スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「自分自身のことが嫌いである自分が好きである」的な状態への対処

いくつか仕事を掛け持っていた時、あるいは幾つかサークルを掛け持っていた学生時代がある。Aという所属集団であまり打ち解けることができなかったりすると、「まぁ、Bでは上手くいっているし」というような考え方が浮かぶ。それは今でも、「Cの仕事が上手く行っていなくても、Dという仕事では評価されたし」というような思考パタンが浮かぶことがある。

ある意味では、自分自身への評価をある程度保つために必要なことなのだろうと思うし、健康であるということでもあるのだろう。しかし度が過ぎると、失敗や上手く行っていない状況の分析がおろそかになることもあろう。特に、Aという所属集団にいながらも、Bという所属集団で上手く行っていることを話したり自慢したりしたくなった時には注意が必要である、と思っている。


自分自身への評価のことを、自己評価と言ったり、自分自身のことを大切だと思うことを自尊感情と言ったりする。自己評価が高いことを良しとする場合もあるし、自尊感情が低いことを悪しとする場合もある。それは確かに一理ある。自己評価や自尊感情が低すぎる場合には、何をするにもエネルギーがないような、極めて受け身であるような、かといって芯から謙虚なわけではなく、妙に斜に構えた卑屈なモードが見え隠れし、実のところ「そんなことないよ」と言ってもらうのを待っているかのような、複雑で厄介な状態に陥っていることもある。

自分自身でその状態に入っていることに気が付いていることが、まだマシかというと、これもそうでもない。「自分自身を評価できないという状態を知っている斜に構えた自分というものが嫌いではない」という、まるで二重否定のような「結果的に自分のことが好き」というパタンに入る場合すらある。

これは、「自分自身のことが嫌い」→「自分自身のことが嫌いである自分が好き」→「自分自身のことが嫌いである自分が好きである状態が嫌い」…というように、延々と続く可能性を秘めている。まるで、花びらを一枚ずつむしりながら、「好き、嫌い、好き、嫌い…」とやっているかのようだ。結局、自己評価や自尊感情が低いとか高いとか、どの時点での「好き/嫌い」を汲み取るかによっても変化してしまうので、あまりこれらの言葉に左右されない方が良いのかも知れない。

ただ、何にしても、「自分のことが評価できていない状態」というのは、「自分のことが好きではない(嫌い)」という基底がある。それが何重にも「好き嫌い好き嫌い」で覆われ、何が何だかわからないようになっているとしても、最終的に「他者からの評価」を求めて動くという部分はおおよそ変わらない。私が、A集団でうまくいっておらず、A集団にいる最中に「B集団での自慢」を始めている時には、B集団では上手く行っているということをA集団メンバーから評価されたい、ということに集約されるであろう。

ややこしい話を持ち出して申し訳ないとは思うが、実際ややこしい問題なのである。

ある種の能力が高いほど、複雑になって行く傾向があるように思える。それは、知的能力とはいいがたい。やはり、ある種の能力としか言いようがないのであるが、強いて言うなら、「他者の感じていることを看取するアンテナの感度」とでも言おうか。感度が高いだけで、それを上手く使えていない場合に、この暴走が起きることが多いように思う。

そういう、アンテナの感度は高いのだが、上手く活用する方法を学ぶ機会がなく、また上手く活用しているモデルを見ることもなく、たとえば十数年生きていると、知らぬうちに、相当複雑になってしまっていることが多い。どのくらい複雑かと言えば、例えば、

「自分のことを認められないということは知っている。そういうことに自覚がある自分のことは嫌いではないが、かといってそんな風に物事を考えている自分はやはり他者から認められるとは思えない。とはいうものの、そういうことを認める/認めないという二分法で考えているような人から評価されたいとは思わない。結局、そういう孤高の存在である自分のことは嫌いではないが、しかし孤立していることに目をつぶっているだけでもあるので、そういう自分は好きではない」

というくらい複雑になっていることがある。

こうなってくると、最終的な「自分は好きではない」から遡って行っても、最初の部分に到達するまでに相当障壁があることになる。

このような場合、「結果」から物事をとらえるしかない。例えば、私が〈A集団にいる最中に「B集団での自慢」を始めている〉という行動が結果としてあり、それは最終的に〈A集団メンバーから評価されたい〉ということである、という、ある種の単純化である。もちろん、仔細に眺めれば、単純なわけではない。「お前は結局A集団メンバーに評価されたかったんだろ?」と誰かからしたり顔で言われた所で、私は反発しか感じないだろう。私が言おうとしているのは、自分で自分を分析する時に、という話である。

