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アンナ・カレーニナと不登校

トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読んでみる。…厚い。そもそも、中心人物であるアンナが登場するのが128ページを過ぎてからとは一体どういうことなのか(そういえば、村上春樹も『眠り』の中で、そう指摘していた)。

しかし、さすが文豪、驚くような表現が多発する。〈彼女はまるで太陽のようだ。直視することもできないし、目を背けていてもそこにいることがわかる〉。素敵だ。トルストイのような深さを込めて「あなたは太陽だ」と表現し得た人びとがどれだけいるのだろう。

また、リョーヴィンという登場人物が農民に対する理解を語る場面がある。リョーヴィンは、有産家ではあるが、農民と共に農作業をし、農民を労働者として蔑むのではなく、対等の立場で認識している。だから、〈あなたは農民が好きか、と問われても、リョーヴィンはうまく答えることができなかっただろう。それは、あなたは人間が好きか、と問われていることとほとんど同義であったからである〉。好きも嫌いも、良いも悪いもなく、ただ人間として認識している、ということになる。

一方、リョーヴィンのもと(田舎)に、休暇で遊びに来ていた都会の知的階級である兄コズヌイシェフは、農民のことをわかったような素振りをする。〈私はこういった小ロシア風の暮らしは好きだよ〉とまで言う。しかし、その言い方は上から目線であり、「一時的に関わるだけであるから、田舎暮らしであっても楽しめるのだよ」という雰囲気が、分かる人にはバレている。リョーヴィンは、兄のその姿を見て言葉にならない嫌悪を感じる。

私も含めて、カウンセラーや教師は、不登校の生徒と接するとき、コズヌイシェフのように、「一時的に接するだけから」「私は不登校ではないし」という‘毀傷の喜び’(他人の不幸を見て、自分じゃなくて良かった、と喜ぶこと)的な目線で、彼らが好むアニメやゲーム、声優の歌う音楽や漫画を眺めていないだろうか。あるいは、こんなものまで理解できる自分ってすごい、とでも言いたいかのように。さらには、それよりも良いものがあるよ、とばかりに、「高尚な」映画や本を押し付けてはいないだろうか。


私は思い当たる。私は、そのように、彼らに接したことがある。


彼らが好む2ちゃんねるやアニメ、漫画、ゲームを、心の底から楽しんで、彼らと同じ目線で楽しむことが必要だ、とまでは思わない。むしろ、かたくなに「私は彼らと同じ目線に立っています」と声高に宣言する方が、一面的に過ぎ、影の力が強いようにも思う。非常に難しい。「自分は相手と同じ目線でいる」と言えば偽善的であり、「自分は上から目線である」と宣言することも、デカダンス的な匂いが強くなる。両方の間を行ったり来たりし、悩み続け、螺旋状に上がって行くしかないのかもしれない。

それでも、できることならば、彼らが好むものの中で、私自身が本当に関心を持てる部分を必死で探し出したいと思う。アニメの絵柄は受け付けられないものであったとしても、物語の構成であったり、演出法であったり、制作者の意図であったり。アニメもゲームも2ちゃんねるも、人が作ったものである。興味が持てなかったジャンルのものであったとしても、本当に人に興味があるならば、なんとか興味が持てる部分は見つけられるように思う。そして、本当に興味が持てた部分において、私は言葉を発したい。彼らに、表面的に合わせるのではなく、迎合するのでもなく、本当に私が感じていることを言葉にしたいと願う(用いる言葉は注意深く選ぶ)。もちろん、願うだけで、うまく行っていないことも、おそらく多いだろうけれど。

※参照「アンナ・カレーニナ」新潮文庫 上p. 60、中p.7、p.10(本文中の〈 〉内は、引用ではなく、まとめてある部分があります)
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