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x軸とy軸

喫茶店に入る。

近くで話しているのは40代前半のカップルだろうか。お互い「手入れ」が行き届いているからか、見た目としては大分若く見える。ただ、声はなかなか誤魔化せない。

女性はむすっとしている。男性はうつむきがちに、落ち着いた声で、諭すように話し始めた。

「だからね、さっきも言ったけど、今までも何度も何度も何度も、言ってきたことなんだよ」
「・・・」
「また、そうやって黙る」
「・・・堪忍袋の緒が切れたってこと?」
「・・・俺はさ、君と一緒にいたいと、これからもずっと会っていきたいと、そうしたかったから、何度も何度も、」
「それで?」
「そうやって途中で・・・。気に入らないとむすっとするか、黙るか・・・。さっきだって、『じゃぁ1ヶ月に1回食事すればいいってことでしょ』って、そういう言い方されて、はいそうですね、なんて言えないでしょ?」
「・・・」
「・・・」
「やめようってこと?」
「そうしたくなかったから、今までも何度も話し合おうとして来たんじゃないか」
「でも、話し合いにならなかったって言うんでしょ?」
「そうだけど・・・。だから、どうするか、」
「じゃぁ、終わりにすれば良いんでしょ」
「・・・それが、君が選択したことなら」
「私に選択肢がいくつもある?ないでしょ?」
「・・・」
「・・・」
「悲しいよ」
「なによそれ」
「何とかならないのかな」
「ならないんでしょ。堪忍袋の緒が切れたんでしょ」
「・・・今までいろいろ、俺はどうやったら伝わるだろうかって、考えて、伝えようとして、」
「あなたは頑張ってきたって言うのよね」
「・・・」
「で?話は終わり?」
「・・・そうだな。出よう」
「はい。そうしましょう」

極めて強い既視感がある。同じようなやり取りを、私は何度繰り返して来ただろう。

すれ違っている。同じことを話しているのに、お互いが足場を置いている軸が異なっている。

男性側が言いたいことは、私には大変良くわかる。それと同時に、女性側が、男性のそのような姿勢によって、どのような印象を受けていたのか、多少ではあるが感じ取ることができるようになった。もちろん、合っているかはわからないけれど。

想像力にブーストをかける。

男性側は、理路整然と、物事の時系列的な順序と、言語的な次元での話をしていた。伝えた言葉の内容を正確に覚えていて、そのタイミングもかなり正確な記憶があるようだった。その時に彼女がどのように応えたのか、それに従って彼がどのような行動をとったのか。ビデオ撮影された記録をもとに、現場検証をするかのようだった。おそらく男性側に、記録的には非がない。だからこそ、そこに根拠を置く。自分は間違えていない、誠実に努力をしていたのだ、と。

女性側は、そのような彼と一緒にいる際に、どのように感じていたのだろう。それを、彼女は言葉にすることができないようだった。彼女には、感じ取って欲しいものがあるようだった。それは言葉ではうまく表現できなかったから、むすっとするとか、黙るとか、そういう非言語的なもので伝えるしかなかったのかもしれない。そこで汲み取ってもらいたいものは、おそらく感情であったということ。非言語的なものを、言葉にせずとも感じ取り、優しい目で受け止めて欲しかった、あるいは怒って欲しかったということ。つまり、甘えたかったということ。ごく稀に、それが満たされるタイミングが訪れはした。しかし、求めているものとは違っていた。言葉にすることはできなかったから余計に、何とも言えない不全感があった。しかし、その不全感を汲み取ってくれることはなかった。男性は努力していたのかもしれないが、彼女もまた、努力をしていた。我慢もしていた。彼が常に理路整然としていることは、非の打ち所がないということは、逆に言えば、理路整然としていない、混沌と矛盾をはらんでいる彼女は、非難されているようにも感じられていたということ。それに、彼は気づいてはくれなかった。いつも下に見られているような、対等ではないような、バカにされているような、そんな気がしていた。しかし、うまく言葉にはできなかった。せめて彼には、「感情的に」怒って欲しかった。同じ土俵に入って欲しかった。だから、「食ってかかった」。それでも彼は、冷静だった。また、バカにするかのように。

たぶん、お互いに、本当に別れたいわけではないのだろうと思う。男性側からすれば、非論理的な感情を持つ彼女は、魅力的に映ったであろう。彼女からすれば、理路整然とした理性を持つ彼が、魅力的に映ったであろう。自分にはない真逆のものを持っている異性は、輝いて見える。

もしかしたら、喫茶店を出てから、一時的に何とかなったかもしれない。しかし、今のままでは、それほど長くは続かないだろうとも感じる。

男性側も、理性だけではなく、自分の中の感情的な部分を育てなければならなかったのだろう。女性側も、感情だけではなく、自分の中の言語化する理性の部分を育てなければならなかったのだろう。お互いが、そのままの、生の形のままでは、どうしたって伝わるわけがない。もちろん人間同士、考えていること、感じていることが100%伝わるなどということはあり得ない。超能力ではないのである。しかし、歩み寄る必要はあった。折り合いをつける必要があった。そのためには、生まれ持った素質とは真逆のものを、少しずつでも育てていく必要があった。

