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「しっくり来る昔話」について

河合隼雄の『昔話と日本人の心』(岩波現代文庫)に、興味深いエピソードが載っている。

<ソ連の昔話研究家チストフが述べている。チストフは日本の昔話「浦島太郎」を孫に読んできかせてやった。浦島が訪れた竜宮の美しさについての描写が続く間、チストフは孫がまったく興味を示さず、何か別なことを期待しているのに気づいた。つまり孫は「英雄」浦島が「怪物」竜王を退治する戦いを期待していたのである。ソ連の子どもにとって、「主人公が竜と戦わず、また物語に出て来る竜王の娘と結局のところ結婚もしなかった理由はとうとうわからずじまい」ということになってしまう>(p.19)

なるほど。「はぁ? 竜宮城に行っておもてなしされて、それで姫様に手も出さず帰って来るわけ? 箱もらうだけで? 戦いもしないの? 竜はどこ行ったのよ竜は。竜宮城なんでしょーに。戦って姫を救出するんならわかるけどさぁ。そもそもなんで箱もらったのよ。しかも変なトラップ付きの。それで帰って来て箱空けたらおじいさんになっちゃいましたって、なめてんの?」ということなのだろう。

おそらく「夕鶴」も、特にヨーロッパ系の子どもが読むと「はぁ?」というストーリーになってしまうのだろう。「あのさぁ。呪いかけられて人間の王子がカエルにさせられてるのを助けてあげるとかならわかるけどさぁ。元は鶴でした? 見られたのに復讐しない? 私は去りますってどういうことさ。結婚しといてなに言ってんの。なんかいろいろ順番おかしいでしょ」ということになりかねない。

しかし、私は、帰って来て何もかも変わってしまった故郷を見て、どうにもやりきれなくなったときに一気に年老いる、という浦島太郎に妙に納得してしまう。結婚して幸せに暮らしていたように思っても、結局「元の何もない」状態に「すっ」と戻ってしまう感じ、というのも、なぜが腑に落ちてしまう。この、後に残る何とも言えない空虚感。こういう感覚を「もののあはれ」と言ったのだろうけれど。

それは、「何度も聞いて慣れているから」腑に落ちやすいのだろうか。それを言うなら、「シンデレラ」だって、グリム童話だって、それなりに小さな頃から触れている。しかし、西洋系の物語に、何かしっくり来ない感じが、私の中に残ってしまう。実感と微妙にずれている。

アラビアにおける太陽の持つ意味と、雪深い地方における太陽の持つ意味では異なって来る。焼き尽す炎なのか、恵みをもたらすあたたかい光なのか。森の意味も、海の意味も、相当異なってくるのだろう。だから、自然環境が大切だ、と言っているのではなく、身の回りのもの、身近なもので想像するしかない部分や、それらを元として生成して来た言語によって、私たちの思考パタンは相当規定されているということを勘定に入れなければならないだろう、ということである。

「花」という言葉と、「flower」という言葉と、「zahra」という言葉で表されるものは、相当違う。違うに決まっている。咲いているものがそもそもちがう。「種子植物の生殖器官」という点で重なっている部分はあれど、それぞれの言葉からイメージする「連想の海」(中井久夫)が相当に異なる。

そういう意味で、童話にしても昔話にしても、「しっくり来る」話の形というものは、おそらく環境にも相当影響されているであろうことは容易に想像できる。

とすると、私のように、いわゆる「自然」とほとんど接することなく、コンクリートの建造物に囲まれ、ゲームを大量に消費し、デジタルなデータから情報を集めた者にとって、童話や神話を理解するひな形はどのように獲得されたものなのか。あるいは、自然環境がほぼ皆無である状態にも関わらず、「日本的」な昔話や神話が妙に腑に落ちる感覚になるとするならば、それは何が影響しているのか。

物理的な環境および言語環境が異なる中で、遺伝的に全く同一のクローン(あるいは一卵性双生児)が育った例があるのであれば、研究が可能なのであろう。実際にあるかもしれない。しかしおそらく、遺伝的な要素とは大分異なる問題のように思われる。帰国子女の方々と話していても、やはりどこか、親和性の高い昔話や好む話の型というものは、文化的な影響を相当強く受けているように思われる。

