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記録と芸術の間を「躊躇う」こと

1.中平卓馬

〈写真は記録である〉(「なぜ、植物図鑑か」より 中平卓馬著 ちくま学芸文庫)

私は所持してはいないが、中平卓馬さんの「来たるべき言葉のために」という写真集の最後に、〈写真は芸術であることをやめ、内なるものの表現であることをやめて、記録に徹するとき何ものかでありうる〉と記しているという(写真家、森山大道さんのドキュメンタリー番組の中で紹介されていて知った)。〈実際のところ写真が芸術であるか否かは僕は知らない。だが、写真と写真家はごく最近まで芸術へのコンプレックスからつねに芸術、特に同じ平面芸術である絵画へのあこがれ、絵画へ到達しようとひたすら努めてきたことだけは確かなようだ〉〈写真が写真として独自に機能しうるためには、もう一度素朴な記録という行為へ回帰する以外方法はない〉(前掲書)という文からも、芸術と記録を対置させている様子が感じられる。


2.スーザン・ソンタグ

〈写真はもちろん人工物である。しかしそれが訴えるところは、写真的遺物の散らかった世界では、写真もまた拾って来たオブジェ–世界をいきなり切り取った薄片の地位があるように見えるということである。こうして写真は芸術の威信と本物らしさの魔力を同時に利用する〉
〈写真はべこべこになったり、変色したり、汚れたり、ひび割れたり、褪色したりしても、依然としてよく見えるし、往々にしてかえって上等に見えたりする。(この点では、他の点でもそうだが、写真と似ている芸術は建築である。その作品は同じく年功序列に従っており、多くの建築物が、パルテノンにかぎらず、おそらく廃墟になった方が立派に見えるのである)〉
〈写真家はいや応なしに現実を古風に見せることに従事しているのだし、写真自体がインスタントの骨董品なのである。写真は人工の廃墟という、あのロマンチックな特徴をもつ建築ジャンルの現代版を提供している。それは風景の歴史的な性格を深めるために、自然を暗示的に–過去をほのめかすようにするために創り出される廃墟である〉
(「写真論」より スーザン・ソンタグ著 近藤耕人訳 晶文社)

大変興味深い。半年前に、私は引っ越した。引っ越した際、以前住んでいた町を写真に撮っておけば良かった、と思った。それを10年後に見たらきっと、とても懐かしく思えただろうから。その時、帰り道を通っていた時、「まぁ、こんな毎日通るところを写真に撮ったってね」と思っていた。だから撮らなかった。部分を切り取れば、それはそれでオブジェとして面白いと思っていたから、だから接写したり、望遠で切り取ったりして撮ってはいた。しかし、歩いている時に見たままを撮影しておけば良かった、と思ったのだ。

それは記録である。撮影した時には「現在」であっても、必ずそれは過去になる。存在していた建築物が変わっていたり、なくなったりしている。時間が経てば経つほど、その写真は感慨深くなる。それが記録の持つ力でもあろう。


3.東京写真美術館

先日、東京写真美術館で行われている、「芸術写真の精華」というものを見た。

〈大正時代に入ると、ピグメント印刷法を駆使した作品や、ソフト・フォーカスの表現をもつ作品が数多く生み出されました。手工芸的なプリントワークを高度に駆使したそれらの作品は、ピクトリアリズムを標榜する芸術写真として大きな潮流をつくります。この芸術写真は、写真の純粋性を追求する近代写真の動向の中で否定されますが、昭和のモダニズムの時代にあって形を変えながら受け継がれてゆきます〉(「芸術写真の精華」東京写真美術館)

キャンバスのような印画面で、ネガから写された像にかなり手を加え、まるで「絵」のように見える作品もかなりの数存在していた。それが「ピクトリアリズム」の性質の1つなのかもしれない。

私は写真が好きだ。撮ることが好きだ。自分の撮った写真を飾るのも好きだ。しかし、写真美術館に行って、そこにあった写真を何としてでも手に入れ、飾りたい、という欲望は生まれなかった。それよりも、「これはどうやって撮ったのだろう」「露出はどのくらいなのだろう」「レンズはどのような…」という視点で見てしまっていた。それは、私が写真を撮るからなのかもしれない。しかし、写真集なら欲しい。印刷され、複製され、一挙に見ることができる形態になった写真集という「もの」が欲しくなる。

絵画展を観に行く時、私はその絵そのものが欲しくなったりする。もちろん買えないが、例えばシャガールの作品などは、本気で欲しくなったりする。私は無知なので、作者名が書かれていても、どういう人なのか知らないことの方が遥かに多いが、とにかく、絵画の場合、その絵を「欲しい」と感じる。これは、私が絵を描かないから、そう感じるのだろうか。

