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死ぬことで開くドア

先日、母方祖母の家にいたコーギー犬(コーちゃん、メス)が亡くなった。15歳だったので、大往生であった。私か妻が仕事から帰るまで、祖母宅にいることが多かった。そのため、息子はコーちゃんと随分接している。

「コーちゃんね、いっぱーいいっぱーい いきててね、おーきなはこにはいって、ながーいねんねぐーぐーして、とーくにいっちゃったの」

息子はそう言った。それからしばらくして、私と一緒に布団の上で遊んでいた時、息子はゴムボールを台に置き、

「ボールさんね、ねんねぐーぐーって、ずーっと、ねんねぐーぐーになっちゃったから、おーきなはこにはいってね、とーくにいくの。でも、さみしくないの」

と言った。必死に、収まるところを探している様子がわかる。見ていてとても辛い。

その後、朝、私が保育園に連れて行くと、泣いて私から離れたがらない日が2日ほど続いた。保育園の先生に「何か哀しいことがありました?」と聞かれ、祖母宅の犬が亡くなったことを告げる。先生は、「そっかー…。よし、漱ちゃん、コーちゃんのことを語ろう!」と言うと、「うん」と涙を流しながらも、先生の元へ行った。

帰宅後、妻にそのときの様子を伝える。妻が「そっかー…。漱ちゃん、コーちゃんいなくなって、哀しかったんだねー…」と言うと、息子は私に無言で抱きつき、それから妻に抱きついた。そして妻に、「くんくん、いてよかったー…」と言った(私は“くんくん”というあだ名で呼ばれている)。

また別の日。私が少し遅く帰宅した時、妻と息子は風呂からあがって来るところだった。「くんくん、おつかれー!」。息子はそう言った。私は手を洗い、タオルにくるまれた息子を抱き上げ、暖房のついているリビングへ向う。そのとき、「いま、くんくんっていったのは、あのドアも、くんくんっていうの」と言う。

〈え? あのドアもくんくんっていうの?〉
「そう。くんくんも、くんくん、っていうんだけど、あのドアも、くんくん、っていうの。だから、いま、そうたくんが、おつかれーっていったのは、あのドアのくんくんなの」
〈なんと!!そうだったのかぁ〉
「あのね、そうたくんが、まだ、バブバブのときにね、じつは、あのドアのくんくんは、しんじゃったの」
〈え…〉
「だからね、いまは、ひらくの」
〈そうか…。死んじゃったから、あのドアのくんくんは、開くようになったんだね〉
「うん、そうなの」
〈死んじゃう前は、ドアのくんくんは、開かなかったのかな?〉
「うん。あ、ひらかないんじゃなくって、はずれてて、もうちょっとおおきかったの。それで、おかーさんとか、くんくんとか、そうたくんといっしょに、プラレールであそんだり、ごほんよんでくれたり、いっぱーい、いっぱーい、あそんでくれたの。でも、いまはしんじゃったの。だから、ひらくようになったの」
〈そうか…〉
「むねのなかにね、ビーズがはいってて、でも、それがわれちゃったの。それで、しんじゃったの。でも、ひらくようになったの」
〈うん…〉

抱きしめるよりない。収まりどころが見つからなかったものが、ボールを使った儀式や、見立てによるイマジネーションの中で、何とか場所を探り当てはじめたように思う。まだ、時間はかかるのだろう。

2年前、まだ息子がしゃべっていなかった時、妻の祖母、息子からすればひいおばあちゃんが亡くなった。病院で、私がだっこした状態で、息子はババに“ばいばい”をした。「ばいばーい」と息子が声をかけても、ババは起きなかった。1歳の息子は、不思議そうな、不安そうな顔をしていた。

その後、早朝、私や妻よりも早く起きてしまうと、布団の上をハイハイして来て、私の顔や、妻の顔をなでる、という行動がしばらく続いた。寝ている私たちを見て、“もう起きないのではないか”、そう不安になっているように、私には見えた。目を覚まして動き出す私たちをみて、とても嬉しそうな顔をしていた。

死は、息子にはどのように受け取られているのだろう。子どもの発達段階に合わせて、死の概念の伝え方を変える、ということは良く言われはする。天国に行って幸せに暮らしているよ、と言うこともあるのだろう。遠い国にいっちゃったんだ、と言うこともあるのだろう。しかし、もしかしたら、2歳3歳の方が、私たち大人などより遥かに、死の本質をつかまえているのかもしれない。

