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「謝ることができない人」について

「謝ることができない人とは何なのか?」という質問をいただいた。プライドが高いんじゃない? ぐらいのことしか考えたことがなかったが、この機会にできるだけきちんと考えてみることにする。

まず、謝るという行動そのものについて、少し考えてみよう。

1.謝ることの定義

謝るという行為は、基本的には「自らの行動が相手に不利益を与えたことについて、非があったことを言語的に表明すること」なのだろう。それに贈り物がくっついたり、非言語的な表現が追加されたりすることはあっても、言語的なものが基本なのだろうと思う。

とりあえず、謝る言葉を「すみませんでした」に統一して考えてみよう。以下の3点を満たしていない場合、おそらく「すみませんでした」と言われても、何のことだかわからなくなると思われる。

(1)行動の水準であること
(2)非があることに気がついていること(自らの気づき、あるいは他者からの指摘によって)
(3)その非が、相手に何らかの不利益を与えていること

まず、(1)を満たしていない場合。

例:「あなたのことを、ムカつくやつだと思ってしまって、すみません」

ムカつくと思った上で、悪口を広めたというのならわかる。しかし、「思っただけ」で謝られても、謝られた方としてもどうして良いのかわからない。むしろ、思っただけのことを謝られた方が、それが悪口となっているようにすら思う。謝る対象となるのは、実際に行動に移したもののみに限定される。

次に、(2)を満たしていない場合。

例:「(自分で悪いと思っていないし、誰からも指摘されていないけれど)私のまばたきが多くて、どうもすみません」

一体誰に、何について謝っているのか、不明である。

最後に、(3)を満たしていない場合。

例:「この前、自転車でAさんの家の垣根に突っ込んでしまって、すみません」

しかし、謝られた人は、Aさんのことを知りもしない。その場合はやはり、なぜ謝られているのか、意味不明である。

とにかく、この3つに関してはクリアしておかないと、謝るという行為が成立しなくなってしまう。

2.謝ることができない人について パターン1

(2)の問題を考えてみる。特に、自らの気づきが足りないまま、他者から非を指摘されて、しぶしぶ謝るということが「心がこもってない!」と言われる所以である。あるいは、非には気がついているが、知らんぷりをして通そうとする場合もあり得る。

まず、自らの非に気がつくためには、何の力が必要なのか、ということを考えてみる。それはおそらく、自分自身をモニターする力なのだろう。

自分自身をモニターするとは、自分自身を一人の他者として把握し、対人システム上で自分という要因が他者に対してどのような影響を与えているのかを具体的にシミュレートできることである。この場合のモニターとは、自分自身がどのような「気持ち」なのかを把握することではなく、対人システム上での影響における因果関係の分析能力である。

この、モニター能力が過剰に働くとどうなるか。おそらく、何でも自分に非がある、と思い込むパターンが出現するのだろう。これは、裏を返せば、自分がどんなことにも影響力を持っている、という思い込みである。そういう思い込みのことを、「万能感」とも言う。こうなると、他者に謝りまくり、むしろ慇懃無礼な様相を呈することになる。

次に、モニター能力が皆無である場合はどうか。おそらく、何でも他者のせいにすることになる。この場合、一切謝らない、という人が、確かに出来上がりはする。

では、モニター能力は働いているが、謝らないという場合はどうなるのか。つまり、自分に非があることは理解しているにも関わらず、頑に謝らず、他者のせいや、何かのせいにするということはどうなるのか。これはおそらく、(3)の問題に関わってくる。

3.謝ることができない人について パターン2

(3)の問題を考えてみる。「その非が、相手に何らかの不利益を与えていること」なのであるから、いわば論理的な推論に関わる問題である。

もちろん、相手に本当に実害があるのかどうか、それを確認しなければならないわけではない。とはいうものの、A→B→C→…と因果関係をたどり、可能性を吟味し、最終的に、相手にどのような実害が生まれうるのか、を考えられるシミュレーション能力が必要になる。この力が弱い場合、トンチンカンなつながりによる、トンチンカンな謝罪が生まれたりするのだろう。しかし、論理的に間違ってはいても、とにかく謝っているのであるから、その人は一応、「謝ることができる人」にはカウントされる。

