スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

4/30(水)5限 水曜の会

4月の水曜の会は、

4/23(水) →日程変更 4/30(水)5限(17:00から18:20)
14−101
テーマ:タロットと秘密結社(および、現在の心理療法がおかれているポジションについて)

の予定です。テーマ的にはオカルト的かと思いきや、多分そうでもない話にはなります。つまり、「オカルト研究をしていた人々」についての話となります。

よろしくお願い致します。

スポンサーサイト

幽体離脱的に冷静な印象

今、恵比寿にある東京都写真美術館で行われている展示、「101年目のロバートキャパ」を見に行く。戦地を撮影した写真家として著名でもあるので、有名な「Dデイ」なども展示されている。

他の写真家が撮影した戦地の写真を見た時にも感じたことではあったが、それが今回、特に強烈であった。

「あぁ、戦地も晴れるんだ…」という感覚。

極めて当たり前のことである。

しかし私は、戦争と聞くと「BGMつきの映像」が浮かんでしまう。ドルビーサラウンドで鳴る猛々しい轟音とBGM。スクリーンに映る巨大な人物像。悲壮な演出と秀逸なカット。

当たり前だが、現場ではそんなことはない。人間は人間のサイズで、火薬の音は軽く、鳥も鳴き、小川も流れている。映像化する際には嵐や曇りや霧雨などが「映える」かもしれないが、快晴のこともある。

ロバート・キャパの写真を見ていて、そういう「当然のこと」を感じていた。

暖かい陽気の中、参加したくもない戦争に参加し、弾丸に当たって死ぬことも嫌だが、毎日のように続く上官の不条理な態度にも怯え、何が何だかわからなくなったような感覚の中、鳥の声が遠くに聞こえ、そよ風が吹くと、ヘルメットに邪魔をされた耳に当たって「こー」という音が聞こえ、現実感が持てないまま、走る。こんな時に考えることなのだろうか、と疑問に思いながら、下らないことが頭に浮かび、自分が妙に遠くに感じられる。

そういうことを感じてしまう。

たとえば、受験の日も、大切な試合の日も、体育祭の日も、遠足の日も、文化祭の日も、失恋した日も、結婚式の日も、子どもが生まれた日も、事故を起こした日も、葬儀の日も、どんな日だって晴れることはあるし、雨の日もある。天気は、どんな状況であっても平等である。特別であるのは、ただ単純に私側の都合である。BGMは鳴ってはくれないし、画面にディゾルブがかかるわけでもない。主観視点のまま映像は流れ、時間はだらだらと過ぎて行く。後から記憶となった際に脳内で編集され、ある意味では最適化される。そして、思い出す度に細かな変更が加えられて行く。

私は、何か特別なことが予定として入っていると、「今度は本当に『特別』なことが起こるのではないか」という、大変子どもじみた思いが駆け巡ってしまう。映画やマンガやアニメやゲームや小説や、そういったもので表わされているような特別なことが起こるのではないか、と思ってしまっている。まぁ、ある意味「ロマンチスト」なのかもしれないが、当然、そんな物語的出来事は起こらない。それはわかっていても、自分の中に、どこかで期待している部分があることは意識できる。おそらく私の場合、無意識的に押さえ込んでいる「期待」が思いのほか強烈であるために、「特別な日」の当日、必要以上に日常的な部分に注目してしまうことがあるのだろう。そして、「思っていたことと違う」日常的な部分ばかりをわざわざ探すこととなる。

それは、「冷めている」という印象にも繋がることもあるのだろうし、気がそぞろな人、おどおどした人、斜に構えた人、よそよそしい人という印象を与えてしまうこともあるらしい。プラスに働けば「冷静」な場合もあるかもしれないが、「お祭り」にうまく参加できず、中途半端に外側から眺めている人、になってしまう。

結局、「今度は本当に『特別』なことが起こるのではないか」という期待の大きさが問題なのであろうが、宇宙船から出られない状態で火星探索をしているようなもどかしさがある。石に直に触れることができず、地面を踏みしめる感覚はデータとしてしか把握できない。この感覚が極端になれば、「現実感を喪失した離人症」ということになるのだろう。

しかし、私がロバート・キャパの写真を見ていて思うのは、その、「離人症的にリアル」な感覚である。「極端に特殊な日なのに、特別ではない」という感覚である。私がそこに感じるのは「臨場感」ではなく、幽体離脱的に冷静な印象である。

