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数字と具体性

 具体的な指示、とはどんなもののことを言うのであろうか。ある学校で「3回褒めたら1回叱ってもかまいません」「叱るときは、1分以内におさめて下さい」「何か指導が必要なことが起こったら、15分以内に指導を行ってください。場合にもよりますが、1分経つごとに、効果は1%ずつ低下しています」というようなことを言ったとき、「あなたの指示はとても具体的でありがたい」と言われたことがある。

 「関係ができていなければ、指導をしても伝わりません」「だらだらと説教をしても、相手には届きません」「できるだけ時間をあけずに、指導を行った方が良いでしょう」という内容と変わりはない。しかし、具体的であるためには、数字が重要な役割を果たす場合があるようだ。

 当然、褒め方がイヤミなものであれば、何回褒めようが無駄である。また、学校の現場で15分以内に指導ができる環境が常にあるとは思えない。とはいうものの、目安として、数字というものは絶大な威力を発揮する。

 問題は、数字には「わかったような気になる」効果が存在することである。「不登校を理由とする児童生徒数は、小学校2万2千人(前年度間より3百人減少。対前年度比1.4%減)、中学校10万人(前年度間より4千人減少。対前年度比3.9%減)」(文部科学省平成22年度学校基本調査の速報より)と聞くと、なんだかわかったような気になってしまう。

 数字というものは、情報が圧縮されていることを忘れてはならない。不登校と言ったところで、1人1人その状態は異なる。「人間には男と女の2種類しかいない」とか、「世界の人口は69億人である」と言ったところで、あなたや私が「うち1人」と換算されて手放しで嬉しいとは思えないのではないか、と予測する(もちろん、もの凄い巨視的に見れば、「うち1人」なわけではあるが)。

 うつ病の人が何人いようが、それぞれ症状に「個性」がある。うつ病の生涯有病率が6.5%と言っても、みな同じ病状なわけではない。特に、「こころ」が関わる問題の場合、数値に置き換えてしまうと、切り捨てられてしまうものが大きいようである。

 「本を100冊読みました」と言っても、漫画100冊、絵本100冊、哲学書100冊の場合ではその内容は異なる。漫画1冊であっても、哲学書1000冊読んだ人よりも深い経験をする場合だってあるだろう。よくわからない先生から300回指導を受けるよりも、大好きな先生から、少し悲しそうな目で1回ちょっと小首をかしげられただけの方が効力を発揮する場合だってある。「質」は、どうしても数値に置き換えることができない。

 その限界を知った上で、数値を使って行く必要があるだろう。数字を出されると「具体的である」と感じられることの裏には、「数字が出るとわかったような気になる」という部分があるように思われる。

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クリント・イーストウッド/メタルギア/呪い

 生まれたばかりの赤ん坊を寝付かせながら、録画された映画を見ることが多くなった。今までほとんどテレビを見ることがなかった私には極めて貴重な体験である。

 先日は、「荒野の用心棒」「夕日のガンマン」「続夕日のガンマン」という、いわゆる西部劇を見た(初めて見た)。クリント・イーストウッドが主演である。イーストウッドを見ていると、どこかで見た顔だ、という印象が拭えずにいた。すると思い当たった。ゲーム「メタルギア」の主人公、スネークである。

 スネークのモデルをネットで調べてみると、<「ニューヨーク1997」に登場するスネーク・プリスキンという架空の人物がモデルである>とのこと。しかし私は、クリント・イーストウッドが「似ている」と思ってしまったのである。

 一度「似ている」と思うと、共通項をどんどんと探してしまう。例えば、常に葉巻を吸っているところ、タフガイなところ、女好きをさほど前面には出さないところ、頬から顎にかけてのヒゲなど。多くの共通点を「発見」し、「なるほど。クリント・イーストウッドがモデルだったのか」と1人納得している。実際にはモデルではないのに。