男性は、理性というy軸に基づいて、話していた。女性は、感情というx軸に基づいて、表現していた。それぞれの軸において、それぞれが正しい。しかしそれでは、y軸とx軸が交差する点は、ゼロでしかない。そうではなくて、平面上で、互いに「xy座標」でやり取りしなければならなかった。

男性は、感情という軸を育てていたのだろうか。女性は、理性という軸を育てていたのだろうか。

おそらく二人は、私よりも年長である。雰囲気と会話内容からして、「真っ当な」付き合い方ではないかもしれない。今から変化することが可能であろうか。

女性は案外、何歳からでも変化できる。私の知る限りでは、女性の方が柔軟である。しかし、男性はどうだろう。

私はどうなのだろう。まだ、変わることができるだろうか。

この男性を見ていて、極めて強い親近感を覚えた。この男性を通して私が見ていたものは、私だった。

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「告白をするとき」のこと

知人・友人・学生などから、恋愛相談を請け負うことが稀にある。

まぁ、私に聞いたところでロクな回答は得られない。それは、私を良く知っている人からすれば、おおよそ見当がつくだろう。とはいえ、私もカウンセラーの端くれなので、私の方から何か「アドバイス」をすることは滅多に無い。拙い「聴く技術」を先鋭化させて相手の話を聴き、相手が半分意識していることを浮上させ、それを意識化してもらうことに一点集中する。誤摩化す、というと語弊はあるだろうが、私としては至極真剣なのである。そもそも、どうやったら告白が成功するかとか、どうやったら彼女彼氏と上手くやっていけるのかとか、私には皆目見当もつかない。むしろ教えて頂きたい。

そうは言っても、いくつも聞いていると、ある程度の方向性というか、そういうものが感じられるときもある。

私が「あぁ、この人は告白しても、あんまり上手くは行かないだろうなぁ…」と思う場合がある。その共通点は、告白しようとしている人が、「いかに自分を受け入れてもらおうとしているか」にエネルギーを注いでいるパターンであった。実際このパターンでは、告白した後に速攻でフられる、あるいは一応付き合うことにはなるものの長続きしない、ということがあるようだった。

まず、「好きな人がいる」と言っているのだが、どういうところが好きなのかを聞くと、大変表面的であることが多い。「見た目」であるとか、「優しい」であるとか、「明るい」であるとか、「いつも元気な笑顔」であるとか、「友達が多い」であるとか。もちろん、一目惚れということもあるし、そのあたりはあまり突っ込んでも仕方がないかもしれない。仕草や表情の作り方も「見た目」には含まれるわけであるから、重要なファクターとはいえる。しかし、たとえば私が〈その相手のどんなところが知りたいだろう…?〉と問うと、急に答えに窮することが多い。

だから、私は質問を変える。〈えぇと…、たとえばさ、好きな芸能人とか、歌手とか、そういうのはいるかしら?〉。そこで、たとえば広末涼子が出て来たとする(世代の問題があって申し訳ない)。〈広末涼子の、たとえばどんなことが知りたいかしら?〉。こう聞くと、案外すんなりと、色々なことが出てくる。好きな食べ物が知りたい、オフの時にはどんなことをしているのか知りたい、好きな映画、本、絵画、小学校の時にやっていた習い事、部活、音楽系ならそのパートなどなど…。

広末涼子が相手なら、これだけ沢山出てくる。しかし、その「告白したい相手」に対しては、広末涼子ほど、「知りたい」ことが出て来ない。これは何故なのだろうか。

おそらく、広末涼子に、「自分を理解してもらい、受け入れてもらえる」余地はほぼゼロである、という点が大きく関わっているように思う。芸能人は、私たち一般人とは生きている世界が違い過ぎる。だから、「自分を受け入れてもらう」ことに関しては、ほぼ思考がストップするのではないか。「完璧な片思い」であることを十分に承知しているからこそ、相手のことを沢山知りたい、皆が知っている情報だけでは満足できない。そういう思考パターンに入るように思う。

もちろん、この方向性を日常生活で告白したい相手に対して発動し、かつ無理に実行すると、それは「ストーカー」となる。一方的ではいけない。相手の反応を見ながら、極めて繊細に立ち回る必要が出てくる。しかし、「知りたい」という気持ちが勝ることが、いわゆる恋でもある。

広末涼子が読んでいる本を知ったら、それを読んでみたくなるだろう。彼女が好きな映画も見たくなるだろう。どんなシーンが好きなのかも、何らかの方法で知りたくなるだろう。相手が広末涼子の場合には、ネットなり何なりで調べ、さらには金銭を引き換えにファンクラブに入って独占情報を入手するしかないが、身近な人であれば、会話をすることができる。

だから、「告白する」という前段階に、この作業を入れる必要が出てくる。実際に話し合える間柄となり、好きな本、映画、絵画、部活をやっていたらその話、さらには好きなシーンや役者の言葉遣い、好きな食べ物を出してくれる店、そこで出される前菜のプチトマトの味、好きな季節に見る好きな場所から見た海の色、そういったものを語り合える仲になる。そして、実際にその海に行ってみて、店に行ってみて、映画を観て、本を読んで、相手が何を感じていたのかを知りたくなるのではないか。どのシーンで泣いたのか、それを知りたくならないか。