私はそもそも「写真」というものから、そういう感覚を看取していたのかもしれない。私が写真を撮りたがる理由は、この感覚と近接しているのかもしれない。極端に言えば、ファインダー越しにしか現実を見ていないということに繋がる。何を見ても、「写真に撮ったらどうなるだろう」とシミュレートすることになる。それは、目の前で起きている出来事に、わざわざフィルターを挟む作業である。たとえ、カメラを持っていなかったとしても。

結局カメラはまた、私が「祭り」に参加することを妨げるものとなっているのだろうか。

井筒俊彦は、ドストエフスキー作品に登場する人物全般について、以下のように評していた。

<彼らの胸には自意識以外の何もない。美しい自然の祭典に、うつろな絶望のまなざしをじっと注ぎながら、彼らは自分の「隅っこ」に身を固くしてうずくまる。だから彼らには人を愛するということができない。自分の中に閉じこもり自分をすら愛することができない。…他人を愛するとは人間が自分の外に出て行くことだ。ドストイェフスキーの「旧い人間」達にはそれができない。だから彼らはいずれも例外なしに愛の不能力者である。>(井筒俊彦『ロシア的人間』p.225)

自分の外に出て行く、とはどういう意味なのだろう。多分、単純に誰かと接するとか、そういうことではない。おそらく、『カラマーゾフの兄弟』におけるゾシマ長老のあり方に、ヒントがあるのだろうが…

のび太の凄まじさ

息子が『ドラえもん』を良く見るようになった。今まで、声優が一新された2期はあまり見たことがなかった。どうも私が見ていた頃とは雰囲気が違う。しかし、私は2期の方が好みである。それは、「のび太が最悪なキャラ」だからである。

原作をそこまで読み込んでいないので何とも言えないが、多分、今やっている2期の方が、原作の設定に近いのだろうと思う。

私の知っている「大山のぶ代ドラえもん」の場合、のび太は、情けなくはあったが、ここまで「最悪」なキャラではなかった。どちらかというと、ジャイアンがあまりにも横暴で身勝手で、その不条理さに右往左往している「気の毒なキャラ」であった。

しかし、新しい「わさびドラえもん」におけるのび太は、本当に不快なキャラクターである。気になったことを列挙すれば、

・いずれしずかちゃんと結婚できることを決定事項とし、しずかちゃんを振り向かせるための努力を一切しない。しかも、邪魔が入りそうであれば、ドラえもんの道具で蹴散らそうとすることもいとわない。しずかちゃんを道具で洗脳することさえ選択する。
・自分よりできない人間が現れると、徹底的にさげすみ、極めて強い権威主義性を見せる。
・少しでも努力が必要なものは回避する。
・道具によって得た力を自身の力であると誤認し、過剰な自我肥大を起こす。
・自分ができないことに一つ一つ理由をつけ、正当化する。
・まずいことが起こった際に、必ず他人のせいにする。

もっと沢山あるだろうが、挙げて行くときりがないのだろう。これらの性質はもちろん、「大山のぶ代ドラえもん」の際にも反映されている。しかし、誇張の度合いというか、表現の度合いが異なる。

これが、どうしてここまで不快なのか。

良くわからないのだが、私はこの「わさびドラえもん」におけるのび太を見ていて、私は、私の中にある、あまり見たくない、暗い部分をえぐられる感じがする。引きずり出される感じがする。上に列挙した「のび太の不快な部分」は、私自身にも当てはまる。もちろん、毎日「のび太性」が前面に出ているわけではないが、ふとした契機に、のび太のようになってしまうことなど、いくらでもあるように思う。

そういう不快な部分には蓋をして、自分ではあまり見ないように生きていることを、何だかまざまざと見せつけられるような感じがする。

のび太のモデルは、藤子・F・不二雄の少年時代だということらしいが、あんなにムチャクチャむかつく奴だったとも思えない。おそらく、作者自身が、自分自身の暗い部分を直視する力を持っていた人でもあった、ということなのだろう。ほんの少しでも自分の中に暗部があることに気付けば、それを徹底的に誇張することができたということでもあるのだろう。しかも、グロテスクにならず、ギャグとして成立するように。なるほど、天才である。