 もちろん、映画好きな小島秀夫氏のことだから、クリント・イーストウッドも多少は関係しているのかもしれないが、私の頭の中で起こったこれは、一体どういう現象なのか。


 今回は私が勝手に思い込んだ内容であった。しかし、これが他者から聞きかじったことを発端とすることもあるだろう。しかも、実生活において。

「あいつは女ったらしらしいぜ」

「あいつ、この前万引きしてるところ捕まえられてたぜ」

 その情報は、真偽はともかくも、私の頭の中にこびりつく。それは単なる噂だ。単なる言葉だ。いくらそう思っても、いくらとらわれないようにしても、一度聞いてしまった言葉は私の頭の中に響いている。「女ったらし」である証拠を探そうとするかもしれない。あるいは逆に、「女ったらしと言われているけれども、そうではない証拠」を探そうとするかもしれない。どちらにしても、基準が「女ったらし」になってしまっている。


 悪気がない言葉だったとしても、相手にその基準を植え付けてしまうことがあるだろう。映画「インセプション」の中で、「ゾウを思い浮かべるな。…今、何を思い浮かべた?」「…、ゾウ、かな?」というやり取りがあった。言葉をかけられた瞬間、私たちはそれにとらわれる。思い浮かべないようにするという否定の作業を行うにしても、一度思い浮かべる必要が出てくる。私たちは、言葉から自由ではない。


 私がクリント・イーストウッドがメタルギアのスネークに似ている、と思ったこともまた、言葉である。「女ったらし」も「万引きしていた」も言葉である。頭に映像が浮かんでいるのだから、言葉は関係がないと言えるだろうか。そうではないだろう。おそらく私は、考えていることを言葉にしているのではない。そもそも始めから、「言葉で考えている」。


 まだ言葉を獲得していない赤ん坊を見ていると、世界がどのように見えているのか、不思議に思えて来る。私がかけている眼鏡も、笑顔も、声も、おしゃぶりも、すべて命名される前の状態であろう。かなりカオスな、渾然一体となった光の渦として押し寄せているのかもしれない。それは、井筒俊彦が「意識と本質」の中で言及していた「無分節」の世界でもあるのだろう。

 しかし、人間はその「無分節」的世界の中にとどまっているわけにはいかない。ものごとを言葉で区切り、命名し、分節し、伝達し、記憶する。しかも、その分け方は、言語によって、及びその言語が生み出された文化によって異なる。文化によって、虹の色が5色に見えたり8色に見えたりするように。構造主義という考え方に近いのかもしれない。

 そのような、ある限定された範囲にいることを忘れず、言葉によって根本的に縛られていることを忘れずにいると、言葉を用いることに慎重になって来る。呪いも祝いも、言葉によるものである。「ゾウ」と言われればゾウを思い浮かべてしまうのだから、呪いも祝いも、効力はあるだろう。

 「お前はだらしないやつだな」

 「いつもはできないのに、今日はたまたまできがいいな」

 「あなたのためを思ってやってあげたのよ」

 「すごいセンスいいね」

 「うわぁ、発想が面白いよなぁ」


 人は、その言葉から連想される映像を思い浮かべる。特に、自分自身のことに当てはめる場合、かなり細かく想像してしまう。「俺はいつもだらしないわけじゃない…!!」というような、打ち消しの形を取る場合でさえ、効力を発揮してしまうだろう。

 「クリント・イーストウッドがモデルである」「女ったらしである」「だらしない」「センスがいい」。どんな言葉をかけても、それが基準となり、肉付けされて行く可能性がある。気にするな、と言ったところで、それはなかなか難しいこともある。ならば、できることならば、呪う言葉ではなく、祝う言葉をかけたいものだ。

 だから、どのような言葉を使用するか、気をつけざるを得なくなる。それは他者に対してはもちろんだが、自分自身に対しても。

学校でも、「緊急ではないが、重要なこと」を優先できるか

 バークレー(Barkley)という人の書いた「ADHDのすべて」という本の中に、「7つの習慣 最優先事項」という、いわゆる自己啓発本の内容が引用されている。

 自己啓発本は一時期ブームになり、書店で平積みになっていた。その際「7つの習慣」も(何度目かではあるのだろうが)推されていた。そのブームの際、私も自己啓発本を何冊か読んでみた。ただ、「毎日手帳に自分の行動目標を書き付ける」だとか、「普段の生活にも時間割を設定する」とか、私の生き方とは合わない印象が強かった。