〈A集団にいる最中に「B集団での自慢」を始めている〉→〈A集団メンバーから評価されたい〉。ここに、コメントを差し挟むとすると、「いや、A集団メンバーのことを、私は内心馬鹿にしていて、お前らなんかに俺のことがわかるかよ、ということを、B集団における自慢をすることで伝えたかった」「結果的にA集団からつまはじきにされることによって、実はA集団から抜けたかった」など、様々なものが出て来る。しかし、それらは一旦脇に置いておいた方が良い。この例で言うのであれば、〈A集団の中で、題材は何であれ、自慢話をしている〉という点が重要なのである。

「好きであることの反対は嫌いではなく、無関心である」という内容の言説は、有島武郎だか、マザーテレサだか、そういう人々が書いたり言ったりした内容だそうだ。例えば、無関心な人に対して、自分自身の自慢をするだろうか。真の意味で無関心なのであるから、自慢話はしないだろう。自慢話をしているということは、好きであれ嫌いであれ、その相手に対して何らかの関心を持っているということである。そしてその関心は、自分自身に関心を向けて欲しい、という関心であろう。

だから、結果的には単純な「行為」が浮かびかがって来る。内的には本当に何を考えたのか、何を感じたのか。それは自分自身にだって分かったものではない。人間は、いつもそんな明晰に理由を持って行動しているわけではない。まず、自分が「してしまった」行為を、その行為がどのような印象を(自分自身に)与えるのか、という点のみに注目し、自分自身を他者のように分析する、言わば「自己知覚理論」から考えることが、このような複雑さに到達してしまった場合には有効であろう、ということである。

しかし、そこで導き出されるものが「本当の自分」だというわけではない。ここが厄介なところである。ここでの自己分析の目的は、あくまで、自分がしている行為から、自分が動く傾向を把握する、ということである。それを把握した上で、自分がどのような結果を求めていたのかを、まず単純に考えてみる、ということである。

そのような道筋で考えれば、〈A集団メンバーから評価されたい〉ために、〈A集団にいる最中に「B集団での自慢」を始めている〉というやり方はあまり効果的ではない。〈A集団メンバーから評価されたい〉ための行動は、たとえば〈A集団の人々の話を、まずは邪魔せずニコニコと聞いている〉であったり、〈あまりにも相性が悪い場合には、仕方が無いので、ニコニコしながらA集団から離れて行く〉であったりするのであり、少なくとも、〈B集団での自慢をする〉ことは、求めていた結果を何一つ導き出さない、ということになる。

まずは、それで良いだろう。

そこから先は、誰かに気に入られる技術のようなものになってくるので、次元の違う話である。まずは、妙なことをしているのをストップする所からはじめるしかないように、私には思える。


スポンサーサイト

仮面とレンズと「本当の自分」

昔の仲間たちに会う。おそらく、15年ぶりの人もいたであろう。太った痩せた老けたなど、見た目には変化があるが、歩き方や喋り方、座り方などを見ると、そういった無意識的な動作には変化がないということに気がつく。癖と言えばそうかもしれない。しかし、そういった動きというものは、隠し立てできない、その人の性質がにじみ出るものなのではないか、という気がして来る。おそらく私自身も、中学生・高校生の頃と同じ座り方や喋り方、仕草をしていたのであろう。

もちろん、この15年で様々な知識・技術がついている。仕事をしている姿を見れば、随分印象が異なるのであろう。それは私だってそうだ。おそらく、今回集まった知人たちが、私が大学で授業をしている姿を見たり、カウンセリングをしている姿を見た場合、随分印象が違う、と思うだろう。しかし、それはあくまで「後から付いた技術的な部分」である。彫刻家にとっての、彫刻刀の扱い方のように、仕事のために身につけたものでしかない。

では、私が身につけたものとは異なる、15年経っても変化しない部分が「本当の自分」であるかどうかというと、それは良くわからない。ただ、数十年経過してもあまり変化しない「素材」としての自分は存在するように思える。


例えば、私が「大学の教員」という仕事上の技術部分を、自分の本質であるかのように日常でも振る舞うとすると、素材としての自分を覆っている技術的な部分が分厚くなって来る。もしかしたら、それでも足りないと思えば、更に上から、新しい技術的なものを何重にも塗りたくり、それで日常を過そうとするかもしれない。ユング心理学で言うところの「ペルソナ」の考え方に近いのであろう。図にしてみると、このようになるのかもしれない(図1)。
スライド1
図1