たとえば、「ぼくよりダメなやつがきた」という回がある(原作にもある)。のび太よりもできない、「ため君」という転校生がやってくる。ため君が自分よりもできないことを良いことに、のび太はわざわざ一緒に宿題をし、自分よりできないため君に対して「困るなぁ、こんな簡単な問題を間違えちゃ」などと、にやけながら言う。わざわざしずかちゃんの前に行って徒競走をし、「わーい、勝った勝ったー!」などと言う。挙げ句、ため君に対して「協定を結ぼうじゃないか!そろって0点をとったり、忘れ物したりさぁ」とほざく。ため君は冷静に「…僕は、できれば100点をとりたいし、忘れ物もしたくない…」とつぶやく。

胸が痛む。虐げれていた者がうっかり権力を持つと、こうなる。それは、いつでも私に起こりうる。いじめる者はいじめられていた者であることが多い、という事実も頭をかすめる。

その後、ドラえもんは「配役入れ替えビデオ」という道具を出す。今までののび太の行動はすべて録画してあり、「のび太→スネ夫 ため君→のび太」と配役を入れ替え、今までの行動すべてをのび太に見させる。ようやく、自分がやっていたことが、今までスネ夫にされていたことそのまま(いや、それ以上)であることに気が付き、のび太は強いショックを受ける。

人の気持ちを考えてとか、相手の立場に立ってなどと良く言うが、本当の意味で相手の立場に立ったものの見方など、どれだけできるのだろう。配役を入れ替え、まざまざと見せつけられなければ、私は気が付かないことなど、いくらでもあるように思う。


<ドラえもんは、道具を使って、必死に、ルールにしたがう楽しさを教え、むき出しの権力欲が損であることを教え、ルールにしたがう他に道がないことを教えているのかもしれない。>

そう、中井久夫は記す(『アリアドネからの糸』)。のび太は、むき出しの権力欲を具現したようなキャラクターである。ハンナ・アレントが指摘し、スタンレー・ミルグラムが電撃実験で、フィリップ・ジンバルドがスタンフォード監獄実験で示した「悪は平凡であるが故の所行である」ことを体現しているようなキャラクターである。

〈あ…、漱ちゃん、それやってると…、のび太みたいになっちゃうかも…〉という言葉が脅し文句として成立してしまうほど、3歳の息子にとっても不快なキャラとして映っているらしい。

「制限がかかることによって燃える」こと

【少々マニアックですみません…。ゲームの内容が濃く反映されています】

かつて、X68000というパソコンが存在した。パソコンとは名ばかりの、ほとんどゲーム専用機のようなものではあった。私は欲しかったが、高くて買えなかった。もう20年も昔、私が中学生だった頃の話である。

その、X68000用にリメイクされた『悪魔城ドラキュラ』がある。1993年のもの。元々はファミコン用の作品であるため、かなりグレードアップされた内容となっていた。

後に、X68000用の内容をそのままプレイステーション版に完全移植された『悪魔城年代記 悪魔城ドラキュラ』が発売された(2001年)。しかし、私が手に入れる間もなくプレミアがついてしまって、余計に入手できなくなっていた。

それが最近、プレイステーションアーカイブスで600円で配信された。大変ありがたい。


X68000は「パソコン」であるため、本体内蔵音源(FM音源)以外にも、より「生楽器に近い音」が出せるMIDI音源をつなげることができた。『悪魔城年代記 悪魔城ドラキュラ』には、そのMIDI音源に対応した楽曲が2パターン収録されている。同じ楽曲に対して、音源の違うものが合計3種類。これらを聞き比べてみる。

私の好みとしては、内蔵音源の楽曲であった。つまり、中では最も簡素なバージョンである。MIDI音源を用いて中途半端に生楽器的な音を出されても、少々まごついてしまったのかもしれない。しかし、さらに言わせてもらえれば、もっと「しょぼい」ファミコン版の楽曲が、最も好みであった。同じ曲だとしても、である。結局私は、超絶質素な音源によるものが、一番良いと感じてしまった、ということになる。

これが、私の「思い出補正」なのか、正当な評価なのか、何ともいえない。ただ、「制限がなくなって、何でもできるようになったら曲が良くなるのかというと、そういうわけではない」ということが良くわかる事例であるように、私には感じられた。

