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夏休み中の出校予定日

一応、夏休み中の出校予定を記します。
おそらく、研究室に来て、大体論文を書いているとは思います。少々来すぎている感じもありますので、途中お休みさせていただくかもしれません。ご了承ください。

8月
18(月)
20(水)
22(金)
25(月)
27(水)午後
28(木)
29(金)

9月
2(火)
3(水)
5(金)
8(月)
10(水)
11(木)
12(金)
16(火)
17(水)
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『バガヴァッド・ギーター』と集合的無意識

(先に、【個人的無意識と集合的無意識】をお読みください。)

1.『バガヴァッド・ギーター』における神の描写

『バガヴァッド・ギーター』は、インド、ヒンズー教の聖典でもある『マハーバーラタ』の一部である。『バガヴァッド・ギーター』を日本語に訳すと、「神の歌」となるようだ。

マハーバーラタ全体がストーリー仕立てになっている。『バガヴァッド・ギーター』では、親族同士の大戦争になる寸前、戦士アルジュナが戦意を喪失しているところから始まる。傍らにはクリシュナがいる。クリシュナが神の化身であることは、アルジュナは知っているが、見た目が人間なので、少々砕け気味。

「…。クリシュナさん。この戦争、ちょっと無理だ。だって、俺らも、相手も、どっちも親族同士じゃないか。俺らが相手を全部殺したとしても、なんか違う気がしてしまう。じゃぁ、俺らが全滅すれば良いかって言ったら、それも違うと思う。どっちを選択しても、遣り切れない思いになるだろう。一体俺は、どうすれば良いんだろう…」

アルジュナは戦車の中で、呆然としてしまう。その様子を見たクリシュナは言う。

「なぁ、アルジュナ。殺したら、そりゃ肉体は死ぬ。ただ、中心部分は残って、そこに新しい肉体がくっつく。また生まれてくるっていうことだよ。それが輪廻さ。だから、殺すことについてはあんまり考えるな。殺したつもりでも、死んでない。ずっと残る。それからな、お前は戦士で、かつ軍師なんだよ、アルジュナ。それが、今この世でお前が持ってる役割だろ? これ、下っ端の兵士だったらまた話は別だけど、上位ランクのお前がそうやって戦車でぐったりしてる姿、お前の部下が見たらどう思うかな。怖じ気づいた、と見るかもな。びびってる、と見るかもな。俺たちを見捨てた、と見るかもな。まぁ、あんまり良い効果はない。これはな、もう戦うしかないんだよ。人によって役割がいろいろあるだろ? 学者は知識をきっちり研ぎすまして行くこと。行者は行を極めて行くこと。同じなんだ。お前は、戦士として、行為の結果じゃなくて、今やるべきことに集中して、淡々と全力を尽くせば良い」

「クリシュナさん…。うん。そうなんだよな。そうなんだよ。きっと、そうだ。だけど、それを続けて、一体何になるんだろう…」

「お前が殺した相手も、何もかも、俺につながってる。全部、俺につながってる。一応ね、気づいている人もいるんだけどね。実感はないかもな。で、どうかね。輪廻っていうのも、結構きつい部分はあるわな。生まれ変わるのも悪くないけど、何度も何度も、永遠に生まれては死ぬ、っていうのはちょっと厳しいわな。もちろん、そういうシステムは、全体として必要なんだけどさ。動き続けないといけないんでね、このシステム。でもアルジュナ、お前は相当見込みがあるから、言ってるんだ。これは、本当に一握りの人間にしかできないことでもある。ちゃんと、目の前の行為に専心することを、俺に捧げてごらんよ。結果にとらわれずにさ。それを積み重ねて行けば、お前のエネルギーは、周辺部分の輪廻する部分から、すべてを統括する俺の側へとずれて来る。つまり、肉体がもう一回くっついて輪廻しちまう、という循環から外れるんだよ。そして、すべてがつながれている俺の所にくることになる。それを、ニルヴァーナ(涅槃)というんだ。アルジュナ、たぶんお前なら行けると思うぜ」

アルジュナは答える。

「…クリシュナさん。本当にありがとう。あなたの言う通りだと思う。本当に。ただ…、クリシュナさん。あなたが神であることを疑うわけじゃない。話の内容もすごくしっくりくるんだ。でも、全部の中心であって、全部がつながっている、ということ、もし良ければ…、見たいんだ…。あなたの本当の姿を」

「なるほど。今まで人間は誰も見てないし、というか神々ですら、見たくて仕方がないって思ってるくらいだからな。でもまぁ、お前には見せてもいいぜ。肉眼じゃ見えないから、天の眼をやるよ。これで見える。いいか…。いくぞ」

ここからである。

〈われは見る、多くの腕・腹・口・目を有し、一切方に向って無限の形相を示す卿を。われは見ず、卿に終りあり、中間あり、はた始めあることを〉
〈冠を戴き、戟(ほこ)を執り、輪盤(cakra)を手にし、一切所に輝き渡る光明の集積として、一切方に火炎・太陽の光線を散じ、凝視し難く、測るべからざる卿を見る〉
〈初・中・終なく、無限の威力を有し、無数の腕を有し、日月を眼とし、輝く火炎を口とし、自己の光明によってこの一切を熱しつつある卿を〉
〈天地の間のこの空間および一切の方所は、実に卿独りによりて充満せられたり。卿のこの希有にして恐しき形相を見て、三界は愕然たり〉
〈急ぎて卿の口に入る、牙突きいでて恐しき。或る者は頭(こうべ)微塵に砕けて、[卿の]歯間に懸りて見ゆ〉
〈あたかも河川の幾多の激流、海に向いて奔走するがごとく、かくかの人界の勇者たち、炎(ほむら)立つ卿の口中に入る〉
〈卿は一切方において全世界を呑噬(どんぜい)しつつ、燃え立つ口をもちて舐め尽す。卿の恐しき光炎は、全世界を光明もて満たして熱す〉
〈聖バガヴァッドは言えり。/われは「時」なり〉
(辻直四郎訳『バガヴァッド・ギーター』pp.183-189)

始まりも終わりも見えず、直視できないほど強く様々な色に光り輝いてグラデーションがうねっているような姿。とんでもない数の、太陽と月のような目がある。とんでもない数の腕がある。火炎を吐きまくる口が無数にあり、死したるもの一切を吸い込んで(おそらくは再生したものを吐き出し)、その牙には死体がひっかかっているという凄まじさ。最後に一言、

〈われは「時」なり〉。

すごい。

2.集合的無意識の図を拡張して理解する

さて、このクリシュナの言っている内容を、前回の集合的無意識の図を用いて考えてみる。図3は、集合的無意識の突起部分に肉体がくっついている状態である。肉体は死滅するが、中心部分の突起は消えず、新しい肉体のカバーがぐにゃん、とくっつくイメージを思い浮かべると、クリシュナが言っている内容がわかりやすいかもしれない。

この考え方からすると、突起部分のひとまとまりが、中心部分に回収されるというか、統合される状態が、ニルヴァーナである。確かに、肉体のカバーが再度くっつくことはない。そして、全体は○なのだが、その中央部分に、このエネルギー全体を司っているセクションがある、という感じであろう。クリシュナが、神々、と言っているのは、おそらくユングの言うところの様々な元型であると考えれば良いかもしれない。

確かに、エネルギーの、円の中心点は、すべてを司る。それは、元型も、個人も、つながっている大本である。そして、その大本を、無理矢理視覚化したとすると、先ほどの描写になる、というのは、私は大変しっくりくる。
神の描写として、善なる神、暖かい神、そういうのも大切だとは思うのだが、人格神を超えて、死も生も、すべてのエネルギーを司る状態というのは、こういうことなのではないか。そう、私は思ってしまう。

クリシュナは言う。「いろんな宗派があっていいんだ。別に。それぞれのやり方で、全体に奉仕すればいい。でもな、最終的には俺につながってるんだ。その、浅さによって、いろいろ宗派が分かれてるけどな。俺の名前は、宗派によって随分違うぜ。でも、別にいいんだ。名前が問題じゃないから」。

多分、私は、集合的無意識の図像が頭に浮かんでいなかったら、クリシュナの言っていることは何だか良くわからなかっただろうと思う。図示することは、多分イメージを固定化してしまう弊害はあるが、ある程度抽象的であれば、固定化も多少は和らぎ、理解がスムーズになる部分もあるように思う。10308376_295272170646684_7466320242751523814_n.jpg

個人的無意識と集合的無意識について

1.フロイトにおける個人的な無意識

フロイトは、意識している部分と、意識に抱えておくことができなかったものを追いやる無意識に分けて、人間のシステムを考えた。いわば、2つの部屋がある家である。

意識の部屋は、社交会に使う部屋で、お客を通すための綺麗にしている部屋である。昼の、日の当たる部屋である。こちらには、見目麗しい人々がやって来る。ホスト役の家人も生き生きしている。

しかし、客を招く際に、段ボールだとかゴミだとか古雑誌だとかを押し込んでおく、扉を閉めた“物置”のような、“納戸”のような部屋があるだろう。それが、無意識の部屋である。夜の、日の当たらない部屋である。こちらの部屋の前には、迂闊に人に入られないように、あるいは押し込めたものが溢れ出て来ないように、ガーディアンが立っている。軍人のような、いかついおっさんが立っている。