その作業があったら、堂々と「好きだ」と言えるようには思う。そして、フられても、案外気持ちのいい涙も流せるようにも思う(しかし、私が誰かと付き合う際にはこれらすべての段階をアカラサマにすっ飛ばしたりするので、本当に何のアドバイスもできない)。

私の授業でも、いわゆる傾聴技法を取り扱う。頷き・あいづち・繰り返し・気持ちの反射・言い換え・要約・オープンクエスチョン。さらには座る位置、パーソナルスペース、視線の位置などなど。しかし、これらはあくまでも「型」であり、そのまま実行すれば相談者が心地よく話すことができるわけではない。あくまで、「まずいこと」をしないように、一応型をお伝えしているだけである(「まずいこと」とはたとえば、相手の話題を奪う、頷きまくることで不快感を与える、生返事をするなど)。言ってみれば、『あなたもこれでモテる!』という本を読んで、その通りに実行すればモテるわけではない。というか、モテるはずがない。本質をつかまなければならない。

傾聴技法の本質は、おそらく、「人は、たいてい自分のことを話したがっている」という部分にフォーカスがあてられている。どんなに内気な人であっても、それは自分のことを話したくないということとイコールではない。ほとんどの場合、聞き手の「聞き方」が悪いから、話し出せないということばかりである。私がスクールカウンセラー時代に会っていた児童生徒のほとんどが、クラスでは「あまりしゃべらない」タイプであった。しかし、私と会っている最中は大変良く話すということも多い。

人は、話したいのである。自分のことを理解してもらいたいものなのである。それは、私自身のことを振り返っても良くわかる。私は、自分の話をしたい。私を、理解して欲しい(何せ、その月に私が考えたことを延々と話し続けるという勉強会まで開いてしまうのである。そんな垂れ流しを、わざわざ足を運んで聞きに来て下さる学生の皆様には心から感謝。そして、この長文をここまで読んで下さった福祉精神に溢れる方にも大感謝)。相手が話したいことを、ソクラテスの産婆術のように、うまく、するっと引き出すこと。そこが傾聴技法の本質的な部分なのであろうと、私は思っている。だから、使う者のキャラクターによっては、様々な部分が修正されることになる。

つまり、告白するのであれば、その告白したい相手の「話したい欲望」に火を付けなければならない。その際、傾聴技法は役に立つだろう。これは、「自分を受け入れて欲しい欲望」だけで押し進めることとは、まるっきり違う。全然違う。

「自分を受け入れて下さい!」という告白の場合、自分のことを伝えまくって終わる、ということである。「自分のことを話したい、自分のことを理解してもらいたい」という、自分の欲望のみを相手にぶつけていることになる。相手としても、「そんな、自分のことばっかり言われても…」ということになるだろう。ストーカーと呼ばれてしまう状態の場合にも、自分がいかに相手のことを好きであるか、という点のみを一方的に伝えることにもなる。自分自分自分。相手のことは見えていない。これは、言ってみれば、気持ちが悪い。

相手に興味を示すこと。徹底的に興味を示すこと。まるで、広末涼子を知りたいかのように、告白する予定の相手について思いを巡らせること。おそらく、これが第一歩なのであろう。

これができるようになった。確かに告白は成功した。付き合うことが成立した。しかし、問題はまたやってくる。最初のうちは、「相手のことを知ろう」というエネルギーが持続してはいたものの、徐々に、「自分のことを理解して欲しい」部分が前面に出て来る。Love don't come easy, but it's a game of give and takeと歌っていたのは誰だったか。まぁ、ここでいうギブ・アンド・テイクは、おそらくこのエネルギーの交換のことなのだろうと思う。

そして、私はこれが下手である。めっぽう下手である。カウンセラーとして金銭を頂いている際には、仕事なのでさすがに大丈夫だが、日常生活では大変不得意である。喧嘩やいざこざの主な原因は、私側の「俺のことを理解してくれ」がめちゃくちゃ出てしまう時である。そして、私が相手のことを理解するためにエネルギーを割けていない時である。まったくもって、ギブ・アンド・テイクになっていないのである。であるが連発するくらい不得手なのである。

頭で理解できていることと、実行することは、随分違うらしいぜ。

さて、どうするか…。

詐欺師について(別バージョン)

事実とイメージを混同してはいけない。

事実となると、伝わる力が増える。実際には書いていないことであっても、“引用”と称して、さらにはページ数まで付加すれば、「なるほど、そんなことが書かれてあったのか」と、信じてしまう人は増加するであろう。オカルティストと呼ばれる人々の中には、そのような行為を行う者も存在する。たとえば、「タロットの起源はエジプトである」という“ねつ造”を行ったクール・ド・ジェブランという人がいる。その人物が、「大詐欺師カリオストロと、1785年5月10日に開催されたフリーメイソンの会議で出会っている」というポール・クリスチャン(本名ジャン=バプティスト・ピトワ)の書いた“ねつ造”があるという。ジェブランとカリオストロが出会ったということが、コリン・ウィルソンの『オカルト』では、事実であったとして記載されている。コリン・ウィルソンも多少どうかとは思うものの、私は、ねつ造に関しては誠実な方だったと思っている。かなり綿密に調べる人であったと思っている。それでも、見抜けないことがあるということだ。

