充実した”生活を送れば良いのか。

イベントで埋め尽くせば、死を感じることなく、時間の流れを感じることなく、ごまかすこともできよう。しかし、肉体は一時的に充実するかもしれないが、精神が死ぬのかもしれない。かといって、ごまかさなければごまかさないで、私が長期休みに感じるあの感覚を間近に観ることになる。

結局私には、どちらも堪え難い。

『タタール人の砂漠』の主人公は、4年砦で過ごした段階で、どうやら「アウトサイダー」になってしまったようだった。おそらく、町の人々に置いて行かれたわけではないのだろう。取り残されたわけではないのだろう。ただ、主人公の感覚が変わってしまった。プラトン『国家』における洞窟のたとえで言うところの、たいまつの火をぼんやり観てしまったのではないか。ただし、無自覚のまま。

砦にいようが、違うところで生きていようが、遅かれ早かれこの主人公は、気がついてしまったのではないかとも思う。辺鄙で、敵襲が一切来ないという砦。その感覚が顕著になる舞台設定だったというだけのような気もする。

最後のシーンまでネタバレはしないようにするが、なるほど、そこに行き着くしかないかもしれない、と感じた。

砦に囲われている状況は、“生きていたいのに死んでしまう”肉体にとらわれている状態の比喩ととっても良いだろうし、カフカ・カミュ的な不条理そのものと受け取っても良いだろう。読む人によって、とらえ方は様々であろう。

苦しい作品であることは確かなような気がする。

ただ、最後まで読んだとき、私には笑みが浮かんだ。

2014秋学期予定

教室は変更になる可能性がありますが、時間的には以下の通りになります。金曜5限には、月に1回ほど「何らかの会」をやるだろうと思われます。直近の「水曜の会」は10月22日(水)、「何らかの会」は10月17日(金)です。

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Author:ina
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