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投影について

1.はじめに

投影(projection)とは精神分析の概念で、防衛機制(defense mechanism)の一つとされている。私は、フロイトが投影について書いている箇所を知らず、土居健郎(『精神分析と精神病理』医学書院)の説明を元としている。申し訳ない。

投影とはどういうことを言うのか。

たとえば、稲垣がAさんという女性と初めてデートに行ったとしよう。場所はディズニーランド。大変楽しみにしており、また、体力があるところを見せようと気張っていたとする。あまりに気張りすぎていて、普段なら大丈夫なところが、すぐに疲れてしまった。気をつかいすぎている。しかし、彼女の前で格好悪いところは見せられない。稲垣の“意識”には、“自分が疲れた”などという軟弱な考えは、抱えておくことができない。

だから稲垣は、“俺、疲れた…”という“思い”を、無意識側に追いやってしまった(注1)。

無意識領域に追いやられた “俺、疲れた…”という“思い”は黙ってはいない。このエネルギーが“光源”となって、まさにプロジェクターのように、外に向かって映像が投映される。向かう相手は彼女、Aさんである。

すると、Aさんに、稲垣が無意識側に追いやった“俺、疲れた…”という“思い”が映る。さて、稲垣にはAさんがどのように見えるか。そう、“Aさんが疲れた”ように、稲垣には見えるのである。そして稲垣は、たいへん滑稽な言葉をAさんに投げかけることになる。

「ねぇ、Aさん、ちょっと疲れてない? 疲れてるみたいだから、少し休んだ方が良いんじゃないかな?」

(でも、Aさんはピンピンしている…)

………。

もちろん、多かれ少なかれ、人間はdefenseしなければならない。外界からの要請、自分の内部に存在している倫理的基準のようなものからの要請、生物学的な本能による欲求。それらすべてをうまいこと調整し、なんとか「わたし」と呼べるものを維持しようと、必死なのである。だから、投影をすべて非難するわけにはいかない。とはいうものの、過剰に行っている場合には、少し考えた方が良いだろう。何せ、周囲から見ると、あまりにも滑稽であるから。

2.土居健郎の例

土居が引用する例は、さらにえげつない。

「自らの結婚を断念している者が他人の結婚の世話は夢中でするという場合がそれにあてはまる」(p.98)

何らかの理由があったのであろう。仕事の関係、家庭の事情。様々なことが考えられる。結婚したいという思いを押さえ込んだまま、50歳になった。もちろん、今から結婚することもできるであろうが、20代に思い描いた結婚とは性質は異なってくる。それには納得がいかなかった。結婚したい、という思いは無意識側に追いやった。意識に抱えておくには、あまりにも辛いものだったから。そして、無意識側に追いやった“結婚したい”という思いは、心のプロジェクターによって他者に投映される。彼女には、他者が、“結婚したがっている”ように見えることになる。だから、世話をやくことになる。

土居の提出する例は、換言すればそういうことになるのだろう。

私はそういう“おせっかいおばさん”がいても良いと思う。多少は害があるかもしれないが、それでも、実際に出会いを提供してくれるわけであり、案外重要な役割であろうと思っている。

3.カウンセラーや教師は?

しかし、たとえばこれをカウンセラーに当てはめてみる。一応、カウンセラーとは“他者を救う”仕事である。とすると、カウンセラーになって、誰かを救ってあげたい! と言っているような人間(私のことだ)は、どんな“思い”を無意識に追いやっていることになるのか。そして、何を投影していることになるのか。

そう。「俺が救われたい」という思いである。

では、教師はどうか。教師とは、“他者に教える”職業であり、“他者をかまう”仕事であり、“他者に愛を注ぐ”職業である。ならば、教育者になり、誰かに教えてあげるなどと言っている人間(私のことだ)は、どうなるだろう。

「俺は教えられたい。育てられたい。かまわたい。愛を注がれたい」

ふむ。あさましい。

4.「子どもから学ぶ」「患者から学ぶ」

そして、「教師は子どもから学んでいる。子どもは、教師の先生である」などという言葉を聞く。これは一見、聞こえが良い。先の例で言うならば、投影している内容を自らに引き戻しているかのように聞こえる。そして、子どもたちの目線に立ち、ある意味では対等に、権力を振りかざすことなく、真摯に仕事に取り組んでいるように聞こえる。