オカルティストではなかったとしても、学術関連でねつ造と呼ばれるものについては、同様のことが行われることもある。データの改ざんも、実験データ・統計データであるかのように見せることは、ある種の権威の付与である。嘘をつく際の、騙す際の、極めてスタンダードなテクニックである。

騙されることがいけないと言っているのではない。そういうものなのだ、ということである。何かを鑑定するテレビ番組を見ればわかる。鑑定書があれば、人は“本物だ”と感じてしまう。信じたくなってしまう。番組として見るものは随分誇張されているものではあるが、人はおそらく、そういう性質を元来携えている。逃れることはできない。善悪を峻別する理性がある以上、騙される率が減ることはあっても、“何かに騙されないようになる”ということはおそらく、原理的に不可能に近い。だからこそ、詐欺師が“騙す”ときには、理性側に訴える方法を用いることになる。「権威がある者がこう言っている」であるとか、「鑑定書がある」とか、「証明書がある」とか、「科学的な根拠がある」とか、そういう理性側へのアプローチが採択される。そして、理性を用いることで、人は騙される。

しかし、騙されなくなる一つの方法としては、どんなに“証拠”が揃っていたとしても、それらをあえてイメージとしてとらえる、という方向はあるのだろう。たとえば、ギリシャ神話を読んで、それらが事実であったととらえる人は少ないだろう。しかし、当時の人々が、世界をそのようにとらえていた、つまりイメージとして見ることは、誰にでもできることである。これを、科学に対しても行う必要がある、ということになる。ということは、ホーキングの宇宙理論を読む際にも、神話を読む際と同じようなシステムを用いるということである。シュレーディンガーを読む際にも、プラトンを読む際にも、同様のことが適用される。

おそらく、その方向性を一点突破した人が、ユングだったのだろう。魔術的なものであれ、神話であれ、何であれ、それらをイメージとしてとらえるという強力な一点突破である。ユングは、化学の基礎を築いた錬金術についても同じように見る。当時の錬金術師たちは、自らの内的な象徴変容過程を化学的な変化の中に投げ込んでいた、と見る。UFOでさえ、その方向性からとらえる(たとえば、『空飛ぶ円盤』ちくま学芸文庫参照)。それは随分極端なようではあるが、妄信しないようになるためには、かなり有効な方法ではあるのだろう。科学でさえ、夢と同じように扱うということである。


人は、見たいものを見せてくれていると感じるものに入り込む。ある新興宗教にはまることも、ある作曲家の言っていることを事実だと受け取ることも、構造は同じである。アイドルに入り込むことも、自己啓発系のものにはまることも、同じである。ユングに傾倒することも、フロイトに傾倒することも、科学に傾倒することも。言ってみれば、それらの構造は“恋”である。

私は、私が見たいと思うものが、ユングや、井筒俊彦や、エンデや、ドストエフスキーの中にあると感じた。投げ込んだ。恋をした。だから、それらに入り込むことにした。ある部分では同化し、咀嚼することに決めた。

そこに真実が描かれているということではない。私にとって、世界を理解する際に使い勝手の良い構造がある、と感じたということである。理想を言えば、私は、私自身で、世界を理解する枠組みを作り上げたい。しかし残念ながら、ユングや井筒俊彦ほどの理論構築能力は持ち合わせていなかったし、エンデやドストエフスキーほど、先鋭化されたキリで世界を穿って行く力もなかった。だから、その構造を借用することにした。


使い勝手が良いものを選ぶ際、その耐用年数を考慮することは一つの助けとなる。たとえ事実ではなかったとしても、長期間残ることができたということは、そこに人を動かす何らかの力の骨格が存在していた、ということではある。それは、事実である。10年では少々物足りないが、100年単位になれば、まずまずである。その年月の中で、人々の知的/感情的な風雪にさらされ、無駄なものが削ぎ落されている可能性はある(無駄なものが付け加えられている可能性もあるが、それは各時期におけるものを比較することで、付け加えられた部分についてはある程度峻別はできる)。

たとえば、ユングや井筒俊彦が参照するものは、神話であったり、古典的な宗教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム・仏教)であったり、ギリシャ哲学であったりする。これらは、少なくとも千年単位で“生き残った”ものである。本当はそちらを参照したいのであるが、あまりにも膨大であること、また原著で読むことができない(英語ならまだしも、ドイツ語・フランス語はもとより、ギリシャ語・ラテン語・ヘブライ語・アラビア語は、私には到底無理)ため、それらを一挙にまとめてくれたユングと井筒俊彦に頼るしか方法がない。そのため、私の知識などは、ユングや井筒俊彦のフィルターを通したものでしかない(それでさえ、読み切っているわけでもない。大分ダメである)。

