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人とモノ

喫茶店に入る。隣の席に2人の男性が座った。2人とも体格が良く、よれても「丈夫」な服をまとった、業界人風の出で立ち。慣れた様子で注文をすると、年長の男性が電話をかけ始める。

「うちは、モデルと接触しないというのを徹底して来て、お客さんからの信頼を得て来た経緯があるんです。まぁ、私が許してもね。お客さんが見てるんですよ。あなたのスタンドプレーが目につく、と言って来ているんです。うん、だからね、あなたが物を渡したりとか、そういうのを見られてるんだよ。…うん…はい。だから、そういうのは温泉旅行とか、そういう時にしてくれない? とりあえず、今後あなたと、あなたのファンとは接触しないような日取りで組んで行くから」

向かい側に座っている年下の男性が「あれ、また何かあったんですか?」と問う。年長の男性は苦虫をかみつぶしたような顔で「まぁね…」と言う。

そして、年長の男性はおもむろに女性の写真を取り出し、「この子、都合つけられる?」と問う。新しいモデルなのだろうか。「わかりました。大丈夫ですよ」。


良くある光景、とまでは言わないものの、そのくらいのやり取りは見ることがある。しかしその日、私は「怖い」と感じた。「業界風」の厳しい雰囲気に怖さを感じたのだろうか。それもあるかもしれない。その太々しい態度に? それもあるかもしれない。

しかし、もしかしたら、「モデル」という形で、人間を「モノ」のように扱っている、そういう印象を持ったのではないか。人がモノに変えられている場を見てしまった、そういう感じがしたのではなかったか。

芸能界にしても、接客業にしても、確かに中で働く人間は「駒」であり、「商品」であるのだろう。しかし、それにしても、驚くほど乾いた、冷徹な印象を受けたのは確かだった。語調自体は太々しい、むしろ粘着的な印象もあるのだが、そうではない、その奥にある荒涼としたものが、何となく迫って来ていた。


その後、キャビンアテンダントのような格好をした女性の集団が現れた。何事かと思ったが、どうやらパチンコ業者のプロモーションらしい。スーツケースには、パチンコ業者の社名が大きく描かれていた。

女性たちは綺麗だった。化粧もばっちり、見た目として申し分ないような容姿をしていたと思う。それでも、「いいな」とは感じられなかった。彼女たちも、普段はもっと、活き活きとした、生命の感じられる表情をしているのかもしれない。しかし、その時私が感じたのは「マネキンのようだ」ということだった。


役割を続けていると、その役割自体が、本体を乗っ取ってしまう時がある。自分をマネキンのように扱っていれば、もしかしたら本当にマネキンになってしまう時が来るかもしれない。しかし、私はどうだろう?

ここしばらく、大学で講義をする時間が長かった。講演会でしゃべることも多かった。カウンセリングをしている時間より、講義や講演をしている時間の方が長くなっている。語り方も、喋り方も、何となく「そういうもの」になっているような気がする。少しずつ、「大学の教員」というものが、私に浸食して来ているのが感じられる。しかし、ならば、「カウンセラー」というものが浸食している方がマシなのかというと、それはそれで困ったものである。どちらにしても、「仕事」が私に浸食を開始しているのは、あまり良くない兆候だろう。何かが脆弱になっている。

この場合、私自身を「モノ」化する方向というよりは、対している相手を「モノ」化するような、そういう役割の方に寄っているのかもしれない。喫茶店で、となりにいた人たちを「怖い」と感じたのは、それは今、私自身が「なりつつある」姿を感じ取ったからなのかもしれない。

自分の言っていることが通れば、思い上がる。賛成してくれる人が多いように見えれば、調子に乗る。身の回りにイエスマンしかいなければ、おそらく私は崩壊するだろう。しかし、多少なりとも決定権を得て来ると、身の回りに「イエスマン」のような、自分のことを立ててくれるような人を集めたくなるのは、抗いがたい魅力として映る。その魅力に、私はどこまで耐えることができるのだろう。大学の教員は、やろうと思えば、男女問わず、学生を「侍らせる」ことだってできるだろう。その時、学生は、私にとって「モノ」のようなものとなってしまう。カウンセラーだって同じだろう。クライエントさんは、カウンセラーを喜ばせるための「モノ」となってしまう。


そのような、「ダークサイド」に落ちないために、一体今、私には何ができるだろう。私のことを、大学の教員とも、カウンセラーとも扱わない、そういう友人となるべく多く接触する必要があるのかもしれない。と、ここまで考えてみて、ある年齢のサラリーマンが、スナックの「ママ」のところへ行くのは、もしかしたらそういう意味があるのではないか、という気がしてきた。とは言っても、私はスナックへ行くだろうか…。想像できない。