素材としては緑色のものを設定している。折角だからピーマンとしようか。私の素材はピーマンである。しかし、大学の教員という「肉料理」として振る舞うために、赤い色の覆いを被った。脱ぎ着できる内は良いのであるが、これがあまりにも分厚くなると、緑色のピーマンは姿を消してしまい、後から付着させた「肉料理」の仮面が前面に出て、勝手に振るまい始める。それが、「ペルソナに乗っ取られた」状態なのであろう。家に帰っても、友人といても、どこにいても「大学教員」になってしまったら、それは図2のような状態である。それは喩えば、ピーマンを細切れにして、ハンバーグにつめるようなものかもしれない。確かに、ピーマンが嫌いな人でも食べることができるぐらい、ピーマンの味は消えている。ハンバーグとしては悪くないかもしれないが、ピーマンの気持ちになってみた方が良い。私は、ピーマンは不本意であろうと思う。もう少し、ピーマンとしての味を引き立てた料理を作って欲しいと思う。
スライド2
図2



「ペルソナ」は重要なものである。友人関係ペルソナ、仕事上のペルソナ、親としてのペルソナ、様々なものを付け替えて生きる。そういう意味では、図3のような状態が、一般的には理想とされる状態かも知れない。様々な色のペルソナがあり、それらを緑の中心部分が付け替えながら生きている感じである。素材の喩えでいうのであれば、ピーマンを細切れにすることなく、「ピーマンの肉詰め」にすることによって、ピーマンの味も、肉の味も、共に引き立てつつ、肉料理として提供するようなものだろうか。
スライド3
図3



しかし、これらの喩えは、中心部分の素材が単色であることを前提としている。実際には、単色ではないだろう。邪悪な部分も、神聖な部分も、卑猥な部分も、勤勉な部分も、怠惰な部分も、繊細な部分も、すべて1人の人間が「元から」持っていると仮定した方が良いようにも思う。もちろん、後から学習された邪悪さ・神聖さ・卑猥さなどはあるだろう。しかし、その「根」は、素材の中に存在していると仮定した方が、人間理解としては深みがあるように思える。たとえば、図4のような状態である。
スライド4
図4



とすると、仮面をつける、というよりは、自分のどのような側面を、どのように拡散・集中させて表現するか、と考える方が良いのかも知れない。つまり、仮面ではなく、レンズのようなものを、自らの持つ様々な側面の前に置き、場合によっては拡散させるような使い方をし、場合によっては光を集中させるような使い方をする(図5。中心部分から周囲に向って光が放出されているイメージ)。この方が、「素材を活かす」というイメージには近いように思う。中心部分が緑一色ではなくなっているので、ピーマンの喩えはもう使えないのだが。
スライド5
図5




少なくともこの図5の場合、「大学の教員なら赤」というような紋切型ではなく、場面によっては自分の黒い面を集中的に出すこともできるし、緑の面を拡散させて出すこともできる。「仮面」よりは柔軟性が高い。ただし、その柔軟性を確保するためには、どの場面ではどの色彩を出す必要があるのか、集中させた方が良いのか、拡散させた方が良いのか、そういったことを適切に判断し、かつレンズの位置を的確に変化させなければならない。扱いは難しいであろう。タイミングも難しい。おそらく、仮面を付け替えるだけの方が、楽なのであろう。

しかし、可能であれば、私はこの、自分自身が既に持っている複雑性を、レンズによって拡散/集中させる方式を採択したい。このモデルに沿うのであれば、自らの素材が持つ複雑な色彩を、なるべく細かく把握しておく必要がある、ということになる。そうでなければ、適切な場面で、適切な色を放射することができないからである。


結局「本当の自分」というものが何なのか、良くわからなくなる。「本当の自分」と言う時、単純な、一色のものを想定していることが多いから、ややこしくなるのである。もし仮に、本当の自分というものが存在するとしたらそれは、知れば知るほど混沌として来る、極めて複雑なものではないかと思う。この理路から行くと、「本当の自分というものを単純なものとして提示する人」は(「俺は神経質だから」「私は反権力主義だから」など)、自らを深めていない、浅い人である、ということになってしまうのだが、まぁ、どうなのだろう。断言はできないが、何となく、そういう気もして来る。


「エロティシズム」と「目玉の話」について

ジョルジュ・バタイユの「エロティシズム」と「目玉の話(眼球譚)」について。

特に、哲学に詳しいわけではない。しかし、妙に気になって、バタイユの「エロティシズム」を読んでみた。その契機は、同じくバタイユの書いた小説、「目玉の話」を再読したことだった。