問題は、因果関係をたどって、実害が想定されていることがある程度正確に分かった上で、さらに謝らない、という選択を採る場合である。この場合はどうなるのか。実際にはこれも、未来に関するシミュレーション能力が関わっている。

たとえば、そこで「謝らない」という選択をした場合、最終的に、つまりもっと未来にはどういうことになるのか。ここまで精緻にシミュレーションを行えば、謝った方が遥かに今後の見通しは明るくなることが多い。その、未来に関するシミュレーションがしっかり行われないために、目先の面倒臭さや、目先のプライドみたいなものの方を優先することになる。

もう1つのパターンを考えてみよう。たとえば、自分が謝らなくとも、相手が一方的に許してくれると「あてにしている」場合。なるほど、これは確かに「謝らない」人である。これは通常「甘えている人」という表現になるのではあるが、残念ながらこれも、長期的にシミュレートする場合、最終的にはその「謝らない人」の不利益につながることが目に見えている。甘えさせてくれているうちは搾り取る、という潔く邪悪な魂胆があるのなら別だが、たいていの場合、惰性で「甘えて」、惰性で「謝らない」。甘えさせている方も、見た目がかわいいからとか、若いからとか、そういう理由で甘えさせていることもあるだろうが、いつまでも見た目はかわいくないし、若くもないのである。そしていずれ、愛想を尽かされるか、堪忍袋の緒が切れる。それは、甘えている側としては望んでいない結果だろうとは思う。

4.謝る力とは何か

良く、人に謝ることができる人は心が強いとか、自分の非を認めるのは勇気がいるとか、いろいろなことが言われる。私も、ここまで考えてみるまで、そう思っていた。しかし、どうなのだろうか。

心が強いとか、勇気があるとか、そういう表現は、胆力とか根性のような、つまり「精神力」のようなものが想定されている。しかし、謝るために必要な力をひとまず並べてみると、

・自分をモニターする力
・対人関係における流れを観察し、分析できる能力
・因果関係を正確に分析できる能力
・目先の利益にとらわれず、長期的にシミュレーションすることができる能力

などであった。

とすると、これらは「精神力」ではなく、知性と呼ぶ方がふさわしいのではなかろうか。つまり、適切に謝る力がある人は「知性がある人」ということになる。

では、謝ることができない人とは何なのか。今までの流れからすると、「知性がない人」ということになる。そういう人のことを専門用語で何と呼ぶのか。

そう。「バカ」と呼ぶ。

……。あれ。この結論で合ってるのかな…。なんか不安になって来た。大筋では合ってる気がするんだけどな…。

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桜坂洋『All You need is Kill』(集英社)について

この本を知ったのは、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(講談社新書)だった。

ジャンルはSF、形式はライトノベルである。大塚英志によれば、ライトノベルの定義は、その描写が「まんが・アニメ的リアリズム」に則っていることである。特にキャラクターの性格描写が極めて単純化され、特化されていることが特徴なのだろう。実際の人間は複雑で、「ツンデレ」「メガネっ娘」「委員長タイプ」「ドジっ娘」のような、とんがったキャラクター特性を発揮してはいない。それらを現実世界でも発揮しようとすると、「中二病」と呼ばれる状態になる。

そういう意味で、この小説は極めてスタンダードなライトノベルである。キャラクターは極めてとんがっている。台詞回しをそのまま現実世界で行うと、恥ずかしいことになりそうだ。また、SFとしても、設定は少々お粗末である。

しかしこの小説で特記すべき点は、時間がループする構造なのだろう。これは秀逸である。

時間ループものというのは、かなり古くから存在している。私の知っている限りでも、筒井康隆の小説『時を駆ける少女』、ゲーム『花と太陽と雨と』、アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』における「エンドレスエイト」、アニメ『魔法少女☆まどかマギカ』など、多数存在している。

しかし、そのループが、テレビゲームにおける思考パターンにがっちり担保されている例というと、さほど多くない。その中でもかなり先鋭化された形が、この『All You Need is Kill』なのだと思う。

この小説を読んで、まるでFPS(注1)の難しいステージを何度も繰り返し、行う度に少しずつ上手くなり、前回よりも少しずつ先に進めるようになる感覚を受ける。もし、FPSゲーム内の主人公に気持ちが存在するとしたらこんな感じではないか、という奇妙な感覚を受ける。これは、まんが・アニメ的リアリティとは少々軸を異にした文法である。