そのあたりを、おそらく河合隼雄は「父権的」「母権的」という部分で語ろうとしたのではないか、と思う。そして河合隼雄は、日本を「母性社会」と呼んだ(『母性社会日本の病理』講談社+α文庫)。

河合隼雄によると、エーリッヒ・ノイマンは「英雄神話について…西洋における近代的な自我確立の過程を示すものと考えている」(『神話と日本人の心』p.195)という。物語の中の男性の英雄は自我(「無意識から分離され、無意識の影響から自由になり、それを支配しようとする傾向の強い」性質を持つもの)の象徴であり、<彼が退治する怪物は、「母なるもの」とも呼ぶべき、常に自我意識を吞みこんでしまう力をもつ存在である>。

日本のシステムにおいて、無意識的な部分と完全に分離して自我を確立して行く、ということが、あまり馴染まない部分もあるのだろう。ユングの心理学体系が、日本では受け入れられやすいが、欧米ではいまいちピンと来ない、という傾向があるらしい。それはそうなのかもしれない。ユング心理学にそれほど詳しいわけではないものの、無意識側を征服するという方向ではなく、ユング心理学は、無意識とどうやって「折り合いをつけるか」という方向なのだと思う。

ある種の傾向があり、その傾向が、無意識(特に、集合的無意識)とコンタクトをとる際の「癖」として現われるのではないかと思う。チャンネルと言えば良いのだろうか。それを考慮した上で、集合的無意識側への「適応」を考える必要があるのだろう。

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話を聞く「型」について

話を聞く「型」について

リアクションペーパーの内容
・「型を破る」ことの大切さを、この授業を通して知ることができました。
・傾聴技法の実践が、限定されると、自分が何をすべきかはっきりするけれど、自分が今したいことができないので、難しく、不自然な会話になってしまうことがあった。
・自分が話すことが得意なのか、話を聞くことが得意なのか、どうしたらわかりますか?

私が授業中に行ったものは、傾聴技法の基本的な部分のみであった。「頷き・あいづち」「繰り返し」「オープンクエスチョン」。私は、それを「野球のバッティング」にたとえて話をしている。

小学生の頃、野球が得意でブイブイならしていた。しかし、中学生になって、野球部に入り、初めて正式なコーチを受ける。今のバッティングのままでは肘や肩を壊すと言われ、細かな修正を施される。その際、バットの握り方から腕の振り方、腰のひねり方など、一つ一つ丹念に動かし方を教わる。一つ一つの動きはとても「野球」とは思えない。ただ、棒を握る指や力加減だけを練習している。腰のひねり方だってそうである。それぞれは、「野球」のようには見えない。

そして、バットの握り方や、腰のひねり方を一つ一つ気にしていたら、今までのようには打てなくなる。しかし、そういうものである。

野球をやっていたわけではないのに野球をたとえに出すのもどうかとは思うが、おそらく大きくはズレていないと思う。傾聴技法も、そういうことである。「頷き・あいづち」だけを用いて相手の話を聞くことなど、不自然きわまりない。「繰り返し」しかしない相手となど、話したくはない。しかし、それらは「バットの握り方」「腰のひねり方」なのである。単独では意味をなしていない。全体の中で、それらがどのような意味を持つか、一つ一つ感じながら行わなければ、おそらく意味がない。

「頷き・あいづち」には、表情とタイミング、文脈が絡む。それらが組合わさると、単なる「首の動き」ではない。相当な情報を伝達することができる。表情を甘く見てはいけない。「驚き」「興味」「衝撃」「微笑」「困惑」「疑問」「確信」「同意」「黙考」、様々なものを伝えることができる。表情だけでこれらが伝えられない場合には、表情筋を鍛えた方が良いのかも知れないが、それはまた違う話なのだろう。

「繰り返し」には、相手の話した言葉に「アンダーライン」を引き、そこが重要であることが示される効果もあろう。そして、「繰り返し方」によって、上述のような心の動きが伝わり、質問に替えることもできよう。