写真の場合、そのものではなく、「写真集」となっているものを欲しくなる。絵画の場合は、絵画集では物足りない。そのものが欲しい。この違いは何なのだろう。

丁度、この2者の中間にある感覚は、私が「アステカ文明展」のようなものを見に行った時に、石を彫られて作成された像のようなものを見た時に感じることである。つまり、「このような像を作りたい」という思いと、「この像そのものが欲しい」という思いが、同時に浮かぶのである。

ある程度、技術を持っているかどうかで、「それをしたい」と思えるかどうかが決定するのかもしれない。もし、私が絵を良く描くとしたら、「こんな絵が描きたい」と思うのかもしれない。しかし、どうもそれだけではないように思える。

私が「そのものを欲しい」と思う時、そのもの自体が発している、奇妙な気配というか、迫力というか、浮き出て感じられるものというか、そういうものを欲しいと感じるのである。これは、特に絵の場合、複製されたものからは消えてしまう。多分、大きさの問題や、絵筆のタッチが見えなくなることとはあまり関係がないように思える。

ならば、1点主義性が重要だというのだろうか。それは否定できない。写真の場合、複製が前提とされている部分がある。しかし、今回東京写真美術館に展示されていたものは、どちらかといえば、1点主義性を多分に含んだ、絵画的手法をふんだんに用いた作品であった。しかし、欲しいとは感じられなかった。1点主義だから良い、欲しい、というものとはちょっと違うように思える。

写真を、写真展に観に行ったことがあまりないからかもしれない。これから数を重ねれば、もしかしたら「欲しい」と思える写真に出会うかもしれない。しかし、どうも、そういう日が来ないような気がしてならない。そのものを欲しいと思えるようなエネルギーには決して到達しない、という点が、写真の良さのように思えているからだ。


4.躊躇うこと

写真は、記録と芸術の間を行ったり来たりしている。絵画の場合、そういう根本的なふらつきは、あまり感じられない(時代によってはあったのかもしれないが)。しかし、写真の場合、機械を手に入れれば誰でも始められるようになった(しかも、デジカメになってから、以前よりはるかに簡単に)。ここも大きい。基礎技術がそもそもそこまで必要ではない。誰でもいきなり、スタートラインに立つことができる。このインスタントさ。見事である。だから、職人的な手法が芸術性と取り違えられることも、絵画ほどにはないのかもしれない。

写真は、記録と芸術の間を行ったり来たりしている。それは、「写真は芸術だ」と叫ぶ人もいれば、「写真は記録だ」と叫ぶ人もいる、ということだけではない。1人の人間の中で、かなり容易に、その揺らめきを感じることができるところに特色があるように思う。

私は写真を撮っていて、「芸術的に撮れた!」と思うこと、またそういった「芸術的な写真」を撮りたいと躍起になることがある。そういう自分に嫌気がさして、「中平さんみたく、記録に徹する写真を撮ろう」としてみたりする。この揺らめきが良いのだ。この迷いが、躊躇いが、極めて重要だと私は思っている。


これが答えだ、と固まってしまうことを、私は何より恐れているのだろう。もちろん、躊躇ってばかりで、何も決定しなければ生きて行けない。しかし、迷い、躊躇いながら、決定し、そして決定した後でまた躊躇い…ということを「きちんと」繰り返すことが、人間にとってとても重要なのではないか、と思っている。本気で躊躇うためには、ある種の勇気が必要なのではないか。


