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スヴェドリガイロフと「虚無」

ドストエフスキー『罪と罰』における、スヴェドリガイロフという登場人物について以前に何度か書いていた。私はそこに、何らかの元型的なものを見ていたのだろうと思う。スヴェドリガイロフという名前をつけて、そのまま元型としても良いのかも知れないが、ただ、もう少し日本に根付いたイメージが欲しかった。

〈限界のない享楽は仮面と結ぶ。虚無と結ぶ。ドストエフスキイの着想中に於ける享楽という言葉は言わばこの世の意味を消失しているのである〉
〈興味の対象は一切その意味を失い、興味だけが存するとでもいう様な精神の地獄こそ、スヴィドゥリガイロフが背負わされた作者の着想なのだ〉(小林秀雄「罪と罰について1」より)

小林秀雄の言うところの「虚無」というものが、私が言いたい元型に近いのだろうとは思う。ただ、ユングが言うところの「シャドウ」「ペルソナ」「太母」などとならべて「虚無」というのはどうにも座りが悪いのだが。

多分、ここから私は、境界性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害と呼ばれる状態の元にある、“自分のことが大嫌いな状態”というものを思い浮かべている。バリントは「基底欠損」という言い方をする。自分のことが大嫌いというより、私なんか消えてなくなれば良いとか、根絶やしになれば良いとか、そういう半端ではない嫌いさであるから、一般的な“嫌い”という用語を当てはめるのも違うのかも知れない。自分のことを“愛せていない”状態、そのために、自分というものの中心部分にぽっかりと穴があいてしまっている状態。その穴を、境界性パーソナリティ障害ならば、他者(殊に異性)からの好意や関心で埋めようとする(人間中毒)。自己愛性パーソナリティ障害ならば、権力や名声などで埋めようとする(権力中毒)。そういうことが多い。

しかし、決して埋まることはない。なぜなら、「基底欠損(basic fault)」というように、人間と人間が相対する時に必要な、土台部分がない状態だから、いくら柱を立てたところで砂上の楼閣のようなもの、ということになる。ぽっかりとあいた穴は、まるでブラックホールのように、他者からに関心を吸い込み、名声や権力を飲み込んで行く。そこに際限はない。量だけが増えて行く。

「基底」とは、自分で自分のことを、条件抜きで認めているという状態、言わば自分自身を”愛している”状態(愛という言葉の定義ほど困難なものも無いであろうが、愛という言葉から漠然と浮かぶ印象で話を進めて行った方が良いのかも知れない)である。「若くて美しい自分が好き」「会社でのポジションが高い自分が好き」「友人が沢山いる自分が好き」「運動神経が良い自分が好き」などの場合、これは“条件付き”で自分のことを好きである状態となる。例えば月日が流れ、美しさを失った自分を認められなくなった場合には、自分自身を好きではなくなってしまう。これは極めて不安定な「好き」ということになる。そうではない、条件なしで自分自身を愛するというのは、もっと漠然と、存在していてありがたいとか、何となく今日は気持ちが良いとか、そういう原初生物としての感覚にどちらかというと近いように思う(ちなみにそれは、頭だけで考えたものではなく、その瞬間の身体感覚とも密接な関わりを持つもののようだ)。

人間として生きている以上、社会というシステムの中で共同生活せざるを得ず、その中では常に、他者との比較を基盤とした様々な”条件”が加わってくる。そのため、そういった条件をすべて無視し、存在していることそのものがありがたい、という気持ちになるためには、おそらくかなり宗教的な修行をする必要が出てくるようにも思う(多分、それでもごく少数の人間しか、その境地に達することはできないであろう。通例、そういった極致のことを悟りと呼んだはずである。また、どの宗派にも属さずに宗教的な人間というものもいることは忘れてはならない)。鳥のように、虫のように、木のように、存在していることそのものである存在となるには、人間は遠く離れすぎてしまった、ということなのだろう。それを旧約聖書の失楽園に求めても良いし、新約聖書を紐解いても、コーランを紐解いても、大乗起信論を紐解いても良い。どこにでも描かれている超絶普遍的なテーマであるから。条件を廃し、自らを愛することが簡単なことであるなら、宗教的にも根本的な問題となることはないだろう。

だから、無条件に自分のことを愛しましょう、と言ったところで、机上の空論となりかねない。少なくとも、私自身について言えば、それは明らかに机上の空論である。無理である。私は、鳥のように、木のように、存在していることそのものと一体化できるほど素朴にはなれない。

ただ、そういう「存在していてありがたい」と思える“瞬間”というものは、多少は訪れるものだ。ごく短い時間。それは、コンマ数秒というレベルであることも多いように思う。それだって、法外の喜びであろう。多分私が、どれも拙いものではあるものの、音楽活動をしていたり、写真を撮ったり、立体物を作ったり、絵を描いたり、文章を書いたりするのは、そういう瞬間を求めている部分があるのだろう。おそらく、まさにそういった研究をしている友人に言わせれば、これは至高体験(peak experience)ということになろう。