過去のものが良くて、現在のものがダメだ、ということではない。現在のものであっても、今後千年単位で、本質的な部分が生き残ることは十分に考えられる。本質を即座に峻別できる人にとっては、現在進行形の新しいものであっても大丈夫なのであろう。しかし、私は臆病なので、古いものに頼っているということだ。


以前私は、ジョゼフ・キャンベルの『神話の力』から、神話を作成した人物たちは当時のスーパーエリートであった、という内容を引いた。その人物たちは、自らが所属する民族・部族を、“正しい”方向に導かなければならない、という、強力な責任感を持っていたということ。もちろん、それだって事実かどうかはわからない。しかし、そういう厳粛な気持ちと命を賭した責任感のもとで生まれたもの、あるいは後世のものがそのようにとらえたものが、千年単位で残るものになるとは思う。この点で他者を騙せるとしたら、それは詐欺師として一流である(おそらく、私は“金儲けのため”ほどではないものの、仕事だからとか、そういうレベルぐらいでしか考えられないから、なかなか一流になれないのだろう)。

耳が聞こえないにも関わらず音楽を作成するということ。それは、目が見えないことによって、異なる世界が見えるようになったという、誰かが言ったことと、構造は似ている。五感が閉ざされることで、異なる世界が観えるという構造は、遥か遠い昔から存在している。結局、目に見える、耳で聞こえる、肌で触ることができる、そういう世界とは異なるものを観たい、という欲望が、思っていた以上に高まっているということでもあるのだろう。

<たんに麻原にだましの才があったためだけではなくて、じつに多くの人びとがだまされることを無意識的には望んでいたという側面もあることを忘れてはならない。>(武野俊弥『嘘を生きる人 妄想を生きる人』新曜社、p. 33)
<自分に都合の悪いイメージや現実は完全に無視し、悩まないでいられるところに、すなわち見事なまでの一面性のなかに空想虚言症の母胎があると考えられる。>(同前、p. 48)


18世紀のフランスでも、20世紀半ばのアメリカでも、20世紀末の日本でも、そして現在の日本でも、あまり変わらないのかもしれない。しかし、その盛り上がり方には、おそらくパターンがある。五感で感じられるものに自信が持てなくなったときなのかもしれない。不安定な情勢で、先行きが見通せない時なのかもしれない。生きていても現実感が持てなくなるような状況が現出したときなのかもしれない。

そのような日本の状況の中で「心の専門家」などともてはやされた職業が、私たちカウンセラーでもある。なんと胡散臭いことか。その胡散臭さは、理解しているつもりである。

<我々精神療法家は、第二の麻原彰晃にならないためにも、みずからの虚偽性に目覚め、それを自覚し、他者に投影することなくみずからのものとして(すなわちみずからの職業につきまとう影として)引き受けてゆかねばならないのである。>(同前、p. 31)

しかし、その影に、いつ乗っ取られるかわかったものではない。たとえば、私の勉強会に参加してくれている学生を、私は、“稲垣の信者”にしてしまいたい欲望がある。あるに決まっている。それを意識しているだけマシなのだろうとは思うものの、それに乗っ取られる危険性はいつも隣にある。極めてピーキーだ。

2014年2月3月の予定

2014年2月3月の予定を記します。

研究室在室予定日

2/5(水)
2/6(木)
2/7(金)
2/10(月)
2/12(水)
2/13(木)
2/14(金)
2/17(月)
2/19(水)
2/24(月)
2/26(水)
3/4(火)
3/5(水)
3/12(水)【15:00から水曜の会】
3/13(木)追加
3/14(金)
3/19(水)
3/25(火)
3/26(水)

メールにてアポイントをとっていただければ、確実に研究室にいるように致します。そうではない場合には、急に雲隠れしている可能性もありますので、ご了承ください。

よろしくお願い致します。

詐欺師

大詐欺師カリオストロは、実際に病を癒したという。人々の騙されたい欲望を直感的に見抜き、それに合わせることができてしまう天分があったのかもしれない。ある意味、役者でもあったのだろう。ただ、どこまで意識的に人々を騙していたのか、それは私にはわからない。無意識的に行っていたのかもしれない。

無意識的に詐欺行為を行うとすると、危ない。何が危ないかといえば、「バレる」。

4人いる師匠のうち1人から、私はこう言われた。

「稲垣、心理士をやるなら一流の詐欺師になれ」

一流であるということは、「バレない」ということである。“死ぬまで騙し通せ、その人が幸せになるように” 私はそう解釈した。騙すことが悪であったとしても、それは私が墓場まで持って行けば良い。それが一流であり、金を取ることであると、私は解釈した。

実際には、私は人を騙すことが上手くはない。嘘をつくことが下手である。まず、顔に出る。だから、嘘をついて騙すことは諦めた。嘘は言わず、本当のことではあるが異なる側面の情報を用いるということ。嘘は言っていないので、顔に出る率は下がる。そして、順序を組み替え、印象を操作し、流れを作り、強調点を変化させ、全体的に与える印象を複雑なものとすることを目指す。善悪美醜を単純に二分するのではなく、どちらかというとグレーの部分を強調し、だからこそ生きている手応えがあるのだ、という大まかな方向性を示す。これは私の場合、何をしゃべっていてもあまり変わらないのだろう。この技術を持って、相手を幸せになるように、死ぬまで騙せるかというと、ちょっと難しい。まだまだではあるが、ただ10年前よりは多少、マシになったとは思う。