しかしたとえば、以下のような例を考えてみよう。

30代男性教師B。授業がクソ下手で、見た目にも気を使わず、誤字脱字多発。授業準備もろくにせず、保護者会もまともに開けない。しゃべり言葉には「えー、まぁ、あのー」が乱発され、歯切れも悪く聞きにくい。時間は守らず、プリントの出し忘れも多い。採点ミスは日常茶飯、テスト問題もろくに作れない。

この男性教師Bが言う。

「教師は子どもからね、えー、学ぶんですよ。子どもたちは、まぁ、教師の先生である、とまぁ、いえるでしょうね、えー」

………。

30代男性カウンセラーC。知識も少なく、技術も未熟。文章の誤読も多いし、思い込みが強い。身体化が激しく、考えもまとまらない。傾聴技法はろくにできず、相手に流されその場その場で反応するだけ。記憶もままならない。△△大学の○○先生の元で勉強しているということを誇りとしているのは良いが、先週その先生が言った内容ですら、完全に誤解して受け取っている。時間は守らない、延長もしばしば。ダブルブッキングも多発。

この男性カウンセラーCが言う。

「カウンセラーはですね、患者さんから学ばせてもらっているんですよ。患者さんが、私たちを救ってくれるんです…(しんみりしたり顔)」

………。

精神分析学者のウィニコットはその著書“Playing and Reality”の謝辞において、以下のように記している。

“To my patients who have paid to teach me”
(お金を払ってまで、私を学ばせてくれたクライエントに感謝の意を込めて)

これは、ウィニコットレベルの治療者が言うから格好いいのであって、素人が口にして良い内容ではない。卓越した治療を提供できる技術を持っており、かつ患者側が感謝しているという土台がはっきりと存在してはじめて、効力を発揮する言葉である。客観的にも主観的にも、相当な土台がなければ発言できないレベルの文言である。

5.おわりに

教師になってもいない段階から、「子どもたちから学んで行こうと思います」などと口にしてはいけない。カウンセラーになってもいない段階から、「クライエントが救ってくれるんです」などと口にしてはいけない。まず、“金を取っても良いレベル”まで、研鑽を積んで行かなければならない。

もちろん、その中で、実際に子どもたちから学ぶことは大量にあるだろう。クライエントから救われてしまうこともあるだろう。お金を取っている上に、学ばせてもらい、救われることがあるとしたら、本気で感謝しなければならない。おそらく、そういうことなのだろう。

……稲垣、猛省致します。がんばって授業準備します。ミスのないよう採点します。カウンセリングの技術磨きます。

(注)
注1:無意識というのは、思い出そうと思えば思い出せる、というもののことではない。そういうものは前意識と呼ぶ。たとえば、今朝食べたご飯のメニューや、来月の予定などは、言われれば、思い出せる。そういうものは前意識である。無意識とは、本格的に、夢でも分析しなければ触れることができないような、本人には極めてアンタッチャブルなものである。それが、無意識である。

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『自閉症の僕が跳びはねる理由』からの連想

東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由 会話のできない中学生がつづる内なる心』エスコアール

〈手のひらをひらひらさせるのはなぜですか?
 これは、光を気持ち良く目の中に取り込むためです。
 僕たちの見ている光は、月の光のようにやわらかく優しいものです。そのままだと、直線的に光が目の中に飛び込んで来るので、あまりに光の粒が見え過ぎて、目が痛くなるのです。
 でも、光を見ないわけにはいきません。光は、僕たちの涙を消してくれるからです。
 光を見ていると、僕たちはとても幸せなのです。たぶん、降り注ぐ光の分子が大好きなのでしょう。
 分子が僕たちを慰めてくれます。それは、理屈では説明できません。〉(p.92)

指導教官から教えてもらった本であった。“重度の自閉症であり、会話をすることができない。しかし、パソコンを用いて文字による意思伝達はできる”という極めて異例な方である。この本は、東田さんが中学生の際に書いた本。現在東田さんは、絵本作家・詩人として著作を行っているとのこと。

私は直接東田さんを知らない。だからこの本が、東田さんご本人が本当に中学生の時に書いたものかどうか、それは知らない。しかし、たとえこれがフィクションだったとしても、極めて強い感性の元に書かれた描写であろうと思う。そして、支援教育に多少は関わったものとして、この感覚はかなり、当を得ていると感じる。