作中に、身体を動かすOS、というような表現が多発する。主人公キリヤは、訓練に使える1日と、化け物と戦う実践1日の計2日をループする。死んだら、記憶を保持したまま最初に戻る。ループしても、筋力的に強くなっているわけではない。ただ、戦いのコツを獲得するだけである。その際、主人公の身体を操るOSはグレードアップする。パワードスーツの扱い方、その特性に合わせた武器の選択などが効率化して行く。決して、ハードウェアがグレードアップするわけではない。

おそらく、この感覚はゲームに慣れ親しんだ者でなければ、上手く理解できないものなのだろう。世界を、ゲームの文法で眺めることが常態化した者でなければ、この文章は書けない。コンピュータに慣れ親しんでいるだけでも、書けない。

たとえば、3Dのマリオ(『スーパーマリオ64』『スーパーマリオサンシャイン』など)をやった直後に、3Dのゼルダ(『時のオカリナ』『風のタクト』『トワイライトプリンセス』など)をやるとイライラする。主な理由は、マリオはジャンプできるのに、ゼルダの主人公リンクはジャンプできないからである。あのくらいの崖はジャンプで上がれるだろ、なんでツタがあるところからしかよじ登れないんだ、もっと頑張れよリンク。そう感じてしまう。

ジャンプができない『モンスターハンター』をやってから、『ゴッドイーター』をやると、ジャンプできることに爽快感を感じる。つまり、先の例とは逆である。

これは、そのゲーム内における、ある種の物理法則が、身体感覚として微妙に「インストール」されている証拠なのだろう。前述の例では、せいぜい似たようなシステムのゲーム同士において、その身体感覚が交錯するだけであるが、このような構造が日常生活に浸透するとどうなるか。

当たり前であるが、日常生活において、崖をジャンプで上がれる、という感覚が訪れるわけではない。誰かを殴り倒せば空間にダメージが表示されるとか、そういうことでもない。そうではなくて、自分の状況であるとか、環境であるとか、そういうものが数値化され、パラメータとしてとらえられるようになってしまうということであったり、何か技能を学習した場合に、新しいアビリティを獲得した、という如実な実感が湧いたりする、ということである。

良く、「ゲーム世代は、相手を殺しても復活すると思ってる。ゲーム脳だ」などと言ったりしていた時期もあったが、さすがにそんなことは滅多にない。あるとしたら、それはゲーム脳というよりも、何らかの内因性精神疾患を考えた方が良い。そのような症状は、今も昔も、ある一定の割合で存在している。たとえば、“東京電波塔に自分の考えが抜き取られている”とか、“自分の携帯電話に超小型盗聴機が仕掛けられている”とか。そのテーマに、ゲームの表面的内容が用いられているというとらえ方をした方が良い。

そういう、ゲームの表層部分を考えるのではなく、もっと根本的な、構造自体の問題を考える必要がある。これはおそらく、コンピュータが登場し、認知心理学が誕生したときに、実験心理学者の目には、人間が情報処理の“メカ”として見えてきたことと同じようなものである。コンピュータに慣れ親しんでいると、人間がある種のコンピュータに見える。自分自身のことを、コンピュータに例えて考えるようになる。それが常態化する。たとえば、「不測の事態が続いて、俺のメモリがオーバーロードした」であるとか、「俺のCPUとOSだと、同時に4つのタスクを並行処理するのが限界だなぁ」など。認知心理学を専攻する人々と話すと、このような内容をわりと平気で、冗談として話している。

それがいけないと言っているわけではない。慣れ親しむと、その構造自体が知らず知らずの内にインストールされてしまう、ということである。

これは、世界を理解する文法である。この、世界を理解する基本文法が1種類しかない場合、視野は狭くなる。これは危険である。なにも、視野が狭ければ犯罪を犯すとか、そういうことを言っているのではない。1つの文法しか保持していない場合、自らのポテンシャルを生かせなくなる、ということである。また、異なる文法によって生きている他者を理解することも難しくなる。頭の固さとは、つまり自分のOSに沿ってしか物事を判断できない者のことを言うのかもしれない。