死ぬことによって開くようになったドアとは、一体何のことなのだろう。息子は一体、何を観たのだろう。
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ユングのタイプ論と羅針盤

『タイプ論』の中でユングは、「外向ー内向」「思考ー感情」「感覚ー直観」で分ける人間の“8つのタイプ”について論じている(簡単に知りたい場合には、河合隼雄著『ユング心理学入門』参照)。

「外向」は、心的なエネルギーを外的なリアルな物事に、リアルに用いる癖があるか。「内向」は、心的なエネルギーを内的なイメージなどに向けて行く癖があるか。つまり、「外向ー内向」は、“アウトプット”の癖である。

「思考」は、物事を判断する際、理屈によってとらえる癖があるかどうか。「感情」は、物事を判断する際、好きか嫌いか、心地よいか不快かなどによって判断する癖があるかどうか。つまり、「思考ー感情」は“処理”の癖である。

「感覚」は、物事をとらえる際、五感によって得られるリアルなものを基礎とする癖があるか。「直観」は、物事をとらえる際、見たものではなく、その奥に“可能性”をとらえ、いわば第六感的なものを中心にする癖があるか。つまり、「感覚ー直観」は“インプット”の癖である。

思考型、感情型、感覚型、直観型とまず大きく4つに分け、それぞれのサブタイプとして外向的思考型、内向的思考型、などとなる。4×2で8タイプ。もちろん、どんな人間にも思考・感情・感覚・直観は内在しており、心的エネルギーを外側に向ける「外向」的態度も、心的エネルギーを内的なイメージなどに向けるある種内省的な「内向」的態度も、どちらも持ち合わせている。だから、どれか“だけ”、を用いているということではない。ストレスがかかったり、うっかり気を抜いていると使ってしまう型、ということである。

私はおそらく強力な内向的思考型で、物事の“とらえ方”、それらから得られた“イメージ”について、理屈っぽく考えて行くタイプなのだろう。もちろん、“それだけ”を用いて生きているわけではない。外的なリアルな物事に関心をよせ、それらをリアルに物理的に操作することも、もちろん行う(買い物もするし、料理も作る。苦手だが書類だって書く。学会費の納入もする)。しかし、どのような型をメインにして生きているかと問われれば、やはり内向的思考型であろうと思う。しかも、ド内向である。心理学などをやっていて、カウンセラーなどという仕事にまで手を伸ばしているのだから、それはそうなのだろう。外向的に見える部分は、私が努力によって補った結果でしかない。

思考の真逆にあるものは、感情である。たとえば私の場合、理屈っぽく考えることは、ほぼ毎日、特に意識せずとも行っているため、それなりに繊細に、それなりに成熟して来ているのだろう。しかし、感情はほとんど使わない。思考は「主機能」で、感情は「劣等機能」(未分化な機能)と分類される。未分化であるということは、幼く、未熟である、ということだ。だから私の場合、普段は冷静であったりすることが多いのだろうが、怒り出すと“まるで小学生のように”なる。頑なまでに、かんしゃくを起こすような怒り方になってしまう。誰かに甘えるというときにも、普段とは打って変わった、“小学生のような”甘え方になる。それは、未分化な感情が暴走している状態である。

ユングは、これらの分類は、自らが生きて行く際の羅針盤として有効だった、という。「俺は内向的思考型だ。だから、ある意味“外向的な感情”は未分化だから、暴走しても仕方がない。周りのやつら、理解したか? 大目に見ろよ」と開き直って良いということではない。未熟な部分は、なんとかして成熟させた方が良い。今、自分がどちらを向いているのか、どこが手薄なのか、それを判断し、慎重に歩みを進めて行くために、羅針盤・コンパスが必要なのだ、ということだ。ちなみに私の場合には、いつも頼りとしてしまうのが「思考」(1位)、まぁまぁ使えているものが「感覚」(2位)、いまいち上手く使えないものが「直観」(3位)、最も手薄なものが「感情」(4位)という順である。

私の場合、最も未熟な「感情」に手をつけるためには、他の3つの機能からフル・サポートを受けなければならない。そうでなければ、暴走するだけである。第1位の「思考」のみで物事を切り抜けるのではなく、第2位の「感覚」を少しずつ研ぎすまして行く。それが使い物になって来たら、「思考」と「感覚」を補助として使いながら、第3位の「直観」を少しずつ磨いて行く。そしてようやく、第4位の「感情」に手をつけることができるようになる。それが、羅針盤としてタイプ論を用いるということなのだろう。一種のスケールである。ただしこれは、何年かかるかわからない作業である。死ぬまでに終えられれば御の字である。