3歳の息子を見ていてもわかるが、“表現されている言語内容”と、“理解しているであろう内容”にはズレがある。当然、表現されている内容よりも、理解されている内容の方が豊富である。そうでなければ、言語を習得して行かない。それを、子どもは知っている言語で、何とか表現しようとしている。表現されている内容しか理解していないと判断した場合、子どもを理解し損ねるのだろう。

それは、自閉性障害でもアスペルガー障害でもADHDでも、いや、障害などという名前がついていようがついていまいが、おそらく同じである。子どもたちが心を開く大人とは、大抵、その表現されている内容の“奥”を見ようとする人たちである。彼らを“子ども扱い”するわけではなく、子どもの年齢相応に、あくまで真摯に、表現されている内容の“奥”を汲み取ろうとする人たちである。

確かに、障害と名のつく状態であると、通常とは相当異なるシステムによって思考や感性が駆動している。そのため、少しでもシミュレーションに手を抜くと、“さっぱりわからない”ということになるのだろう。

しかし、相手と自分がある程度似通っていると、“わかった気になる”。残念ながら、それは、気がするだけである。

多くの場合、女性の方が、表現されている内容の“奥”を汲み取る力はあるように見える。字面通りに受け取ることよりも、ニュアンスや、アナロジーとして受け取る力があるように見える。統計をとったわけではないが、それを感性と呼ぶのだろう。

大抵、男の方がアホなので、これを取り損ねることが多い。私も含め。だから男は、女性から良く言われることになる。

「女心が分かってないのね」

そう。表現されているものの奥まで届く眼を持っている人は、相手が子どもであろうが、老人であろうが、異性であろうが、障害を持っていようが、表現されているものの“奥”をつかむことができる。たとえそれを言語で表現できなかったとしても、つかんでいることは、おそらく子どもには伝わっている。老人には伝わっている。目に、その力は宿る。

もちろん、言葉で伝えられた方が、より伝わるのであろう。しかし言語は、どこまで信頼に足るものなのだろうか。

「友達」といったとき、それを定義できる人がどれだけいるだろう。「勇気」といったとき、「愛する」といったとき。私は自信が無い。理解できているかどうかですら、怪しい。

谷川俊太郎は記す。

(谷川俊太郎『世間知ラズ』思潮社)

〈私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
世間知らずの子ども
その三つ児の魂は
人を傷つけたことにも気づかぬほど無邪気なまま
百へと向かう

詩は
滑稽だ〉

〈倉渕への道の途中で女と花を摘んで束ねた
知っている花の名は僅かだった
もろもろの観念の名は数多く知っているのに〉

もちろん、私は谷川俊太郎ほど、言葉に精通していない。ここまで精通してはじめて、言葉が信頼できない、と言えるのだろう。私などが言えた義理ではない。

まずは、真摯に、言葉を磨くしかない。

追記:「自分を好きになれるのなら、普通でも自閉症でもどちらでもいいのです」。この感覚を、私はどれだけ看取することができているのだろう。

〈自閉症の人は普通の人になりたいですか?
 僕らがもし普通になれるとしたら、どうするでしょうか。
 きっと、親や先生や周りの人たちは大喜びで、「普通に戻してもらいたい」と言うでしょう。
 ずっと「僕も普通の人になりたい」そう願っていました。障害者として生きるのが辛くて悲しくて、みんなのように生きて行けたらどんなにすばらしいだろう、と思っていたからです。
 でも、今ならもし自閉症が治る薬が開発されたとしても、僕はこのままの自分を選ぶかも知れません。
 どうしてこんな風に思えるようになったのでしょう。
 ひと言でいうなら、障害のある無しにかかわらず人は努力しなければいけないし、努力の結果幸せになれることが分かったからです。
 僕たちは自閉症でいることが普通なので、普通がどんなものか本当は分かっていません。
 自分を好きになれるのなら、普通でも自閉症でもどちらでもいいのです。〉(前掲書、pp.62-63)