極々稀に、そういった瞬間が訪れる場合がある。年に2回あるかないかではあるが、おそらくこれはそれなりに多い回数なのだろう、とは思っている(そんな統計を調べたことがないのでわからない。また、そういった感じ方の強度は人に寄ってかなり異なり、数値化することは極めて困難ではあるのだろうが)。稀に、私が開くこの勉強会で喋っている最中に起こる場合もあるし、講義中に起こることもある。後から振り返って「あ、あの時そういえば」と思い出すことの方が多い。”その瞬間”というのは、どちらかというと忘我の状態であるため、その状態をその時点でモニターすることができていない(ただし、これは“トんでいる”状態とはかなり異なる。思いのほか冷静である。ここが大変表現しにくい。薬物を使用したことがないが、多分薬物を使用した場合の忘我とは性質が異なるのではないかと思う)。そして、少なくとも私の場合は、何らかの表現活動を行っている最中に起こることが多い。

ただ、これは見地を変えれば、様々な活動を「中毒的に」行っていることとさほど区別がつかない。そこには“量”が溢れている。そして、そういった瞬間を求めているということ自体、私が「虚無」に囚われている証拠とも言える。だからとても難しい。

私には「基底」がきちんと備わっているのかと問われると、自信を持って「はい!」と答えることもできない。どこかしらいびつで、完全にbasicが、つまり私自身における人間関係の基礎工事が完璧に行われているとは、私には言えない。もしかしたら、それは自分で判断できるものではないのかもしれない。basicと言ったところで1つの“もの”ではなかろう。おそらく、その基礎工事部分は、様々なパラメータがあり、それらのパラメータは数値がグラデーションする。しかも、すべてのパラメータがmaxになっている状態とは、実はいびつの極致なのかもしれない。簡単に判断できるものではない。

結局のところ、境界性パーソナリティ障害・自己愛性パーソナリティ障害に共通するような「borderline personality organization(BPO)」の大本に、私は虚無という元型を見ているのだろう。

虚無に囚われている状態と、虚無そのものと同一化してしまった状態とでは、また異なるのだろうとは思う。この文脈で言うならば例えば、ニーチェは虚無を乗り越えようとそれと対峙し、むしろ虚無に見入られてしまった、とも言えるのかも知れない。『キャッチャー・イン・ザ.ライ』のホールデン少年は、虚無に振り回され、飲み込まれてしまったのかも知れない。もしかしたら、著者のサリンジャー自身も。ハイデガーはどうだろう。例えば『存在と時間』のように、虚無と対峙しようとして、最終的に虚無に飲まれてしまったようにも見える。サルトルはどうだろう。一致するような瞬間を味わったらしい様子は『嘔吐』の中にも見られるが、どうにも苦しそうである(何せ、吐き気を伴ってしまっている)。バタイユはどうだろう。『眼球譚』や『マダムエドワルダ』などを読む限り、少なくとも、虚無に“魅せられている”ように見える。知的な快楽も、場合によっては「限界のない享楽」となり得るように思う。

しかし、“虚無と一体化している状態”となると、スヴェドリガイロフの独壇場であるように、私には感じられる。魅せられているとか、囚われているとか、そういう次元を遥かに超えている。さほど本を読んでいるわけではないが、それでも、スヴェドリガイロフ以上の、虚無そのもののようなものに触れたことがない。多分、だから私は元型的だと思ったのだろう。

J. M. マリは、ドストエフスキーの作中人物について、このように表現している。

〈彼〔ドストエフスキー〕がこの世に呪い出した――この言葉を熟慮の末に用いるのだが――霊どもに思いをはせるとき、ときおり感覚を絶した恐怖に襲われるのだ。恐るべき一瞬のあいだ、私は永遠の眼で事物を眺めるかと見えて、日も星も冷えゆくのを見、荒涼として氷結した宇宙を音もなく横ぎって呼び合う声のこだまを聞く。〔中略〕そして私は、思うだにぞっとする――いつかこれらの霊どもが人間の姿をとって人々のあいだをさまようのではないかと恐れるのだ。〉(J. M. マリ『ドストエフスキー』)

ここでは、霊という言葉で、元型的なものが現されていると考えて良いだろう。そして私が、ドストエフスキーの作中人物の中で、際立って元型的に感じたのがスヴェドリガイロフであった。

マリ曰く、ドストエフスキーが「この世に呪い出した霊」の中でも最強の部類に属するスヴェドリガイロフが、現代の私たちの中を歩く。それは虚無だ。無神論と結びつけられるかもしれないが、神というより、生命というエネルギーそのものとの接続を失った状態と考えてみた方が、宗教を持たない私にとっては理解しやすい。ユング的に言えば、集合的無意識との関係が失われている状態とも言えるのだろう。そういう虚無のエネルギーが、私たちに迫っているということ。

もちろん、スヴェドリガイロフが歩いているわけではない。虚無のエネルギーがそこら中に溢れていて、うっかりするとそれに見入られる。囚われる。生きている実感が失われる。中毒的に、仕事を行ったり、異性を貪ったり、権力主義的になったりする。そういう人間の実数が増えて行く。それをドストエフスキーの予言と取るか、マリのようにそのエネルギーそのものを「呪い出してしまった」と取るか。


もちろん、私は、何かを呪い出すとか、霊が歩くとか、そういうことをリアリスティックな次元で言及しているわけではない。少なくとも、私は霊を見たことはないし、呪文を記して誰かを呪ったこともない。しかし例えば、境界性パーソナリティ障害や自己愛生パーソナリティ障害について考えてみる時、あるいは診断名が付かずとも、似た傾向を持つ状態を考えてみる時、このような“物語”もまた、効果を持つこともあるのではないか。

そのようにしてみると、私も含め、虚無の毒に、スヴェドリガイロフの負のエネルギーにあてられてしまった人は、随分沢山いるように見える。


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