航海に出る際、羅針盤は絶対に必要だ。その他、海図、天候に関する知識、食料に関する知識、そして身体的な鍛錬も必要である。ユングにとっての航海は、おそらく、集合的無意識側への航海であったのだろう。そして、人間としての(生命としての)成熟に向けての航海であったのだろう。その航海の記録は『RED BOOK』に記されているのであろうが、私はまだ読んでいない(邦訳版も出版されたのではあるが、数量限定であり、かつ高過ぎて私には買えなかった)。

しかし、『RED BOOK』に類するものは、おそらく存在する。先般より言及している、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』もそうであろうし、ゲーテの『ファウスト』もそうであろうし、そもそも、神話とはそういう性質を持ったものだったのだろう。神話とは、航海をする際の“海図”であり、“天候に関する知識”であり、“食料に関する知識”であったのだろうと私は思う。

ジョセフ・キャンベル(『神話の力』参照)によれば、神話は、その民族のスーパーエリートが紡ぎ出すものであった。そのエリートは、民族の未来に対し、命がけで責任を負っていた。覚悟を持っていた。迂闊なことは紡ぎ出せない。その海図を持って、迷わぬよう、民族全体を導かなければならない。それは、並大抵のことではない。

もちろん、今でいうエリートとは異なる。彼らはおそらく、シャーマン(巫女・巫覡)である。シャーマンとなるために必要な資質は、“あちら側”に接続できることである。“あちら側”というものも、呼び名はいくつも存在する。あの世、彼岸、神の国、異界、狂気、集合的無意識、内的世界、神話的世界、夢的世界。何にしても、今、目で見ている世界ではない、もう1つの世界のことを指している。そして、シャーマンとしての資質が発現するのはいわゆる思春期で、そのほとんどが統合失調症の急性期における症状と酷似している。それらの資質をあらわした者に激烈な訓練が施され、それを生き残った者がシャーマンとなる(ミルチア・エリアーデ著『シャーマニズム』参照)。これは東北のイタコ、沖縄のユタも同じである。いわば、海に出て死なないための激しい訓練を、かなりの短期間に行うということになる(生き残れなかった者は、おそらく、今でいうところの精神病者となったのだろう。しかし、隔離されるわけではなく、“勇敢に戦ったが破れてしまった者”として、手厚く保護されていた可能性は十分にあると思う。ただ、その証拠を私はまだ知らない)。

ユングの理論が統合失調症の研究から始まり、そこで集合的無意識というアイデアを得て、神話を凄まじい勢いで研究し、最終的に『元型論』にたどり着いたことには、おそらく重要な流れがある。統合失調症の人々が視る世界崩壊感・妄想・幻覚は、いわば生のままの、“あちら側”の情報である。それは、海図を持たず、知識がなく、身体的訓練をする機会もなく、海に放り出されてしまったものの叫びなのかもしれない。まとまりがなく、形にはなっていないかもしれないが、しかし、接続している先は同じである。

時代・文化・人種によらず、100人に1人、ほぼ必ず発症するという統合失調症。遺伝的な負因が極めて強い「遺伝子多型」であることは分かっているが、残念ながらそれだけでは説明ができていない。私は、その常に一定の発症率に関する理由として、“あちら側”の情報を、定期的・定量的に、“こちら側”に伝える必要があるからではないか、という気がする。そのためには、人口の1%、そのような“管” “通路”が確保される必要があるのではないか。そしてその1%の中から、“あちら側”を翻訳できる、シャーマンを排出する必要があったのではないか、という気がしてならない。現代において、そのシステムはほとんど消えてしまった。“エセ”シャーマンとして、私たちカウンセラーやその他モロモロが跋扈しているのが現状かもしれない。

『はてしない物語』の中で、ファンタージエンを蝕む「虚無」とは、一体何をあらわしているのか。エンデなら、“何かをあらわしている”という言い方は好まないのであろう。それは、「虚無」としか言いようがないもので、何かの喩えではないのだ、そのままのものだ、と言うのかもしれない。しかし、科学的思考に侵され、そのような言語でしか物事を理解できなくなった現代人である私にとって、さすがに“そのまま”では理解が及ばない。いずれ、そのままでも理解できる日が来るのかもしれないが、残念ながら、今ではない。まだ少し、翻訳が必要である。