7/9(水)5限 11−302 水曜の会

次回の水曜の会は、

7/9(水)5限
11−302
テーマ:聖なるものと不気味なもの

です。
場所を、私の研究室向かい側にある、11−302にしてみました。今までとは場所が異なっておりますので、ご注意ください。

試験前の時期ですので、あまり皆様、無理なさらず。
それでは、よろしくお願い致します。

「影」の濃さについての原文

授業で使ってはいるものの、正確に引用していなかったので、とりあえずここで。

ユング『心理学と宗教』人文書院 pp.76-77
〈かつて信仰心の篤い老ドラモドが注目したように、自分の反面に気づかないまま、隣人たちに奇妙な苛立ちと耐えがたい雰囲気を醸し出すのは、非常に道徳的な人々なのです。…聖人と暮らすとなると、あまり道徳的才能には恵まれていない個人の心は、劣等感コンプレクスが刺激されたり、背徳が荒々しく爆発することになるかもしれません。…道徳は、もともとこれに何の縁もない人の頭の中に注ぎ込むと、その人をだめにしてしまいます。/残念ながら、人間は全体としては、自分が想像したり、望んでいるほどには、善良でないという事実を疑うことはできません。誰もが影を引きずっており、影は、個人の意識生活に統合されていなければいないほど、黒く、色濃くなります。〉

自分の「影」を、果たしてどこまで意識できるものなのか。私は「自分が邪悪な人間だ」などと自称はしているものの、それも「自分が邪悪だ、と言っておけば、自分の影に気がついているということだから、それで良いんじゃないですか」というような欺瞞もあるだろうし、グルグルと回ってしまう。

少なくとも私は、「非常に道徳的」でないことだけは確かだ。

アスペルガー障害について

アメリカ精神神経学会の『精神疾患の診断・統計マニュアル第5版(DSM-5)』(注1)において、アスペルガー障害という名称はなくなった。今まで、いわゆる自閉症と呼ばれていたものとアスペルガー障害は、一括して「自閉症スペクトラム障害」あるいは「自閉スペクトラム症」と呼ばれることになった。つまり、言語に支障がある場合も、支障がない場合も、グラデーションするけれど一括した診断名とする、ということである。

DSM-ⅢからDSM-Ⅳに切り替わった際には、新しく論文を書く際にDSM-Ⅳを用いなければ論文が通らない、というほど、絶対的な切り替えであった。しかし、DSM-5発刊の際には、現段階ではDSM-Ⅳを用いて論文を書いても良い、ということになっている。つまり、併用である。だから、アスペルガー障害という診断名も、“生き”である。大変紛らわしい。

結局、DSM-5が、あまり信頼がおけない、ということにもつながっているのだろう。しかし、DSM-5を用いた診断も併用されることになるのだから、知らないとまずい。

ひとまず、「自閉症スペクトラム障害/自閉スペクトラム症」の現状はどうなのか。

〈爆発的な増加:自閉症スペクトラム障害/自閉スペクトラム症は非常に稀な疾患だったが、近年では20倍に増加し、今では全人口の1%以上が診断される。〉(アレン・フランセス『精神疾患診断のエッセンス DSM-5の上手な使い方』金剛出版 p.36)

20倍。全人口の1%以上。なるほど。DSM-Ⅳの際には、自閉性障害は、1万人に4人、という割合であった。“言語に支障がない自閉症”ともいえるアスペルガー障害の割合は、疫学上正確な数字が出せずにいたようであり、自閉性障害よりは多い、という漠然としたものであった。しかし、自閉性障害とアスペルガー障害を合わせて、全人口の1%というのは、あまりにも多い。

〈流行した理由:レッテルの貼りかえによって割合が急速に変化したのであり、自閉症的行動の割合が実際に変化したものではない。有病率の増加の一部は、診断される例が増えたこと、偏見が減ったこと、重症例でないものを診断するようになったことによる。大部分は、自閉症スペクトラム障害/自閉スペクトラム症の診断がさらなる学校サービスを受けるための必要条件であるために、診断面接や正確な評価が行われないまま診断をつけられている。〉(同前、p.36)

アメリカにおいて手厚い教育サービスを受ける際、「自閉症スペクトラム障害/自閉スペクトラム症」の診断を受けることが条件であるならば、「もらえるものならもらっておきたい」ものとなる可能性はあるだろう。それは、別段あさましい行為とは言えないと思う。しかし、診断名が乱発され続けると、「自閉症スペクトラム障害/自閉スペクトラム症」という名称が、サービスを提供する際の基準とならなくなってしまうのだろう。

〈奇妙さというのは人生のスパイスであり、必ずしも精神疾患の症状ではない。…軽度の自閉症スペクトラム障害/自閉スペクトラム症は、受け入れられるべき一般の個人差といつの間にか同程度なものとなっており、病理的なものではなくなっている。〉(同前、p.37)

つまり、本当に障害の場合と、一般の個人差というものが混在することになるため、サービスを受けられるかどうかを判断する基準として“使えない”ものとなる。結局、サービスの中にかなり顕著な強弱をつけざるを得なくなる。