ファミコンの音源など、同時に3音(+ノイズ1音)しか出せない。良く考えずに組み立てれば、ベース音とメロディを鳴らしたら、後は効果音しか残らないことになる。その極端な制限の中、ホワイトノイズを巧みに使ってドラムパターンを刻み、ベースとメインメロディを入れる。ハモらせることぐらいはできるものの、和音の表現が脆弱になるため、メインメロディが終わった直後に、なるべく不自然にならないよう、「プレイヤーが頭の中で無意識的に鳴らせるための」リフや分散和音などを叩き込む。ベースも、なるべく和音を想起させるようなものを作る必要が出てくる。ノリの良い曲の場合には、メロディが途切れるとスカスカな感じになってしまうため、主旋律に相当するものを絶え間なく鳴らすことが必要となる。それで楽曲として成立させなければならない上に、聴き続けても飽きないメロディでなければならない。処理チップ性能も低いので、画像処理と同時にできる音楽処理には限りがある。

そのような制約の中、『スーパーマリオ』や『ゼルダの伝説』の作曲者近藤浩治氏に至っては、ファミコン音源特有の「たまたま倍音が鳴る」部分を把握しており、1音のみでも音の厚みが出るタイミングを曲そのものに組み込んだというのだから、本当に恐れ入る。

これは、極めて数学的なパズルである。もちろん、メロディメーカーとしての才能も相当問われはするが、それと同時に、音源と機械が持つ特性を究極的に理解していることが前提である。

そういう、制限された音源用に開発された楽曲だから、MIDIなどの(当時からすれば)何でもできる音源に切り替わった時に、上手くアレンジできなかった、という考え方もあるのだろう。しかし、それだけではないように、私には思える。


制限がある方が、人は燃えるのではないか。


音色にバリエーションがなく、あげく同時に3音しか鳴らない、という極端な「ファミコン」という機材を与えられ、それでも良い音楽を作ろうとしたときに、投げ出さずに必死に取り組むこと。その、「燃えたこと」によって、何らかの形で音楽にも力が宿ることがあったのではないか。

それはおそらく、ゲームのシステム全般についても言えることなのだろう。制作者にとって、最も「燃える」適度な制限というのがあったのではないか。ゲーム史を通して見たところ、それはおそらく「スーパーファミコン」レベルの機能であったように、私には感じられる。

「プレイステーション」の時期にも随分良いゲームは出ていたが、FF7が出たあたりから、徐々に制作者の手に負えなくなっているような雰囲気は感じられていた。Xbox360やPS3まで来ると、もはやハリウッドレベルのCG技術が必要となり、演出も何もかも、いわゆる「ゲーム」ではなくなった。目が肥えている人々のために、秒間60コマで滑らかに動かし、かつフルHDで表示するなど、どこの会社でもできるようなことではない。

それはそれで、別に悪いこととは思わない。技術の進歩である。しかし、制作できる人々が随分限られるだろうということ、そしてそれらが大規模なプロジェクトとならざるを得ないことは予測がつく。

ならば、制作者が自発的に制限を課せば良いではないか、と言うかもしれない。しかし、それはなかなか難しい。商売であるから、売れなければならない。必ず、他社や同質のゲームと比較される。低スペックなハードでも表現可能な制限を、あえて制作者自らが課してしまえば、「なぜPS4で出さなければならなかったのか?」などと問われもするだろう。

そういう意味で、私はスマートフォンのゲームは、もう少し頑張れるのではないか、と思っている。画質はかなりレベルが上がってしまったが、重要な部分は、「タッチ操作のみという、入力デバイスの制限」である。儲けるための超消費資本主義的システムである「スタミナ制」を組み込み、「コンプリート癖」を満足させるための仕組みを構築する、というのも、わからないでもない。今、どの会社も「カツカツ」なのであろう。しかし、その入力デバイスの制限を熟知し、その特性をいかにゲーム性に密着させるのか、という部分に、真剣に「燃える」人たちが、もっと出て来ても良いように、私には感じられる。

「タッチパネルしか使えない」という制限は、実に適度である。十字キーとボタンがあれば快適にゲームができるのは、それはわかる。我々ゲーマーはその操作系に大変馴染んでいる。しかし、それと同じ内容を無理矢理タッチパネルでできるようにするのではなく、「タッチパネルしか使えないこと」「手のひらに収まっているその大きさだけで何とかなるもの」、それらをもう少し徹底的に詰めることができるようにも思う。そして、その思考は、楽しいし、燃えるように、私には思える(それなりに良いゲームは散見される。ただ、どうしてもパズルゲーム寄りになってしまうようだ。DS最盛期に、任天堂ですらタッチパネルのみの操作には手を焼いていた感があるので、課題は大きいのかもしれない)。