「目玉の話」については、学生時代に一度読んでいたが、強烈な印象のみが残っており、内容自体は詳しく覚えていなかった。しかし、それが「ど変態」な内容であったことは覚えている。再読したが、やはり「ど変態」であった。しかし、単純な官能小説を読んだとしても、アダルトビデオを見たとしても、このタイプの「ウズウズする」ようなエロさは感じられない。「目玉の話」にあるのは、妙に特殊な卑猥さである。中でも強烈な部分を要約すると、例えば、

〈登場人物の16歳女子が、闘牛を見て感極まり、死んだ牛の睾丸を欲しがる。金持ちのパトロンに持って来てもらった生の睾丸を目の前にして、うっとりしてウズウズしていたら(その睾丸の上にパンツを脱いで座りたかった)、次の闘牛自体がクライマックスシーンになる。それと同期するかのように女子は我慢できずにスカートをたくし上げ、その生の牛の睾丸を性器の中に突っ込み、失神する(と、同時に、美しい闘牛士も牛の角にさされて死ぬ)〉

というような内容である。

こういうことを思いつく、というか考えてしまう人というのは、エロティシズムについてどのように考えているのか、興味があった。おそらく、その思想に基づき、それを実践したのが「マダム・エドワルダ」や「目玉の話」だったのだろうとは思うので、順序は逆なのであろうが、それでも私は興味を持った。

「エロティシズム」を読み、正確に理解できたとは思えない。しかし、何か、「この方法は間違っている」という感覚が残った。

一体何に関する方法か。

バタイユは、デュオニソス(バッカス)信仰の、狂躁(オルギア)を例として挙げている。宗教的供犠を通して神の世界、黄泉の世界、いわば異界と交流するために、生け贄や乱交などを用いたこと。人を生け贄として捧げるということはそこで殺人が行われることでもあり、しかし当然、供犠以外での殺人は禁止されている。乱交も同様である。ポイントは、この「禁止されている」ということ、そしてそれを特殊な状況の下で「侵犯すること」である。

禁止されているからこそ、侵犯するときにある種のトランスが得られる。禁止されていなければ、特段恍惚を得ることはない。そういう理路である。そして、生け贄を殺すことと、性的な侵犯を犯すことが対となっている部分にも現れているように、死とエロティシズムは近接している、という。

何となく、言わんとしていることはわかるような気がする。卑近な例で言うならば、禁止されているからこそ、男性教師は女子生徒に手を出したとき、強烈な快感を享受するのかもしれないし、不倫や浮気が強烈な感覚を提供するであろうことも予想できる(一夫多妻制の場合、複数の女性と交わることがそれほどの恍惚を生むであろうか)。そして、禁止するのは理性であり、そのために、エロティシズムは理性によるものなのだ、という理路も理解できる。

動物の性行為は、決してエロティシズムには繋がらないという。それはあくまで生殖行為でしかなく、受精のみを目的としており、淡々と、時間も短く終わってしまう。良く「獣のように」などと表現することがあるが、実際の獣にはエロティシズムはない。そこにあるのは生殖行為であるだけだ。理性が関与していない。そのように説明される。

なるほど。確かに、「エロさ」は、単純に裸を見れば感じられるというものではない(おそらく、ヌーディストビーチに行ったとしても、私は「エロさ」を感じることはないだろう)。その状況や文脈、関係性などが全て関わり、かつ「禁止」が関わっていることも十分に理解できる。


そこまではわかるのだ。そして、そういった禁止と侵犯を徹底的に演出し切った末に行われる供犠において、トランスが得られることも理解できる。しかし、その狂躁が、真に「異界」に通じるかどうかというと、話は別のように思われる。


エリアーデによれば、シャーマニズムにおいてトランス(変性意識状態に入ること)は必須条件であるようだが、それはデュオニソス的な狂躁によるトランスとは異なるように思われる。私のイメージでは、デュオニソス的狂躁によるトランスは「上側」との、シャーマニズム的トランスは「下側」との接続であるように感じられている。

このイメージでの「上側」とは、理性を研ぎすました方向による接続、という印象と近い。「下側」とは、地球であるとか、大地であるとか、そういった根本的な生命的なものとの接続、という印象が強い。

狂躁による異界との接続は、理屈による強烈な制御の元に行われるタイプであるように思われる。私のイメージでは、理性は「上側」なのだろう。こちらの接続は、ある部分では「手っ取り早い」ものでもあるのかもしれない。もちろん、かなり周到な準備や、理性の暴走を必要とするのかもしれないが、それでも、「下側」への接続よりは、やりやすい。