私は、物質的で、刹那的で、肉体的なあり方を続けていると、「2つある」世界の片方である外的世界にしか目が向かず、もう1つの内的世界に接している部分は「虚無」に侵され、生命の中心部分が空っぽになってしまうのではないか、と感じている。私はその姿を、虚無そのものとなってしまった姿を、ドストエフスキー『罪と罰』における登場人物、スヴィドリガイロフに見ていた。

私の、4人いる師匠の内1人、K氏。そのまた師匠が、K氏にぼそっと言った言葉。

「K君、世界は2つあるんだよ」

若松英輔(『井筒俊彦』参照)によれば、井筒俊彦は言語を通路として“あちら側”を見、白川静は漢字を通路として“あちら側”を見たことになる。小林秀雄もまた、モーツァルトやドストエフスキーの奥に、“あちら側”を見たということに。2つある世界。それは、肉眼で見る世界のことではない。それを、頭ではない“何か”で理解するために、物語が必要なのだろう。

だんだん、『はてしない物語』が最高峰である理由が見えて来た気がする(んですよ、私の妻)。『はてしない物語』が、現代批判である『モモ』の後に執筆されていることには、おそらく重大な意味がある。

『はてしない物語』を再読する準備が整った。

「えらそうなひと」

最近、息子(3歳)が良く口ずさむ歌がある。「ぐるっとまわっていっかいてん」という歌だ(ロシア民謡的なアレンジがなされている。一応、youtubeにアップされている)。これを、保育園に行く時に、息子はベビーカーで熱唱する。結構恥ずかしいが、私も一緒に歌わされる。

その歌詞の中に、

「えらいひとの はんたいは えらそうなひとー♪」

というものがある。大変興味深い。「えらそう」な人は、「えらい」わけではない。「えらそう」に振る舞うことでしか、そのように“鎧”をまとうことでしか、身を守ることができないということか。虚勢を張り、怖そうな服装をし、大声を出す者が実は弱いように、「えらそう」に見えるということは、先手を打って防御しなければ“もたない”、ということか。いや、「俺が俺が俺が!」という状態と権力が結びつくと、「えらそう」になるのかもしれない。うむ、そもそも「えらそう」とはどういう状態なのか、「えらい」とは何なのか…。ぐるぐると回る。

そして、井上雄彦の『バガボンド』を思い出した。沢庵和尚は、宮本武蔵に言う。

<武蔵… 優しくなった
 強くなっているんだな

 強い人は皆優しい>

(バガボンド25巻)

私はこれを読んだ時に、柳生石舟斎宗厳(やぎゅう せきしゅうさい むねよし)と宝蔵院胤栄(ほうぞういん いんえい)の師、上泉伊勢守秀綱(かみいずみ いせのかみ ひでつな)の話を思い出していた。若かった宗厳と胤栄は、当時天下無双、最強と言われていた50歳を超える上泉伊勢守に勝負を申し込む。しかし、上泉伊勢守は、穏やかに、柔らかく、しなやかに、相手の刀や槍をそっと奪う、無刀の兵法を用いる。宗厳と胤栄は仰天する。磨き上げて来た自らの力がまったく通用しない。

胤栄は回想して言う。

<技の研鑽は素晴らしい
 だが心の中は
 “我”
 それのみであると
 師は言われた>

(バガボンド7巻)

柳生石舟斎宗厳も回想して言う。

<「相手に勝ってやろう」
 「己の力を」
 「強さを」
 「存在を誇示したい」
 「俺を見ろ」とー

 師は言われた
  そんなことのために剣は
  ー武はあるのかね?

  我々が命と見立てた剣は
  そんな小さなものかね?