フロイトが『ヒステリー研究』の中で提出しているエリザベートという症例ががある。この女性は24歳の女性で、“神経学的には異常がないにも関わらず、2年以上歩けない”という症状を持っていた。姉貴の旦那であるAさんに結構惚れていた。あるとき、姉貴が死んでしまった。エリザベートはうっかりと、「おっしゃ!これであたし、Aさんと結婚できんじゃね!?」と思ってしまった。

しかし、時代は19世紀のオーストリアである。いくらなんでも、これは不謹慎すぎる考えであった。エリザベートは、その“あらぬ考え”を、意識の部屋に、日の当たる部屋に抱えておくことができなかった。だから、納戸の部屋、つまり、無意識の部屋においやった。

追いやった「おっしゃ!これであたし、Aさんと結婚できんじゃね!?」という思いは、たとえば、ネグリジェのまま、頭にはパーマのクルクルをまいたまま、煙草をふかしている、太めの50代おばさんの姿を進呈しよう。このおばさんが納戸に追いやられて、黙っているはずがない。そして、意識の部屋に念を送るんだか強烈な臭気をドアの隙間から流し込むんだか、何だかはわからないが、とにかくエリザベートの身体というシステムに直接働きかけ、「歩けなくなる」という症状を出させるに至る。それは、気が付いて欲しい、日の当たる部屋、意識の部屋に戻りたいというメッセージでもある。そのメッセージを聞き入れ、意識の部屋の中に、おばさんの居場所を確保しないことには、その症状は消えることがない。

大雑把に言えば、これがフロイト理論の骨子である。


2.ユングにおける集合的無意識

しかし、フロイトの弟子でもあったユングは、納戸の奥に、もう一つ、扉を想定した。薄暗い納戸の奥にある扉は、いわば異世界への扉である。もう少し説明する。

ユングは、統合失調症患者が観ている幻覚の内容が、超絶古く、しかもギリシャ神話の中でも激烈マイナーなものの内容と酷似しているケースを発見した。それをきっかけに、元からマニアではあったものの、さらに様々な国の民話や神話や昔話を集めまくり、同じような話を見つけまくった。当然、同じような話というものは、シルクロードを通って遠方まで語り継がれたから似ているのだ、というような伝播理論が主流である。しかし、同時期に、とても伝播するには時間も労力も交通手段も足りない距離で、同様の話がありまくるというのは、伝播理論で説明するのは少々苦しいのではないか、という発想に至る。

そして、世界には、常に一定の、目に見えない巨大なデータベースがあり、そこに“接続”できるエリートが存在していたのではないか、という仮説を打ち立てた(インターネットがこれだけ一般的になると、イメージしやすい)。その巨大なデータベースのことを、「集合的無意識」と名付けた。

あくまで、仮説である。しかし、そう考えると、統合失調症の患者が“うっかり観てしまう”幻覚が、神話の内容と酷似しているというのも、説明することはできる。統合失調症の患者は、準備ができていない状態でうっかり巨大データベースに接続し、そちらのエネルギーに圧倒されてしまって、データベースの生データをそのままの形で外部へ流してしまっている状態とも考えられる。

さらに、シャーマン(巫女・巫覡。彼らは古代社会において、スーパーエリートである。神話を作り出すのも彼らの仕事であった。日本で似たものは、たとえばイタコやユタ)になり得る人々は、シャーマンとなる前、まさに統合失調症的な兆候を現す人々であることにも説明がつく。幻覚や妄想など、急性期的な兆候を示すと、シャーマン育成機関から徹底的に訓練が施され、巨大データに圧倒されないよう、肉体的にも知的にもタフになる。ここで訓練に失敗すると、あるいは素質・素養が足りないと、いわゆる統合失調症となってしまう。

これで、おおかたのことは説明できる。それが真実かどうか、という話ではない。うまく説明できるかどうか、それが重要である。

この考え方を元に、ユングは「元型」というアイデアを提出した。神話とは、いわば当時のスーパーエリートたちが、民族を引っぱって行くために紡ぎ出した、民族のための生き方指南物語でもある。しかも、それが数百年とか、場合によっては何千年と残っているとしたら、そのエネルギーは半端ではない。そういう各国に残る神話には、おおよそ決まった形式のキャラクターが登場している。ヒゲの生えた知識を司るジジイ、破壊と再生をもたらすいたずらもの、生を育み死んだ者を飲み込むような母なる大地、同じような見た目だが聖なる者と邪悪な者の対。そういうものは、神話におけるひな形、神話素などとも呼ばれていたものであるが、一応、ある程度整理して、ユングは「元型」と名付けた。

ある種のひな形であるから、そのままの形で現れるわけではない。文化背景によって、そのエネルギーは現れ方を変える。たとえば、“完全武装をして雄叫びを上げる女神”は、ギリシャ神話ではパラス・アテネとして出現し、古事記においてはアマテラスとして出現するのかもしれない(この場合は「アニマ」という元型を考えるべきなのだろうか)。その性質は、もちろん微妙に異なるが、共通項もかなり多い。それが、元型のとらえ方である。


3.ビッグバンを引き起こすようなエネルギーそのものを想定する

たとえば、現在における宇宙理論では、一応以下のように考えられているのだろう。体積はゼロだが質量は無限という無茶苦茶な状態をスタート地点として、ビッグバンとよばれる強力な爆発が起こり、その爆発の過程で現在も宇宙は広がり続けている、と。見て来たわけではないのでそれはわからないが、色々と証拠を集め、理論物理学者が計算式を立てまくっている。

しかし、たとえば、そういう流れのなかで太陽ができ、地球ができ、人間が生まれ、ということである。偶然であるのは確かであろうが、それでも、そんなわけがわからないレベルの、考えるだけで気が遠くなってしまうようなエネルギーが、ビッグバンの元にはあったわけである。そういうエネルギーを発生させている大本を想像する。

それは、もう超強力なエネルギーとしか呼べない。形があるとも思えない。あったとしても、そもそも“体積ゼロで質量無限”ですら想像できないのに、それを生成するエネルギーそのものなど、視覚化できるはずがない。それを神と呼ぼうがタオと呼ぼうが、まぁそれは私はどうでも良い。私にとってはエネルギーとしか呼びようがないのである。

現在も広がり続ける宇宙を覆い尽くしているというか、その根元にあるというか、そういうエネルギーを、一応絵に描いてみる(図1)。禅などで、丸を描くことが空(くう)あるいは無(む)を描くことでもあるというのは、多分、このイメージだろうと、私は勝手に思っている(井筒俊彦によれば、「空(くう)」とは、からっぽのことではなく、中身が無限につまって、あまりにもつまり過ぎて一見ゼロであるような、そんな状態であるらしい。つまり、ビッグバンが始まる寸前の宇宙の状態ともいえる)。

このエネルギーの、はじっこの部分を拡大してみる(図2)。すると、超細かい突起が出ていることがわかる。この突起一つ一つが、個人であると想定する(もちろん、物体も植物も動物も含まれるのであろうが、ややこしくなるので人間だけに限定する)。

フロイトの言っている意識と無意識とは、図2にあるように、この突起先端の部分の話である。これが、意識の部屋と、無意識の部屋である。

このエネルギー体の中には、元型が漂っている。ただし、周辺部から中心部に行くに従って、そのエネルギー量は増えて行く。周辺部にある元型は、たとえば「シャドウ」であり、中心に行くに従って、「グレートマザー」や「老賢者」、さらに奥には「アニマ・アニムス」、そして「セルフ」が存在する、といったように。

それらの元型が“何故”あるのかは知らない。ただ、そういったものを想定すると、ギリシャ神話や古事記、インド神話などの多神教神話における様々な神々の序列や強力さ、イメージなどもうまく説明できる。

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ストックフレーズを用いることについて

〈精神に欠けてつまらなく退屈なのは、その原因を次の点に求めることができよう。それは彼らがいつもただ中途半端な意識で言葉を動かしているにすぎないこと、つまり自分の使う一つ一つの語を習得し、自分のヴォキャブラリの中におさめていると言っても、自分ではその語の本当の意味を理解していないことである。だから彼らの文章は一つ一つの語から組み立てられたのではなく、むしろまとまったきまり文句(フラーズ・バナール)を文章の単位にしている。〉(ショウペンハウエル(斎藤忍随訳)『読書について 他二篇』岩波文庫 p.67)

学生のレポートを読んでいて、決まり文句のようなものが出て来ると「うっ」となる。「僕はやんちゃな生徒だったが」「…という文に同感しました」「とても尊敬する先生でした」。こういう文を見ると、「やんちゃってどういう意味だよ。かわいい響きだけど、犯罪行為も含むんだろ?」「同感って、そもそも使い方が間違ってるんじゃないか?」「尊敬するって、ちゃんと説明できるか?」など、いちいち突っ込みたくなる。なるほど、ショウペンハウエルに言わせると、これは「彼らの文章は一つ一つの語から組み立てられたのではなく、むしろまとまったきまり文句(フラーズ・バナール)を文章の単位にしている」ということなのかもしれない。そして、「彼らがいつもただ中途半端な意識で言葉を動かしているにすぎないこと、つまり自分の使う一つ一つの語を習得し、自分のヴォキャブラリの中におさめていると言っても、自分ではその語の本当の意味を理解していない」ということが原因なのかもしれない。だから、いちいち語の定義を問いたくなるのかもしれない。