写真というものが構造上、どうしても「揺らめく」という部分が、写真を本気で撮ろうとすると必ず揺らめきを感じるという部分が、写真が好きな理由でもあるのだろう。


いや、カメラという機械が好きなだけかな…


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ラジオに関して

3/15(火) 深夜1:00からおよそ3分間 TBSラジオの書き起こし

<午前一時となりました。こんばんは。TBSラジオ月曜JUNK伊集院光深夜の馬鹿力、パーソナリティの伊集院光です。まずなにより、この度の、東日本大震災で被害にあわれた方々に、心よりお見舞い申し上げます。取り急ぎ結論から申し上げますが、今夜のJUNKですが、放送を取りやめまして、東日本大震災関連情報をお送りすることとなりました。個人的に、しゃべることを仕事にしている者として葛藤もあります。TBSラジオですとか、僕の個人のツイッター宛にいただいた、「こんな時こそ、馬鹿な話を聞きたい」という言葉に、心が揺さぶられましたが、未だ頻繁に起こります余震ですとか、それから刻一刻と変わっています原子力発電所の状態ですとか、計画停電などのお知らせですとか、こういったこと、正確にいち早くお伝えすることが何より優先である、という考え方に同意致します。次回の放送までに、よりおもしろく、より下らなく、より馬鹿馬鹿しい話ができるように備えたいと思っております。(…ネットでのAMラジオに関するお知らせ…)もう時間がないのですが、僕の個人の考え方を1つ、言わせてもらいます。明日のために、真面目に色んなことを考えるの、すごく大事です。すごく大事なんですけれども、考えて、考えて、考え疲れちゃって、悲しいこととか、怖いこととか、真っ黒いことしか思いつかなくなっちゃった時には、ほんと、下らないこと考えて下さい。びっくりするくらい下らないことを、考えて、全部過ぎ去ったあとに、「あんとき俺、こんなこと考えちゃったんだよ」みたいな、ね、話を聞かせて下さい。そういう下らないことで、心から笑える日が来ることを、祈っております。貴重な生放送の時間を下さったTBSラジオに感謝しています。この後は、東日本大震災関連情報です>

もちろん、この伊集院光さんの発言に、いろいろと意見があるだろうと思う。人によって違うだろうと思う。しかし、おそらく、非常に困難な場合ほど、「ユーモア」が大切になることは確かだと、私は思う。

私は、自分の意見を言うことができずにいる。被害者支援に、本当に多少ではあるものの、関わったことのある人間としては、「講演」として喋る内容のストックもまた、多少は持ってはいる。しかし、それをここに書くことができずにいる。

妻が動揺し、私も動揺している。おそらく、こういう時ほど、自分の内部にある「本性」が浮き彫りになってしまうのだろう。


私の家のそばにあるファミリーマートが、「電力に問題がある」という報道がなされてまっ先に、看板の電気や、自販機の電気、ペットボトルなどが入った冷蔵庫の蛍光灯を消していた。私が赤ちゃんのおむつを買いに行った時、レジは長蛇の列だった。後から入荷されたおむつを私より先に見つけた、私の前に並んでいた女性が、何も言わずに私の分も取って来てくれた。今の所、混乱に乗じて犯罪が多発している、という話も聞かない。私は、とても素敵な国だと思う。それはおそらく、学校での教育が実を結んでいる部分も大きいのではないか、と思う。

私は、テレビをつけるのを控えることにした。その替わり、NHKラジオをつけることにした。そして、テレビでの情報の流し方と、ラジオでの情報の流し方では、同じ情報でも随分受ける印象が違うことに気がついた。

昨日・一昨日とテレビを見ていて、私はどうしても不安がかき立てられることが多かった。たとえ、NHKであっても、それは変わらなかった。また、画面を見なければ情報を得ることができない部分があるために、テレビの前にずっと居座ってしまう時間も長かった。しかし、ラジオの場合、聞きながら異なる作業ができる。また、NHKラジオのアナウンサーがとてもゆっくり、区切って話すこともあり、精神的なテンポも、ゆっくりになるようである。おそらくNHKラジオの場合、緊迫した雰囲気の音楽なども流さないであろうし、テレビの情報に疲れてしまった方は、ラジオに切り替えてみることも、1つ大切な選択肢かもしれない、と思う。


<いまはオールジャパンで被災者の救援と、被災地の復興にあたるべきときであり、他責的なことばづかいで行政や当局者の責任を問い詰めたり、無能力をなじったりすることは控えるべきだ。彼らは今もこれからもその公的立場上、救援活動と復興活動の主体とならなければならない。不眠不休の激務にあたっている人々は物心両面での支援を必要としている。モラルサポートを惜しむべきときではない>(「内田樹の研究室」より)という、内田樹さんの言葉に賛同する。誰が何を言ったとしても、実際に行うのは、彼らであるということを忘れてはいけないと思う。非難をすることで、人のポテンシャルが上がるとは思えない。現在実行機能を持つ人々のことを、褒め、ねぎらい、元気になってもらうことが必要だと思う。

指示/指導/人類学的視点

 指示を適切に出す、というのはなかなか難しい。「指示をされる側」にいる内は、その指示が適切かどうか、すぐにわかるものだ。しかし、指示を出す側に回ると、それが見えなくなる。

(1)どのような理由で
(2)どうして欲しい

この2点が満たされていれば、大抵問題はない。しかし、どちらかを抜かしてしまう人も多い(どちらも抜けている場合には、指示でもなんでもない)。

 たとえば、「どうして欲しいのかは察してもらうような形にして、明記はしない」という(2)を抜かしてしまう場合。「こうして欲しい、とあからさまに言うのも気が引けるな…。できればやってほしいんだけど、でもな…。できれば、察して貰って、自発的に動いてくれると助かるんだけどな…」という気持ちがあると、どうしてもこのパターンに入ってしまうことがある。