「下側」への接続は、修練であるとか、素質であるとか、そういったものがより強く関係してくるように思われる。シャーマンが「下側」への接続を行うとするならば、それは世襲であったり、遺伝的特性がかなり強く関わっており、かつ、一種の精神病性の特性を必須としている。その上で、強力な肉体的・精神的修練を必要とし、それでも「接続」できるかどうか、何とも言えない、というレベルである。


私は「接続」をしたことがないし、あくまでイメージとして「接続」と言っているだけだが、おそらく宗教的な体験にも近いものなのだろう。しかし、禅において「魔境」と呼ばれる境地は、どちらかと言えば、この理性による「上側」への接続のことであるようにも思える。禅においては、魔境は「脇に置いておく」境地であり、その先に行く必要があるという。


バタイユは、実際に供犠を行ったわけではないし(自らを生け贄として、実際に供犠を行おうとはしていたらしいが)、言うなれば、「マダム・エドワルダ」や「目玉の話」という、いわば思考実験として供犠を行い、その思考実験を通して、ある意味で異界と接続しようとしたのかもしれない。

しかし、やはり私には、それは理性の暴走のようにも感じられる。バタイユは、強力な理性を持っており、かつ無茶をしても耐えられるだけの素養を持っていたために、こんな小説を生み出してしまっても、何とかなったのだろう。間接的に読んだだけでもとんでもないウズウズ感を感じてしまうのに、これを頭の中で生成させ、その情景を頭の中で繰り返し繰り返し醸成して行くことは、おそらくほとんどの人には耐えられないタイプの狂躁であろうと思われる。

その時、まるで麻薬でも接種したかのように、妙な恍惚が訪れるのではないかと思う。しかしその恍惚は、やはり理性由来のものであって、極めて人工的な、いびつな、「ケミカル」なものではあるまいか。確かに接続はするのかもしれないが、やはりその先には虚無が広がっているように思えてならない。エネルギーが満ちるというよりも、それが無限に吸われて行く、ブラックホールと対峙してしまうように思われる。ドストエフスキーの「罪と罰」におけるスヴェドリガイロフが、享楽の末に虚無と結んだように。ある意味で、バタイユはスヴェドリガイロフの亜型であるように感じられる。もしかしたら、ユングの元型論にちなんで言うのであれば、「スヴェドリガイロフという元型」があると仮定すると良いのかもしれない。そしてそれを、マリの言葉を借りれば、ドストエフスキーがこの世に「呪い出し」てしまったのかもしれない。


実際、バタイユもまた、虚無と関係を結んではいるように思えるのだが、それは何も、虚無と結びたくてスタートさせた狂躁ではなかった、ということがポイントであるように思われる。むしろ真摯に、神の世界であるとか、どのように表現しても良いのだが、そういったものと接続し、「救われたい」「幸せになりたい」と願ったのではあるまいか。しかし、接続した先は虚無であり、魔境であり、いわば地獄である。


ならばそれを、つまり虚無と結ぶことを避けることができるのか、(単純な意味で)救われることが可能なのか、と言うと、私はかなり困難なことであるように思われる。もしかしたら、私たちが理性を持たず、純粋に動物として、純粋な生物として生きているのであれば、それは可能かもしれない。しかし、私たちには理性がある。だからこそ、人間なのである。理性を排除することはできない。それと付き合って行くしかない。とすると、どうしても、虚無と結んでしまう部分を排除することができないように思える。

かといって、その虚無と結ぶ部分のみを徹底的に研ぎすますと、バタイユのようないびつな印象を排出してしまうのであろう。それが本当に間違っていることなのかどうか、私にはわからない。しかし、それでも、「この方法は間違っている」という印象を拭うことができない。


ハイデガーの言う「不安」という概念も、この虚無と関係があるように思われる。ゲルヴェンの「存在と時間注解」によれば、ハイデガーの用いる「不安」という概念は、<見知った部屋にいるのに、まるでそっくりそのままのものが火星にあって、そこにワープさせられているような、知っているけれどもよそよそしい、どうしようもない感覚>というようなものであるらしい。精神医学的には離人感と呼ばれるものに近いのであろうが、おそらく診断基準によるもの以上に、強力な虚無を目の当たりにした時に感じるもの、それが「不安」であるように思われる。