そんなことを言う私も、ことばを十分に意識して用いているとはいえない。漱石や鴎外、それこそショウペンハウエルに比べれば、カスのようなものである。しかし、それでも、ことばにはこだわっていたいという気持ちはある。

たとえば、教育心理学の最初の授業では、「責任」という言葉の定義を学生に聞く。責任ということばは、おそらくどこかで使ったことがあるはずなのである。部長になった時。生徒会役員になった時。学級委員になった時。「責任をもって務めさせていただきます」ぐらいのことは宣言したのではなかろうか。しかし、いざ責任ということばの定義を問うと、たいていの学生は詰まる。ということは、「責任をもって務めさせていただきます」というフレーズは、ただの決まり文句・定型文・ストックフレーズであっただけである、ということにもなるのだろう。いわば、コピーペーストである。

教員の中にも、「社会に出てから困るぞ」ということばを生徒や学生に用いる人もいる。多分、結構いる。しかし、その人々は「社会」ということばを定義できるのだろうか。

責任、社会ということばに関しては、これらが明治時代につくられた訳語であり、元はresponsibility、societyであったということをある程度知らなければ、定義することは困難であろう。

ちなみに、responsibilityは、responseとabilityの合成後であり、「反応する能力」のことである。ということは実は、責めることでも、任せることでもない。だから、不祥事が起きた際に「責任をとって辞めます」とだけ言うのは、決まり文句、ストックフレーズで反射している証拠なのかもしれない。「私には反応するだけの能力がございませんでした。ないにもかかわらず、このような任についておりました。本当に申し訳ございません」と言うのならば、ある程度正確にことばを用いていることになるのかもしれない。

また、社会、つまりsocietyは、individualと関係の深い概念で、individualが理解できなければ定義が困難なことばである。しかし、individualということばがそもそも、日本語に訳す際に大変困難であった語であるようだ。江戸時代までのことばにindividualに対応するものが皆無であったため、仕方なく「一個の人」と訳し、それがつづまって個人となったらしい。individualは、inとdividualの合成語である。inはこの場合「〜できない」という否定の意味を持っており、dividualは、元々はdivideであるため、individualは「これ以上分割できない」という意味になる。では、何からこれ以上分割できないかというと、societyから、ということになる。これはペアの概念であるので、これ以上分割できない、原子・アトムのようなindividualが集まって形成しているシステムのことをsocietyと呼ぶことになる。とすると、「社会に出てから困る」ということばは意味をなしていない。なぜなら、すでにその教室が、individualが構成しているsocietyというシステムの1バリエーションだからである。出るも何もあったものではない。ということで、「社会に出てから困るぞ」と言っている人が想定しているものは、societyではなく、人間同士の情緒的なつながりを前提としている、お互い顔が見える範囲の、知り合い同士の、狭い「世間」「浮世」「世の中」のことなのであろう。一応、仕事を想定していることはわかるが、やはりストックフレーズを用いているということは言えるように思う。

ほかにも、たとえば「ワンチャンあるよ」「やばめだね」「テヘペロ」「マジでか」「激オコ」なども、ストックフレーズという意味ではそうなのであろう。流行った言葉にまでとやかく言うのもどうかとは思うが、単語単位ではなく、フレーズ単位で使っているという意味では同様である。そういう意味で、ことばに敏感な人ほど、ストックフレーズには敏感になり、流行り言葉についてもなるべく用いないように気を使っているように思う。ふざけて使っている分にはかまわないが、使い続けると癖になるものである。英語を覚える際に、フレーズから口癖にするようにするではないか。言語学習と同じことが無意識的に行われてしまう。そして、意識せずに、ストックフレーズが繰り出されることになる。

結果的に、ストックフレーズを大量に用いて、その組み合わせだけでしゃべる、あるいは文を書く場合、少々頭が悪いイメージになるようだった。それが、レポートを採点していて気がついたことである。

頭が悪い印象を意図的に与えたいのであれば、用いても良いだろう。そういうことを策略として用いる者もいる。しかし、無意識的に頭が悪い印象を与えてしまっているとしたら、しかも、できれば知的に向上したいと思っているのであれば、ストックフレーズの使用には敏感になった方が良い。

考えていることをことばにする、というより、人間はことばによって考えている、と言った方が良い。たとえば、言語哲学者の井筒俊彦は『意識の形而上学』の中で、言語は「元来、意味分節(=意味による存在の切り分け)を本源的機能とする」とし、「命名は意味分節行為であ」り、さらに「意味分節・即・存在分節」とまで記している。つまり、言語はものの見方の枠を決定しているといことであろう。井筒の提出する例は、花(日本語)とflower(英語)とzahrah(アラビア語)である。たとえ種子植物の生殖器官という点では同じであっても、イメージされるものがまったく異なるという。それはそうである。咲いている植物があまりにも違う。桜の花と、砂漠に咲くサボテンの花では、まったく違う。しかし、どちらかしか知らなければ、その語が持つ暗黙の区分によって、イメージが固定される。外国語を学ぶ意味が、自国語を深く知るためであるとは誰の言か忘れたが(内田樹だったかもしれない)、おそらくそういうことである。自分の持っている区分とは異なるものを知ることによって、よりいっそう自らが用いている語の区分がはっきりする、ということでもあるのだろう。

これは単語に限ったことではない。ある程度のかたまりを持ったフレーズにも当てはまる。ストックフレーズを使い続けていると、ストックフレーズでしか考えられなくなる。決まり切った、紋切り型の思考パターンしか獲得できなくなる。しかも、語をきちんと吟味していないのであるから、思考内容は致命的に稚拙になる。

これはまずい。

とはいえ、私だって随分ストックフレーズを用いているだろうし、変な口癖もあるだろう。ただ、少しでもその口癖を減らすために、自分の講義を録音しては聞き直したりする。自分で書いた文章も、延々と読み直したりする。するたびにうんざりはするものの、たとえ牛歩であろうとも、前には進みたいものである。

材料への依存

〈材料に依存する度合いが少ないほど、その功績は大きく、またそれどころか利用する材料が世間周知の陳腐なものであるほど、一段とその功績が大きい〉
〈まったく普通の凡庸な人々でも、その材料のおかげで、非常に重要な著書を公にすることができる。〉(ショウペンハウエル(斎藤忍随訳)『読書について 他二篇』岩波文庫
p.35)

私が中学生とか高校生の頃、Deep Forestとか、ENIGMAという人のCDがそれなりに売れた。Deep Forestは民族音楽をサンプリングして来て、それに電子音楽を合わせて編曲するという手法をとっていた。ENIGMAの場合は、グレゴリオ聖歌をサンプリングし、それに電子音楽を合わせて同様のことを行っていた。

私は好きではあったが、「これ、サンプリングするネタとか組み合わせが新奇じゃなくなったら、どうするんだろ?」と、素人ながらに思ったものだった。

両者とも、1、2作目以降、大したことなくなってしまった。

坂本龍一・細野晴臣・高橋幸宏(敬称略)という卓越した音楽家3人のユニット、YMOは、1970年代に出たばかりの巨大なシンセサイザーを用い、電子音楽という新しいジャンルで世界的に影響力を及ぼした。おそらく当時、ちょっと聞いた人にとっては、それは“電子音楽”という新奇さ、つまり機材に依存したものであると見えたかもしれない。しかし、この3人は、電子音楽ではなくとも、ソロでも一流のままであった。つまり、彼らは機材に依存しているわけではなく、ただ、新しい機材で“遊んでみた”だけだったのだろう。何の音源を使おうとも、坂本龍一の音楽は坂本龍一の音楽であったし、細野晴臣も、高橋幸宏も同様であった。おそらく、その共通するにおいが、彼らの「思想」だったのだろう。

私はカメラが好きではあるので、たまに写真集を買ったり、写真展に行ったりする。その際、大変新奇な被写体を撮っている人で、その新奇さで名をあげたタイプの人(たとえば廃墟・工場・奇形・下水道など)の場合、上述のDeep ForestやENIGMAに対して抱いたような心配をしてしまうことがある。素人の私にそんな心配をされたくもないと思うだろうが、心配してしまうのだから仕方が無い。

いわゆる一発屋と呼ばれる状態とは、ショウペンハウエルの記すように、「材料に依存する度合い」が高いのかもしれない。奇を衒うというのは、材料に依存するとか、機材に依存するとか、そういうことになってしまうのだろう。何を使っても、何を対象としても、同じような“におい”を出すことができる作家が、本物ということなのかもしれない。

そういう意味では、森山大道の写真を見ると、どんなカメラでも、何処を撮っても、頽廃的でこの世の終わり的なにおいがある。アラーキーの写真も、誰を撮っても何を撮っても、同じようにエロい。ちなみに、森山大道の文章も頽廃的だし、アラーキーの文章も妙にエロい。ということは、この一定のにおいが、彼らの「思想」ということになるのかもしれない。