 「7つの習慣」は、他の自己啓発本とはニュアンスが異なる部分がいくつかあった。しかし「金銭的に成功するために」という、周囲の自己啓発本が発するエネルギーに押され、「そのように」読めてしまうために、課題図書や引用に用いることはなかった。AD/HD研究の「権威」であるバークレー氏が引用すると、急に信頼がおける本のように見えてくるから困ったものである。

 とはいえ、物事を次の4つに分けて考える、という部分は、学校関連の仕事においては極めて重要であることに気がついた。

(1)緊急で、重要なこと
(2)緊急ではないが、重要なこと
(3)緊急だが、重要ではないこと
(4)緊急でも、重要でもないこと

 緊急性と重要性という2軸で考えた4つのカテゴリである。多くの人が「(3)緊急だが、重要ではないこと」に時間を割いてしまい、「(2)緊急ではないが、重要なこと」に時間を割かない、というところがポイントであった。

 学校において、「(1)緊急で、重要なこと」の筆頭は、「生命に関わること、自傷他害(自分や他者を肉体的に傷つけること)の可能性があること」である。これは絶対的なものと考えて良いだろう。生命/自傷他害の関係する事案が浮上した際には、有無を言わさず、教師はその出来事に、使い得る時間・労力をすべて投入する必要がある。

 しかし、自傷他害の可能性は例外であり、本来、緊急性/重要性とは、環境や状況によって異なってくる相対的なものであろう。

 それでも、「受け持ったクラスの生徒と普段から良く話す」「掲示物がはがれないような工夫をする」「窓ガラスの拭き方を工夫する」「褒める」など、「(2)緊急ではないが、重要なこと」を怠ってしまう教師は少なくはない。その理由は様々だろうが、基本的に(2)に含まれるものは、「面倒くさい」ものなので、いくらでも理由はつけることができる。なにせ、緊急性はないため、放っておいても即座に困ったことにはならない。

 しかし、受け持ったクラスの生徒と普段から話していなければいじめが存在していることを感じ取ることはできないだろう。掲示物が汚くなっていれば、生徒たちの気持ちも同様に荒んでくる可能性だってある。(2)に含まれるものは、習慣化できるかどうかが肝である。自己啓発本は、ほとんど「(2)をどのように習慣化させるか」という点に終始していると言って良いかもしれない。

 たとえば、今日は何人の生徒と話したか、誰を褒めたのか、紙に書き出しても良いだろう。掲示物がはがれていないか、まず指差し確認をするのも悪くはない。駅員たちは、チェックし忘れがないように、声を出して指差し確認を義務づけられているではないか。それは極めて有効だからである。授業開始10分前に教室にいるようにすることも、始めのうちはつらいだろうが、慣れてしまえば「そういうもの」である。

 パブロフの犬や、スキナーボックスのマウスのように、誰かに「強化」してもらうわけにはいかないことも多いだろう。そういう時は、自分で自分にご褒美をあげる方略も有効かもしれない。ただし、新しい物を買うとか、そういうことではなく、「普段していることを褒美に設定する」のである。たとえば、「20人の生徒を褒めたら、その日は20分テレビゲームをして良い」とか。これは、やってみると案外燃える。

 しばらくしてきちんと「癖」になったら、現在の褒美システムは解除して、異なる上位の目標にシフトしても良いのだろう。

 とはいえ、人間は怠ける本性がある。私はとても強い。だから、やり方がわかったところで、なかなか続かないのが困ったところである。誰かに言ってもらったり、業務として組み込んでしまうより他ない場合もあるのだろう。その際、「管理職」の持つ権限は重要である。

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