 たとえば、「理由はわかってくれるだろう。だから、とにかくどうして欲しいのかだけ伝えよう」という(1)を抜かしてしまう場合。これも、察して貰うことを前提とした指示である。


 これら2点が満たされていても、言い訳や弁解などが組み合わさると、指示なのだか何なのか、わからなくなる。文章や言葉は長くなるし、要点がつかめなくなる。

 まずは、すっきりとした文章で指示を書くことができるようになった方が良いだろう。できれば、(1)理由、(2)内容は1行ずつで書けるように。その他のことは、(1)と(2)の後に補足する。

 言葉で伝えるときにも、頭の中で文にしてから発話した方が良い(それを癖にしていないからぐだぐだになる)。また、なるべく数字を明確にすることも重要である。3日後までに、とか、15分以内、など。


 相手の気分を害さないようにしたい場合には、指示ではなく依頼にすれば良い。「していただけますでしょうか?」と語尾を変えるだけで、指示は依頼になることが多い。対面しているのならば笑顔、メールであるならば顔文字などを使っても良いかもしれない(絵文字などは、使い方が極めてデリケートではあるが)。もちろん、立場が上の人間が、立場が下の人間に依頼をしても、それは指示と同じ意味を持つことはあるだろう。それでも、ものごとを丁寧に表現することは、潤滑油になることが多い。もちろん、慇懃になるほど丁寧にし過ぎると嫌みになる。裏の意味が読み取ることができないような、すっきりとした文に構成し直した方が良いだろう。


 以上は、実際に指示を出す際に気をつけることである。しかし、指示を出す前にやらなければならないことがある。

 「規則だから、制服以外の服装をしないこと」

これは一見正当に見えるが、「(1)どのような理由で」の部分が弱い。「規則だから、守らなければならないんだ!」というのは、理由にはなっていない。なぜ規則が必要なのか、の部分が、指示を出す側/出される側に共有されていないのであれば、同語反復である。

 学校における生徒指導で、教師と生徒の間に溝ができるのは、このパターンのことも多い。教師自身が、その理由を「考えたことすらない」場合である。規則は何のために存在するのか。教師と生徒にその理由が共有されていれば良いのだが、共有も何も、まず教師自身が「有していない」のであれば、共有も何もあったものではない。まず、大人がしっかり考えてみることである。

 勉強はなぜするのか。授業はなぜ聞かなければならないのか。席を立ち歩いてはいけないのはなぜか。大人自身が納得できていないのであれば、まずは大人自身が納得できるよう、知恵を絞って考えてみる必要があるだろう。自分自身すら説得できないのであれば、誰かを説得することなど、おそらくできない。指導も一種の指示である。そして指示とは、ある部分では説得である。

 次に、自分を説得させることができたとしても、それが相手に届くかどうかは別問題である、という点に気がつく必要がある。食べ物を食べ散らかすことが礼儀である、とする文化に育った人に対して、食べ散らかすことは行儀が悪いことをどう説明するのか。頭ごなしに言ったところで無駄である。相手が影響を受けている文化の文法を知り、その文法に従って説明を開始する必要があるだろう。子どもは、既に異文化に属していると考えた方が良い場合が多い。ジェネレーションギャップと言ったりするのかもしれないが、それは今まで、ずーっとずーーーっと、続いて来たものである。何も、今の小中高の子どもたちが特殊なわけではない。年代が異なれば、文化が異なり、思考の文法が根本的に異なってくる。私もうっかりするとそのことを忘れてしまう。異なる世代に接するとき、ほとんど人類学者のような心持ちで臨んだ方が良いことは多いように思う。「こちら」の文化に無理矢理あわせさせようとするのではない。「相手」の文化の文法でも理解できるよう、翻訳する必要がある。

 ここまで考えて行くと、「(1)どのような理由で」というものを相手に伝えるためには、予め投資しておかなければならない事柄が大量にあることがわかる。当然、いがみ合っている間柄では、指示などは届かないだろう。となると、関係を構築する(コミュニケーション)、という極めて重要な事柄が浮上する。相手が従っている文化の文法を知るためにも、コミュニケーションが必要である。

 指示が通らない。指導が入らない。相手のせいにするのも場合によってはありかもしれないが、まずは指示の出し方をチェックする方が効果的であろう。相手のせいにしてしまうと、そこで自分ができることがなくなってしまう。

 と、自分に言い聞かせているが、うまくできるときの方が少ない。

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Author:ina
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