ひとまず、良く寝て、本を読むことにする。




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kodakが破産したこと

フィルムメーカーとして世界最大だったkodakが破産したという。

私はデジカメの他に、いくつかのフィルムカメラを持っている。キヤノン7、オリンパスOM10、フォクトレンダーベッサR2A、オリンパスXA、ローライ35、ヤシカフレックス。最近は富士フィルムの出しているポジを使っていたが、ネガも好きだった。kodakのポートラ160VC、ポートラ400VC、エクター100というネガを使っていた。一応kodakは「製品の提供は続けて行く」と言っているが、世界最大のフィルムメーカーが破産を申告しなければならないほど、フィルムは使われなくなったということなのだろう。なくなってしまうことは、そうそうないのかもしれないが、それでも遅かれ早かれ、フィルムを手に入れることは困難になり、現像所も少なくなって行くのだろう。

kodakと双璧をなしていた富士フィルム。フィルム事業自体は赤字だとか、そんな話を聞いたこともあるが、実際の所は良くわからない。しかし、ポジフィルムの種類はここ1年でまた減ったし、良く行くヨドバシカメラのフィルム売り場そのものの面積も減少していた。単価も上がっている。フィルムで撮影することは、既に「贅沢」に分類されてしまう。

デジタルよりもフィルムの方が良いとか、そう言うつもりはあまりない。最終的に、スキャナでネガやポジを読み込み、デジタルデータ化してしまうので、私の場合、デジカメで撮ることと結果は大差ない。それでも、「電池を使わず、歯車とバネとゼンマイだけで1000分の1秒のシャッターを制御できる」60年前のカメラで写真が撮れる、ということ自体が嬉しかった。使っているカメラの中には、私が会ったことのない、祖父の形見であるヤシカフレックスもある。それがまだ写るということだけで、私は嬉しかった。

フィルムで撮影したものは、整理が面倒だし、場所も取る。それでも、特にポジフィルムで撮影したものを、アクリルでできた透明な写真立てに入れ、飾っておくのは好きだった。私の研究室にもいくつか飾ってある。それが、もうできなくなるかもしれないと思うと、何ともいえない気持ちになる。


私が中学・高校の頃、修学旅行には「写るんです」を持って行った。今の中学・高校生たちは、携帯電話のカメラ機能で十分なのかもしれない。気がつけば、私が高校を出てから15年経っている。この15年で、使う道具は随分様変わりした。スマートフォンなんて、15年前に聞いたら「冗談」だと思っただろう。その間に、私自身はどれだけ変化したのだろう。


多分まだ、私は成長している。しかし、その成長が、ある意味では止まる時期が来るのだろう。伸び率は少しずつ穏やかになって来ていると感じる。今までとは異なる、内的に深まるような時期は来るかもしれないが、少なくとも肉体的には、今後徐々に衰えて行く、そういう時期に入った。変に抗うことはしたくないし、自然に任せたいとは思う。それでも、少しずつ生命がすり減るような感覚は拭いきれない。それも含めて受け入れて行くのだろうとは思う。果たして、皆どうしているのだろう?


1歳になったばかりの息子が、今日はじめてスプーンを自分で使い、ヨーグルトを食べた。嬉しそうだった。私と妻が手をたたいて喜び、褒める。息子は、私と妻の様子を交互に見て、スプーンを高くあげ、嬉しそうに、誇らしそうに笑った。



1月から3月の予定

1月の水曜の会は、
1/11(水)5限 11−302
の予定です。

3月の水曜の会は、
3/14(水)4限 11−302
の予定です。


また、前回は私が忌引きのため参加できませんでしたが、「模擬授業をやってみる会」の今後の予定です。以前よりお伝えしておりますように、教室の予約以外、こちらの会におけるマネジメントは全て学生に任せてあります(組織運営・マネジメントそのものが「授業運営」訓練の一貫ですので)。私はオブザーバー・コメンターとしてのみ参加致します。
1/18(水)5限 11−302
3/21(水)4限 11−302



「水曜の会」「模擬授業をやってみる会」、どちらも春休み中は時間帯が「4限」になっておりますので、ご注意下さい。また、入試等の関係により教室が使えなくなりますので、2月はどちらの会もお休みになります。

よろしくお願い致します。

写真を撮ること

「旅とカメラと私」という本を買う。リコーが出しているGR DIGITALとGXRというデジタルカメラを使って、12人ほどの写真家が2泊ほどで「旅」をし、写真を撮って来る、というコンセプトのようだった。私は、GR DIGITAL 2から使い始め、今はGR DIGITAL 3と、GXRを使っている。私はカメラが好きなのだ。写真そのものも好きではあるが、自分の才能の無さを目の当たりにすることになるので、胸を張って「写真を撮ることが好きです!」と言えるかどうか、ちょっと何とも言えない。カメラ自体をメカとして好きなのだ(カメラメーカーが切磋琢磨している技術そのものが興味の対象)、ということだけは胸を張って言えるのだが。