私がちゃんと写真を撮りはじめた8年前、最初のうちは、広角レンズで撮影すると奇妙に奥行きが出て、それが面白くてたくさん撮っていた。しかし、次第に撮る対象が同じになってくる。行動範囲が狭いので仕方が無い。そして、飽きた。だから、レンズを広角レンズから標準レンズに替えて、撮って行った。現れ方が変わるので、しばらくは飽きずに撮っていられた。しかし、撮り方が機材に依存しているため、飽きてくる。被写体にも依存しているため、やはり飽きてくる。これが5年前ほどであっただろうか。それからしばらく撮る量が減った。しかし、次第に人を撮りたくなり、さらに子どもが生まれて記録としてガンガン撮るようになり、何かが変わったようだった。今は被写体がどうかというより、斜線や直線、円や四角などのデザインについて気にするようになった。多分、撮り方が変化しているため、機材と被写体に依存する度合いは少なくなったのだろう。とはいえ、まだまだ甘いのはわかっている。

「簡潔な文体、充実した高雅な文体…思想の増大をまずはかるべきである」(p.105)ということは、音楽であろうが、写真であろうが、何であろうが一緒なのだろう。文体を小手先で変化させることではなく、まず自らの思想を充実させること。そして、華美な印象を与える音楽ではなく、簡潔な音楽を。簡潔な写真を。簡潔な文章を。反省しきりである。

「真に価値があるのは、一人の思想家が第一に{自分自身のために}思索した思想だけである」(p.22)というのは、売れるために何を組み合わせるのかではなく、自分が生きて行く際に、表現せざるを得ないような切迫感を持ったもの以外、力を持ち得ないということのようにも思う。

これが仕事となると、売れるか売れないかは死活問題であるからどうしようもない。しかし、趣味の場合には、売れるか売れないかという束縛からは解放される。ならば、せっかくだから試行錯誤し、その中でもがき、自分が生きて行く際にどうしようもなく切迫してくるものが浮き出て来るのを待っても良いように思う。

ただ、こういう趣味的な活動の中で起こるパターンは、対人関係においても、仕事においても、繰り返される共通のものがあることは意識していたい。

気苦労をストップさせる術

1)はじめに

以前、ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』から、「気苦労」を滅却できるとかなり良い、という部分を引用した(注)。

今回は気苦労をストップさせるための方略について、少し具体的に考えることにする。

2)気苦労を意識すること

まず、気苦労をストップさせるためには、自分の頭の中で気苦労が回っていることを意識できなければならない。気づいていなければ、止めるも何もあったものではない。

ということは、どういうものが気苦労なのか、それを把握することが重要である。

気苦労というものは、先のことを「ああでもないこうでもない」と考え、この状況におかれたことに対して不満をぶつけたいがそれをぶつけることもできず、「何で自分が…」などというような考えが回り、考えたからといって状況は変化せず、疲れてしまうような状況を指すのであろう。そしてその対象は、“大したことがない”ものである。

そもそも、対象が“大したもの”である場合、気苦労とは言わない。不安とか、戦慄とか、恐怖とか、もっと違うラベルがつく。不安も戦慄も恐怖も、基本的には未来に関するシミュレーションが関わっているが、その影響は、気苦労などというノンキな響きを凌駕している(もちろん、不安は弱めではあるが)。

そのため、気苦労というからには、大したことない出来事であるにも関わらず、無闇矢鱈と頭の中で考えが堂々巡りしている状況である。たとえば、返事をし忘れたメールについて。明日作らなければならない晩ご飯の献立について。出し忘れたハガキ。書かなければならない書類。

3)気苦労を止めるには

確かに、大したことはない。しかし、侮れない。

メールを返信し忘れた、手紙の返事を書き忘れた相手に対して、たとえば色々と考えてしまうことがある。

・どうして返事を返さなかったのか、とか思われてないかな。
・だらしないやつって思われたんじゃないかな。
・でも、どうやって返事をしたら喜ばれるかとか、いろいろ考えてたらなかなか返事が出せなかったっていう事情があるけど、でもやっぱり、相手にしてみたら返事が来なかった、っていうことしかわからないわけで、あぁ、やっぱり自分はだらしないのだろうか。
・どう思われてるか、ということについてうじうじ考えてることがさらにばれたら、きっと嫌われてしまう。
・でも、そういうのが自分なのだから、それは自分自身で認めないと。
・いや、それって結局自分のことを卑下しているだけなんだろうか。

…などなど。うっとうしいことこの上ないが、こういうことを考えて、疲れて、「うつ病」といわれる状態に落ちて行く人はかなり多い。言ってみれば、悩み方が下手なのである。

しかし、私も人のことは言っていられない。上述の堂々巡り例がさらっと出てくるのは、それは私が堂々巡りをしてしまうタチだからである。だからこそ、気苦労を滅却するというのは、私にとっても重要な課題ということだ。

気苦労が滅却できると相当楽になる、ということさえわかっていれば、考えをぐるぐる回す方ではなく、回転を止める方に、エネルギーを使える。

技術的にはそう難しいことではない。他のことを考えてしまえば良いのである。しかし、ここには2つ、困難なポイントがある。

(1)状況に対して行動せずに、逃避するだけになってしまわないか。
(2)気になってしまうレベルを凌駕するほど楽しいと思えるものを持っているか。

4)行動するための時間割

まず、(1)について。メールや手紙を題材として続ける。

メールや手紙の返事をし忘れた、あるいはいろいろ考えていたら結果的に先延ばしになってしまったということ自体は、過ぎてしまったことなのでこれ以上はどうしようもない。では、このまま放っておいて良いかというと、相手にもよるが、何らかの対処をした方が得策であることは多い。どうでも良い相手であれば、そのまま放っておいて良かろう。そうではない場合、まず返事をする、返事を出すということが重要にはなる。

では、メールなり手紙なりの文面を考えるにあたって、どのくらいの時間が必要か、ということを考える。自分の文章作成能力を正確に把握していれば、何分でどのくらいの文章を、どのくらいのクオリティで作成できるかが予測できる。そのため、自分の技量を正確に把握することが先決である。また、今までメールや手紙で、その内容自体で失礼があったかどうかの情報も必要ではある。たいていの場合、内容自体で不快感を与えているということはない。だから、出せば済む。手紙の場合には、便せんはあるのか、使う筆記用具はどれにするのか、そういったことをある程度は考える必要があろう。足りない道具は買う時間を確保しなければならない。ただ、たいていの道具はコンビニでもそろうことが多い。

道具はある。文章を書くにあたって、内容を構成する部分を含めても、30分あれば大丈夫。これが正確ではないと困ったことにはなるが、ひとまずここまで把握できたとしよう。ならば、その時間をどこかできちんと確保すれば良い。

ここで手を抜くのはまずい。「あとでやればいいや」という感覚が最もまずい。“今日”気になったのであれば、“今日”家に帰って、21:30から22:00までの30分間、手紙を書くという“時間割”を決定する。これは、友人との約束と同じレベルで守らなければならない。自分との約束は、他者との約束と同等に扱うという感覚は早い段階で身につけておいた方が良いだろう。

これがないまま、違うことを考えて先延ばしにするのは、現実逃避という。それは、いただけない。

とにかく、ここまでで来れば、気苦労からの解放は近い。なぜなら、21:30までは、そのことについて考える必要がなくなったからである。

5)気苦労のかわりに趣味について考えること

しかし、そう簡単には行かない。次に(2)について。

考えなくても良いことがぐるぐる回ってしまうのがタチなのであるから、いくらやることが決まっていて、時間割が決定したとしても、気になる。この、気になるという状態をどう脱却するかである。それが、“他のことを考える”という技術だ。

気になって勝手に回るぐらいなのであるから、これはもともとかなり関心が高い対象であった。だから、そのエネルギー量を上回るものを持ってこなければならない。小難しい本を読む、というのは、よほど関心があるものなら別だが、多分、うまくは行かない。体を動かすというのも、まぁ体を動かすことが好きな人なら効果はあるかもしれないが、何せもとは“考え”であるので、運動をしながらも考えが回ってしまうであろう。やはり、考えには考えをぶつけなければならない。

ここで、趣味的なものについて考える、という手だてが生まれる。しかし、この趣味というものが厄介である。

趣味と言われるものには、大きく分けて2種類存在する。

(1)受動的な趣味
(2)能動的な趣味

たとえば、履歴書の「趣味」欄に、読書と書く人はそれなりにいる。読む対象もそれぞれであろう。マンガから始まり、推理小説、文学作品、新書レベルのもの、学術書、批評、現代思想、精神世界などなど。製本されていて、一冊と数えられるような形になってさえいれば“本”であり、“書”であるから、読書とは随分ざっくりした表現である。

教科書だって本なのであるから、それを読むことだって一応読書である。しかし、教科書を読む際には、基本的にテストが想定されている。そのため、書かれてあることを暗記するために読むことが多い。これは、典型的な“受動的な読書”である。書かれてあることを受け取るだけであるから、定義的にも受動的と言って差し支えないだろう。

では、能動的な読書とはどういうものになるか。

たとえば、夏目漱石は、The Evolution of Marriage and of the Familyという本に、このような書き込みをしているらしい(小泉信三『読書論』pp.55-57)。

「コンナコトガアルカ馬鹿ヲ云ヘ」
「馬鹿ヲ云ヘ」
「何故貴様ノ国ノ事ヲ書カナイ」

すごい。文句を書き込んでいる。他にも、コンラッドのThe Nigger of the Narcissus(『ナーシサス号の黒人』)には、

「何ガ故ニThe Nigger of the Narcissusト云フヤ。仰セノ如クNiggerハ出デ来ル。然モpregnant futureヲ有スルカノ如クニ出デ来ル。シカモ遂ニ何ノ為ス所ナシ。竜頭ニシテ登場蛇尾ニシテ退場。」