  我が剣は
  天地とひとつ

  故に
  剣は無くとも
  よいのです>

(バガボンド7巻)

授業でも何度か使っているネタだが、私は生き方に迷いが生じると、『バガボンド』を読み返す。引用した部分だって、何度読んだかわからない箇所のはずである。しかし、私は何も理解できていないのだろう。教壇に立っている時、私は「己の力を」「強さを」「存在を誇示したい」「俺を見ろ」と思っていないか。いないはずがない。むしろ、その“我”の力に飲まれていると言っても良いのだろう。そもそも、こんなことを、ここに書いている時点で、「俺を見ろ」である。ぐるぐると回る。

息子は歌う。「えらいひとの はんたいは えらそうなひとー♪」

邪気が無い分、本質に近いように感じる。今、息子にとって、すべては「天地とひとつ」なのかもしれない。しかし息子も、“我”に惑わされる日が来るのだろう。いずれ、必ず来るのだろう。そこをどう乗り越えるのだろうか。父親である私がまだ乗り越えていないのだから、まぁどうにも伝えようがないけれど。

3/12(水)15:00から16:30 水曜の会

次回の水曜の会は、

3/12(水)15:00から16:30
14−101にて

行います。
春休み中ですのでどれだけ集まるのか不明ではありますが、やってます。

テーマは決まり次第、こちらにご報告させていただきます。

エンデのフィールド

ミヒャエル・エンデについて、少し考えていた。

ミヒャエル・エンデ著 田村都志夫訳 『エンデのメモ箱』 岩波現代文庫
pp.200-201「おとぎ話が語ること」より引用
<おとぎ話は外なる社会での世界について語るのではない。もしそこから要素を使うとすれば、それはあのもうひとつの現実のための隠喩としてだけだ。そのもうひとつの現実には魔女も竜もいるし、魔法の剣もあるし、これからもあり続ける。わたしが心理学的解釈を不十分とみなすのは、これらのことが通常ただ象徴としてのみ理解されているからだ。つまり、おとぎ話の情景は本来的でないとされ、ことの核心に迫るには、解釈を通じて、それを本来的なものへ、つまり、“具体的な”概念へ転換しなければならないと考えている。夢判断も同じような方法だ。(…中略…)/それでは、わたしたちにはもうおとぎ話がわからなくなったのだろうか?/いやそんなことはない。だれもが本来、このもうひとつの現実世界を体験できると思う。そこでは問いかけることができ、試練を体験できるのだ。もちろんそのためには、そこへ通じる道をさまざまな手段でふさいだりせず、その道があることを早い時期から知るのが大切だし、教わるのが条件だけれど。だが、それは現代文明が考える方向、その方向が変わることを意味する。いまはまだ、外にだけ向っているのだが。/いつの日か、まことに夢見ることを学ぶ学校がいくつもできるかもしれない。>

ミヒャエル・エンデの『果てしない物語』はあまりにも強烈で、私は、読むと1ヶ月ほど使いものにならないほど「あたってしまう」。ただ、これは映画『ネバーエンディングストーリー』の原作でもあり、児童文学でもあり、子どもが読んで大丈夫なものである。しかし私が読む時には、エンデが「統合失調症発病寸前まで、集合的無意識側に接続し、最深部まで潜り、しかも死ぬギリギリのところで何とか帰って来た記録」として読んでしまう。そのように読んだ際、私は〈エンデさん、ここまで行って、良く戻って来られましたね…〉と驚愕し、恐怖する。その深さまで、私は潜ることができない。そして、『果てしない物語』を読むと、それを疑似体験してしまう。そのため、私は1ヶ月ほど、使いものにならなくなってしまう。私にとって、それは尋常ではないエネルギー量である。ただし、使いものにならなくなった後、まるで「上手く風邪をひき、治った」時のように、何か、老廃物が排出されたような感覚が訪れる。そういうタイプの本がごく稀にあるように思う。

私の妻は児童文学マニアで、何だか知らないが、とんでもない量読んでいる。その中でも、『果てしない物語』は、最高峰なのだそうだ。私はそれほど沢山読んでいないので何とも言えないが、それでも、『果てしない物語』が凄まじいものであることはわかる。それだけはわかる。

そして、上に引用した文章を照らし合わせるならば、『果てしない物語』に出てくる情景は、エンデが「観た」ものである。

ちなみに、『ネバーエンディングストーリー』を見たエンデは、映画会社を訴えている。「私はそんなものを書いた覚えはない」と、相当な怒り様だったそうだ。結局、エンデは負けたのではなかったかと思う。『ネバーエンディングストーリー』自体は、私は嫌いではない。しかし、エンデが描こうとしていたものは、「ファンタジー」ではない。それは、「あちら側」に潜り、その情景を描写し、生きるか死ぬか、その瀬戸際で紡ぎ出した記録だった、ということなのだろう。私はそう思う。それは、怒るかもしれない。