そこまでの強度ではないものの、私は同じような「不安」は、それなりに頻繁に感じはする。それが虚無と通じていることも理解できる。ただ、それを、その「不安」のみを突き詰めて行こうとは思わないし、どちらかと言うと、その「不安」と共に生きて行こう、と思う。おそらく、ハイデガーの指摘するように、その「不安」は「死」と関係があるのだろう。いずれ、私自身が死んでしまうということ。それに気がついてしまう時に受け取る感覚であるということ。それを排除しようとは思わない。目をそらさず、引き受けて生きていたいとは思う。しかし、いじり回そうとは思わない。


「ケミカルさ」という概念は、私が勝手に称しているだけなのだが(最近使用範囲が広がっている気もする)、この人工的な、いじり回すような方向へ足を踏み入れてしまうその契機は、おそらく「救われたい」という思いなのではないか、とも思われる。


「賭博者」について

ドストエフスキーの「賭博者」を読む。大まかに言えば、ルーレットで身を滅ぼす若者の話である。ポーカーやブラックジャックなどとは異なり、あっという間に、ものすごい額を勝ったり負けたりするところが、ルーレットのポイントであるらしい。

中心的に描かれているのは、「負けを取り戻そう」とする精神状態である。これは、賭け事の世界ではおそらく、古くから言われていることなのだろう。競馬でも競輪でも「銀色の玉を使う3店方式のあれ」でも何でも、負けを取り戻そうとしてどんどん泥沼にはまって行くのだ、という。株や為替などの投資でも同じらしい。

「賭博者」の中では、猛烈な負け方をする老婆と若者、この2人とも、一度猛烈な「大勝ち」をしているところが特徴である。それも、ものの30分で、領地が買えるほどの「大勝ち」をするのである(今のイメージだと、数千万円から億単位という感じなのだろうか?)。しかし、それが10分後にすべて消え、さらには資産を切り崩さなければならないほどのマイナスが出る。そういう描写になっている。

最初から「大負け」しているわけではない。「大勝ち」から始まっているのである。駅前に良くある「銀玉のあれ」でも、「初めて入って大勝ちすると危ない」などと聞くことがある。しかし、ドストエフスキーの描き方はえげつない。「大勝ち」のレベルが違う。領地が買えるレベルなのである。そして、それを一気に失い、さらに資産までも失う。以降、人を好きになることも、家族を考えることも、自分自身が生きて行くことそのものも背景に退き、ルーレットへの関心のみが前面に押し出される。ルーレット以外のことを考える理路は混乱し、視野の狭い、偏った捉え方が優勢となる。その描写に付随する虚無感は尋常ではない。前に進むことも、後ろや横へそれることもなく、ただ同じ場所をぐるぐると回ることを宿命づけられ、死ぬことさえ許されない者が持つ精神状態。確かに地獄とは、こういうことを言うのではないか、とも思う。


私は根性がないからなのか、賭け事をやらない。人からは健全だと言われることもあるが、私自身は別段さほど健全な人間ではない。しかし、何故か賭け事には食指が伸びていない。手持ちの金額が少なく、欲しいものが買えないと思った時に、「銀玉のあれ」で増えれば良いな、と思うことがある。しかしその思考パタンは、まるで借金のそれである。結局、「駅前の店」に入ることはなかった。そもそも、私が欲しいものと言っても、たかが知れた値段であることが遥かに多い。

ドストエフスキーの描く主人公たちは、ルーレットで大勝ちすると、道行く人に金貨を握らせたり、周りに集って来た人々に札を握らせたりする。こういう使い方が、賭け事で「大勝ち」した時の方向性なのだろうか。欲しいものを手に入れたくて、賭け事をするのではないのかもしれない。確かに、泡銭という言葉もあるし、賭け事で勝った人は、無闇矢鱈と他者に奢る傾向はあるように見える。むしろ、それがしたくて、賭け事をしているのか、と思えてしまうほどである。賭け事で勝った金額で、風俗店へ行くという話も聞く。キャバクラで豪遊するという話も聞く。同様に、かなり良い給料を貰っている人が、あたかも泡銭のように、豪遊する話も良く聞く。何か関係があるのかも知れない。


最終的に「賭博者」の主人公は、領地が買えるほどの金額を、1ヶ月で使い切る(それほど単純な話ではないのだが)。以降、一攫千金を狙い、各地のルーレットを放浪する。その後は泥沼であり、救いがあるようには描かれていない。