それは、「明治時代文豪OS」かもしれないし、「少女マンガOS」かもしれない。「中世ヨーロッパOS」「仏教OS」「ユング心理学OS」「精神分析OS」、何でも言える。浸透してくるのは、その背後にある構造である。その背後にある構造が浸透した時、ようやく学習した、慣れ親しんだ、文化に馴染んだと言うのかもしれない。表面的な内容を扱っている段階では、それはまだ新参者だということなのだろう(注2)。

『All You Need is Kill』は、ゲーム文化が生んだ文法を、かなり分かりやすい形で提示したものと言える。作者自身が、まさに「テレビゲームOS」をがっちり組み込んでいる。そのあたりがハリウッドにも影響を及ぼしたのだろう。コンテンツ自体はさほど目新しいものではない。

現在の20代から40代の人々は、かなりこの「テレビゲームOS」をインストールしている者がいる。それは知っておいた方が良い。今後、「スマートフォンOS」「LINEOS」なども登場するだろう。年長者が、若い人々のそのようなOSをうまく理解できないことを、世代間ギャップと呼んだりするのであろう。しかし、表面的な内容ではなく、その構造を理解しようとすれば、思っているほど難しいものではない。それは、他者を理解しようとする努力そのものである。

細かく言えば、家庭の数だけOSはあるし、人の数だけOSが存在する。文化がある、ということだ。ただ、そこにおおよそ共通する項目があり、それが身の回りにあったもので構成されることが多い、というだけの話である。

自分より年下の者を理解することも、年長のものを理解することも、いや同世代を理解することも、実際には同じようなものなのだろう。

で。反省するわけです。そんなことできてないし。世代間ギャップめちゃめちゃ感じるし。俺、かたくなにガラケーだし(注3)。

(注)
注1:主にシューティングゲームの一種で、主人公の一人称視点でゲーム中の世界・空間を任意で移動でき、武器もしくは素手などを用いて戦うアクションゲームのスタイル。(Wikipediaより)

注2:専門用語やその職業における何らかの略称などをこれ見よがしに使いまくっている状態というのは、おそらく新参者の特徴である。

注3:学生からは「まさかのガラケー」と言われた。言い訳をさせてもらえれば、家にはiPadは3台あります(私用、妻用、息子用)。

心のエンジンに火がつくこと(注1)

1.喫茶店にて

隣に座っているのは、20歳前後の男女。友人同士であるようだ。話している内容は、“友人が東京駅にいる”というTwitterでのつぶやきについて。LINEでのやり取りについて。その後、テレビのバラエティ番組について話が移った。「メチャイケ」「みなさんのおかげでした」「テラハウス」、あとは海外ドラマなどの話題が出ている。「ジャルジャルは単なるナルシストでしょ」「たんぽぽは面白い」「○○は、元はすべりキャラだったのに、突っ込みで化けた」などの、芸人批評。良く観察している。ただし、話し言葉自体は、あまり理知的とは言えないようだった。批評も、もう少し感じていることがありそうだったが、うまく言葉にならないようだった。

男子の方が言う。

「俺、本、ぜんぜん読まないからさ。何か貸して、ってそいつに言ったんだ。今まで、2冊も読んだことないから。だから、1冊読むのに、半年ぐらいかかるけど良い? って。俺、3ページくらい読んだら眠くなっちゃうんだよね。あ、本って、単行本じゃなくて、ほら、普通のやつ」(注2)

本を読んでいないとは言っても、メール、Twitter、LINE、Facebookをしている話が出ている。おそらく、一日の中で触れている文字数自体は、思いのほか多いのだろう。しかし、論理的な流れを追う訓練ができていない可能性はある。スマートフォンを用いてのやり取りは、どうしても即時的になり、“反応できるかどうか”が鍵であるため、論理的にじっくり順を追って行くことはなかなか訓練されないのかもしれない。

2.「若いものは本を読まない」という言葉

良く、「最近の若いものは本を読まない」と聞く。しかし、そんなことを言ったら、私だって「本を読んでいない」。

どこの時代の人間と比較するのか、という問題がある。たとえば、明治時代における知識人の読書量は半端ではなかったはずである。しかも、独・仏・英、果てはギリシャ語・ラテン語の原著を読んでいる者すら、多く存在していたのであろう。私など、辞書を使いながら必死になれば、英語で書かれている学術書を読むことはできる。しかし、どう考えても邦訳されたものを読む方がスピードは速いし、理解できる量も多い。明治時代の知識人と比較したら、私など虫けらも同然である。