ただ、私の知人に「『果てしない物語』、おもしろいよねー!私何回も読んじゃう!!」と軽く言ってのける人もいるし、そもそも児童文学であるので、誰が読んでも大丈夫なものである。そのあたりが、極めて重要なのだろう。誰が読んでも読むことはできる。しかし、読む人によっては、そこに何が書かれてあるのかがわかること。これ以上の暗号化はないと思われるが、ただ、エンデ自身は、それを暗号化した意識はなかったのではないかと思う。『エンデの遺言』の中で、伝わらないことのもどかしさを語っていた箇所が、確かあった。そのあたりは、以下の引用個所にもにじみ出ているように思う。

pp.44-50「愛読者への四十四の問い」より抜粋
<詩を“理解した”というとき、それはどのようなことなのでしょうか?
おおぜいの人が同じ本を読むとき、本当にみんな同じものを読むのでしょうか?>

おそらく、エンデにとって物語ることは、「詩」の性質があったのではないか。定義によるのだろうが、私は「詩とは、確かに言葉を用いてはいるが、それそのものではないものを表現するもの」ととらえている。人間の感情、ということでも良いのだろう。心でも良いのだろう。ただ、私にとって、最上級の「詩」は、「異界」「あちら側」が透けて見えるものであった。そういう意味で、私はドストエフスキーがとても好きである。ドストエフスキーを読むと、「あちら側」が見える気がする。もちろん、“理解した”などとはおいそれと言えないのであるが。

言語哲学者、井筒俊彦は、ドストエフスキーを「見霊者」と呼び、以下のように記している。

井筒俊彦 ロシア的人間 pp.214-215
<彼にあっては画面はいつも二重写しでぼけている。彼が描くペテルブルグの風景は常に幻影のような印象を与える。これはドストイェフスキーが、日常的人間生活の現実を平面的に描いているのではなくて、実は表面的な現実の向う側に存在するもう一つ別の世界を象徴的に描こうとしているからである。(…中略…)彼はいわばこの時間的秩序の向う側に、時間のない世界、時間的世界とは全く質を異にする世界、時間を超越した永遠の秩序を見ていた。(…中略…)時間的世界の次元には、全く時間を超えた全然別の秩序が刻々に侵入し浸透しつつあって、しかもそれがある偉大な終末を目指して現に着々と実現しているのである。彼が描こうとするのはその光景である。彼自身の基督教的信仰の言葉で言えば、「神の国」が現に、今ここに来たりつつある光景を描こうとするのだ。>

これは、エンデの文とも符合する。

前掲書pp.44-50「愛読者への四十四の問い」より抜粋
<トルストイが書くモスクワ、フォンターネが語るベルリン、モーパッサンが描くパリ、これらの都市は現実にあるのか、あるいはそもそもかつてあったのでしょうか?>

もしかしたら、エンデは、「いつの日か、まことに夢見ることを学ぶ学校がいくつもできるかもしれない」というまさにその“フィールド”を作りたかったのではないだろうか、と思うことがある。少なくとも、書物の上に。

「教師がダークサイドにおちるとき」掲載につきまして

1/11(土)に発売された「月刊生徒指導2月号」に、私の記事が載ります。

「教師がダークサイドにおちるとき」

…良くこのタイトルで編集者も受理したなぁ、と思っておりますが…

リード部分を引用させていただきます。

「体罰とは、教師と児童生徒という力の差を濫用したいじめともいえる。ある種の権力をまとった役割を身につけると、善良な人が邪悪になる場合があるが、それはどのような教師にも起こりうる。」

ただ、「月刊生徒指導」は書店で売っているのを私は見たことがございませんし、Amazonで購入は可能ではあるものの、皆様の目に触れることはあまりないようには思います。公立学校で定期購読しているところはそれなりにあるものの…。

宣伝でした。

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授業の行い方について気付いたこと

ここのところ、いくつかの中学・高校で授業を見させてもらう機会も多く、また学生たちの模擬授業を見ることもあるため、授業の行い方について気付いたことを記す。もちろん、これらは私自身が完璧に行えていることではない。しかし、目標としていることではある。

1)ストレートな表現を用いること。
たとえば、「これがダメだったらコケちゃうよ」だと、どういう意味なのか伝わらないことがある。発話内容を字面そのままで受け取る場合があるため、一斉授業の際には「この小テストの点数が〇〇だと単位がとれません」などと、明確に表現する必要がある。