ファミコンのゲームがすべて素晴らしかった、などと言うつもりはない。白黒でしか表示できないゲームボーイのゲームがすべて素晴らしかったと言うつもりもない。しかし、技術の進歩がまだまだであった当時、色の制限であるとか、容量の制限であるとか、入力デバイスの制限であるとか、制限だらけであったがために、むしろ「燃えた」制作者たちが多数存在した、という印象はある。

まぁ、「制限があった方が燃える」のは、どのような状況でも言えることなのだとは思う。例えば教師にとって、学習指導要領で決められている内容を教えなければならない、という「制限」があるからこそ、燃えるものもあるだろう。映画のように2時間に収めなければならないという時間制限があるからこそ、燃える部分はあるだろう。写真だって、あの四角の中に色々入れなければならないわけで、制限かかりまくりである。だからこそ、燃えるものがあるように、私には思える。極端な話、男性として生まれたことも、日本に生まれたことも、身長も、家族構成も、みな、「制限」である。それが、手札である。

制限がある中で、そこで使える手札で何とか切り抜けるためにエネルギーを注ぎ込むこと。そこに熱くなれるとき、おそらくクオリティが高いものが生まれるように思う。

しかし、制限があると知った途端に投げ出す人間がいる。火が消えてしまう人間がいる。私も含めて。

あー、もっと時間さえあればなぁ。もっと良い機材があればなぁ。もっと能力の高い人材がいればなぁ。もっと金があれば。もっと若ければ。もっと、もっと、もっと。


さて…。ここからどう抜け出せば良いのか。



björkの「All Is Full Of Love」について

昨日の水曜の会、テーマ:「何らかの映像を見て、いずれにしても小首をかしげる会」が終了した。卒業するにも関わらず、また春休みにも関わらず、集まっていただけた学生の皆様に大変感謝。

当初の予定では、

『チリンの鈴』(やなせたかしの1978年作のもの。大変ダークな作品だが、私は好き)
『多田宏師範 合気道技法全集 第一巻』の中から、「呼吸法」(大変胡散臭いが、私はわりと好き)

の2つを見て、皆で小首をかしげる予定であったが、どうも朝から気になって仕方がないので、björkの「All Is Full Of Love」のプロモーションビデオも見てもらうことにした。合計3つ。随分、皆様には負荷をかけたと思う。この場を借りてお詫びを申し上げたい。

「All Is Full Of Love」は、学生時代に見て、何だかわからないが、驚くほど背筋が凍る思いをしたPVだった(1999年作品)。居ても立っても居られず、DVDを手に入れた。ロボットがセックスをしている映像。その、あまりにも不気味で得体の知れない印象が拭えなかった。意味を汲み取ることができなかった。

All Is Full Of Loveと言っているのに、全く愛を感じられない。無機質で、どうしようもなく閉ざされた印象の中に、救いを感じ取ることができなかった。

1月末から今月にかけて、私はプラトンとプロティノス、井筒俊彦を読んでいた。あまり神秘主義に傾くのもどうかとは思ってはいるが、ただ、それらに照らし合わせた場合、All Is Full Of Loveは、もしかしたらこういう意味なのだろうか、と、ふと思ってしまった。

プラトン『国家』の中の有名な「洞窟の喩え」。

人間は、椅子に縛られていて、洞窟の壁面を見させられている。背後には塀があって、その後ろを、人々が通り過ぎている。人々は頭の上に、壷であるとか、籠であるとか、色々なものを掲げて通り過ぎて行く。塀と人々の先には、松明がある。その松明の光に照らされ、洞窟の壁面には、人々が運ぶ物体の「影」が映る。椅子に縛られた人々は、その影のみしか見ることができない。その影が、「実体」であると思い込んでいる。ごく稀に、縄の縛りが緩く、後ろを振り向くことができてしまう人が出てくる。しかし、影のみを見ていた目には、松明の光は強すぎる。また、二次元の平面である影に見慣れた目には、立体物はグロテスクに過ぎる。恐ろしくなり、結局また、壁面の影に目を向け、それが「現実」であると思い込もうとする。

しかし、洞窟の外には、太陽がある。松明ですら目を潰すのに、太陽が控えているのである。「哲学者」は、洞窟の外まで行かなければならない。しかも、太陽の光に照らされた世界を見た後に、再度、もう一度暗闇に目が慣れる訓練をした上で洞窟に戻り、人々にその見方の「コツ」を伝える「義務」が発生する。

それが、井筒俊彦『神秘哲学』におけるプラトン解釈であると、私は読んだ(私にはそう読めただけなので、間違っているかもしれない)。この解釈が正しいとするならば、真の哲学者とは、いわば、「あちら側」を見たものであるということになる。