これを読んでいて、私は電車における「全席優先席」の話を思い出していた。

“全席優先席にしたら、席を譲る頻度が上がるかと思いきや、別段今までと変わらなかった。そのため、「最優先席」を設けることになった。”

そのまま同じ話ではないことはわかっている。ただ、結果的に基準が広がってしまったら、判断基準として役に立たなくなった、という点は、おそらく共通している。

全体的に教育サービスの質向上をはかる、という点では、もしかしたら診断名の乱発は役に立ってしまうかもしれない。現に、日本における教師たちは、「軽度発達障害」という言葉を頻繁に用いているし、児童生徒対応の際に、その用語を“乱用”することもある。しかし、「スペクトラム」なのであるから、強度がグラデーションする。最終的には、“最重度”「自閉症スペクトラム障害/自閉スペクトラム症」などという診断名が登場するのかもしれない。最優先席のように。

ただ問題は、学校現場でそれら診断名がどのように用いられることが多いのか、という点である。

私はどうしても学校現場で精神疾患の診断名を聞くと、“憑き物”を思い出してしまう(注2)。少なくとも日本人は、“手に負えない、理解を超える出来事”に対しては、“憑き物”の“せい”にして、片付けるという方略を採用した場合があったことは確かなようである。世界的には“悪霊”“悪魔”の“せい”だったりもするのだろう。

現在、さすがにキツネに憑かれた、と言われてそのまま信じることができるような環境にはない。かつての人々は、それが真実味を帯びていたのである。そういう物語が生きていた。では、その物語がどう変わったのか、という点が問題である。ベースにあるのは科学主義であり、科学的なデータに基づいて、医学的に言われれば、“生きた”物語となりうる、という部分である。

現代において、精神疾患の診断名は、ある意味では“キツネ”“オタチ”“イヅナ”“カッパ”などと同等の効果を発揮している場合も多いように思える。

そういう意味では教師にとって、いや大人たちにとって、“手に負えない”と思い込んでいるものが随分増えてしまった、ということなのかもしれない。つまり、ちょっとでも手に負えないと思えば、“精神疾患”の“せい”にしてしまいたくなる、そういう風潮があったのかもしれない。何も、「自閉症スペクトラム障害/自閉スペクトラム症」に限らず。

教師に限らない。カウンセラーも、医師も、親も、つまり大人一般は、何かの“せい”にすれば、考えなくてすむ。楽である。その“せい”であるものを、切り離してしまえば良いから。

先日、国立教育政策研究所におけるいじめ調査の話を聞いたが、いじめの実数も、実際には変化がないようだ(http://www.nier.go.jp/shido/centerhp/2507sien/ijime_research-2010-2012.pdf)。つまりずっと、増えも減りもしていない、ということである。

たいていの物事は、おそらくそうなのだろうと思う。どちらかというと、“変にいじり回す側”における流行の度合いが、増えたり減ったりしているということなのだろう。特に、精神疾患のような、生物学的な基盤が深く関わるような事態について言えば、さほど変化はないということなのかもしれない。まぁ、猫の根本的な性質が10年や20年で大改革してしまったらびっくりである。人間だって動物なのであるから、10年やそこらでそこまで大きくは変わらないだろう。

どちらかといえば私は、その流行にカウンターをあてるような役割を持ちたいとは思っている。「発達障害が増えている」「いじめが増えた」という流行に関しては、一貫してカウンターをあてることにしていた。「新型うつ病が増えている」に関しても、カウンターをあてることにしている。

たとえば教師が、「医療的な問題であるから、それは医師に任せておけば良い」というような思考パターンに入ってしまうことを、私は最も恐れている。私は教職課程をメインで教えている関係上、教師と児童生徒にとって何が最も有効かを考えたい。おそらく、教育の技術において、診断名がなかった頃から、診断がつけられてしまう状態に対して有効な手だてはたくさんあったのだ。それが、診断名という憑き物によって封印されてしまうとしたら、大変な損害である。かといって、正確に理解する助けとして診断名を用いることはかまわないのだろう。このあたりは大変難しい。

私が目下できることとしては、まず、教員対象の研修会などで、頑張って伝え続けることぐらいか。

(注)
注1:日本語版はまだ出ていない。英語版は、2013年5月発売。
注2:速水保孝『憑きもの持ち迷信』、吉田禎吾『日本の憑きもの―社会人類学的考察』、内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』など参照のこと。