2)「嫌み」は用いないこと。
「あー、良く頑張ってるねぇ」というような言い方でたしなめることも、字面通りに受け取られ、混乱を招く場合もある。

3)今日やる内容を黒板に示すこと。
私の場合、黒板の左側にセクションを設け、今日やる内容を箇条書きで記している。これは特に、「見通しが立てられないタイプ」の生徒がいる場合には極めて重要である。また、これができるためには、事前に教師自身が、どの内容を行うとどのくらい時間がかかるのか、かなり正確に把握している必要がある。

4)プリントはなるべく簡潔に作成すること。
大学で授業を行う場合には、目一杯記入することもあるのでそれは私の反省点であるが、フォントなども気を遣った方が良い。文字を詰めすぎると、「視覚情報を上手く処理できない」タイプの生徒がいた場合、「単にグチャグチャなもの」として見えていることがありうる。また、プリントの整理をすることが不得意であるために学業成績が不振になるパターンも存在するため、事前にファイリング用の穴をあけておき、ページ数を振っておくなどができれば、さらに良いのであろう。

5)黒板消しを活用すること。
板書が横書きであるならば、綺麗に横に消して行けば、消し跡で罫線をひくことができる。そうすれば、ラインの乱れは最小限に食い止められる。たとえ字が美しくなくとも、横のラインが整っているだけで、生徒は読みやすく、見やすくなる。また、文字のミスを手で消すことは「手を抜いている」ように見えるため、行わない方が良いだろう。

6)チョークの色を活用すること。
色の識別に関しては、「緑/赤」の区別がつけられない場合があるため、なるべく赤は用いない方が無難ではある。そのため、黄色を用いることになるが、白いチョークと黄色いチョークの場合、筆圧が低い場合には区別がつきにくくなるため、なるべくはっきり、コントラストをつけられるようなチョークの用い方を訓練する必要がある。

7)声色を活用すること。
一定の音量、一定のリズムで淡々と続けた場合、リズムによる催眠効果が発動し、生徒は眠くなってしまう。声色の変化を用いると、音のモダリティが変化するため、生徒は「何が起こったんだ?」と、覚醒水準が上がることがある。私の場合には、授業中に1人4役まで行う「一人芝居」を入れるため、声色の変化は活用できるが、一人芝居が不得意な教師ももちろんいるだろう。たとえば、「雑談」を挟む効果は、実は音声のモダリティに変化があることも理由としてあげられる。雑談の最中は、声のトーンに変化が訪れる場合がある。また、「カクテルパーティ現象」を考慮すれば、生徒の関心のあるワードが入れば、その言葉に注意が引きつけられ、目が覚めることが考えられる。生徒の興味関心のあることに注意を向けておく必要があるのは、このためでもある。

8)区切りを明確にすること。
50分の授業を、淡々とぶっ通しで行うと、どこで区切れがあったのか、見えにくくなる。これは、曲の切れ目が分からないようにダンス音楽を作成しているようなもので、どれだけ派手なテクノ音楽であっても、眠くなる。私の場合、板書をしている間は「しゃべっていい時間」として設定しているが、何もそこまでやる必要はないかもしれない。単元が変わる部分、話題がはっきりと変化する部分では、何らかのアクセントを置くことは重要である。

9)黒板を向いてしゃべらないこと。
人間の脳は、唇の動きを見て、自動で音声に変換している。マクガーク効果(McGurk effect)というものがあるが、これはたとえば、口の形は「バ」で、聞こえる音声が「ガ」という合成動画を作成した場合、音声学的に中間の「ダ」に聞こえてしまう現象である。つまり、それほど視覚情報による音声認識は強力であるということになる。ということは、教師が黒板側を向いてしゃべることは、生徒側からは口の動きが見えないため、音声がくぐもってしまう以上に、認識が困難になる。

10)同音異義語を避けて発話すること。
日本語の場合、音声を聞き取った後、脳内で漢字に変換して内容を理解する。そのため、漢字に変換できない音声を聞くと、反応が鈍ることがある。生徒がどこまで漢字を用いることができるのかを良く考える必要がある。小学校で習う漢字は現在1006字であるが、中学・高校の授業であっても、せめてこの1006字で表わすことができる言葉に変換して、言い添える必要がある。しかしたとえば、数学において「相似」という言葉自体は、1006字に含まれてはいるものの、生徒によっては「掃除」と認識してしまい、意味がわからない、という場合もある。「大きさは違うけれど同じ形」と言えば、伝わる部分がある。もちろん、何度か対応させて行けば、「相似」の意味をインストールすることはできるので、徐々に言い添える回数を減らして行くことも重要ではある。