この本の中には森山大道さんの作品が何点か載っている。森山さんがGXRで使用しているユニットは、ほとんどコンパクトカメラと大差がない(一番安っぽいとも言える)ユニットである。森山さんの写真は、カメラが何であろうとあまり変わらず、同じような退廃的な匂いが出ている。どこかのインタビューで「写れば何でも良い」とも言っていた。本物の写真家はそういうものなのだろうな、とも思う。極端な話、「写るんです」であってもかまわないのだろう。

それに比べると、他の幾人かの写真家は、最新デジカメの「機能」に振り回されてしまっているようにも見える。かといって、他の写真家が一番インスタントなレンズユニットを使ってもこうは行かないのだろう。「森山大道の真似をしている」ように見えてしまうのかもしれない。


また、藤田一咲さんの写真も載っている。作品自体はそれほど好みではないものの、私はかなり尊敬している人だ。藤田さんは、初めて出会う人のアップの写真を撮る。それも、写っている人々が皆穏やかな、良い顔をしているのである。

相手がモデルならわかる。しかし、電車に乗っている女の子、駅員さんなどと、初対面から関係を作り、写真を撮らせてもらい、かつ書籍や雑誌に掲載しても良い許可までもらい、さらに「穏やかで良い顔」の写真を残している。そんなことができるだろうか? 少なくとも、私には不可能である。

友人や家族であっても、穏やかで良い表情の写真を撮ることは極めて難しい。どうしても「写真を撮られている」という緊張感が写真から出てしまう。あるいは、不自然にポーズをとったものとなってしまうこともある。自然で穏やかな表情を、掬い取るように撮影することは、これは写真家自身が持っている人柄も関係しているのだろう。言ってみれば、私が緊張しているから、相手も緊張するのであろう。

ハービー山口さんの写真集「HOPE」を買った時にも思ったことだった。この人の写真は本当に「凄い」。芸術的なのかどうかは私にはわからないが、とにかく写っている人が、暖かく、幸せそうにこちらを見ているものが多いのである。こちらを見ている、ということは、ハービーさんを見ている、ということである。一体、初対面の人とどういう関係性を構築したら、このような写真が撮れるのか。家族でも友人でも、恋人であっても困難なことだというのに。

それは、「アラーキー」さんの写真で、初対面の人を撮影したものからも感じることだった。荒木さんの「そのタイプ」の写真からは、ハービーさんのものとは異なり、エネルギーや汗の匂いを感じるのであるが、何にしても、そんな表情を初対面の人から引き出すことができるのは、コミュニケーションの天才であるとしか思えない。荒木さんが私の父をポラロイドで撮影した写真も持っているが、その写真に写っている父は、私が見たことのない、楽しそうな表情をしていた。

多分、大雑把に括ってしまえば、「ナンパ」の技術と通じるものはあるのだろう。例えば、渋谷や恵比寿で、歩いている女性を本当にナンパしてしまう知人がいる。そんな、キャッチセールスか、いかがわしいスカウトのように思われても仕方がないようなことを、本当にやってしまうのである(しかも、たまに成功する)。とてもではないが、私には真似できない。というか、真似をしようとすら思わない。


私が今後、初対面の人にいきなり「写真を撮らせてもらってもいいですか?」と尋ねることはないだろう。名の通った写真家であるならば、初対面であっても自分が写真家である証拠を見せたり、あるいは相手が写真家の顔を知っていれば、写真を撮らせてくれる可能性は随分高まるのかもしれない。しかし、それにしても、穏やかな表情や、エネルギッシュな表情を掬い取ることは、結局その人との関係を一気に深め、その勘所を掴むことができ、端緒を逃さず、「す」と偶然出来た隙間に手のひらを差し入れるように、シャッターチャンスを逃さないようにしなければならない。結局、超短期間で関係性を構築する、という点は変わらないのである。

ただ、それは私の写真の撮り方に合っているかどうかはわからない。私自身が学べることは、「初対面の人をどう撮影するか」とは異なるもののように思う。


ここ数年で随分写真に関する本を読んだ。色々な技術を知った。しかし、写真を「ちゃんと」撮り始めた5年前の方が、エネルギー量の高い写真を撮っていたように見える。今、写真について私がしなければならないことは何だろう、と思った時、ロバート・キャパの言葉を思い出した。

〈写真は6年で完成する。最初の3年でABCから一切を覚える。次の3年間にはそれを全部忘れてしまうのだ。そうすると自分の写真が生まれて来る〉(横木安良夫著「ロバート・キャパ最後の日」p.33)

これは、写真に限ったことではないだろう。螺旋状に上がって行く、ということである。


本業と関係のないことを真剣にやるのはなかなか良い。多分、どこにでも通じる大切なことを、リスク無く、感じ取ることができる。それはいつか、内田樹さんも「習い事をする意味」というようなところで書いていたように思う。


プロフィール

Author:ina
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