賭け事で、「着実に手持ちの金を殖やして行こう」と思うことは、おそらく矛盾なのだろう。着実に殖やすのであれば、賭け事ではなく、仕事を続けることであるとか、そういうことを考えるだろう。着実に殖やすのではなく、「一気に殖やす」ことを狙うところに、賭け事の本質があるのかもしれない。一気に殖えるということは、一気に失う可能性を孕んでいるということで、それを誇張した形で描いたのが、「賭博者」ということになるのかもしれない。実際にルーレットにはまり込み、列車に乗る金もなくなり、衣服も質屋に入れ、それでもルーレットに有り金をつぎ込み続けたドストエフスキー自身が書いているので、リアリティがあり過ぎる。


「賭博者」を読んでいると、賭け事に対する姿勢は、生き方の姿勢そのものではないか、とも思えて来る。確かに、私は賭け事をしないが、それでも、生きて行く上で、賭けなければならない時は何度もあったように思う。大きなことで言えば、どういう仕事につくのか、結婚はどうなのか、大学はどの学科に入るのか。小さなことで言えば、今日の昼は何を食べるのか、ジュースを飲むかお茶を飲むか。何かを選べば、選ばなかった方は消えて行く。もちろん、ジュースかお茶か、ぐらいで大きく変わるわけではなかろう。しかし、私たちの時間は限られており、例えば今日の8時31分に飲むジュースは、今日の8時31分に飲むお茶に変更されることはない。20歳の1年間を過す大学は、例え途中で変えることができたとしても、やはり結果は異なって来る。10年単位ともなれば、それは想像しやすくなるのかもしれない。一生というのは、結局そういう細かい時間が集積したものでもあろう。それが、(寿命を全うすれば)80年だかそこら積み重なるだけである。案外に短い。

目の前に選択肢は常に迫っていて、そこで選ばなかったものは消えて行く(岡本太郎が言うように)。後で「全く同じように」選び直せるように見えるものもあるが、実際にはそうではないのだろう。後から選び直したとき、その選択肢が持つ意味が異なっている。

結局私たちは、生きている中でいつも、ルーレットに賭けているのかもしれない。赤か黒か。前半か後半か。ゼロか。掛け金が少ないときもあれば、確率が高い時も、低い時もあるのだろう。それに気が付いているかどうか、だけなのかもしれない。

例えば、私は今、この文章を書かなくても良い。しかし、書くことを選択している。そのために、この時間違うことをすることができていない。書き進めるのに使った数十分は、もう戻っては来ない。私はここに賭けたのだ。それが、リターンを生むかどうか、それはわからない。それでも、私は「えいやっ」と、時間という掛け金を、この作業に投入したのだ。ただ、もちろん、これを書いても書かなくても、人生そのものが大きく変化するわけではないかも知れない。言ってみれば、「賭博者」だって読まなくても良かった。しかし、私は読むことを選択した。結局、そういう細かい賭けの積み重ねが、今の私を作っているのだろう。それは、一攫千金を狙う生き方とは随分異なるのかもしれない。もしかしたら、生きていることが賭けなのだ、ということを自覚すればするほど、実際の賭け事に手を出すことが少なくなるのかもしれない。もちろん、統計をとっていないのでわからないけれど。


人生そのものを賭け事としてしまうと、その初期値は、生まれた国や、時代などによっても随分制限されることになる。現在、アフガニスタンで生まれることと、日本で生まれることでは、初期値は相当異なると考えて良いのだろう。仔細に考えれば、人間は平等であるわけでも、均等であるわけでもない。それを「負け」と取った場合、もしかしたら生まれながらに何かを「取り戻そう」とするような、あるいは「一攫千金」を狙うような生き方になるのかもしれない。たまたま、私は初期値がそれほど悪条件ではなかったから、一攫千金を狙うような生き方をしないというだけなのかもしれない。そういう捉え方もあるのだろう。

しかし、初期値がどうであれ、一攫千金を狙うような、負けを取り戻そうとするような、そういう生き方をすることは十分に考えられる(少なくとも、ドストエフスキーはそういう人物を幾人も描いている)。人生という舞台を考えてしまった時に、何をもって負けとするのかも、個人によって随分と異なるように思う。一概に言えるものではない。


実際に賭け事をするかどうかが、人生において一攫千金を狙った生き方をすることと相関関係にあるかどうかはわからない。しかし、お茶を飲むか、ジュースを飲むかでさえ賭けであることに気が付いている方が、私は面白いように思ってしまう。実際にお金を賭けなくても、既に十分ヒリヒリした感じを受けている。これ以上はいらない、と思ってしまう。それが、私は根性がないと自称する所以である。