とまで書きこんでいるそうだ。これは、驚くほど攻め込む、能動的な読書であろう。同じ題材であるならば、自分だったらどう書くか、ということが、かなり想定されている読書といえる。

もちろん漱石ほどでなくとも構わないが、せめて制作者側の視点に立った読書ができるようになった方が良いだろう。こうなると、受動的な読書から、能動的な読書へと変化する。それは、映画、音楽、ゲーム、作品と呼ばれるものならみな同じである。

しかし、それでもまだ、全体的にみれば受け身である。誰かが作成したものを消費しているという点では、受け身であることにかわりはない。実際に、趣味と言った際に、誰かが作り上げたものを消費することが念頭に置かれていることも多い。これでは、良い作品がなければ、趣味が滞ることになる。しかし、小説を書いてみる、という段階まで行けば、気に入った作者が作品を出版しなくとも、何もないところでも趣味活動が行える。作曲も作詞も、何でも同じである。

スポーツ観戦の場合も同様である。サッカーが好きだ、という人の中に、観戦するだけの人と、観戦もするし実際にサッカーもやるという人に分かれる。どんなスポーツでも同様である。観戦だけでは、楽しみ方の深さも異なる。現行でスポーツをやっていなくてもかまわないのであるが、少なくとも、自分でやってみた際にどう動くのか、その“ネタ”を仕入れる感覚というものは、読書の場合と同様、能動的な観戦となりうる。自分が監督だったらどうするのか、という観点でも構わない。どちらにしても、制作者側の視点に立つことが重要である。

美術館に行くことが趣味、というのも、実際に絵画を描く人にとっては意味合いが異なる。コンサートに行くことも、自分が演奏する場合には変わってくる。

しかし、単にやれば良いというものではない。結局は、その趣味に、どれだけ深く没入できているかの差であろう。深く没入しているほど、実際に“やってしまう”ところまで駆動される、ということでもある。

自分の作品なりプレーなりが、他者から認められるかどうかは二の次である。他者から認められ、金銭に替えられるかどうかを考えるのは、それを仕事とする場合であり、趣味ではない。ここで問題としているのは、趣味なのである。

いても立ってもいられない。やってみたい。そこまで行けるほどのめり込めるかどうか。これは、そう簡単なものではない。サッカーに付き合って出場しているだけの人は、深くサッカーに没入しているわけではない。それは、単なる付き合いである。

人と集まることが趣味、ということになると、これは難しい。一人では成立しないからである。今回問題としているのは、気苦労を滅却できるかどうかにかかっている。そのため、他者を必要とせず、孤独に行えるものを指す。そもそも、気苦労などというものは、人との関係の中でしか生まれないものなので、人と集まることを想定すると、新たな気苦労が生まれる可能性がある。

気苦労が絶えないようなタチであるにも関わらず、案外さらっと生きている人というのは、この能動的な趣味を持っている場合が相当多い。だから、趣味を持てば良いかというとそう簡単ではないというのはご理解いただけたと思う。

趣味には努力が必要なのである。

6)おわりに

結果的に、怠け者の場合、気苦労も絶えないまま終わるということでもあるのだろう。しかし、気苦労を回せるぐらいの精神エネルギーは持っているわけなので、そのエネルギーを能動的な趣味側へ流入させることに成功すれば、かなり変わる。人生自体が変化すると言っても過言ではない。

それは、数ヶ月でどうにかなるタイプのものではない。数年かかることもあるだろう。しかし、何かに没頭し、本当に楽しそうにしている人を目の当たりにすると、たいていの場合一緒にやってみたくなるものである。何かに没入する、というコツそのものが飲み込めれば、あとは、そのモデルとなった人とは異なるジャンルに手を出し、そちらにのめり込んで行くことも十分に考えられる。

だから、教師になるとしたら、何か没入できる、“能動的な”趣味を複数持っていた方が良い。1つでは足りない。できれば3つ以上は持っていた方が良い。子どもたちを、気苦労から解放する極めて重要な“教育”ができるであろうから。

(注)
ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相 上』岩波文庫 pp.274-276 の引用部分
〈ホレース・フレッチャー氏はその『精神治療』Menticultureという小さい本のなかで、ある友人と、日本人が仏教の戒律の実践によって体得する自制について語り合ったとき、その友人が次のように語ったと述べている。
 「『君はまず怒りと気苦労を取り除かなければならない。』私は、『しかしそんなことができますか?』と言った。すると彼は、『できます。日本人にはそれが可能なのです。ですから私たちにも可能であるはずです』と答えた。/…『もし怒りや気苦労を取り除くことが可能であるのなら、どうしてそもそも怒りや気苦労をもつ必要があるのか?』この論証の強さを私は感じた。…以前には不愉快さやいら立ちの源泉となったものすべてが、以前とまったく同一なのに、それらに出会っても、私はちっとも無礼だとは思わない。…私はたいへんおもしろい愉快な旅行になることを期待して、汽車に乗ることにしていたのに、私の手荷物が届かなかったので、列車は私をおきざりにして発車してしまったが、私は汽車がステーションから出てゆくのを見送りながら、腹だったり、いらいらしたりする気持ちをすこしも感じなかった。ちょうど列車が見えなくなったとき、ホテルの給仕が息せき切って駅へかけ込んできた。私を認めるやいなや、給仕は、どなりつけられはしないかと恐れるような様子をして、街の群衆にせき止められて抜け出てくることができなかったことを述べはじめた。彼が述べ終わったとき、私は彼に言った、『なんでもないよ。君はどうしようもなかったんだ。また明日のことにしよう。これはお駄賃だ。そんなにたいへん骨を折らせたのに、ほんの少しばかりですまないがね。』彼の驚いた顔には、満面に喜色が溢れていたので、私の出発が延びたことは即座に償われた。/…私の経験の最初の数週間、私はただ気苦労と怒りとだけを警戒していた。…ついに私はそういうすべての感情がさきに述べた怒りと気苦労という二つの根から生え出たものであることを確信するにいたった。〉

カミュ『シーシュポスの神話』について

喫茶店にて。

隣で話しているのは20歳前後の女性二人(AとB)。彼女たちは、知人の既婚女性(C)について話し始めた。

既婚女性Cの夫は年上で、同じ会社内にいるのだという。そして、Cが“付き合っている彼氏”もまた、同じ会社にいる。彼氏は同世代。

A「彼氏は、自分からは誘わないんだって。Cが買い物にいこう、って言って、その時にたまたま彼の時間が空いてたら、行く感じみたい」
B「まぁ、結婚してるんだもんね、Cの方が」
A「うん。それで彼氏の方は、Cがあなたなんかもういらない、って言ったら、それでいいんだって」
B「へぇ…。なんか…、頭良い、って感じはするけど…。でも、それって、彼氏要るの?」
A「さぁ…」
B「どっちが本命なんだろ? 結婚はお金のため?」
A「いや、旦那のことは好きみたい。でも、結婚する前に彼氏と会ってたら、多分結婚してた、って」
B「うーん。本命とか、そういう考え方じゃないのかな…。ちょっと良くわからない…」
A「うん…」

私は、カミュの『シーシュポスの神話』になぞらえて聞いていた。

まず、ギリシャ神話におけるシーシュポスとはどういう存在か、ということについて。カミュのまとめを記す。

〈神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。…ホメーロスの伝えるところを信じれば、シーシュポスは人間たちのうちでもっとも聡明で、もっとも慎重な人間であった。しかしまた別の伝説によれば、かれは山賊をはたらこうという気になっていた。…シーシュポスは瀕死の床で、不謹慎にも妻の愛情をためそうと思った。…ただ言いつけにしたがうだけであった妻の振舞いに腹をたてて、妻をこらしめるために地上に戻る許可をプルートンから得た。しかし、この世の姿をふたたび眺め、水と太陽、灼けた石と海とを味わうや、かれはもはや地獄の闇のなかに戻りたくなくなった。…それ以後何年ものあいだ、かれは、入江の曲線、輝く海、大地の微笑をまえにして生きつづけた。…使者としてメルクリウスがやってきて、この不敵な男の頸をつかみ、その悦びから引きはなし、刑罰の岩がすでに用意されている地獄へとむりやりに連れ戻った。〉(カミュ『シーシュポスの神話』pp.210-213)

シーシュポスは、「緊張した身体があらんかぎりの努力を傾けて、巨大な岩を持ち上げ、ころがし、何百回目も、同じ斜面に繰り返してそれを押上げ」る。途方もない時間の果てに、その目的は達せられる。「するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へところがり落ちてゆくのをじっと見つめる。…かれはふたたび平原へと降りてゆく」。

カミュは続ける。「こうやって麓へと戻ってゆくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、ぼくの関心をそそる」。

ここでいうところの「岩」は何を指すのだろう。

『シーシュポスの神話』には、「ドン・ファンの生き方」という章がある。カミュは記す。「かれは女たちを、いつも同じように熱中して、そのたびごとに自分のすべてをもって愛するからこそ、かれは、そのようにして自己を捧げ、そのようにして愛を深く窮める行為を繰返さなければならないのだ」「彼女らのひとりが叫ぶ。『とうとうあなたに本当の愛をさしあげましたわ。』するとドン・ファンが笑って、『とうとう、だって? とんでもない。一回ふえたまでさ』…たっぷりと愛するためには愛する度合いをすくなくしなければならぬ理由がどこにあろう」(同前、pp.124-125)。