仕事選び:自分が本当にしたいこと

就職活動に関して問われる時期に入ったようなので、少し考えをまとめておこうと思う。実際のところ、私は就職活動もしていないし、自分で仕事を決めたというより、“私を私よりも知っている人”が私に仕事を任せてくれたために、何とか食いっ逸れていない程度のことなので、偉そうなことは言えない。それでも、一応考えるだけは考えたい。

1.趣味と仕事の違い

多くの学生が、“自分が本当にしたいこと”“本当の自分にあった仕事”という探し方をしているようだ。それは悪いことではないのだろうが、“本当の自分”というものを、一体どのような形で把握しているのかが問題となっては来るのだろう。強烈に深い意味で“本当”を受け取れば(たとえば霊的自己実現など)、私などは“本当の稲垣”をつかむことなど、一生できないだろう。軽い意味で“他者に迎合せず、相手に合わせていない自分”レベルであれば、まぁ多分、そのくらいはつかめてはいると思う。

ただ、「自分が本当にしたいことがわからないんです」と学生が言うとき、私としては腑に落ちないニュアンスを感じることがある。まるで、「まだ見ぬその仕事に就けば、自分のまだ知らない特別な能力が発揮され、周囲から賞賛の眼差しで見られ、楽しく愉快で快活で満足感が得られ、充実感が得られるのではないか。でも、まだ私は本当の自分を見つけられていないので、その夢のような仕事が見つかりません。で、本当の私はどこにありますか? 稲垣先生、わかりますか?」と聞かれているかのような、そんなものを感じる「ことが」ある(当然、誰にでも感じるわけではない)。

また、「本当にしたいこと」の中に、「やっていて楽しい」というニュアンスがとても強く感じられる(これは大多数の人から感じる)。

趣味と仕事を混同しているのだろうか。

趣味とは、金を払って楽しむものである。人は、好きなこと、楽しみたいことに対しては“お金を払う”ものである。ディズニーランドに行ったらお金がもらえる、はずがなかろう。金を払ってチケットを買い、入場する。私がバンドをするとき、カメラを買うとき、プラモデルを作るとき、CDを買うとき、金を払うのである。やっていて楽しいこと。そのためにお金を払うもののこと。それが、趣味である。

対して仕事とは、嫌なことをするかわりに、お金をもらうことである。

この2つは混同してはいけないだろう。

楽しんで、さらにお金も欲しいとなると、それは貰い過ぎである。好きなことだけを行って金銭を取得できるということは、残念ながら極めて少数の天才か恵まれた人間にしか許されてはいない。それは、“特権階級”である。

仕事が楽しい、充実している、という人はいる。私だって、それなりに楽しいと思っているし、充実しているとも思っている。しかし、楽しくて楽しくて仕方がないとは決して思わない。嫌だと思うことも、当然やっている。その中で、まぁ考えようによっては随分ありがたいよな、楽しいよな、そういうことを見付けることは可能である。多分、仕事が楽しい、と言っている人の“楽しい”の定義と、夢を見ている学生における“楽しい”の定義が微妙に異なるので、混乱も生じているのだろう。苦しいこともやるからお金がもらえる。その状態の中で、非常に楽しいことや嬉しいことがあれば、「なんかすみません…。ただでさえお金もらっちゃってるのに…。なんとお礼を言ったら良いのか…」と、深く感謝するようなものなのである。

2.やっていて苦ではないものを仕事に選ぶ

ということで、仕事をどのように選ぶのか、という点を考えてみる。

まず、私が持つ最大の基準は、

「やっていて、苦ではないもの」

である。一種の消去法ではあるのだが、その消去法はかなり緻密に、細部にわたり、徹底的に行わなければならないのだろう。これを大雑把に行うために、良くわからないことになってしまう部分があるようだった。

嫌なことをするかわりにお金をもらうのが仕事なのであれば、その“嫌なこと”と感じる主観的な度合いが問題となる。あまりにも苦手なことを無理してやらなければならないとき、その“嫌さ加減”は破滅的になる。対して、他の人が嫌がることをさほど苦ではなくやれるのであれば、それは金銭をもらっても良いのだろう。