4人師匠がいるとか何とか言っているが、その人たちは完璧な人間ではない。当たり前である。しかし、私は、それぞれがある意味“完璧”であると、騙されることにしている。それぞれの人が、それぞれのやり方で、ある部分では“完璧”であるように振る舞っている。どこかに多少無理を感じ取っても、それは無視する。「一流の詐欺師になれ」と言っているそばからその師匠も、私にバレるようなことをする。それは、意識的に無視する。私は、“騙されることによる成長”の力は確実にあると思っている。

理想的な伝説的人物について、色々書物がある。それほど昔ではなくとも、記憶になれば美化もされよう。学生から“中学時代の恩師”の話を聞けば、それがいかに美化されているか、良くわかる。しかし、実際の人物がどうであったか、ということはさほど問題ではないのだろう。それほど素晴らしい人間が実在したとすれば、それは神である。私が言いたいのは、神のような力を持つ存在は、外的世界にあるものではない、ということだ。実在の人物が神のように見えているとしたら、神のような存在と近しい間柄になりたい、という欲望が見させている幻影ではある。おそらく、心理学用語では投影と呼び、陽性転移と呼ぶのだろう。しかし、それは無意識的に投げ込むから問題なのである。どうせ投げ込むことになるのであるから、意識的に、腹をくくって投げ込んだ方がマシである。

私がその4人を師匠と呼ぶのは、鏡を借り、内的世界にあるエネルギーを見るためであった。あくまで、その触媒としてであった。4人いる師匠の、私は何を知っているか。日常生活についての情報もあるにはある。ダメなところも、どうしようもないところも知ってはいる。しかしそれでも、私は彼らを師と呼ぶことを覚悟した、というだけの話である。その姿を通して、言葉を通して、私が内的に向き合う腹をくくった、というだけである。ある意味では、恋愛に似ているのだろう。さめることを覚悟した上で、というよりもすでにさめた状態まで持って行った上で、関係を続けるようなものであろうか。


私は中学生の頃、探偵になりたかった。高校になると、占い師になりたかった。冗談で、詐欺師になりたい、と言っていたこともあった。結局、悪の意識を持って、生きていたいと思っていたのだろう。そして今、カウンセラーをやり、大学で教えたりしているのだから笑ってしまう。

<placeboという言葉はラテン語で「私が喜ばせてあげます」という意味であり、患者を騙すというよりは喜ばせてあげるものなのである。あるいは、喜んで騙されることによって患者の自己治癒力が活性化されるのである。すなわち患者の治癒への期待や願望、つまり治癒への想像力をうまいこと掻き立たせてくれる偽薬のことをプラシーボというのである。>(武野俊弥『嘘を生きる人 妄想を生きる人』)

「騙されたい人」がまた、思っていた以上に増えていた、ということなのかもしれない。だから、ある意味無意識的に、「騙してしまう人」が続出しているのかもしれない。私は新聞も読まなければテレビも見ないので、世の中に恐ろしくうとい。それでも、偽装だか詐欺だかヤラセだか何だかわからないが、ここのところ良く聞くものは、どれも同じような匂いを感じる。無意識的な騙しは、繊細さに欠ける。せめて、本気の騙しかニセモノの騙しかは、見極められるようになりたい。そもそも、本物と偽物など、紙一重である。エネルギーがあるなら、どちらでも私はかまわない。


私が求めるものは、最後まで騙し通す覚悟と技術である。

「別のものになりたい」欲望

「はてしない物語」の再読が終了した。今回は、ハードカバーで読んだ。“こちら側”の時には赤い文字で、“あちら側”の時には緑の文字で印刷されている、かなりヤバい感じの方である(赤と緑の印字というのは、私はこれ以外で見たことがない)。

前半部分は、いわば集合的無意識側とどのように“接続”するのか、という点に重点が置かれている。こちらはそこまで強烈ではない。一般的なファンタジー小説として読んで差し支えない。しかし、問題は後半である。主人公バスチアンが“異界参入”をした後、“現世側”へ戻るための凄まじい道程が克明に記されている。

入ってしまったその世界では、「望む」ことでしか、前に進めない。本来ならば、どこかのタイミングで“現世側に戻りたい”という望みを持たねばならないわけであるが、何せ、なんでも望み通りに世界側が変化するのである。自らの見た目も変化する。願望充足の宝庫である。そういう中で、人は、元の“みすぼらしい”生活に戻りたいなどと願うことができるだろうか。そんなに単純なはずがない。

そしてこれは、“仮に、そういう世界に入ってしまったとしたら?”という生易しい話ではなく、生きている中で、刻々と進行している現象であるということ。ここに記されてあるような流れが、外的現実とペアになって、内的世界で進行しているということ。言い換えれば、内的世界での進行が、外的世界に“転写”されているということである。