量と質の問題ではある。量的に生きることではなく、質を求めて生きること。確かに重要である。しかし、質の高いものをたくさん求めることはあり得る。極端に質の高いものであればひとつで満足することはあっても、それは既にこの世のものではないのかもしれない。現実世界にあるもので、たったひとつで完全な満足が得られるようなものは、もしかしたら存在しないのかもしれない。少しでも完全に近似のものを、何度も/いくつも感じ取りたいと思うことは、それほど不自然ではないように思う。ドン・ファンにとっては、その対象が女性であったということ。先述の既婚女性にとっては、それが男性であったということ。つまり、岩とはこの場合、女性であり、男性であるということだろうか。

カミュは続ける。「健康な人間ならだれでもひとりで何人分もの生を生きようとめざす」(p.125)。なるほど、確かにそうかもしれない。特に、「天才というもの、つまり自己の境界を知っている知力」(p.125)を持つものにとっては、それが数十人分に達する場合もあろう。たとえば、私が仰ぐ井筒俊彦・ユング・中井久夫などは、少なくとも数カ国語を操り、凄まじい量の本を読み、大量に書物を記している。それは、数十人では足りないかもしれない「量」の生を生きている。しかも、それらひとつひとつの「質」も計り知れない。異性という肉欲に限らないということだ。それはたとえ善行のようなものであっても、質の高いものをたくさん享受したい、という方向性は十分にあり得る。

カミュが標的として定めるのは、それらの行為そのものではない。それらの行為を「意識」し続けて行っているかどうかである。何を意識するのか。それは、「不条理」を、ということになる。

〈この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている、——この世界について言えるのはこれだけだ。だが、不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。〉(p.42)

割り切れないもの。それは、生きていたいのに死んでしまうということ。何をしても、結局は死んでしまう。死ぬ時期が早かろうが遅かろうが、とにかく死んでしまう。死刑囚と死刑囚でないものの違いは、ただその時期が、本人に明晰に示されているかどうかの違いのみであるということ。結局、私たちはいつ死ぬか知らされていないだけの死刑囚である。

それが、割り切れない。

そして、その割り切れないことから決して目を逸らさないこと。誤摩化さないこと。死に、安易に意味を見出さないこと。そこに意味などない。死後の世界のために生きることなどしたくない。なぜなら、見たことがないし、確かでもないから。何らかの証言があったとしても、私が見ることができない以上、確信することはできない。哲学も神学も教義も何もかも、私を納得させられなかった。それは、言ってみれば最後に飛躍してしまうようなものだった。キルケゴールも、フッサールも、ハイデガーも、ドストエフスキーも、みな、途中までは頑張っているものの、最後に、目に見えない、あちら側やら天国のようなものに一気に飛躍してしまう。その飛躍する部分だけが、論理的に説明できていない。それでは私を納得させられない。私が納得できるのは、目に見えて、手にすることができて、確実なものだけだ。それは、この肉体と、生きていたいという感覚と、にも関わらず必ず死ぬという不条理である。だから、そこから逃げず、徹底的に見つめ続ける。一貫して、見つめ続ける。それが、真の努力というものだ。そう、カミュは記す。

なるほど一理ある。私はそう思ってしまう。

件の既婚女性Cが、この「不条理」を見つめ続け、生きている間に何人分もの生を生きようとしていたとするならば、“岩を押し上げる”ことは、新しい男性との関係を持つことなのかもしれない。そして、ある男との関係が終われば、“岩は落ちて行く”。次の男性を見つけに行くまでの間、彼女は「ふたたび平原へと降りてゆく」「休止のあいだ」にいるのかもしれない。

そのとき、彼女は何を思うだろう。

新しい男との関係は、何を生み出すわけでもない。いや、「死ぬ」ということを考えるのであれば、結婚しようが子どもを産もうが何をしようが、結局「死ぬ」のである。そこに意味はない。少なくとも、生きている彼女にとって、死んだ後のことは意味を失う。死んだ後の彼女は、その後の世界を確認することも、愛でることも、できないことになる。なにせ、カミュ的考え方によれば、死後の世界は存在するかどうか確認できないのであるから、それを当てにすることはできないのだから。確実なことのみを礎にする以上、このようなパターンに入らざるを得ない。

カミュは記す。「はたして思考はこのような砂漠のなかで生きられるのだろうか、ぼくはまずそれを知りたい」(p.43)。

そう。私も知りたい。いや、それだけが知りたいと言っても良い。私は延々ともがいているのだ。

『異邦人』の終盤、死刑が決まった後のムルソーは、生きたいと望む。ギロチンへ連れていかれる間にどのように逃れ、生き続けるかを考える。たとえ追われて銃殺されるとしても、逃れることを考えざるを得ない。確かに、死期を宣告された後なら、私もそう考えるだろう。まだ生きたいと望むだろう。もっと、量を求めるだろう。それも、なるべく質の高い量を。

こんな文章を書いたところで、論文を書いたところで、授業をしたところで、カウンセリングが上手く行ったところで、私は死ぬ。「ゲーテの作品さえ一万年後には塵埃と帰し、その名前も忘れられる」(p.138)のであれば、「二千年後に起るであろうことを考察する」(p.111)とき、いや、私が書いたものなど、100年後でさえ失われているだろう。だとすれば、この作業自体が、そういう途方も無い長期的な目で見た際、まさに徒労である。意味など消えてなくなる。

しかし、それでもなお、そういう状態を見つめ続けて、山の頂から笑みを浮かべ、見開いた目と嘆息、あるいは高笑い、あるいは嗚咽とともに平野まで降り、再度全力を尽くして岩とともに山頂まで戻る。意味がないことを見つめ続けながら、繰り返す。決して、自殺などという「逃避」を選択せず。

なるほど。納得してしまう。その観点からすれば、確かにそういうことになる。

しかし、どうなのだろう。その生き方はあまりにも苦しすぎやしまいか? かといって、この論理に対抗し得るだけの武装が手に入らない。確かに、“神秘体験”は重要であろう。しかし、それが異界を、あるいは死後の世界を証明するものとは言えない。どちらにしても、私は肉体を持ち、この世界に生きている。それは事実である。神秘体験を得たとしても、肉体は残り、この世界に生き続ける。そして、なるべく長く、生きていたいと思い続けている。

「はたして思考はこのような砂漠のなかで生きられるのだろうか、ぼくはまずそれを知りたい」

バルビュス『地獄』(岩波文庫)からの連想

バルビュスの小説『地獄』の主人公は、田舎からパリに出てきた青年である。名前は出てこない。公務員となる予定でパリに出て来て、一時的にホテルに宿泊する。そのホテルはかなりハイランクな人々が泊まる場所であった。青年が宿泊した部屋には、隣室に通じる覗き穴があった。青年は、職場に行くことを先延ばしにし、持ち金が尽きるまで約1ヶ月、覗き続ける。仕事もふいにすることになる。

青年は隣室を覗く中で、人々が外では見せない、様々な様相を観察することになる。手紙を読んで口づけをする清掃婦、裸体になる女性、不倫密会を続けるカップル、死に瀕した50代男性と結婚する20代女性のやり取り、そしてその死。それらを覗き続け、主人公はある結論に達する。

〈なにか言うべきことがあったら、言ってほしいものだ。幸福はわれわれのうちに、われわれめいめいのうちにあり、それは自分の持っていないものへの欲望だ、ということ以外に!〉(バルビュス『地獄』岩波文庫 p.112)

〈ぼくはあの覗き見したへやから個々につみとった真理を、すべての男たちと一緒に、再現しようとしている。その真理とは、《ぼくはひとりぼっちだ。自分のもたないものが、なくしてしまったものがほしい》というのだ。人はこの欲望で生き、この欲望で死ぬのだ。〉(同前、p.316)

幸福の定義というものもいろいろあるだろうが、なるほど、この感覚は確かにある。自分がその対象を所有してしまった時点で、幸福ではなくなること。誕生日プレゼントで欲しかったものを手に入れてしまうと、何を買おうか悩んでいた時よりも喜びが減少する、果ては霧散してしまうようなあの感覚。旅行に行く前の方が、旅行の最中よりも楽しみなあの感覚。おそらく、構造は同じなのだろう。その対象が、妻であったり、子どもであったり、家庭であったり、家であったり、戦争がなく殺戮される可能性が少ない環境であったりするということにもなる。手に入れた最初のうちは、“幸せである”と意識はできる。しかし、次第に薄れて行く。どんなに意識的に「これは幸せなのだ」と自分に言い聞かせてみても、無駄である。幸福というものが、このような定義のものであるとするならば、そうである。

バルビュスは、それらの例として以下のようなものを挙げる。

〈熱愛していたものが、急に、または徐々に、唾棄すべきものとなる、この恐ろしい不思議〉
〈人間のあらゆる夢がいつとはなく悲歎にかわる〉
〈快楽が人間の肉から花と咲きながら、痰唾のように人間のうえに落ちてくる悲哀〉(同前、p.86)

持っているものでは満足できず、手に入れた時点で失われてしまうとすると、永遠に幸福にはたどり着けない。だからこそ、『地獄』の主人公も、「なにか言うべきことがあったら、言ってほしいものだ」と言う。知りたいのである。