たとえば、私は事務仕事が滅法苦手である。本格的に、致命的に苦手である。自分の履歴書すらまともに書けない。集計は致命的に間違える。間違えないようにするために、とんでもない労力を必要とする。その時点で、事務職は消える。他にも、始終身体を動かしていたり、寒い中ずっと立っていたりすることはダメである。できないこともないが、それをメインとすると、やはりとんでもない労力を使うことになる。気に食わない人の言いなりになることには極端にアレルギー反応を起こす。やはり、できないこともないのだが、驚くほど労力を使う。これらが“苦”であるために、どこかの組織に入って働く、というパターンが極めて困難であることがわかる(なるほど、かなり深刻な社会不適格者である)。

しかし、誰かの話を聞く、という点では、さほど苦を感じなかった。また、人前で自分が考えていることを滔々としゃべることに関しても、さほど苦を感じなかった。興味関心を広げることに関してもさほど苦を感じなかった。細かい手作業をすることも苦ではなかった。コンピュータをいじることにもさほど苦を感じなかった。文章や映像作品などの作者がどのような気持ちでそれを作成したのか、ということを考え続けることにも苦を感じなかった。

その結果、カウンセラーやら大学教員やらが、折衷案としてたまたま残ったことになる。他にも占い師や詐欺師も候補にはあったが、胡散臭さが強すぎることや違法行為が関連するために、除外されてはいる(占い師は諦めていない。“研究”の副産物でタロットも使えるようになったし)。

たいてい、苦ではなく行えるもののことを、他者は才能と呼ぶことが多い。

3.“好きこそものの上手なれ”について

次に、“好きこそものの上手なれ”という諺について考えたい。好きなことを仕事にしたい。声優であったり、イラストレーターであったり、アニメーターであったり。これは良く聞くものではあるが、少々立ち止まって考えたい。

得意/不得意と、好き/嫌いは同一次元で考えてはならないように思える。“好きこそものの上手なれ”という諺では、ある意味では一面しかとらえることができない。好きなものであれば、熱中する時間も、総合的に費やす時間も増加するであろう。そのため、嫌いなものよりも上達する可能性は高い。それは確かである。

しかし、たとえば“大工に家を建てて欲しい”という希望を持った人がいる。以下のどちらに仕事を依頼するであろうか。

(1)ものを作ることは大好きであるが、器用ではない人
(2)ものを作ることは好きではないが、とても器用な人

もちろん、“ものを作ることが大好きで、センスがあり、しかも器用な人”がいるのであれば、その人に依頼したいところではある。しかし、上述の二人しか選択肢がなかった場合、人は“器用な人”に依頼するであろう。おそらく、それが仕事を依頼する際の最低基準である。残念ながら、仕事の場合には他者との比較が問題となってしまう。金銭が絡むのだから仕方がない。

しかし、好き/嫌いというものをつかまえておかなければ、仕事を選ぶ“方向性”が定まらない。(1)の人と、(2)の人ではどちらが“幸せ”なのか。もちろん、その判断は容易ではないが、少なくとも、作業をする喜びという点に照準を合わせるのであれば、“(1)ものを作ることは大好きであるが、器用ではない人”の方が、大工をしていても喜びを感じるであろう。仕事は金銭を取得するためのみのものである、となった場合、生きることは苦しくなるだろう。ただ問題は、(1)の場合、仕事の依頼そのものがやって来ない可能性が高いことである。

内的なエネルギーは、興味関心が向く方向に流れる。“絵が好き”であるならば、誰でも漫画家になれるわけではない。画家になれるわけではない。しかし、その方向性を見誤らなければ、美術館の学芸員を仕事とすることで喜びを見出すことはできるかもしれないし、漫画雑誌の編集者として喜びを見つけることもできるだろう。その際、たとえば学芸員であるならば、丁寧に美術品を取り扱う技術を修練する必要がある。漫画雑誌の編集者であるならば、時間管理や交渉の力、売れる漫画家を発掘する技術を修練する必要がある。その技術が、金銭と交換可能なものにまで洗練されていること。それが、仕事である。そして仕事を行うことができる能力は、“生きる力”の重要な側面である。

4.一応、結論

と、いうことで、条件は2つになった。

・自分が好きなものに共通する系列をつかむこと
・やっていて苦ではないものの系列をつかむこと

好きなものをそのまま行うのではなく、系列をつかむ、という作業が重要である。そして、大まかな方向性の中で、やっていて苦ではないもののクオリティを上げること。それが、金を払ってもらえるだけのものになるように。

でもね。俺、就職活動してないんです。だから、説得力ありませんよ。
プロフィール

ina

Author:ina
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