バスチアンが首からかけている、異界では絶対的な力を持つ「アウリン」には、このように記されている。

『汝の 欲する ことを なせ』

バスチアンが、その意味を、死を司るグラオーグラマーンに問う。彼は答える。

「それは、あなたさまが真に欲することをすべきだということです。あなたさまの真の意志を持てということです。これ以上にむずかしいことはありません。」

真に欲することを見つけなければならない。バスチアンが見つける最後の望みは、「自分も愛することができるようになりたい」というものである。これは、どこでも聞くような言葉で、誰でも言うような言葉である。しかし、そこに付された意味の重さは尋常ではない。

バスチアンが入ってしまった“内的世界”では、望みを叶えるために、“外的世界”での記憶が引き換えに失われる。そもそも、死を司る者が「これ以上にむずかしいことはありません」と言っているのである。誰かを愛すること。それができるようになるまでに、一体どれだけのものを失う必要があるのか。愛することができるようになるためには、一体何と引き換えにすれば良いのか。それはある意味、命よりも重いものである。

以下は、バスチアンが異界で望み、叶えられたことと、失われた記憶の対比である。

醜い自らの姿が美しく変わることで、かつて醜かった自分の姿を忘れる。
強くなりたいと願い、ひ弱だったことを忘れる。
くじけない意志を望み、弱音を吐いていた自分を忘れる。
偉大な人であると言われたいと望み、からかわれていたことを忘れる。
皆に怖れられる存在となりたいと願い、子どもだったことを忘れる。
賢くなりたいと願い、学校へ通っていたことを忘れる。
狂った場所から抜け出たいと願い、物語を作ることができた記憶を失う。
仲間に入れて欲しいと願い、人に個性があった記憶を失う。
最後の望み、人を愛せるようになりたいという願いを見つけたとき、両親がいた記憶が消える。

そして、愛することができるようになったとき、自らの名前を失った。

果たして、どれだけの人が、誰かを愛するときに、ここまでの覚悟を持っているのだろう。自らの名前を失うということが、どれほどのことなのか。それは、狂気である。死ぬこと、ではない。生きながらに死ぬことである。地獄を引き受けることである。そんなものを引き換えにする勇気があるだろうか。今の私にはない。

小手先で“愛する”ことはできるだろう。確かに、エーリッヒ・フロムが記すように、「愛は技術」であるとも思う。それは極めて具体的な行為である、と。賛同はする。しかし、バスチアンが命を賭して、自らの存在そのものと引き換えに望んだ愛することの重みは、技術という軽さでは表わせない。


最終段階目前で出会う、アイゥオーラおばさまは物語る。

「ぼうやはそれまで、自分とはちがう、別のものになりたいといつも思ってきましたが、自分を変えようとは思わなかったからです」。

ここで言う、「自分を変えよう」とすることは、いわゆる努力でどうにかする、という性質のものではない。強くなるためには筋トレをして、賢くなりたければ勉強をすれば良い、ということではない。残念ながら、そういう一般的に推奨されるような努力はすべて、「別のものになりたい」という願いに括られる。それらは、理性によるコントロール下の、いわば欲望である。

「バスチアンは、最も偉大なものとか、最も強いものとか、最も賢いものでありたいとは、もはや思わなかった。そういうことは、すべてもう卒業していた。今は、愛されたかった。しかも、善悪、美醜、賢愚そんなものとは関係なく、自分の欠点のすべてをひっくるめて——というより、むしろ、その欠点のゆえにこそ、あるがままに愛されたかった」。

これが、他者にも転写される必要があるわけだが、そんなに簡単なはずがない。少なくとも今の私にはできない。親は子どもに対して、こういった愛情、無償の愛を注いでいるではないか、などと言うかも知れないが、残念ながら、そうでもないことも多い。少なくとも私は、息子に“こうなって欲しい”というような欲望が多分にからんでいて、純粋に、どんな欠点もすべてひっくるめて、その欠点ゆえにこそ、あるがままに愛するなどという離れ業を行えているとはとても思えない。

自分の息子に対してすら、現段階では不可能である。他者に対して、一体どこまでできるというのか。

おそらく、一生かかるのである。具体的な生活レベルにおいて、この次元の愛までは必要ないだろう。フロムの記す「技術としての愛」で十分である(とはいえ、それだってもの凄く難しい)。

しかし、目指しても良いと思う。少なくとも、私は目指しはしたい。

読み終わったのが日曜日早朝。しかし、今週月曜から土曜まで、私は「別のものになりたい」という欲望に支配されている。読んだ直後ぐらい、少しはその支配から逃れても良いものを。