11)「板書→写す→しゃべる」という順番を大切にすること。
パワーポイントを用いた授業の場合等には当てはまらないが、少なくとも私は、パワーポイントが用いられる授業は「眠くなる」。まず、暗くなることが多いため、手元が見にくくなること、単純に暗いために眠くなることがあげられる。黒板に板書をすることによって、「見る(目)」「書く(手)」「聞く(耳)」という、複数の感覚モダリティを使用することで、脳内の多数の箇所を活性化させることができる。

12)授業の目的をはっきりと意識すること。
「学習指導要領に記載されているから、この単元を行う」では不十分である。もちろん、同内容の授業であったとしても、受け取る側によって、受け取る内容は異なる。しかし、少なくとも教師自身が、この内容を用いて何を伝えたいのか、はっきり意識しておく必要がある。それは「二次関数は受験に必ず出るから」というようなものではない。それでは、入試を突破する人数を上げるというビジネスの塾が行う思考パターンである。そうではなく、たとえば「二次関数を知ることによって、あるポイントから急激に数が増えて行くことが見えてくる。これを理解すると、金利というシステムがどれくらい無理があるものなのか、見えてくる。お金とはそもそも何だったのか。お金をもらうために仕事をする、それは重要である。しかし、本当に幸せであると感じるために、それほど莫大な金額が本当に必要なのかを考える必要が出て来たのであろう。そういったことを理解する際たとえば、二次関数の考え方を知っておくことは極めて重要である」というように、単元そのものではない、その奥にあるものを教師自身がとらえているかどうか、という部分が重要になってくるのであろう。

13)横書きで板書をする際、縦線を活用すること。
「半側空間無視」という脳障害がある。これは、脳の右半球を損傷した場合に、視野の左半分を「無視」してしまう、という現象である。しかし、見えている全体の左半分を「無視」するだけではない。たとえば、目の前にカレーがあったとして、その左側にある「ルー」を無視し、右側の「ごはん」だけを食べてしまう、ということが起こる。つまり、何らかの「もの」の中心を脳波自動で判別し、その左半分/右半分、という処理が行われているということになる。つまり、黒板に漫然と板書をして行くと、どこが中心点なのか、わかりにくく、理解が遅れる可能性が出てくる。そのため、横書きの場合、黒板を左側から順番に区切り、縦線を入れることは極めて重要になる。つまり、縦線で区切られた範囲が、一つの「もの」として認識され、中心点が発見される。

14)板書案を作成すること。
教科書を見ながら、その場の即興で板書を行うと、たとえば誤字などが出現する可能性が高まる。生徒の中には、正確に、美しいノートを作成することが重要である場合もあるため、誤字は避けなければならない(私は誤字が多いので、特に気をつける必要がある)。しかし、板書案を、ノートなどに予め作成しておくと、そういった心配は減る。また、黒板に自分が書く文字の大きさなども十分に把握し、板書そのものにどのくらい時間がかかるのかを知っておく必要がある。

15)時間を守ること。
開始時間と終了時間はとにかく守る必要がある。単純なことではあるが、極めて重要である。特に、時間が「延びる」ことは避ける。時間にこだわりのある生徒への対応も含め、教室移動などにも配慮する。そのためには、自分がどのくらいの速度でしゃべるとどのくらいの内容が伝えられるのか、かなり正確に把握しておく必要がある。

16)「えー」「まぁ」「あのー」などを極力減らすこと。
生徒によっては、「えー」「まぁ」などの数を数えてしまい、内容自体を聞くことができない場合がある。そうでなくとも、聞きづらいので、なるべく減らすよう、努力する。

謹賀新年

皆様

あけましておめでとうございます。
昨年度は大変お世話になりました。本年も何卒、よろしくお願い致します。

また12/30、ド年末にも関わらず、ライブにまでお越し下さった皆様には大変感謝しております。誠にありがとうございました。動画をアップロード致しました。下記リンクからyoutubeにジャンプします。

2013.12.30 ゴンボリズム ライブ動画

それでは、水曜の会、および授業でお会い致しましょう。

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Author:ina
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