「それ」は、太陽の光にたとえられる、と、プラトンもプロティノスも記す。それ以上に喩える手札がない、ということなのだろう。プラトンはそれを「善のイデア」と呼び、プロティノスは「一者」と呼んだ。井筒は、「本質」と呼んだ。私なら多分、「エネルギー体」と呼ぶだろう。

そこから切り離されてしまった場合、まるで粘土の世界に生きているかのような、現実感のない、膜のかかったような生となるということ。おそらく、その感覚は映画『マトリックス』で、極めて適切に表現されていたと、私は思っている(ただし、あくまで「世界が2つあること」の喩えとして秀逸であるという意味で、『マトリックス』の内容そのままが真実だとは思っていない)。

とすると、All Is Full Of LoveのPVは、「それ」から切り離された状態を映像化したものである、と考えると納得が行く。<この真実の所有ということは、外部から肉によって包まれていない者にして初めて許されることなのである>(プロティノス「エネアデス(抄)1」中公クラシックスp.111)という表現から私が連想するのは、肉体が、粘土でできている印象である。

粘土同士のセックス。もしそれを、現代的に表現するとしたら、ロボット同士のセックスとなるのではないか。徹底的に滅菌された、白と黒の世界で、無機質に交わること。それ以外に、快楽へは残された術がないほど、閉鎖された空間で生きていたこと。まるで、椅子に縛られて、洞窟の壁面しか眺められなかったかのように。そのような閉鎖された状態の中では、粘土同士のセックスであっても「最上」の快楽であるように思えるのではないだろうか。

björkがどこまでそういうことを考えていたのかは分からないし、どの「ランク」まで駆け上がった人なのかも知らない。ただ、björkの歌を聞いていると、私はいたたまれなくなる。苦しくなる。

私の感じるその苦しさが、閉鎖されていることに対するbjörkの自覚から来るとしたら、どうなのだろう。

大友克洋の『AKIRA』も、同じ主題を扱っていたと私は思っている。ハイデッガーは、そこに理屈一点突破で近づこうとしたのだと(そして失敗してしまったのだと)、私は思っている。サルトルはうっかり垣間みてしまったのだろうと、私は思っている(『嘔吐』におけるマロニエの木の部分)。カミュも、カフカも、そしてドストエフスキーも。

それらが、強力に閉鎖された状態で、今私が生きている「生」が映像化されたとしたら、こういうことなのではないか、と、私には思えてしまったのだろう。まぁ、悪趣味であることには変わりないのだが。

All Is Full Of Love

you'll be given love
you'll be taken care of
you'll be given love
you have to trust it

maybe not from the sources
you've poured yours
into

maybe not
from the directions
you are
staring at

twist your head around
it's all around you
all is full of love
all around you

all is full of love
you just ain't receiving
all is full of love
your phone is off the hook
all is full of love
your doors are all shut
all is full of love

あなたは愛を与えられるだろう
あなたは慈しまれるだろう
あなたは愛を与えられるだろう
そのためには、「それ」を、真に感じ取らなければならない

「それ」は、あなたがエネルギーを注ぎ続けて来たところからは得られないだろう

「それ」は、あなたが大切だと思って「印」をつけた、その方向からはやってこないのだろう

見回してごらんなさい
「それ」は、あなたの周りに或る
すべては、愛に満たされている
すべては、あなたの周りに或る

すべては、愛に満たされている
あなたが受け取ろうとしていないだけ
すべては、愛に満たされている
あなたの「受話器」がはずれているだけ
すべては、愛に満たされている
あなたの「ドア」が、すべて閉じられているだけ

本当は、すべては、真実に満たされているのに

)

劣等感と優越感について

劣等感が極めて強い人、たとえばそういう生徒がいたとする。すると、教師としては「自信をつけさせるために、成功体験を与える」という方向になることが多い。それはそれで大切なことであると私は思っているが、成功体験そのものが本質的な部分ではない可能性について、出来る限り考えておきたい。

劣等感ということは、何かに「劣っている」という意識である。何に劣っているのか。それは他者と比較して、ということになる。その意識が過剰であるということは、他者を必要以上に意識している、ということが基礎として存在している。この点をまず押さえなければならない。