結局、私はドストエフスキーが掴めない。このような、「賭博者」という凄まじい一人称の小説を描き、ルーレットで身を滅ぼして行くことを熟知している人間が、実生活の中でルーレットに破滅的にはまって行くということが、上手く想像できないのである。単なる自虐とは異なる。単なる自虐にある、独特の浅薄さが皆無なのである。かわりに、奇妙な滑稽さが浮き彫りにされ、そのためにむしろ、強烈な悲劇として迫って来る。聞いた話では、チェーホフも、本当の悲劇は喜劇なのだ、と言っていたらしい。そういうことなのかもしれない。

他にも「地下室の手記」「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」と読んではみたが、確かにドストエフスキーは恐ろしいほどデカダンスに通暁しているように読める。それほど、凄まじい描写である。にも関わらず、実際にデカダンス的な生活を送っている時間があまりにも長いのが、ドストエフスキーの特徴でもあるらしい。それを、小林秀雄は「ドストエフスキィの生活」の中で、「計り知れない」と評する。そうかもしれない。不気味なのである。タバコは身体に悪いとわかっていても吸う、というレベルではない。数秒後に破滅するかしないか、というレベルである。しかも、知らずにやっているのではなく、おそらくどの人類よりも熟知した上でドストエフスキーがそれを行っているということが、不気味なのである。少なくとも、私が理解できる範囲を遥かに超越している。


「罪と罰」には、スヴェドリガイロフという、驚異的な登場人物が出て来る。「限界のない享楽は仮面と結ぶ。虚無と結ぶ。ドストエフスキイの着想中に於ける享楽という言葉は言わばこの世の意味を消失しているのである」(小林秀雄「罪と罰について1」より)という享楽に身を窶した人物であり、「興味の対象は一切その意味を失い、興味だけが存するとでもいう様な精神の地獄こそ、スヴィドゥリガイロフが背負わされた作者の着想なのだ」(同前)という人物。その、享楽に身を窶す過程の一部が、この「賭博者」の中に描かれているように、私には思える。ルーレットにのめり込んで行く時、主人公は虚無と関係を結んでいるのではないか。結局のところ、ドストエフスキー自身が、虚無と関係を結んだということではないか。その虚無は、ドストエフスキーにどのようなものとしてとらえられていたのだろう。少なくとも、避ける対象ではなかったように、私には思える。それを、正面から引き受けてしまったのが、ドストエフスキーだったように思える。死の寸前まで友人であった人物が、ドストエフスキーのことを「彼の作った登場人物で言うならば、スヴェドリガイロフが最も近い人物像だった」と評していることも、一つの証左なのかもしれない。「精神の地獄」を身をもって知っていた人物、ということなのだろう。


ドストエフスキーの作品を読んでいて思うのは、虚無からの脱出方法があるかどうか、ではない。作中人物は、どちらかと言えば、その虚無から抜け出す方略を見付けようとしている。「カラマーゾフの兄弟」を読むと、一見、主人公のアリョーシャのように、ゾシマ長老のように、キリスト者になることが虚無から脱却する1つの解答のようにも読める。「罪と罰」のエピローグを読んでも、そのように感じられる節はある。しかし、ドストエフスキー自身の生き方を思う時、そんな単純なものではないように感じられる。むしろ、その虚無をかかえ、にも関わらず、ある種宗教的な直観を同時に抱えて生きて行く、そのように存在するしかないということが、作品と作者の相互関係の中で示されているように思える。それは、既に「解答」ではない。あまりに複雑で、それを抱えて生きることは不可能であるような状態を、あえて抱え、生きてみせた、その生き証人であるというだけなのかもしれない。


「カラマーゾフの兄弟」の中でも特に有名な無神論の極致である「大審問官」のストーリーを兄イワンに語らせ、父カラマーゾフの享楽を描き、かつ弟アリョーシャやゾシマ長老のキリスト者としての在り方を示す。しかも、それぞれ強力な説得力を持つ一人称で語らせてしまうこと。それらの、明らかに相反する要素が、ドストエフスキーの内部にすべて存在していた、ということではないか。そんなものをすべて抱えて生きるとは、一体どういうことなのだろう。あまりに複雑で、あまりに混乱して、葛藤などという生易しい言葉では到底表現できないような内的な混沌を持ち続けて60年生きたということ。

私はそれに憧れてしまう。もちろん、そんな途轍もない複雑さを抱えて生きることはできないだろう。私の容量は、そんな莫大にできていない。しかしせめて、単純な解答に行き着くことではなく、意味が無いことや、答えが無いということが示す、その混沌を抱えて、その中で生きてみたい、とは思っている。


プロフィール

Author:ina
水曜の会用 文書置き場

カテゴリ
写真保管庫
最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。