私は、漱石の『草枕』ですら、まともに読めない。まず、漢字が読めない。さらに、仏教用語が多すぎて、意味がわからない。

ちなみに、これをふりがななしに、しかも言葉の意味をすらすらと理解できる人が、現代にどれだけいるのだろう。

〈着想を紙に落さぬとも※(「王+膠のつくり」、第3水準1-88-22)鏘の音は胸裏に起こる。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。〉(夏目漱石『草枕』)

きゅう鏘の、「きゅう」の文字ですら、この有様である(初めて見たぞ、この標記の出方)。パソコンの辞書機能ですら追いついていない。私など、今の状態のまま、明治時代に生まれていたら…。考えるだけで恐ろしい。

もちろん、明治時代のすべての人が、これをすらすら読めていたとは思っていない。農民が、仏教用語を自在に操っていたとは思えない。声に出して音読しなければ新聞や本を読めない人が多数存在していたために、図書館には防音のためのついたてが必要だったという話もある。

何を基準とするのかによって、判断はまったく異なってしまう。

江戸時代、「文盲」と言ったら、漢文を読めないことを指していたようである。もちろん、上層階級においてではあるだろうけれど。漢文をすらすら読める人が、果たしてどれだけ現代にいるのだろうか。

過去は、たいてい誇張される。美化される場合には、自分が知っているハイレベルな者と自分自身を妙に同一化して比べたりもするから、いっそう質が悪い。

たとえば、ある大人がこう言ったとしよう。

「私が中学生の頃は、夏目漱石ぐらいすらすら読んでいたもんだ」

大人が言っている「自分は昔、○○ぐらい普通にやった」という時の内容は、たいてい5歳はサバ読んでいる。つまり、20歳になって、ようやく夏目漱石をかじったことのある者が、中学3年生の時には夏目漱石を…、というような言葉を紡いでいる状態を想像すれば良い。本当に中学生の頃から夏目漱石を読んで、しかもきっちり理解できていたものは(どのくらいいるのか知らないが)、おそらく「中学生の頃には、ホーキングを原著で読んでたなぁ」ぐらいのことは言うだろう。記憶など、そんなものである(注3)。

「最近の若いものは本を読まない。知識が足りない。ダメだ」

その言葉を紡いだ人が、デカルト、カント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、サルトル、マルクス、プラトン、アリストテレス、その他もろもろを、しかも“原著で”読んでいたとしたら、言っても良いかもしれない(注4)。しかし、たいていの場合、新書を月に数冊読むか読まないかの人が、このような言葉を紡いでいることも多い。

その人は、LINEを駆使できるだろうか。Twitterを、Facebookを。Googleでの検索の際、画像のRGB配分やピクセルサイズから推測し、画像本体が掲載されていたページを特定できるだろうか。せめて、Twitter・LINE・携帯メール・アプリ内でのやり取りなど、即時的で即興的で極めてマルチタスクな、今の若い人々が「普通」にできてしまうことをこなせるようになってから言わなければならないのだろう。自らが足りない部分をごまかすために、他者を貶める姿は、見ていてもあまり格好の良いものではない。

3.何かを伝えるときの伝え方

環境が違うのである。そのままの形で比較はできない。私がスクールカウンセラーをし、大学で教えていて、この10年、“子どもたち”“若い人”という「人類」がさほど変わったとは思えない。もちろん、知識や技術の性質などは変化があるだろう。身体能力や体型なども異なることはわかる。しかし、ホモ・サピエンスとしての性質は、さほど変わったとは思えないのである。環境が変化すれば、気骨も見えるだろうことは十分に感じ取ることができる。その点に関して言うのであれば、自分が中学生・大学生の頃と比較をしても、さして変わりがないように、私には見える。

相手ができないことを探し出して馬鹿にし、自分が優越にあることを示し、他者から褒めてもらおうとするような人は少し置いておく。しかし、本当は若い人々に「何か」を伝達したい人の場合、そのやり方は考えなければならない。

たとえば、ガンダムのプラモデルが好きな人がいたとする。誰かに、ガンプラの魅力を伝え、ガンプラの趣味に引き入れようとしたとする。どう言うだろうか。

「あー、最近の若いもんは、ガンプラすら作らんのか。俺が若い頃は、工夫してつくったもんだよ。今出てる何だか手をかけなくても大丈夫なやつで満足するなんて、まったく、努力が足りん」