とすると、何らかの契機があると、この極端な劣等感は、極端な優越感に変化する可能性を秘めている。たとえば、現実的な能力(書類作成や金銭感覚)にやたら劣等感を持っている人が、何らかの契機があると、「自分に予知能力がある」というような、突飛な優越感を示したりする。プレゼンテーション能力に強力な劣等感を持っている人が、何らかの契機によって、「自分は世界を変えるのだ」と言い出すこともある(誇張はあるものの、どちらも私自身にある程度当てはまる)。

つまり、劣等感は、「優越感を持ちたい」ことの裏返しである。そのため、何かの形で強めの精神的負荷がかかったり、偶然の力が強い成功体験などを得てしまった場合に、過剰な優越感、ある種の万能感のようなものが生まれる場合がある。

人間であるから、浮き沈みはある。しかし、上述の例は、その浮き沈みが激しすぎる。劣等感と優越感は、いわば針の振れ幅である(サディズムとマゾヒズムのように)。どちらかだけ、というわけにはいかないことが多い。まったく針が振れないということはあり得ないが、それがあまりに激しく動く状態に対しては、大抵の場合、「不安定な人」という評が下る。

極端に優越感が強い人は、どこかにごまかしがあって、それが自分自身に露呈した場合に、極端な劣等感に苛まれることがあるかもしれない。極端に劣等感が強い人は、本当は他者よりも優越したいという欲望が猛烈に強いことになるのかもしれない。

劣等感であっても、優越感であっても、それが「極端」である場合には、いずれにしても自分自身の状態・性質を、正確にとらえることに失敗している。しかも、関心が、「他者より劣っているか優れているか」という点にしかなく、自らの能力をなるべく有効に活用する、という方向に向いていないということは、大きな問題点である。「劣っているのか、優れているのか」という部分にのみ関心があるという心性は、場合によっては、「他者にコントロールされるか、他者をコントロールするか」という思考パターンに直結する。

力関係や、そのバランスを無視しろ、と言いたいわけではない。パワーゲームをすべて回避しろ、と言いたいわけでもない。どんな人間においても、強い/弱い、速い/遅いなど、何らかの特性において、得意/不得意が存在する。ということは、人間が二人以上集まれば、パワーバランスに不均衡が存在することになる。その時に、補い合うことができるかどうかがポイントなのであり、勝つか負けるかがポイントになるわけではない。

パワーゲーム、というように、それは「ゲーム」である。ある種の「ごっこ」である。その「ごっこ」を通して、「負けたくない!」という思いのもと、練習し、技術を磨き、鍛錬する。それが、いわゆる競技スポーツにおける基本ではあろう。しかし現代において、それらは戦争ではないので、生きるか死ぬか、ということではない。「ゲーム」である以上、「ごっこ」である以上、それは「遊び」である。その目的は、相手を打ち負かし、コントロールすることにあるのではない。ある種神聖な「遊び」の中で、自らの能力を少しでも開花させ、成熟させることにある。

ここでいう「ゲーム」とは、「何らかのルールにもとづいて、勝敗が決定するシステム内で行われるごっこ遊び」のことである。前述の通り、私が「遊び」というとき、そこにはかなり神聖な意味を込めている。これに真剣に取り組まない場合、それは単なる「作業」に堕する。

ここでのポイントは、「何らかのルール」という部分である。同じプレイヤーであっても、ルールが変われば、優劣はすぐにひっくり返る。たとえば、ラグビー界ではいくら優秀な選手であったとしても、卓球をした途端、中学生に負けることも十分に考えられる。逆に、優秀な卓球選手がラグビーをしても、多分、そこまで芳しい成績は残せないだろう。そのとき、そのラグビー選手は「劣っている」のだろうか。その卓球選手は「劣っている」のだろうか。そういう話ではないことは、すぐに想像できるだろう。それは単純に、「ルールが違う」というだけである。

ならば、「ルールそれ自体の構造」に目を向けられるようになった方が良い。

たとえば、ラグビー選手も、卓球を行うことによって、その「ルール」から学ぶことは多くあるだろう。手先の上手な動かし方、動体視力、相手の細かな動きから意図を読み取ることなど。卓球選手も、ラグビーから、学ぶことは多くあるだろう。巨大なフィールドを俯瞰し、全体状況を把握すること、体幹を鍛える重要性、時間制限の感覚など。

