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3/13(水) 4限 14−101 水曜の会(3/6更新)

3月の水曜の会は、

3/13(水) 4限
14−101
「“憑き物落とし”と心理療法」

です。

時間帯が普段と異なっておりますので、ご注意下さい。

春休み中のため、帰省されている方も多いかと思いますが、もしお時間がございましたら、よろしくお願い致します。

お待ちしております。


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誤読について

先日のエントリーで、私は、書籍を参照する手間を惜しみ、覚えている限りで〈ロバート・キャパは「写真をマスターするには、6年で十分だ。最初3年ですべてを覚え、残り3年ですべてを忘れる」と言ったらしい〉と書いた。しかし、気になって、横木安良夫著「ロバート・キャパ最後の日」を確認すると、実際には以下のような文言であった。


〈井上繰次郎は、印象的なキャパの言葉を覚えていた。/「写真は六年で完成する。最初の三年でABCから一切を覚える。次の三年間にはそれを全部忘れてしまうのだ。そうすると自分の写真が生まれてくる」。それは「格に入って格を忘れろ」という日本の言葉そっくりで面白いと思った、と書いてある〉(横木安良夫「ロバート・キャパ最後の日」p. 33)


おおよそ、ズレてはいない。しかし、私の文章と、横木氏の引用文とでは、随分印象が異なる。このズレが、私が「誤読」したログであり、私が「読みたかった」文章の内容であり、私の中で変化した記憶の痕跡である。

まず、「6年で十分だ」と私が受け取っているということ。これは、ロバート・キャパほどの人であれば6年でマスターできる、自分には無理だ、という気持ちが反映されているのかもしれない。6年というのはかなりの年月である、と思っているのかもしれない。今、私が写真を真剣に撮りはじめて5年経過している、という点も重要なのであろう。また、私は「写真をマスターするには、6年」と書いているが、横木氏の引用によれば6年で〈自分の写真が生まれてくる〉ということである。〈写真の完成〉とは、〈自分の写真が生まれてくる〉ことである、と。これは、「写真をマスターする」ことと、相当ニュアンスが異なっていることがわかる。


まず、私が「マスターする」ということに、現段階でどのような連想の海を持っているかが問題だ。試しにやってみる。

【技術、完璧、欠点がないこと、認められること、覚えていること、意のままに操れること。】

思った限りで書き出してみたが、つまりそういうことを思い描いていたのだろう。前回のエントリーを再読すると、そういった技術的なものではなく、自分が撮影したいようなものを表わすことができるかどうか、という点を目指したい、と読める。つまり、キャパの言葉自体をある部分で否定するところからはじめ、自分の撮影したい、自分らしいものに到達したい、そう論を構成しているようである。

しかし、実際に私が読んだ文章には、そもそもの初めから〈写真は六年で完成する。最初の三年でABCから一切を覚える。次の三年間にはそれを全部忘れてしまうのだ。そうすると自分の写真が生まれてくる〉と書かれているのである。


一体、私は、何を否定したのか。


おそらく、写真の技術的なものを沢山集めて、カメラを沢山集めて、それを操作することが楽しくなっていた、今の自分自身を否定したかったということなのだろう。それで良いのか? と。





誤読していることに気が付けると、色々なことが見えてくる。文章の誤読という点に関して、私が書き写しておいたジャン・コクトーの文章がある。

〈ぼくは読む。読んでいると思い込んでいる。読み返すたびに、きまってぼくは読んでいなかったことに気付く。これは手紙の場合厄介なことになる。自分が探し求めているものが書いてあればそれで満足し、どこかにしまいこむ。なにかでその手紙がまた見つかり、読み返していると以前読んだことのなかった別の手紙を読むことになるのだ。/書物も同じ遣り方でぼくらを翻弄する。書物がそのときのぼくらの気分に一致しなければ、ぼくらはそれらを良い書物とは思わない。書物がぼくらを混乱させると、ぼくらは書物を批評する。するとその批評はその上に積み重なり、ぼくらがそれらを忠実に読み返すとき邪魔をするのだ。/読者の望み、それは自分を読むことだ。自分がよしとするものを読み、これなら自分にも書けたのになどと考える。また彼は、その本が自分の場を奪ったことや、自分では語るすべも知らなかったことを語ったとして恨む。自分ならもっと巧みに語れるのにと思いさえもする。/本というものはぼくらにとって重要になればなるほど、その読み方はむずかしくなる。ぼくらの本質はその中に滑り込み、ぼくらの用途に合わせてその本を考えてしまうからだ〉(ジャン・コクトー 秋山和夫訳「ぼく自身あるいは困難な存在」)



今、延々と学生のレポートを採点し続けている。私が授業で言った内容と、大分異なることが書かれている場合もある。時間経過とともに、記憶が変化している、という説明もできるかもしれない。コクトーに倣って言えば、学生は私の話を聞きたいように聞いた、ということなのかもしれない。


特に多い「ズレ」は、私が授業中に言った「勉強をしている内容が役に立つか立たないか、それを今の時点で決める権利がない。役に立つか立たないか、という二分法的な考え方自体を一度棄てる必要があるのではないか」という話である(内田樹氏がどこかで書いていた内容を用いて、私の体験と合わせて話した内容)。幾人かの学生はこれを〈「勉強はいつ役に立つかわからないからやっておけ」と先生は言っていた〉と書いていることが多い。そうではないのだ、似ているけれども根本的に違うのだ、とかなり強く念を押して伝えていたにも関わらず、である。


他にも、井上雄彦氏のマンガ「バガボンド」の話題を授業中に出したことがあった。しかし、レポート内には〈先生が紹介した「バカボン」を読んでみたいと思いました〉と書かれている。これは発音が似ているので仕方がないとも思うが、授業中に「スラムダンクで有名な井上雄彦さんが描いた今も連載中のマンガである」こと、「宮本武蔵の話」であること、「吉岡一門70人を1人で斬り殺す壮絶なシーンについて」など、はっきりと明言しているにも関わらず…。


これは、集中して聞いていたかどうかの問題ではないのだろう。どのように「思い込んでいるのか」によって、聞き取る内容そのものが変化してしまう、という可能性の方が高いように思う。



そしてそれは、私自身にも起こっている、ということが、前回のエントリーで良くわかる。



思い込むことによって、相手が伝えようとしていた内容を遥かに超えたものを勝手に学ぶこともあろう。その可能性は否定しない。しかし、何にしても、自分自身がそういった「誤読」「誤聞」をする可能性をきちんと勘定に入れておかないと、柔軟性を失い、凝り固まった、自らが正しいと言い張るような人になったり、あるいは逆に、狂信者のようになったりするのかもしれない。さらに、「誤読」「誤聞」することに開き直ることもまた、私は違うだろうと思っている。それはそれで、柔軟性を失っている。


今、私はどうなのだろう。まだ、少しは柔軟性を維持できていると、思いたいけれど。




春休みの予定

春休み中の、出校予定日を記します。

2/5 (火) 採点中
2/6 (水) 採点中
2/13(水)
2/20(水)
2/25(月) 17:00から教授会
2/26(火) 15:00から会議
3/6 (水)
3/13(水) 4限 14−101にて 水曜の会
3/25(月) 卒業式(私は出席しませんが、大学にはおります)
3/27(水)

よろしくお願い致します。

プロフィール

ina

Author:ina
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