何も知らずにまず「型」だけをやることの意味は、この辺りのことを自ら看取することにもあるのだろうと思う。しかし、何も考えないまま「型」だけを繰り返していては、それは苦痛である。それぞれの技術がどのようなつながりを持っているのか、その本質を考え、感じ取り、そこから初めて、おそるおそる「型を破る」ことができるのだろう。そこで失敗もするだろうし、成功もするだろう。「型」をなぞっているだけなら、それを教えた者に責任をなすり付ければ良い。しかし、本質を自分で考え、感じ取りはじめたその時から、誰のせいにもできなくなる。だからこそ、「離れる」ことができる。型から離れたとき、ようやく自分なりのやり方が発見できる。守・破・離とは、そういうことなのだろうと、私は思っている。

だから、「初めから型破り」なことができるのは、天才だけである。自分が天才だという自覚があるならば、それはやっていただいて構わないが、誰かに迷惑がかからないところでやっていただきたい。少なくとも私は、まず型を「試してみる」。

写真家、ロバート・キャパは、こんなことを言ったという。「写真は六年で完成する。最初の三年でABCから一切を覚える。次の三年間にはそれを全部忘れてしまうのだ。そうすると自分の写真が生まれてくる」。3年は言い過ぎかとは思うが、覚えた後で忘れるという流れが重要である。

「型」を使ってみて、不自然な会話になったということ。確かに、「今まで考えずに行っていたことができない」ことではあろう。しかし、それは決して「誰が見ても自然」なこととは違う。自分で自然だと思っていたことは、他者から見れば不自然であることなど大量にある。「頷きが多すぎる」「わかるわかる、という口癖が多すぎる」「なぜ、どうして、という質問が多く、詰問されている感じになる」「腕を組んでいるので話しにくい」「口が開きっぱなしで馬鹿にされているような気がする」「話の途中で時計を見ることが多いので、せかされている気がする」「目の逸らし方が変」。それらは、自分では気付かない。そういうものである。にも関わらず、自分のやり方は「自然だ」と思っていることも多い。他者からの評価を気にしすぎ、他者に合わせすぎるのも不健康であろう。とはいえ、フィードバックは必要である。鏡を見ずに、顔に手を当てていても、ほくろの位置まではわからない。表情の作り方だってわからない。他者の反応は、鏡である。その、映された像を元に何をするかが、その人を作るのだろう。

そうは言っても、私は多分、あまり他者の話を聞くことは得意ではない。授業や講演というように、状況は限定されるが、話すことに関しては、それなりに評価されることもあるので、多分得意な方なのだろうと考えることはある。しかし、自己評価はあてにならないものだ。ある大学教員が行ったアンケートの話。テスト直前に授業理解度を聞いたそうだ。その理解度(%)と、実際のテストの点数をプロットする。理解度が80%であるとした学生が最も成績が良かった。そして、理解度が100%であるとした学生は、最低ラインの得点だったのだそうだ。どこまで信頼に足るデータかは何とも言えないものの、それでも「100%の自信」が極めて不安定なものであることは、日常生活における実感ともズレない。チェックする「余白」が失われているからである。かといって、「じゃぁ、80%の理解度って言っておけばいいんでしょ?」というのは違う。そういうことではない。チェック機構が働いていれば、「100%」という回答は出ることがあり得ない、ということである。イチロー選手や羽生名人ですら、「100%」とは言わないだろう。ならば、私たち凡夫に100%などと言えるはずがない。

と、いうことで、少なくとも「話をするのが得意か、話を聞くのが得意か」に関して言うのであれば、自分で自分のことを評価することはできない。関わった他者が判断するものである。

11/6(水)17:00から 水曜の会

11月の水曜の会は、

11/6(水)17:00から18:20
14−101
テーマ「女神と聖娼」

です。精神と肉体の関係性、また、男性にも女性にも存在する「内なる女性性」についてお話しする予定です。

ライブ告知

都内以外のご実家に帰られる方々は確実に来られない日程が設定されておりますが、もし、ご興味がございましたら、何卒よろしくお願い致します。

12/30(月)四谷アウトブレイク
ゴンボリズム

出演時間等が正確にわかりましたら、お伝えさせて頂きます。

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