関連する引用部分は以下の通り。

p.317
『汝の 欲する ことを なせ』
「それは、あなたさまが真に欲することをすべきだということです。あなたさまの真の意志を持てということです。これ以上にむずかしいことはありません。」

p.282
「自分が美しい」という状態に変わっている。その時、「かつてはでぶでエックス脚だったことをしだいに忘れていった」「自分が以前からずっと今のようだったと思い、まさにそのせいで美しくなりたいという望みはなくなった。すでに持っているものを望むわけはないのだから」。

p.289
「強くなりたいという望みがみたされてしまった」。

p.293
「疲労にも欠乏にもくじけない鉄の固さを持った意思が、バスチアンのうちに目覚めていた」「以前はなんにでもすぐにくじけてしまった自分のこと」「だがそんなことは、今では遠い昔のことになっていた」。

p.378
「ほかのものすべての輝かしい模範として仰がれ、『いい人』とか『偉大なる徳行の人』とか呼ばれて尊敬されたほうが、ずっとよかった。そうだ、それこそ望むところだったのだ」
そして、物語を話すことによって、「よく人から笑われた」ということを忘れた。

p.418
「みながこわがる存在! みなに怖れられ、用心される存在でありたかった」。「また一つ記憶が消えていった。自分の世界で子どもだったという記憶が」。

p.454
「賢いとはあらゆるものごとの上に立ち、人をも物をも憎んだり愛したりすることなく、また他人の拒絶も好意もまったく平静に受けとることを意味していた。まことに賢明であれば、心にかかるようなことはもはや何もないのだ。そしてそうなれば、もうだれの手も届かない存在、だれ一人なんの手出しもできない存在であるわけだ。そうだ、それこそ最高の望みだ」。そして、「自分がかつては学校へ通っていたという記憶の一切を失った」。

p.509
「町ぐるみ狂ったこの場所からぬけだすことだ! 二度とふたたびもどってこないように!」
「ねむっている間に、昔は物語をつくれたという記憶が、また消えていった」。

p.511、517
「仲間がほしい、グループに入れてもらいたい、主君とか勝利者とか、何か特別なものとしてではなく、仲間の一人であるというだけのこと、一番だめな、一番重要でないものでもかまわない、とにかくふつうに仲間の一員で、いっしょになんでもできるそういうものとして仲間に入れてもらいたいという望みだった」。「バスチアンは、この共同体にほんとうに受け入れてもらい、その一員になったことを実感した」「それと同時に、自分がいた世界…に、人間が、みなそれぞれ自分の思いを持ち考えを持った人間がいる、という記憶が消え去った」。

p.518
「けれどもバスチアンは、一人の個人でありたかった。ほかのみなと同じ一人ではなく、一人の何ものかでありたかった。バスチアンがバスチアンであるからこそ、愛してくれる、そういうふうに愛されたかった。イスカールナリの共同体には和合はあったが、愛はなかった。/バスチアンは、最も偉大なものとか、最も強いものとか、最も賢いものでありたいとは、もはや思わなかった。そういうことは、すべてもう卒業していた。今は、愛されたかった。しかも、善悪、美醜、賢愚そんなものとは関係なく、自分の欠点のすべてをひっくるめて——というより、むしろ、その欠点のゆえにこそ、あるがままに愛されたかった/しかし、あるがままの自分はどうだったのだろう?/バスチアンはもう忘れてしまっていた」。

p.531
アイゥオーラおばさま「ぼうやはそれまで、自分とはちがう、別のものになりたいといつも思ってきましたが、自分を変えようとは思わなかったからです」。

p.542
「おばさまがやさしく細やかに心をくばってくれることにも、みちたりたように感じはじめた。そして、そういうものを求めていた気持ちが鎮まるのと同じだけ、バスチアンの心には、まったく別の形の憧れが目覚め、大きくなっていった。それは、これまで一度も感じたことがなく、あらゆる点でこれまでの望みとはぜんぜんちがう欲求だった。自分も愛することができるようになりたい、という憧れだった。自分にはそれができなかったのだということに気がついたのだった。バスチアンは愕然とした。そして悲しかった。けれども、その望みはどんどん強くなっていった」。

「『とうとう最後の望みをみつけたのね。』おばさまはいった。『愛すること、それがあなたの真の意志なのよ。』」

「『アイゥオーラおばさま、』バスチアンも静かな調子でたずねた。『ぼくが最後の望みを見付けると何を忘れるのか、その時がきたら教えてあげるって、約束したでしょ。今、その時がきたの?』おばさまがうなずいた。『あなたは、お父さんとお母さんを忘れたのよ。今あなたには、自分の名前しか残っていないわ。』『お父さんとお母さん?』ゆっくりといってみた。けれどもそのことばは、バスチアンにはもうなんの意味もなくなっていた。もう何も思いだせなかった。」

p.558
妻に先立たれ、心を閉ざしてしまった父親の映像を見つける。その姿は、「完全に透きとおって見える氷の層に、四方八方がっちりと閉じこめられていた」。「雪の上においたその絵を眺めるうちに、バスチアンの中に、この見知らぬ男への思慕が目覚めた。それは、はるかかなたから押し寄せる海の大潮のように、始めはそれともわからないほどのかすかな波が、刻々と近づくにつれ、はげしく、大きく、ついには家ほどの高さの巨大な波となり、すべてを呑み、ひきさらってしまう、そういう気持ちだった。バスチアンは波に呑まれ、あえいだ。心がうずいた。大きくふくれあがった思慕をつつむには、バスチアンの胸はあまりにも小さかった。この大波に、まだ残っていた自分への記憶はすべてさらわれてしまった。こうしてバスチアンは、覚えていた最後のもの、自分の名前を忘れた」。

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