ただ、ここで言われている幸福は、いわゆる「欲望」に限定されているようには思う。特に、際限がない欲望を指している。欲望の中で、権力欲だけが際限がない欲望であるとは、中井久夫の言である。

〈権力欲はこれらとは比較にならないほど多くの人間、実際上無際限に多数の人を巻き込んで上限がない。その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。自己の中の葛藤は、これに直面する代わりに、より大きい権力を獲得すればきっと解決しやすくなるだろう、いやその必要さえなくなるかもしれないと思いがちであり、さらなる権力の追求という形で先延べできる。このように無際限に追求してしまうということは、「これでよい」という満足点がないということであり、権力欲には真の満足がないことを示している。権力欲には他の欲望と異なって真の快はない。〉(中井久夫『アリアドネからの糸』p.6)

食欲や情欲にも際限がないものがあるではないか、という疑問に対しても、中井は先回りする。

〈睡眠欲も食欲も情欲も満足があり、満足とともに追求がやむ。例外はある。睡眠欲はともかく、食欲と情欲とが無際限に追求される場合である。この場合、いや一般にこれらがとりたてて問題となる場合の多くはこれらの欲望が権力の手段となり下がった場合である。たとえば情欲が相手を支配する手段となる場合である。この場合、情欲自体の純粋な快楽は失われ、相手の気持ちにかまわず相手におのれの欲望を受け入れさせることが真の目的となる。食欲の場合はたとえば古代ローマ時代の版図全体の珍味を集めた「シーザーの食卓」である。インド孔雀の舌の味そのもののよしあしはさほどの問題でなかろう。〉(中井久夫『アリアドネからの糸』pp.6-7)

「相手の気持ちにかまわず相手におのれの欲望を受け入れさせることが真の目的となる」。これは強烈である。その通りとしか言いようがない。これが、対人的に行われる欲望の本質なのであろう。このタイプの権力欲と、別タイプの欲望が結びついたとき、際限のない欲望のバリエーションが出現する。

そして、バルビュスの記す「自分の持っていないものへの欲望」とは、際限のない欲望のことそのものである。ということは、それは権力欲と結びついている。

権力欲とは、「思いどおりにならないはずのものを思いどおりにする」欲望なのであるから、「コントロール欲」と言い換えても良い。理性による、対象のコントロールである。その対象に、自然が来たり、技術が来たり、他者が来たりする。そして、そのコントロールは、人間が生物として、理性を獲得した時点でビルトインされる。必ず。

だから、バルビュスが示している幸福は、何かしらの権力欲と結びついている。そのコントロールの最終的な矛先は、死である。しかし、それは唯一、コントロール不能なものである。

死ぬこと。

たとえば、カミュが死について触れる際、それは割り切れないもの、不条理というものとセットになる。

〈この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている、――この世界について言えるのはこれだけだ。だが、不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。〉(『シーシュポスの神話』p.42)

生きていたいのに死んでしまうということ。何をしても、結局は死んでしまう。死ぬ時期が早かろうが遅かろうが、とにかく死んでしまう。死刑囚と死刑囚でないものの違いは、ただその時期が、本人に明晰に示されているかどうかの違いのみであるということ。結局、私たちはいつ死ぬか知らされていないだけの死刑囚である(注)。

そして、カミュは記す。

〈はたして思考はこのような砂漠のなかで生きられるのだろうか、ぼくはまずそれを知りたい〉(同前、p.43)

思考は、理性の一機能である。理性の方がカテゴリとしては大きい。しかし、この文自体は、思考を理性と読み替えてもおそらく大きな問題はないだろう。

人間に理性が存在する以上、権力欲=コントロール欲が存在する。権力欲=コントロール欲が働く以上、「自分の持っていないものへの欲望」が駆動する。これを追いかけて行っても、「『これでよい』という満足点がない」ために「真の満足がない」。

〈もしぼくが樹々にかこまれた一本の樹であれば、動物たちにかこまれた一匹の猫であれば、その生は意義があるだろう、というかむしろ生に意義があるかどうかという問題そのものが存在しないであろう、その場合ぼくはこの世界の一部であるのだから。〉(同前、p.92)

理性がない状態、自然の一部であった状態に戻れるのであれば、完結する。死について意識することそのものがないのであるから。しかし、それは人間ではなくなるということである。理性を捨てるとは、言い換えればコントロール欲を捨てるとは、人間であることをやめるということにもなってしまう。

だからカミュは、自殺ということが唯一の問題となるという。人間でありながら不条理から逃れるには、その方法しか残されていないのではないか、と。

しかし、カミュはこの不条理の中で生き続けることが、「真の努力」であると記す。

〈真の努力とは…可能なかぎりその場に踏みとどまって、この辺境の地の奇怪な植物を仔細に検討することなのである。不条理と希望と死とがたがいに応酬しあっているこの非人間的な問答劇を、特権的な立場から眺めるためには、粘りづよさと明晰な視力とが必要である。〉(同前、p.23)

最終的には死に向かうコントロール欲ではあるが、その過程では必ず他者に向かう。幸福を求めるために、「相手の気持ちにかまわず相手におのれの欲望を受け入れさせることが真の目的となる」。たとえば「恋」とは、このような状態の先鋭化されたものを指すように思われる。

バルビュスの主人公は、そのコントロール欲を直接相手に向けることなく、壁越しに覗くだけであった。しかし、その分、自らの中にあるコントロール欲を見つめ続けることになったのかもしれない。この小説に救いはない。だからこそ、地獄でもある。ここでいう地獄とは、おそらくカミュの記す不条理とほぼ同じ意味であると私は思う。
気がつかなければ、そのまま生きて行けば良いのだろう。うっかり気がついてしまえば、それを忘れるように生きて行くこともありだと思う。このパターンに気がついてしまい、“人間であるまま”不条理から逃れために自殺をしてしまう人を、私は非難できない。

私は、カミュのいう「真の努力」を続けたいと思う。もちろん、カミュほどのレベルではないものの。目を逸らすことを拒否しようと思う。耐えられる限り。

(注)
注:このコンセプトを小説化したものがカミュの『異邦人』である。

小泉信三『読書論』岩波新書

1950年の本です。岩波がたまにやる「アンコール復刊」で、今ならまだ書店に並んでいます。多分、大した部数は出ていないはずなので、学生の皆様は今のうちに手に入れておく方が良いと思います。たかが700円ですが、第一章16ページ分だけでも、5万円の価値はあると思います。

少し引用。

〈すぐに役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本であるといえる。人を眼界広き思想の山頂に登らしめ、精神を飛翔せしめ、人に思索と省察とを促して、人類の運命に影響を与えてきた古典というものは、右にいう卑近の意味では、寧ろ役に立たない本であろう。〉(小泉信三『読書論』岩波新書、p.12)

〈すぐ役に立つということをいえば、本の形をしたもので、例えば電話帳や旅行案内に及ぶものはない。〉(p.8)

〈料理をするために料理法の本を読み…この種の本は、右から左へすぐに役には立つけれども、立ってしまえばそれ切りで、あとには何ものこらない。…卑近な意味で実用に役立つ書籍は、吾々の精神的栄養を増してはくれぬ。〉(同前、p.9)

〈ショーペンハウアーは…「良書を読むには悪書を読まぬことを条件とする。人生は短く、時と力とは限られてゐるから」といった〉(同前、p.4)

〈一般方針として私は心がけて古典的名著を読むことを勧めたい。〉(同前、p.5)
〈古典…承認されたる、第一流の標準的なもの…私が読むことを勧めるというのは、この…意味の古典である。〉(同前、p.5)

〈読む本のページ数のみを数えて喜ぶのは無意義であるが、努力して大冊を征服することは、人生の勉強としても大切なことであり、十数日、或いは数十日わき目もふらず一冊の本に取りついて、それを読み、且つ読みおえるという努力と忍耐とは、必ず人に何物かを与えずにはおかない。〉(同前、p.16)

〈数十日かかって大冊の大著を——しかも相当難解の大著を——読みおえた歓びは、真に譬えるべきものもない。…多分、既に読み終えた今の自分が、まだ読み始めない昨日の自分に対し、何か別人になったかのようにも感ずるであろう。たしかに大著を読むことによって、人は別人となる。極言すれば、その顔も変ると言えるかも知れない。頭脳の襞(ひだ)と共に、顔の陰影も深くなって行くというのは、甚だしい誇張ではない。…本を読んで物を考えた人と、全く読書しないものとは、明かに顔がちがう。〉(同前、pp.16-18)

〈読んだ本は記憶して自分のものにしたいものである。…読者として他人から受動的に受け入れたものを、今度は逆に自分のものとして外に出してみるが第一であると思う。別言すれば、読んで頭に入れたものを、今度は自分の口から人に話してみるか、或いは自分の筆で書き留めてみるのである。〉(同前、p.50)

ならば、稲垣は「古典」をちゃんと読んでいるかと問われると弱いですけど…。

ただ、言ってみれば、月1回、なんとか4年ほど続けている水曜の会・木土の会は、その月に私が読んだ本をなるべく咀嚼して「自分の口から話してみる」会ではあります。たまに書くエッセイも、本にまつわるものの場合は「自分の筆で書き留めてみる」ものではあるのでしょうけれど。