こうは言わないはずである。魅力を伝えなければならない。バンダイが謎の努力を繰り返し、一つの金型で関節部分まで1パーツで作り上げてしまう技術を開発してしまったこと。合わせ目がきれいになくなるようなパーツ分割になっていること。デザイン画を立体化する際にどれほど苦心して説得力を持たせるかにエネルギーを注いでいたこと。その結果、世界でも明らかに図抜けた水準に達してしまったこと。こんなこと、日本人にしかできないということ。伝統工芸と比較しても良いかもしれない。

そして、相手の興味関心がある部分から、近づいて行かなければならない。自分が好きであることをただアピールするだけでは、相手はうっとうしいと思うだけである。共通項を見つけ出さなければならない。

4.「誰から」紹介されるのか

私が、誰かから何かを紹介され、本気でやろうと思うときには、ある一定のパターンがある。その、私に何かを紹介した人がどのような人であったのか、それが極めて重要である。

(1)私の好きなものに興味を持ってくれている人から紹介されたこと。
(2)その人が、ポイントを押さえて、ほめてくれること。
(3)その人を見て、私が「あなたのようになりたい」と思えること。
(4)その人のしていることを真似たいと思えること。
(5)真似してみたら、本当にできるようになること。
(6)できるようになったら、昨日より手応えがある生き方ができること。
(7)他の人にもそれを伝えたくなること。

少なくとも、怒鳴られたり、馬鹿にされたり、たしなめられることによって、私に火はつかなかった。

もちろん、周囲の人に馬鹿にされたくない、というような気持ちがある場合も存在した。しかし、そのような時であっても、「周囲に馬鹿にしてくるような奴らがいる場合に、そういう奴らへの対応が極めて洗練されている人」のような、モデルとなる人物が想定されている。誰かから馬鹿にされることそのものによって、私の中で変化が起きているわけではない。

おそらく、私を駆動する原動力は“餓え”である。たとえば、“本を読みたい”という思いは、“知りたい”という渇望なのだと思う。おそらく、何かを薦めるのが上手な人というのは、相手の餓えを引き出すのが上手なのだろうと思う。渇望を引き出すのが上手なのだろうと思う。多くの人は、自分が餓えていることに気がついていないのだろう。

そのやり方は、怒鳴り散らしたり、蔑んだり、脅すこととは随分違う。

5.再度、喫茶店にて

喫茶店で話していた男子は、「本を読みたい」と言っている。たとえばそこでプラトンの『国家』を渡すことは、明らかに間違っている。お笑い芸人に興味があるのだから、たとえばお笑い批評の新書であるとか、お笑い芸人本人が書いた本であるとか、そういったものが良いのだろう。その際、小難しく書かれているものではなく、できれば、口頭で喋った内容を書き起こしたタイプの新書なら、なお読みやすいだろう。

おそらく、今まで面白い本に当たっていないというだけである。だったら、興味関心があるところから、さらに世界が広がる体験をすれば良い。そうすれば、そこから「本」というものが自分にとって極めて有用であることが理解できるはずである。

強制されるから読みたくなくなる。単純に、新しい視点が獲得できると面白いということ。それを、どうして伝えてもらえなかったのか。もったいない。絶対、センスが良い。語彙が増え、表現力が増せば、よりいっそう、テレビ番組の興味深い点を、友人たちに伝えることもできるだろう。理解できる友人を呼び寄せることもできるだろう。

私は、学校の先生たちに、それをして欲しいと感じているのだと思う。大学で、なんとかそれをしようとしてはいるが、まぁ、どうなのか…。どこまでできているやら…。

(注)
注1:ギャバン。
注2:単行本とは、おそらくマンガの単行本のことなのだろう。
注3:Loftusの目撃者証言や偽記憶の研究を少しでもかじったことがあれば、それはよくわかるだろう。記憶はすぐに書き変わってしまう。
注4:そのレベルの人は、こんな言葉を言わないのかもしれない。もしかしたら、「…本…、読んだ方が良いように思うけど…」と、少し悲しげに、ぽそっと言うかもしれない。それは、同じ言葉であっても届き方が異なるのだろう。
プロフィール

Author:ina
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