だからといって、手当たり次第に、あちこち手を出せば良いというものではない。そこには目的が必要である。

私にとって、「本を読むこと、音楽を聴くこと、伊集院光のラジオを聴くこと、映像作品を見ること、美術館などに行くこと」「写真を撮ること、音楽を作ること、詞を書くこと、バンド活動をすること、笛を吹くこと、石粘土で何か作ること、絵を描くこと、エッセイを書くこと、考えていることをしゃべること」は、上述の意味での「遊び」である。相当真剣に「遊んで」いる。これらの小目標は、表現のチャンネルを増やすことにある。

言語で伝えられるものと、音楽で伝えられるもの、映像で伝えられるものは、それぞれ特性が異なる。得意/不得意がある。「ルール」が異なるからである。まず、作品などを受信することによって、それらの「ルール」を看取する。それらを元に、実際に自分でも表現してみることを行う。これで1セットである。

表現のチャンネルは多い方が良い。何か伝えたいことがある場合に、それら「どれか1つ」では、そのチャンネルが持つ特性でとらえる側面のみしか伝えられないことになる。なるべく、複数のチャンネルを総動員して、伝えたいことを表現しなければ、多分追いつかない。

たとえば、『バガヴァッド・ギーター』において、 戦士アルジュナが、神であるクリシュナに真の姿を見たいと望み、 クリシュナがそれに応えて神の姿を現すシーンである。

<われは見る、多くの腕・腹・口・目を有し、一切方に向って無限の形相を示す卿を。われは見ず、卿に終りあり、中間あり、はた始めあることを>
<冠を戴き、戟(ほこ)を執り、輪盤(cakra)を手にし、一切所に輝き渡る光明の集積として、一切方に火炎・太陽の光線を散じ、凝視し難く、測るべからざる卿を見る>
<初・中・終なく、無限の威力を有し、無数の腕を有し、日月を眼とし、輝く火炎を口とし、自己の光明によってこの一切を熱しつつある卿を>
<天地の間のこの空間および一切の方所は、実に卿独りによりて充満せられたり。卿のこの希有にして恐しき形相を見て、三界は愕然たり>
<急ぎて卿の口に入る、牙突きいでて恐しき。或る者は頭(こうべ)微塵に砕けて、[卿の]歯間に懸りて見ゆ>
<あたかも河川の幾多の激流、海に向いて奔走するがごとく、かくかの人界の勇者たち、炎(ほむら)立つ卿の口中に入る>
<卿は一切方において全世界を呑噬(どんぜい)しつつ、燃え立つ口をもちて舐め尽す。卿の恐しき光炎は、全世界を光明もて満たして熱す>
<聖バガヴァッドは言えり。/われは「時」なり>
(辻直四郎訳『バガヴァッド・ギーター』pp.183-189)

この「神」の姿は、始まりも終わりも見えず、何やら様々な色に光り輝いてグラデーションがうねっているような姿、とんでもない数の目と腕があり、火炎を吐きまくる口があり、死したるもの一切を吸い込んで(おそらくは再生したものを吐き出し)、その牙には死体がひっかかっているという凄まじさである(しかも、<われは「時」なり>ときたもんだ)。これを言語だけでどうにか伝えることができるだろうか。もちろん、『バガヴァッド・ギーター』は言語のみで相当頑張っているが、やはり絵にも描きたくなるだろうし、音楽としても表わしたくなるのではないか。彫刻にもしたくなるのではないか。本来は目に見えず、耳に聞こえないものを表わそうとしたら、表現チャンネルを総動員するしかないではないか。そして、考え得る表現チャンネルを総動員(あるいはすべてを撤去)することでしか近づくことすらできないだろうと、私は思う。

表現するチャンネルを増やすことは、受信するチャンネルの感度を上げることでもある。死ぬまでに、その感度をできる限り上げること。それが目的である。そのために私は、真剣に、死ぬ気で遊ぶ。

たとえば、このような観点に立った場合、優越であるとか劣等であるとか、そういうことがどこまで意味をなすのだろうか。

3/12(水)15:00から16:30 14−103 水曜の会

水曜の会の予定です。

3/12(水)
15:00から16:30(時間がいつもとは異なります)
14−103(部屋もいつもとは異なります)
テーマ:「何らかの映像を見て、いずれにしても小首をかしげる」

詳細はメールにてご案内している通りです。まだメールの登録を行っていない方は、授業中に告知しているメールアドレスに、「水曜の会、登録お願いします」とか何とか入れて、お送りください。BCCにて一斉送信させて頂いております。

よろしくお願い致します。
プロフィール

Author:ina
水曜の会用 文書置き場

カテゴリ
写真保管庫
最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。