身になっているかどうかはなんとも…。私が自分で判断するタイプのものではないですね。

ユング『ヨブへの答え』みすず書房

ユングは心理学者であり、神学者ではない。だから、教義的にどうなのか、ではなく、聖書に記された「物語」としての内容が、人間の無意識とどのような対応関係にあるのか、という点を問題とする。だから、キリストが実在するか、神が実在するか、ということとは関係がない、という点をまず確認しておく必要がある。人の語る夢、統合失調症患者の妄想や幻覚、ギリシャ神話、錬金術、UFOなどの幻視、そして聖書、それらすべてを同じ水準で取り扱っていることを念頭に置く必要がある。

ヨブ記は、旧約聖書の中に出てくる話である。内村鑑三によれば、ゲーテの『ファウスト』、ダンテの『神曲』、シェイクスピアの『ハムレット』は、ヨブ記を元として書かれたらしい(内村鑑三『ヨブ記講演』岩波文庫)。

かなり砕けた調子で申し訳ないが、私なりに理解したヨブ記をここにまとめてみる。

主人公のヨブは、極めて敬虔な生き方をしていた。罪と目されることはすべて避け、罪に関わることを考えることすら避け、神・ヤーヴェを慕い、畏れ、生きていた。唯一神であるヤーヴェも、一応それを知っていた。

ヤーヴェの息子・サタンが地上を遍歴して天上界に戻る。ヤーヴェはサタンに話しかける。

「なぁ、おまえ、ヨブ見た? あいつ、すげぇぜ。超敬虔。まじで」

サタンは懐疑的である。

「いやー、人間なんだし、そんなことないっすよ、親父。敬虔なのは利益があるからでしょ。親父がそうやって、いろいろあげるから・・・」

ヤーヴェはこたえる。

「あっそ。じゃぁ、全部奪ってみればいいじゃん。そしたらわかるから。でも、ヨブは殺すなよ」

そしてサタンは、考えうる限りの残虐を尽くす。家畜と下僕は全滅、ヨブの子どまで皆殺し。それでもヨブは敬虔さをキープする。

再度、ヤーヴェはサタンに言う。

「なぁ、おまえ、ヨブ見た? あいつ、すげぇぜ。超敬虔。まじで」

(なぜ、まったく同じ対応を2度繰り返すのだろう)
サタンは提案する。

「そんなことないっすよ、親父。そいつの身体がどうにかなっちゃえば、さすがに親父を呪うでしょ」
「あっそ。じゃぁ、好きにすれば。でも、殺すなよ」

そしてヨブは、身体中が膿みまみれになる、とんでもない皮膚病にされる。ヨブの妻もさすがに言う。

「ねぇ、あんた。まだ敬虔ぶってんの?さすがに、神を呪って、死んじゃった方がましなんじゃないの?」

ヨブはへこたれない。

「おぉ!? おまえまで何言ってるんだ。私たちは神から幸福をもらってる。だったら、不幸だってもらおうじゃないか」

強い。しかし、妻には言わなかったが、さすがにグチりたくなる。ただ、ヤーヴェを非難することはしない。

「なんで、俺、生まれてきたんだろ・・・」

なんと健気な。そこへ、友人3人がやってくる。見る影もないヨブの姿に相当驚く。そして、口々に言う。慰めようとしているのではあるが、その背後にある内容はだいたい同じ。

「お前、不敬虔なことしたんだろ。だから、罰があたってるんじゃないか?」

当然、ヨブは身の潔白を主張し続ける。そして友人たちに、

「えぇい、うるさい!いいから黙れ!なんだお前ら、追い打ちかけに来たのかよ!」

一喝。そして、ヤーヴェに対して、

「私は義を通しました。見てなかったんですか?だったら、直接申し開きをさせてください。本当に私は罪となることを一切しておりません。その申し開きのチャンスぐらいくれてもいいでしょう?」

もう1人いた若いやつが口を開き始める。

「ヨブのおっさん、あんた、ヤーヴェと戦おうとしてんの?ちょっとおこがましいんじゃないの? あのさ、憐れみ深い人を、ヤーヴェが苦しめるはずないでしょ?」

そこでヤーヴェ登場。嵐とともに。

「おいこら。誰だ、俺のこと何だかんだ言ってる奴は。ヨブか?おう、男らしく腰に帯つけやがれ。お前さ、大地作れる? 海作れる? 無理でしょ? オリオンは? 無理でしょ? ライオン、馬、ダチョウ、鷲、鷹、作れる? 無理でしょ? そこのベヘモットっていう獣、見て見ろよ。すげぇだろ。俺の最高傑作よ。超強い。お前にゃ無理だ。そんだけ無罪主張するなら、作ってみろよ。無理だろ?」

ヨブは黙って聞いている。そして答える。

「・・・はい。悔い改めます。そんなこと、とうてい私にはできません。あなたは全能です」

ヤーヴェ満足。

「な。聞いたか、おい。そこにいる、えーとなんだ?ヨブの友だちか?お前らさ、ヨブ見習えよ。お前ら、ぜんぜん正しく語らなかったろ。欺瞞っていうのかなぁ。でもまぁ、お前ら、とりあえずヨブのところにお前らの財産もってけ。そしたら、ヨブがお前らのかわりに祈ってくれっからさ。今回はそれで見逃すわ」

そして、ヨブは以前にも増して、祝福された。財産もたっぷり、寿命も長く、4代先まで見ることができて、それで死んだ。

・・・なんだこの話は!?

ユングが注目するのは、ヤーヴェがその「全能の力」は意識的に使っているが、「絶対的な知」の方はぜんぜん使っていない、という点である。また、ヨブが罪をまったくおかしていない、という正義を主張しているのに、獣を作れるかどうかなど、頓珍漢な回答をしているという点である。

おかしい。だいたい、全知全能なら、ヨブが敬虔であることも、今後どうなるかも、全部わかってるはずであろうに。本当にわかってないとしたら、「力」の方は使えても、ヤーヴェは「全知」の方は使えていない。しかもヤーヴェは、「シナイ山で自ら告示した十戒のうち少なくとも三つをあからさまに犯している」(p.27)「契約違反は人格的のみならず道徳的にも致命的である」(p.20)。つまり、「ヤーヴェが人間でないどころか、ある意味では人間以下である」(p.37)ことになる。

ヨブは賢明にも、ヤーヴェに口答えをしていない。静かに聞き、ヤーヴェの意に沿い、全能の力を誉め、頭を低くしてやり過ごしている。ヤーヴェを一個の人格としてとらえるのであれば、明らかに、ヨブの方が大人の対応である。

ヨブがそれを意識して行っていたかどうか、それは書かれていない。しかし、反省の度合い、意識の高さ、これに関しては、ヨブはヤーヴェを越えている。ヨブは、道徳的な高さにおいて、ヤーヴェを上回る。

しかし、ヤーヴェは、そのこと自体に気がついていない。ヨブに、人間に、ある部分では越えられていることに気がついていない。「彼の意識状態は未開人の《気がついている(アウェアネス)》状態とほとんど変わらない」「《気がついている(アウェアネス)》だけで、反省や道徳は見あたらない」(p.67)。

だから、「彼の被造物が彼を追い越したからこそ、彼は生まれ変わらなければならないのである」(p.69)。
そして、ソフィア(英知)の助けをかり、ヤーヴェは人間に生まれ変わることにした。そう、キリストに。

・・・ええ!?!?

さらに、ヤーヴェが成熟するためには、随分と道徳的に無茶苦茶なことをした償いをしなければならない。ある意味で、ヨブが辿った苦しみを、体験しなければならない。迫害され、十字架にかけられ、死ぬことによって。

・・・。これ・・・、どうなのか良くわからないけど、随分いろいろ言われたんじゃないかな、敬虔なクリスチャンから・・・。それとも、すでにそういう解釈もあったんだろうか。良くしらないけれど。

ただ、ここで主眼となるのは、人間の無意識内部にあるエネルギーとのやり取りを、聖書における物語と対応させることである。つまり、人間の意識がより分化していく過程を、物語の流れと対応させているということである。
ヨブとヤーヴェ、どちらが人間の意識側で、どちらが無意識側か、ということはあまり問題ではないのだろう。これはおそらく、人間の全体性の問題である。

ただ、それを私はどう解釈して良いのかわからない。わからないが何となく、この「読み方」であれば、聖書を読めるような気がしてきた。

少なくとも、理由がわからず無茶苦茶な目に遭うとき、人は神を疑うだろう。神のエネルギーは人間には理解できないのだ、非合理的なものなのだ、そう、いくら言われたところで、納得はいかない。現代の日本に生きているからそこまで深刻に考えないだけで、現在のパキスタンに生まれていたら、私は絶対そう思うだろう。第二次世界大戦中、ドイツに生まれたユダヤ人であったなら、私なら絶対そう思うだろう。不条理だ、と。しかしそれは、冷徹な目を持つものにとっては、生まれた環境によらず、つまり平和な環境に身を置いていたとしても、身にしみるものなのだろう。

答えがほしい。

おそらく、ユングは必死に考えたのだと思う。76歳になって。

理性によって、すべてが見通せるなどとは思っていないという意味ではその最先端を行くようなユングが、理性によって、必死に考えている。考えることを止めることはできない。それほど、世界は不条理である。
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